齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月2… 齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月20日 - 2003年〈平成15年〉12月24日)は、日本の画家。
10月生まれ:10,446人
齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月2… 齋藤 求(さいとう もとむ、1907年〈明治40年〉10月20日 - 2003年〈平成15年〉12月24日)は、日本の画家。
桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)… 桜井 奎夫(櫻井、さくらい けいお、1907年(明治40年)10月20日 - 1991年(平成3年)12月23日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 長崎県南高来郡、現在の島原市出身。1932年(昭和7年)早稲田大学文学部英文科を卒業。 新潟県立相川高等学校教諭、新潟県立巻高等学校教諭、新潟県立新潟南高等学校教諭などを務めた。労働運動に加わり、新潟県教職員組合執行委員長、新潟県全官公庁労働組合協議会長、日教組北陸協議会会長に就任。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から左派社会党公認で出馬して落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選し、以後1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - … 佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - 1994年10月1日)は、日本の翻訳家。 青森県三戸郡名久井村(現・南部町)出身 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1932年時事新報社入社、1936年毎日新聞の記者となる。福島支局勤務の後、従軍記者として中国戦線を取材報道する。中国では資料所持容疑で不当逮捕され、1946年から翌年にかけて北京の捕虜収容所で辛酸をなめる。日本に帰国した後、毎日新聞東京本社に復帰するかたわら翻訳活動を開始する。1958年7月、第1回翻訳家国際会議に出席。1984年国際翻訳家連盟から国際翻訳賞を受賞。1988年から日本翻訳家協会会長。このほか、慶應義塾大学講師、慈恵医科大学講師、共立女子大学教授を歴任した。
越村 信三郎(こしむら しんざぶろう、1907年10月16日… 越村 信三郎(こしむら しんざぶろう、1907年10月16日 - 1988年11月27日)は、日本の経済学者・会計学者。第5代横浜国立大学学長。 石川県金沢市出身。1933年東京商科大学(現一橋大学)卒。大塚金之助門下。横浜高等商業学校講師、助教授、教授を経て、太平洋戦争が始まると、1943年に総力戦研究所研究員となる。日本の降伏後、1949年後身の横浜国立大学教授兼横浜経済專門学校教授、1953年評議員。同年「経済循環の原理」で関西学院大学より経済学博士の学位を取得。1956年日本学術会議会員、1961年経済学部長、1969年学長事務取扱、1970年学長。1973年定年退官、名誉教授、和光大学教授、1978年退職、名誉教授。
石本 統吉(いしもと とうきち、1907年10月15日 ‐ … 石本 統吉(いしもと とうきち、1907年10月15日 ‐ 1977年2月20日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、実業家。 東京出身。第一映画社で伊藤大輔、溝口健二の劇映画の編集を担当。鈴木伝明、中野英治が出演した劇映画『名物三人男』『ある駅の出来事』『与太者サーカス』を監督。芸術映画社で長期ロケを刊行した記録映画『雪國』を監督し、文部大臣賞を受賞。日本映画社ジャカルタ撮影所次長兼製作部長をへて、戦後、人員整理が始まっていた日本映画社でSF劇映画『空気の無くなる日』を製作。日映科学映画製作所を設立した後、記録映画『結核の生態』、『せんたく』、『火と炎』ほかの製作に対して、第3回ブルーリボン賞受賞。
岡田 貢助(おかだ こうすけ、1907年 <明治40年> 1… 岡田 貢助(おかだ こうすけ、1907年 <明治40年> 10月14日 - 1993年 <平成5年> 1月18日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は従四位。 三重県出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。 1953年10月に川崎製鉄に出向。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し、人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていた。このため第一銀行では常務の大森尚則を川崎製鉄の会長に送り込む方針を固めたが、大森は当時兜町支店長だった岡田を伴うことを求め、その結果出向が決まった。
今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 -… 今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 - 2001年9月18日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。元日本金属学会会長。文化功労者。日本学士院賞受賞。工学博士(東北帝国大学、1947年)。長野県上水内郡柳原村(現・長野市)生まれ。 鉄鋼材料に関する研究を進めた。鋼の微量成分の研究で、窒素が極めて有用な合金成分になることを発見した。1992年文化功労者。村上武次郎は岳父にあたる。
澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1… 澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1970年8月10日)は、日本の実業家。関西テレビ放送元社長。 京都府京都市出身。1929年に慶應義塾大学文学部を卒業。大阪新聞社と大阪時事新報社で編集局長を務め、1959年2月に産業経済新聞社副社長を経て、1958年2月に設立された関西テレビ放送の専務に就任し、社長の小林米三と共に経営の陣頭指揮を執った。1969年2月に小林米三の急逝により、社長に就任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。日本万国博覧会の開催に尽力を尽すために、数多くの万博関連番組、関連事業を推進したが、1970年8月10日亜急性黄色肝萎縮のために堺市内の病院で死去。62歳没。
永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 197… 永田 靖(ながた やすし、1907年10月11日 ‐ 1972年9月12日)は、日本の俳優。 長崎県島原市出身。台北高等学校文科卒業。その後上京し、1930年に新築地劇団に入る。久保栄演出の『新説国姓谷合戦』で初舞台を踏んだ。1934年の日本新劇祭で真山青果原作の『玄朴と長英』で高野長英を演じて好評を得た。1935年、『なみだの母』で映画初出演。1938年応召される。1940年に除隊するが、新築地劇団は強制解散させられた。以後、日活(合併後は大映)の映画に出演し、『将軍と参謀と兵』などで軍人の役を演じた。また、東宝演劇研究会を経て、丸山定夫らと苦楽座に入った。1945年に再び応召。戦後は第2次新協劇団をへて、1948年に、俳優座に入団した。
愛知 揆一(あいち きいち、1907年〈明治40年〉10月1… 愛知 揆一(あいち きいち、1907年〈明治40年〉10月10日 - 1973年〈昭和48年〉11月23日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員から衆議院議員に転じ、内閣官房長官(第18・29代)や外務大臣(第92-93代)、大蔵大臣(第77代)などを歴任した。 東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、愛知敬一・祥夫妻の長男として生まれた。父・敬一は物理学者で、1911年に東北帝国大学理科大学物理学科の教授に就任したため、一家は仙台市へ移った。母・祥の実家も代々漢学者の系統という家柄で、一家を挙げての学者家庭だったという。 愛知は旧制宮城県第二中学校(現在の仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学、1931年に卒業した。
川上 為治(かわかみ ためじ、1907年〈明治40年〉10月… 川上 為治(かわかみ ためじ、1907年〈明治40年〉10月10日 - 1984年〈昭和59年〉5月6日)は、昭和期の官僚、政治家。参議院議員、中小企業庁長官。 鹿児島県日置郡、のちの金峰町(現南さつま市)で生まれる。旧制の私立福山中学校(現鹿児島県立福山高等学校)を経て、第一高等学校を卒業。1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1934年(昭和9年)東京帝国大学経済学部を卒業した。同年、商工省に入省し商務局属に任官。以後、同省事務官、北京興亜院商工課長、商工省石炭課長などを務めた。 戦後は物価庁第三部長、通商産業省(現経済産業省)鉱山局長、同公益事業局長、中小企業庁長官などを歴任した。
鈴木 才蔵(すずき さいぞう、1907年(明治40年)10月… 鈴木 才蔵(すずき さいぞう、1907年(明治40年)10月10日 - 1977年(昭和52年)11月)は、日本の弁護士、公証人(東京法務局所属)。元法務省人権擁護局局長。元静岡地方裁判所所長。義父は参議院議員や小野田市(現:山陽小野田市)市長を務めた姫井伊介。 山口県出身。神奈川県在籍。香川愷太郎の次男に生まれ、鈴木謹次郎の養子となる。第三高等学校時代では一年違いに第7代最高裁判所長官の藤林益三がいた。のちに藤林は鈴木の死去に際して弔辞を読んだ。 1933年(昭和8年)東京帝国大学法科卒業(病気のため2年遅れで卒業)。1937年(昭和12年)11月高等試験司法科に合格。1939年(昭和14年)6月弁護士登録し、第一東京弁護士会に所属。
有賀 美智子(ありが みちこ、1907年 <明治40年> 1… 有賀 美智子(ありが みちこ、1907年 <明治40年> 10月10日 - 1999年 <平成11年> 4月22日)は、昭和期の官僚・法学者。専門は独占禁止法・国際経済法・知的財産法。元・国民生活センター会長、元・公正取引委員会委員。位階は正四位。 東京出生後、間もなく北海道小樽市に移住。1928年日本女子大学校英文学部卒業後、1932年東北帝国大学法文学部法科卒業。東北帝国大学法文学部助手を務め、のち結婚するが夫は戦死。1946年疎開先の小樽から引き揚げ大蔵省理財局嘱託職員となる。1947年公正取引委員会事務局に移り、同事務局参事官を経て、1967年女性初の公正取引委員会委員となる。経済法の国際会議に数多く出席し、1972年に退官。
奥村 悦造(おくむら えつぞう、1907年(明治40年)10… 奥村 悦造(おくむら えつぞう、1907年(明治40年)10月9日 - 1980年(昭和55年)1月31日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、滋賀県副知事。 滋賀県出身。1930年(昭和5年) 同志社高等商業学校を卒業した。 奥村鉱業社長、滋賀新聞取締役社長、琵琶湖ホテル取締役社長などを務めた。 政界では、大津市議会議員、滋賀県議会議員、同議長、滋賀県副知事、自由民主党滋賀県支部連会長などを務めた。1961年(昭和34年)3月、滋賀県立琵琶湖文化館建設資材として砕石を寄付により1964年(昭和37年)2月27日に紺綬褒章受章。1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に滋賀地方区から自由民主党所属で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。
藤原 繁(ふじわら しげる、1907年(明治40年)10月8… 藤原 繁(ふじわら しげる、1907年(明治40年)10月8日 - 1978年(昭和53年)11月2日)は、東京市小石川生まれの教育者。父・藤原保次郎(岡山県議会議長)、母・ゆきの長男として出生。亜細亜大学の前身である興亜専門学校、また、その前身である国士舘専門学校興亜科創立を首唱。実質的創立者。 菊池武夫、岩田愛之助、太田耕造(のちの亜細亜大学初代学長)松尾忠二郎、副島義一(衆議院議員)らとともに大学発展に尽力した。 辞世の句は、「教え子に情けを夢の50年」
村上 清信(むらかみ きよのぶ、男性、1907年10月8日 … 村上 清信(むらかみ きよのぶ、男性、1907年10月8日 -、1951年12月24日 )は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックフライ級日本代表。明治薬学専門学校卒業。 徳之島町花徳出身。村上清城、みんちゃの次男として生まれる。 1930年と1931年、全日本アマチュア拳闘協会主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会フライ級に2年連続で優勝を収めた。1930年は明治薬学専門学校、1931年は浜野商事所属選手として出場した。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにフライ級の日本代表として出場し、トーマス・パルドー(英国)との戦いに敗れ、フライ級の準々決勝で敗退しました。。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
中林 貞男(なかばやし さだお、1907年10月8日-200… 中林 貞男(なかばやし さだお、1907年10月8日-2002年3月10日)は、日本の社会運動家。日本生活協同組合連合会(日本生協連)第4代会長。 富山県出身。1932年、早稲田大学を卒業。報知新聞社会部記者となり、二・二六事件や相沢事件の取材にもあたった。1940年、大日本産業報国会が発足すると、藤井丙午の勧めにより同会会長平生釟三郎の秘書に転じた。 賀川豊彦らによる1945年11月の日本協同組合同盟の創立に参加し、事務局長に就任。1951年、日本生活協同組合連合会の発足とともに専務理事となった。1971年-1985年、14年間にわたって第4代会長を務め、生協育ての親といわれている。のち日本生協連名誉会長。
山本 力蔵(やまもと りきぞう、1907年10月6日 - 1… 山本 力蔵(やまもと りきぞう、1907年10月6日 - 1983年10月9日)は、千葉県の実業家、香取郡小見川町町長、新東京国際空港公団副総裁(1967年11月4日-1974年7月29日)。 1907年(明治40年)に旭町成田で醤油醸造を営む 「飯田本店」の四男として生まれる。幼名は広造で、のちに實と改めた。 1925年(大正14年)に千葉県立成東中学校(現・成東高校)卒業後、大阪南堀江の綿花商である戸部商店へ見習い奉公に出る。 1927年(昭和2年)、20歳の時に小見川町で醤油醸造を営む大村屋の婿養子となる。 木下浅吉に師事して醤油醸造を研究し1939年(昭和14年)には中国に渡って技術指導を行う。
埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - … 埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - 1979年12月31日)は、日本の小説家。山梨県出身。 早稲田大学露文科中退。戦前三度の芥川賞候補に選ばれるが、いずれも受賞を逃す。 1907年(明治40年)10月5日、山梨県北巨摩群白州町に生まれる。同町の出身者には山口素堂がいる。生家は宿場本陣の家柄であるが、1912年(大正元年)春、一家そろって上野車坂町に移る。また、大正期に下級官吏であった埴原の父は49歳でこの世を去っている(『文芸復興』誌上に「沈香も焚かず」の題で小説化している)。 早稲田大学露文科を中退後、銀座松屋に勤めながら執筆するが、左翼的との理由で解雇。1932年(昭和7年)、長編『蒼白きインテリ』を刊行(後、発禁)。
鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10… 鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10月3日 - 1981年〈昭和56年〉4月1日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族(侯爵)。旧佐賀藩鍋島家第13代当主。貴族院議員。 12代当主・直映の嫡男で、母は黒田長知の次女・禎子。学習院を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部を卒業。1933年(昭和8年)宮内省に入省し、式部官兼主猟官に就任。 父の死去に伴い、1943年(昭和18年)12月28日に家督を相続し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院の廃止まで在任した。 式部官を務めていたこともあり、1949年(昭和24年)、昭和天皇の戦後巡幸が佐賀市内で行われた際には、御泊所となった楊柳亭で拝謁する機会を得ている。
緒方 昇(おがた のぼる、1907年(明治40年)10月3日… 緒方 昇(おがた のぼる、1907年(明治40年)10月3日 - 1985年(昭和60年)11月19日)は、詩人。 熊本県出身。支那学者緒方南溟の次男。早稲田大学専門部政経部卒業。アナーキストとして大杉栄の労働運動社、黒色青年連盟に属し、詩作を行う。1929年東京日日新聞に入社。33年シナ留学生となり、敗戦まで日本と中国を往復する。35年逸見猶吉の勧めで草野心平の『歴程』に参加する。 戦後は毎日新聞論説委員、『毎日グラフ』編集長、編集局理事などを務めた。1947年高見順、菊岡久利らと『日本未来派』を創刊した。71年『魚仏詩集』で読売文学賞受賞。 釣りのエッセイもある。
住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1… 住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1971年)は、日本の陸上競技(投擲)選手。 1920年代後半から1930年代前半までやり投で活躍した選手で、「槍の住吉」と呼ばれた。オリンピック出場2回(1928年アムステルダム・1932年ロサンゼルス)。姓はのちに岩崎。早稲田大学理工学部卒業。 広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)生まれ。呉一中(現在の広島県立呉三津田高等学校)を卒業。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)にやり投と走高跳で出場。 早稲田大学に進学後はやり投選手として活躍。1927年、第8回極東選手権競技大会(上海)ではやり投で優勝。 1928年4月29日に関東選手権で61m08の記録を出して日本記録を更新。
田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - … 田辺 振太郎(たなべ しんたろう、1907年10月1日 - 1987年3月9日)は、日本の科学思想家。 京都出身。東京市本郷区西片町(現・東京都文京区)生まれ。雅号・素楽。1927年静岡県田方郡下大見村・私立大井上理農学研究所に技師として入所、1929年第一高等学校化学教室副手。1932年唯物論研究会の創立に参加。1933年岩波書店編集部勤務、1935-45年理化学研究所助手。磯部甫研究室(元・浅原源七研究室)所属。1945-47年武蔵高等学校(旧制)専任講師(化学)、1953年東京物理学校(現・東京理科大学)卒。戦前には、教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。のち在野の哲学者として独自の技術論や認識論を展開した。
江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 19… 江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 1972年7月11日)は日本の会社経営者、政治家。 衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。株式会社丹羽鉄鋼相談役。 京都府京都市出身。早稲田大学理工学部電気工学科を1933年に卒業後、1938年日本電気玉川向工場に入社。大津工場第2検査課長などを歴任したが、1946年に日本共産党へ入党したのを機に同党滋賀県委員や日本電気労働組合大津分会執行委員を務めた。しかしレッドパージに伴い同社を解雇されると、大阪府内で会社を経営。1949年の第24回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から出馬し初当選、滋賀県初の共産党国会議員となった。当選1回。 1972年7月11日、肝硬変のため神奈川県川崎市中原区の日本医科大学付属第二病院にて死去。
芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1… 芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1日 - 1979年(昭和54年)3月13日)は、日本の歌人。 芦田高子は、岡山県勝田郡勝北町(現・津山市)に生まれた。高等女学校を経て、梅花女子専門学校(現・梅花女子大学短期大学部)国文科を卒業後、婦女世界社の編集部に入社。そのころ二つ年下の医学生と知り合い、1931年(昭和6年)に結婚。門野高子となる。高子は、学資を援助したり面倒をみて医師に育てたという。その後、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校、啓明学院)、三省堂大阪支店出版課に勤務した。 そして、夫が能登の生地で開業することとなり、高子も石川県鹿島郡鳥屋町(現・中能登町)に移住。
高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 … 高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の教育者、哲学者(カント美学・デューイ教育哲学)、歌人。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 津市立高等女学校教諭、鹿児島県女子師範学校教諭、広島師範学校教授、静岡女子短期大学教授、静岡女子大学文学部教授、短歌個性主宰などを歴任した。 広島県出身の哲学者である。倫理学を専攻するとともに、探求学習に関する研究も手掛けていた。高等女学校や師範学校の教員を経て、静岡女子短期大学、静岡女子大学で教鞭を執り、後進の育成に努めた。歌集をいくつも上梓するなど歌人としても知られており、多くの歌人を育成した。 1907年(明治40年)10月、広島県で生まれた。
中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月3… 中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月30日 - 昭和60年(1985年)5月1日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 妻は日本初の女性弁護士で、鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した中田正子。 鳥取県八頭郡若桜町根安出身。竹次郎の長男。 1933年京都帝国大学農学部農林経済学科卒。1938年東亜研究所勤務、1945年若桜町農業会専務理事(以降農業関係の役職を歴任)、1947年4月鳥取県議会議員当選、1947年5月鳥取県議会議長。 1950年6月参議院議員(第2、3、5回通常選挙当選)、1954年参議院地方行政委員長、1955年日本社会党参議院副会長(1959年6月の第5回通常選挙では39票差で当選。
須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月… 須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月30日 - 1982年(昭和57年)10月18日)は、日本の教育者・児童文学者。 教員、編集者を経て山形新聞社論説委員兼文化部長を歴任。また山形県芸術文化会議会長、山形県県民芸術祭運営委員長などを務め、戦後の同県における教育文化活動の主軸を担った。さらに無着成恭を見いだした。 山形県宮内町(現:南陽市)出身。郵便局員でホトトギス派の俳人である流陰と号した父・多蔵と母・ていの三男として生まれる。幼いころから読書家として過ごす。1923年(大正12年)に山形県師範学校に入学すると文芸部委員になり、校友会雑誌『真琴』で短歌や文章を発表した。卒業後、宮内小学校訓導に就くが自身の力量不足を実感し、より一層学問を修めようと決意。
榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 -… 榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 - 1979年7月6日)は、日本文学研究者。 愛知県生まれ。1931年早稲田大学文学部国文科卒。日本俳優学校講師、1936年大阪に移住、中学校教員となる。戦後、愛知学芸大学教授、帝塚山大学教授。1977年定年退任、名誉教授となる。近藤忠義、石山徹郎、野坂昭如と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大石 重成(おおいし しげなり、1906年(明治39年)10… 大石 重成(おおいし しげなり、1906年(明治39年)10月29日 - 1984年(昭和59年)10月25日)は、日本の鉄道技術者。 東海道新幹線建設時の1960年から1963年にかけて、国鉄常務理事・新幹線総局初代局長として新幹線の線路選定、用地買収から建設工事全般の総指揮にあたり、十河信二総裁、島秀雄技師長とともに「新幹線三羽烏」の異名をとった。退官後は 鉄建建設社長を務め(1967.5 - 1984.10)、また社団法人鉄道建設業協会会長(1968.4-1984.10)、社団法人日本建設業団体連合会副会長(1968 - 1984)、土木学会会長(1970年 - 1971年)などを兼務した。
和田 鶴蔵(わだ つるぞう、1906年10月29日 - 19… 和田 鶴蔵(わだ つるぞう、1906年10月29日 - 1992年10月19日)は、日本の法学者。 兵庫県出身。立命館大学法学部卒、1970年「国民の一般的基本義務と教育」で法学博士。神戸大学教育学部助教授、教授を務め、1970年定年退官、名誉教授、近畿大学法学部教授となる。1983年退職。憲法・教育が専門。
白畑 よし(しらはた よし、1906年10月29日 - 20… 白畑 よし(しらはた よし、1906年10月29日 - 2006年6月2日)は、日本の美術史家。日本の女性美術史家の草分けであった。 山形県酒田市出身。指物師であった父の上京に従い9歳で東京に移る。文部省美術研究所(現東京国立文化財研究所)を経て、1952年京都国立博物館に入る。1962年資料室長。絵巻、大和絵を研究、女絵の様式展開の解明に貢献した。
佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日… 佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日 - 1978年(昭和53年)5月8日)は、日本の洋画家。新制作協会の創立メンバー。妻は声楽家の佐藤美子。 妻の佐藤美子(1903-1982)は、神戸生まれ横浜育ちの日仏混血のオペラ歌手。美子の父親の佐藤友太郎(1862-1940)は、京都府の派遣で1887年からフランスに留学し西洋式製磁法を学び、京都陶器の技師長となったが会社が倒産したため、美子が生まれたころは税関吏に転じていた。フランス人の母親ルイズは、友太郎が学んだリモージュ装飾工芸学校の工場長の娘。美子は東京音楽学校在学中に田谷力三らとオペラ活動を始め、1928年に卒業後フランスに4年間留学、帰国後「カルメン」の日本初演で一躍有名となり「カルメンお美」の愛称で人気オペラ歌手となる。
中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10… 中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10月28日 - 1991年(平成3年)10月27日)はNGOである「風の学校」の創設者。農学博士。東京医科歯科大学名誉教授の中田修は実弟。 千葉県などで、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を学ぶための学校である。適正技術といって発展途上国の物資のない状況でもすぐに活用できる技術に重きを置いた。卒業生は100名を超え、その卒業生は、培った技術を発展途上国の現地の人々だけでなく、日本の国際協力を志す後輩にも伝え、その育成にも努めている。
大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月2… 大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月27日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の舞踏家。モダンダンサー。マイム師、教育者。北海道函館市出身。 「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」 1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。家は北洋を漁場にする網元で、モダンな家庭であった。父はロシア語を話し、冬はカムチャッカ半島まで漁に出た。母はグラタンなどの西洋料理を得意とし、琴は六段の名手で、オルガンも弾いた。 ロシア正教会の幼稚園に通う。 1919年4月、旧制北海道庁立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)に入学後、母方の秋田県の親戚白石家にあずけられる。
山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - … 山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - 2004年10月1日)は、日本の染織研究家。東京出身。京都帝国大学卒業。東京帝室博物館(のち東京国立博物館)退官後、多摩美術大学教授、遠山記念美術館館長。日本、インド、インドネシアの染織品・人形のコレクター。
山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉1… 山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉10月25日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、日本の俳人。山口誓子の妻。本名は梅子。 浅井義晭(よしてる)・まさ夫妻の長女として、大阪市北区中之島に生まれる。大阪商船に務める父が1909年(明治42年)に韓国仁川の支店長として赴任したのに伴い、仁川に移住した。次いで1914年(大正3年)父の香港支店長として赴任に伴い、香港に移住した。 帰国すると1919年(大正8年)に大阪市東区宰相山町(現・天王寺区の三光神社の近隣)に居住した。近くの大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)に入学。1923年清水谷高女を卒業後、大手前之町の大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)の高等科に入学した。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 198… 藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 1989年7月19日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 岡山県の吉備津神社の神職の家に生まれる。岡山県立第一岡山中学校から第六高等学校文科に進学。1927年に同校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。同期入学に山根徳太郎、池内義資らがいた。卒業論文「文藝復興期に於ける日本道への歸着」をまとめ、1930年に卒業。 大学卒業後は、六高における恩師でもある松本彦次郎の推薦により、その後任として第六高等学校講師となり、同年10月に同校教授。1950年に岡山大学法文学部教授。1972年に退官し、名誉教授となり、1978年まで山陽学園短期大学教授を務めた。
鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24… 鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24日 - 1945年(昭和20年)7月15日? 消息不明)は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。 業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に『山と雲と蕃人と』などがある。 1906年(明治39年)10月24日 - 東京市淀橋区柏木(現東京都新宿区)に生まれる。 1919年(大正8年) - 12~13歳頃、月刊雑誌『昆虫世界』に初めての論文が掲載される。
内藤 寿七郎(ないとう じゅしちろう、1906年10月23日… 内藤 寿七郎(ないとう じゅしちろう、1906年10月23日 - 2007年12月12日)は、日本の医学者、小児科医。元日本小児科医会名誉会長、日本小児科医会の初代会長。「育児の神様」と称された。 東京都生まれ。熊本県立熊本中学校(現 熊本県立熊本高等学校)、官立第五高等学校を経て、1931年に東京帝国大学(現 東京大学)医学部を卒業。同大学小児科教室勤務を経て、日本赤十字社中央病院小児科部長。1956年、愛育病院院長ならびに愛育研究所所長に就任。1968年、藍綬褒章。1984年、日本小児科医会初代会長、日本医師会最高優秀功労賞。1985年、毎日出版文化賞。1986年、国際小児科学会賞。1992年、日本人として初めてシュバイツァー博愛賞を受賞。
池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日… 池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日 - 1991年3月9日)は日本の作曲家・音楽教育家・俳人。
岡村 重夫(おかむら しげお、1906年10月21日 - 2… 岡村 重夫(おかむら しげお、1906年10月21日 - 2001年12月22日)は、日本の社会福祉学者。孝橋正一、嶋田啓一郎らとともに、日本の社会福祉理論の構築に貢献した。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 196… 金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日)は、日本の映画監督、脚本家。 1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された。
伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月2… 伊達 興宗(だて おきむね、1906年(明治39年)10月20日 - 1947年(昭和22年)7月2日)は、日本の華族(伯爵)。伊達宗家第32代当主。 1919年(大正8年)3月、学習院初等科を卒業。1923年(大正12年)5月、父の死去により伊達伯爵家を継いだ。その後、東京農業大学に進学する。没後、夫人が伊達家の所有する山林を勝手に売却するなど横暴な振る舞いをして、親族と争いごとに発展したとされ、世間で「新伊達騒動」と言われ注目された。 朝宗 - 宗村 - 義広 - 政依 - 宗綱 - 基宗 - 行宗 宗遠 - 政宗 - 氏宗 - 持宗 - 成宗 - 尚宗 - 稙宗 - 晴宗 - 輝宗 政宗 - 忠宗 - 綱宗 - 綱村 - 吉村 - 宗村 - 重村 - 斉村 - 周宗 - 斉宗 - 斉義 - 斉邦 - 慶邦 - 宗基 邦宗 - 興宗 - 貞宗 - 泰宗 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日… 大宅 昌(おおや まさ、1906年(明治39年)10月19日 - 2007年(平成19年)5月24日)は教育者で、大宅壮一の妻、大宅壮一文庫の理事長を務めた。 三女は評論家の大宅映子。富山県魚津市出身。 旧姓、奥田。富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。4人の子供に恵まれた(大宅歩、映子のほか二女。)。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来、終生務めた。 1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。
北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - … 北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - 1980年8月11日)は、日本の作家。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学国文科卒業。 富山県旧制高岡中学(富山県立高岡高等学校)などの教壇に立つ傍ら、1937年、臼井吉見らと同人誌『鳰の巣』を発行し「最後の銅貨」などの小説を発表。『早稲田文学』には「雁の書」が掲載された。 詩集『兄の最後の手紙』(1935年)では貧困への憎悪を表現したものであるが、秋山清には酷評された。 戦時中は宇野浩二が北沢を頼り松本に疎開。戦後は小谷剛主宰の『作家』に「日之島」、「夢三代」などの小説集を出した。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。