矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
田村 剛(たむら つよし、1890年〈明治23年〉9月7日 … 田村 剛(たむら つよし、1890年〈明治23年〉9月7日 - 1979年〈昭和54年〉9月4日)は、日本の造園家・造園学者・林学者。日本の国立公園、海中公園制度の確立と発展に尽くす。岡山県生まれ。 妻は日向利兵衛の娘。国際自然保護連合名誉会員。日本自然保護協会初代理事長、日本造園学会会長など、要職を多数歴任。 倉敷市で次田家に生まれ、まもなく田村家の養子となる。兄は国文学者の次田潤。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)から第六高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学農科大学林学科に進学。高等学校時代の1911年(明治44年)、新聞社が募集していた立山登山に参加。1915年(大正4年)に大学を卒業し、2年間、明治神宮造営局で神宮内外苑の造営に携わる。
杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 196… 杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 1964年10月6日)は、日本のピアノ調律師である。 1890年、長野県埴科郡松代町(現・長野市)に生まれる。共益商社の研修生として日本楽器製造で技術を学び、NHK、宮内省、各ホールなどでコンサートチューナーとして活躍するなど、大正時代から昭和初期にかけて評価が高かったピアノ調律師の一人。 1930年に誕生した全国ピアノ技術者協会の創設時の中心人物の一人でもあり、発足時には広田米太郎、中谷孝男らと常任委員に名を連ねる。
綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9… 綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1972年〈昭和47年〉3月24日)は日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。衆議院議員(7期)、衆議院議長(第53代)、運輸大臣(第29・30代)。香川県出身(出生地および選挙区は大分県)。杵築市名誉市民。 戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(久原房之助総裁)に与した。大政翼賛会発足による政党解消後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属した。 終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄、西川貞一、依光好秋、高畠亀太郎、中井一夫、三善信房の6名のみである。
及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月… 及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1959年〈昭和34年〉1月10日)は、大正・昭和の中国政治史学者・中国経済学者・翻訳家。慶応義塾大学法学部教授(後に部長)であり、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)創立にも関わった。 本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる。 1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。
永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年… 永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年1月3日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)を歴任。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。 瀬戸内海、広島県下蒲刈島三之瀬、浄土真宗本願寺派の弘願寺が本家に当たる。父・法城は寺を継ぐことを嫌い、裁判官となって中国地方の裁判所を転々とするが、最初の赴任地、現在の島根県浜田市で生まれたのが護である。その後、松江市で生まれたのが永野重雄(のち新日本製鐵会長、日本商工会議所会頭)、現在の山口県岩国市で生まれたのが永野俊雄(のち五洋建設会長)、現在の山口市で生まれたのが伍堂輝雄(のち日本航空会長)。
赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 195… 赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 1954年8月22日)は、日本の都市計画家、土木技師。 福岡県生まれ。1919年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。在学中の1917年9月から1919年7月まで、京都市の私立京都商工学校土木科で講師を務める。 その後三井鉱山を経て、1922年から1926年まで埋築技師として熊本県海面埋築事務所勤務。県営新地の干拓事業に従事。 1926年(大正15年)から内務省に転じ、1936年(昭和11年)まで、都市計画地方委員会富山地方委員会技師。1931年から富山県都市計画課技師を兼任、1928年に決定された富山市都市計画立案と施行の責任者となる。 主な実績に、東岩瀬港から富山駅北までの富岩運河開削で掘ったときの土砂で神通川の廃川地埋立て、廃川地処分を運河新設と同時に行う新市街地造成計画立案など。
川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月… 川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月1日 - 1961年(昭和36年)6月28日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。吉田派。 岩手県紫波郡徳田村(現・矢巾町)に川徳創業者の川村徳松の息子に生まれる。岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。陸軍に入り、除隊後盛岡に松屋百貨店(現存せず)を創業する。盛岡市会議員、盛岡商工会議所会頭、花巻温泉、花巻電鉄の各社長となる。このほか東北六県織物商業組合理事長、全日本繊維商業協同組合、盛岡観光協会、岩手県貿易振興協会各会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月第1回参議院議員通常選挙岩手県選挙区から無所属で出馬、落選。
新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日… 平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日 - 1980年(昭和55年)8月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県日置郡吉利村(日吉町を経て現日置市日吉町吉利)で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に鹿児島連隊区司令官に着任。1940年(昭和15年)8月に歩兵第45連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団のち第6歩兵団)に転じ、日中戦争に出動。岳州から第一次長沙作戦、第二次長沙作戦などに参加した。 1942年(昭和17年)11月に横浜連隊区司令官に就任し、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級した。
松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年… 松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年)9月27日 - 昭和17年(1942年)5月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県西伯郡崎津村(現在の米子市大崎)出身。父・松本林太郎は警官で、島根県八束郡美保関町(現在の松江市)や横田町(現在の奥出雲町)に勤務した。 象二郎は、小学校時代から水泳が得意で、大崎、安来間を平気で泳いだという。米子中学(現在の米子東高校)に入ってからは、大崎から学校までの10キロの道を、米川沿いに黙々と歩いて通った。米中を抜群の成績で卒業したが、海軍兵学校に入ったのは、卒業翌年の明治42年(1909年)9月である。 大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ東洋艦隊の根拠地青島の攻略戦に「千歳」乗組として参加した。
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月… 山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月27日 - 1934年(昭和9年)2月1日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。海軍随一の空爆の名手であったが、神兵隊事件で内乱予備陰謀罪に問われ検挙された。最終階級は海軍中佐。
板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年… 板 祐生(いた ゆうせい、 1889年9月24日‐1956年2月5日)は明治時代から昭和時代にかけての日本の版画家、収集家。孔版画を日本に普及させた。 鳥取県西伯郡東長田村(現南部町)の生まれ。本名は板愈良(いた まさよし)。父は板房太郎。1904年から1945年まで鳥取県内の小学校教員を歴任した。以降、鳥取県の法勝寺村役場に勤務した。大正から没年にわたって孔版画を制作している。独学によって謄写版(ガリ版)を利用した孔版画を制作、つぶし孔版、切り抜き孔版を自ら創案した。また、1917年から『珍道楽』という趣味の団体に参加し、料治熊太など30名の収集家と交流を深めた後、1919年に三田平凡寺の『我楽他宗』に参画し、第二十番十徳山竜駒寺と号して富士山に関する物やこけしなどの郷土玩具、民具、菓子のラベル、ポスターなどを収集し、自らそれらを題材にした絵暦、絵草紙、蔵書票などを制作して同好の士と交換を行った。
抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-196… 抜山 平一(ぬきやま へいいち、1889年9月23日-1965年8月18日)は、東京府東京市出身の電気工学者。
海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月2… 海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月21日 - 1961年(昭和36年)1月14日)は、大正・昭和期の冶金学者、僧侶、政治家。衆議院議員、参議院議員、理学博士。 山形県山形市で、浄土真宗本願寺派・明善寺住職、海野覚英の三男として生まれる。1916年(大正5年)東北帝国大学理科大学物理学科を卒業した。 山形県立米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)教諭に就任。1919年(大正8年)農商務省に入省し、製鐵所技手、同技師を歴任。その後、八幡製鉄所研究所員、日本製鐵理事、同研究所調査部長、技術院事務嘱託などを務めた。1935年(昭和10年)鉄炭素の研究で日本学士院賞を受賞した。
三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1… 三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1889年(明治22年)9月21日 - 1978年(昭和53年)6月20日)は、歌舞伎役者。位階は正五位。 戦前戦後にかけて活躍した。本名は樋口 鬼三郎。俳名は梅華。屋号は音羽屋。 東京市日本橋区(現・東京都中央区)出身。叔父は歌舞伎役者四代目淺尾工左衛門。役者としての初舞台は明治25年(1892年)8月、市川鬼三郎の名前で東京赤坂福禄座『恋初緑鈴木主水』。明治32年(1899年)頃、一時、木挽町にいた鏑木清方に入門、日本画を習得している。明治44年(1911年)9月、明治座での『四千両小判梅葉』の子分助六他で五代目市川鬼丸(いちかわ きがん)を襲名し名題昇進を果たす。
矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年… 矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年4月4日)は、日本の英文学者、翻訳家。 茨城県新治郡高浜町(現在の石岡市)生まれ。土浦中学校在学中には、一期上の熊岡美彦や同期の永瀬義郎らと交流を持つ。1913年早稲田大学英文科卒業。 日夏耿之介らの『聖盃』同人。東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)教師、早稲田高等学院教授、早稲田大学講師を歴任。 息子はエッセイストの矢口純。
多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19… 多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19日 - 1958年(昭和33年)4月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。広島県出身。
岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1… 岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1940年12月3日)は、日本のカトリック司祭、神学者、哲学者。大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者と言われる。日本における中世哲学・スコラ哲学研究の第一人者でもある。 1889年9月18日、父・清周、母・幽香子の間に東京府東京市京橋区采女町、現在の東京都中央区銀座五丁目に生まれる。同年、清周が三井から独立して品川電燈会社を設立した折に、一家は芝区高輪南町(現・港区高輪周辺)に移る。 小学校に入る前、壮一は関節炎を患い、右足に障害を負った。多方面にわたって産業家として活躍した清周は、壮一を「ボストンの工科学校」(マサチューセッツ工科大学)あたりに留学させてエンジニアに育てる予定であったが、身体障害により「米国の学校にやられずに済んだ」。
武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17… 武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年〈明治22年〉9月17日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、群馬県出身の内務・厚生官僚、国会職員。官選山形・山口県知事、厚生次官。位階は従三位。サッカー日本代表でもあり、大日本蹴球協会初代理事の一人。 群馬県利根郡利南村(現・沼田市沼須町)に、武井捨五郎の二男として生まれる。実家の酒造業が不振だったため高等小学校卒業後代用教員となった。群馬師範学校を経て、東京高等師範学校に入学。在学時は蹴球部に所属し、1916年3月に[要出典]東京高師を卒業した。 1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会の日本代表に佐々木等や藤井春吉らと共に選出され、2試合に出場した(そのうちの1試合が、フィリピン代表に2-15で敗れた試合である)。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月1… 北 勝太郎(きた かつたろう、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1963年〈昭和38年〉2月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)・参議院議員(1期)。奈井江村初代村長。 石川県能美郡御幸村(現・小松市)出身。1894年、一家で砂川町奈井江に入植。1911年、空知農業学校卒業。卒業後は、家業の農業に従事。1915年大日本帝国陸軍に入営。少尉任官。砂川農村会長・奈井江産業組合長・奈井江水利組合長を兼任。1919年砂川町議会議員に当選。1920年保証責任北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、のちのホクレン)理事および砂川農会会長。1924年大日本帝国陸軍中尉任官、同年北海道議会議員に当選し、以後連続3期務めた。
岩村 清一(いわむら せいいち、1889年〈明治22年〉9月… 岩村 清一(いわむら せいいち、1889年〈明治22年〉9月14日 - 1970年〈昭和45年〉2月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府芝区(現・東京都港区)出身。1889年(明治22年)9月14日、岩村定高(初代三重県令:現在の知事)の子として生まれる。 旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第54位、卒業時成績順位は179名中第8位。その後、海軍大学校甲種19期を29名中首席で卒業。 岩村の妻は高木八尺東大教授の妹。 評論家・医学博士の加藤周一は大甥。 岩村の同期に、井上成美海軍大将、小沢治三郎、草鹿任一、浮田秀彦、小松輝久、桑原虎雄、桑折英三郎、大川内伝七海軍中将、岩下保太郎海軍少将などがいる。
加藤 七郎(かとう しちろう、1889年(明治22年)9月1… 加藤 七郎(かとう しちろう、1889年(明治22年)9月11日 - 1944年(昭和19年)8月23日)は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県、のちの浜松市上池川町(現・浜松市中央区布橋一丁目)出身。旧制浜松中学校中退。 浜松市会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、浜松市茶業組合長、静岡県茶業組合連合常議員、全国茶業組合中央会議員、日本紅茶、東亜製茶各監査役、東海精機重工業社長、遠州鉱物工業組合理事長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。在任中に死去した。
山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - … 山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - 1982年7月23日)は、日本光学界の先駆者、海軍軍人、理学博士。最終階級は海軍技術少将。主に幾何光学中心に、光学機械、光学兵器の開発に寄与した。 青森県青森市出身。旧制青森県第三中学校(現青森県立青森高等学校)・旧制第一高等学校・東京帝国大学卒業。大学院で長岡半太郎に師事して輻射学を研究、長岡の推薦で技術士官(造兵官)として海軍に入り、光学兵器の研究を推進させた。青木小三郎、丸山修治らを育て、日本の光学兵器の水準を世界水準にまで高めた。 敗戦後、公職追放処分を受け、一時期は進駐軍の通訳などをして不遇の時期を過ごしたこともあった。 ロチェスター大学の客員教授となって以降は公職に復帰し、企業の取締役や大学教授などを歴任した。
吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - … 吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - 1958年7月14日)は、日本の男性官僚。商工省・内務省で活動した。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市灘区)の造り酒屋の六男に生まれる。京都府立三中、五高を経て、1913年東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、初め農商務省に入り、その後商工省を経て内務省に移った。1919年パリ講和会議全権随員となり、1921年に内務省社会局書記官に就任。1928年12月に国際労働機関理事会日本政府代表事務所長に就任しジュネーヴに駐在した。1936年内務省社会局参与。退官後は商工中金理事長、日本商工会議所専務理事等を歴任。 妻の花子は動物学者・箕作佳吉(箕作阮甫の孫)の次女で、俊蔵・花子夫妻の長男が建築家の吉阪隆正である。
吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9… 吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9日 - 1947年(昭和22年)4月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1889年9月9日、大分県に生まれる。1909年3月、杵築中学を卒業。9月、海兵40期に入学。同期には山口多聞、宇垣纏、大西瀧治郎、千田貞敏らがいる。1912年7月、海兵40期を卒業し、少尉候補生になる。1913年(大正2年)12月、少尉任官。 1916年12月1日、航空術学生に任命。1921年(大正10年)8月6日、センピル教育団の講習に参加した。1922年11月10日、航空母艦「鳳翔」航空長兼分隊長に任命。1923年(大正12年)3月16日、「鳳翔」で行われた一〇式艦上戦闘機の発着艦テストに成功。
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月… 相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月6日 - 1936年〈昭和11年〉7月3日)は、日本の陸軍軍人、剣道家。最終階級は陸軍歩兵中佐。皇道派将校として教育総監真崎甚三郎更迭に憤激し、統制派の軍務局長永田鉄山を殺害した相沢事件の犯人。 1889年(明治22年)9月6日、旧仙台藩士で裁判所書記、公証人となる相沢兵之助とまき子の長男として福島県西白河郡白河町(現白河市)に生まれる(本籍は宮城県仙台市東六番町1番地)。旧制一関中学校(現岩手県立一関第一高等学校)を経て、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を卒業する。陸軍士官学校に入り、1910年(明治43年)5月28日に卒業する(第22期)。
福原 定吉(ふくはら さだきち、1889年(明治22年)9月… 福原 定吉(ふくはら さだきち、1889年(明治22年)9月6日 ‐ 1980年(昭和55年)4月24日)は、日本の政治家。秋田県大曲町(現・大仙市)の町長を経て、合併後の大曲市の初代市長を務めた。位階は従五位。 福原寅吉の長男。父・寅吉は本来は福原家を継ぐはずだったが、複雑な事情から、福辺内(当時の須和町)に分家となり、1888年(明治18年)に商店を開いた。 大正元年の「仙北郡案内」によると、五十(いさば)集商に大坂久治、福原寅吉、伊勢多郎八、最上正吉と印刷されている。 1933年(昭和8年)に、仙北酒造株式会社を買い取り、12月には酒の免許を取得し、翌1934年(昭和9年)から個人経営として、黒松金福(のちの福原酒販)を始めた。
南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日… 南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。東京帝国大学の総長を務めた。位階は従二位。 無教会主義の立場から国家主義とマルクス主義を批判。サンフランシスコ講和条約をめぐっては全面講和を主張して内閣総理大臣吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られた。
菊地 養之輔(きくち ようのすけ、1889年9月5日 - 1… 菊地 養之輔(きくち ようのすけ、1889年9月5日 - 1983年1月5日)は大正、昭和期の日本の政治家、弁護士。日本社会党衆議院議員、日本弁護士連合会(日弁連)副会長、日中友好協会宮城県連合会長。仙台市名誉市民、岩沼市名誉市民。 1889年(明治22年)9月5日宮城県名取郡玉浦村(現在の岩沼市)に生まれる。日本地婦連会長の大友よふは従妹。妻は世界医師会会長の武見太郎と従妹。本籍地は仙台市東七番丁。1914年(大正3年)中央大学法科を卒業する。1921年(大正10年)弁護士試験に合格。翌1922年(大正11年)仙台市で弁護士事務所を開業する。息子の菊地一民も仙台弁護士会会長を歴任した。 弁護士の傍ら、社会運動に参加し、労働者、農民の立場に立った。
暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 196… 暉峻 義等(てるおか ぎとう、1889年9月3日 - 1966年12月7日)は、日本の生理学者・産業医学者。日本における「労働科学」の創設者として知られる。 兵庫県生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館卒業後、1910年東京帝国大学に入学。1917年東京帝国大学医学部卒業。在学中は永井潜に学んだ。1918年警視庁保健衛生事務嘱託となり「細民街」を調査する。1919年大原社会問題研究所の創立に際して所員となり、紡績女工・労働者・農民・開拓民の生活・栄養の調査を行う。『日本社会衛生年鑑』の編集も担当した。1921年倉敷労働科学研究所を設立して所長に就任。同研究所は、のちに東京に移転して日本労働科学研究所(労研)と改称、財団法人化した。
土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月… 土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月2日 - 1972年(昭和47年)6月16日)は、日本の政治家で立憲政友会→民主自由党→自由党所属の衆議院議員。 富山県東礪波郡中田町(現在の高岡市)出身。早稲田大学政治経済科に学んだ後、著述業に従事した。1913年(大正2年)第一次護憲運動に際して普選運動に取り組み、翌1914年(大正3年)普選運動期成同盟会が再興されると直ちに入会。その後立憲政友会院外団に入り大野伴睦とともに政友会院外団員として活動、第二次護憲運動にも政友会院外団員の一員として大野とともに参加。牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員を歴任した。 1930年(昭和5年)、政友会公認で第17回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。
白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1… 白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1日 - 1980年〈昭和55年〉11月9日)は、日本の時代小説作家。本名:井上 義道。大衆文学の巨峰。 NHKの大河ドラマ『花の生涯』『赤穂浪士』の演出を担当した井上博は長男。 横浜市に生まれる。鳥取県士族である父井上孝道(鳥取池田藩士出身)、同じく鳥取県士族の母タミの長男。当時父は警察官として横浜市に奉職中であった。 父の勤務のため青梅、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902年(明治35年)、鳥取県米子市の角盤高等小学校に転入した。その後、米子中学校へ進み、最初はボート部に所属し、後に剣道部に移った。当時中学生としては珍しかった剣道二段の段位を取っている。
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 195… 国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)… 江上 緑輔(えがみ ろくすけ、1889年9月 - 没年不詳)は、日本、朝鮮の検察官。 江上末吉の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1917年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 長崎地方裁判所などの検事を務めた後、朝鮮に渡り、釜山地方法院、晋州支庁、咸興覆審法院、平壌覆審法院、京城地方法院の各検事を経て、1940年清津地方法院検事正、1943年3月大田地方法院検事正に就任する。
15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、18… 15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、1889年〈明治22年〉9月 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の商人(天産物直輸出商)、実業家。大日本除虫菊社長を務めた。大日本除虫菊の創業者・上山英一郎の長男。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。東京高等商業学校に学び、天産物直輸出商を営んだ。ユーゴスラビア国に紀州産蜜柑苗を移植、寄贈した。1930年、大日本除虫粉社長に就任した。1939年、日本除虫菊輸出組合理事長に就任した。 大阪商工会議所貿易部長、ユーゴスラビア国日本駐箚名誉領事、大日本除虫菊、朝鮮除虫菊、箕島倉庫運送、関西金鳥販売、東京金鳥販売各社長、南海水力電気、松下電工、信太山ゴルフ各取締役、岸和田煉瓦綿業、日本レイヨン、白浜温泉土地倶楽部、南海鉄道、満州製紙、大阪ゴルフ、上山殖産各監査役などを務めた。
翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月… 翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月 - 1935年(昭和10年)8月20日〈遺体発見日〉)はアナウンサー。日本初の女性アナウンサー。 東京日本橋亀島町で、明治維新前には与力を務め荻野流砲術師範であった武士の家に生まれる。女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業。銀行員と結婚して養子に迎え、2男1女をもうけるが、1922年(大正11年)に死別。 その後、開局に向けて準備を進めていた社団法人東京放送局(NHK首都圏局の前身)総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年(大正14年)6月に社団法人東京放送局入り。当初は放送係として家庭講座を担当していたが、採用試験の際に琵琶を披露して豊かな声量を認められていたため、アナウンサーを兼任するようになる。
小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1… 小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1958年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 宮崎県出身。東京高等商業学校で学ぶ。飫肥町議、南那珂郡議、宮崎県議、南那珂郡十六ヶ町村電気組合議員、飫肥町信用組合長、南那珂郡林産物同業組合長、日南市森林組合長、斗南新聞、南明館各(株)社長となる 1930年の第17回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選し、1936年の第19回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年死去。
木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9… 木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9月28日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。太平洋戦争の南方作戦におけるビルマの戦いで司令官を務めた。戦後はA級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け処刑された。 東京都出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍砲工学校高等科、陸軍大学校卒。昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。
石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - … 石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - 1974年4月23日)は、日本の盲目の牧師。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月… 小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月28日 ‐ 1953年〈昭和28年〉11月20日) は、大正末から昭和期の実業家、政治家。横浜木材社長。衆議院議員、横浜市会副議長。旧姓・栗原。 埼玉県幡羅郡、のちの大里郡秦村(妻沼町を経て現熊谷市)生まれ。栗原陸五郎の四男。1898年(明治31年)、横浜に移り、横浜三省小学校を卒業。小此木才三の養子となる。1903年(明治36年)、横浜補修夜学を卒業。 1923年(大正12年)、家督を相続し木材販売業を継承。関東大震災後の木材特需で財を成した。 1935年(昭和10年)、倉庫会社を設立。横浜港に大きな倉庫を構え、小此木家は港湾荷役の元締めである藤木組(現・藤木企業)との関係を深める。
関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、188… 関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、1888年 (明治21年)9月28日 - 1937年(昭和12年)5月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。位階は正五位。勲等は勲三等。 高知県長岡郡稲生村(現南国市)において井上虎吉と益の三男として生まれる。高知県立中学海南学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業。卒業席次は149名中78番。少尉候補生として練習艦隊の浅間乗組、香取乗組を経て、1911年12月、海軍少尉に任官。1913年11月、海軍中尉に任官。1914年5月、海軍砲術学校普通科を卒業、同年12月、海軍水雷学校普通科を卒業。曙乗組、鞍馬乗組、扶桑乗組、扶桑分隊長心得を経て、1917年12月、海軍大尉に任官。
細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月2… 細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月27日 - 1962年〈昭和37年〉12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。日本共産党参議院議員。 ※以下、第一高等学校時代までの記述は、1953年に服部之総が細川からの聞き取りにより作成したが未刊となっていた「河童自伝」(2019年刊行の『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』に収録)および『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』巻末年譜に基づく。 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。生家があったのは、東三浦町と呼ばれる一角だった。後年の回想によると、父の実家は町方で晒問屋を営んでいたが、近代的紡績産業の発展で仕事を失い、実家の次男だった父は季節によって様々な仕事に就く「稼ぎ人」と呼ばれる職業だった。
水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明… 水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明治21年)9月26日 - 1944年(昭和19年)8月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年(明治44年)5月、同校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年(大正8年)3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵第110連隊長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。
森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25… 森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25日 - 1972年(昭和47年)6月8日)は、日本の実業家。奈良県山辺郡都祁村(現・奈良市都祁小山戸町)出身。1917年(大正6年)に回効散本舗森田製薬所を創業した。 1973年(昭和48年)に、一時は再建を果たした回効散本舗森田製薬も石油ショックや社長になっていた長男、森田重太郎の高齢化もあり、1998年(平成10年)、ライセンスを「龍角散」に売却。廃業した。しかし「龍角散」では、「処方が古く現在の製造規格にあっていない為にラインに乗せることが出来ず、販売する予定はない。」とのこと。 森田米治は80歳を過ぎてから脳梗塞を数回発症。1972年(昭和47年)6月8日、満83歳で逝去した。
徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月… 徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月24日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 山梨県甲府市出身。1906年(明治39年)東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)卒。 子に即興の話をせがまれたことから童話を書くようになる。1921年(大正10年)に最初の作品集である『薔薇の踊子』を刊行し、以来母子の愛情を主要なテーマとした作品群を発表し、それらは「お母さん童話」と呼ばれた。「フランダースの犬」を始め、翻訳も数多く手がけ、和歌や絵画も手がけた。 夫の前田晁は山梨市出身の小説家・翻訳家で『文章世界』編集者を務めた。
遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1… 遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1966年11月)は、沖縄県出身の空手家。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)総本部修道舘舘長、大師範。昭和期を代表する空手家の一人であり、糸洲安恒の晩年の高弟の一人として知られる。 遠山寛賢は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷朝郁、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。
石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月… 石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月23日 - 1946年(昭和21年)1月18日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 沖縄県中頭郡美里村(現在の沖縄市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に沖縄産業株式会社取締役を務めた。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。