伊豆見 元永(いずみ もとなが、1891年(明治24年)11… 伊豆見 元永(いずみ もとなが、1891年(明治24年)11月12日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。沖縄県首里市長。 伊豆見元功の長男として、首里山川村(現沖縄県那覇市首里山川町)に生まれる。1910年(明治43年)沖縄県立第一中学校を卒業後、沖縄県第1回の貸費生として垣花恵常と共に東亜同文書院に入学する。1913年(大正2年)3月、同院を卒業し、三井物産上海支店に勤務する。のち芝罘出張所長を経て、上海支店に戻り会計事務を担当し、1931年(昭和6年)東京本社参事室勤務となり翌年10月に退社した。上海在任中は同地の沖縄県人会長を務めた。その後、郷里にて沖縄物産販売業などに従事した。
鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉1… 鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉6月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、写真家、華族。貴族院男爵議員。霞汀(かてい)と号した。位階は従三位。 男爵・鶴殿忠善の息子として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)4月5日に男爵を襲爵した。 学習院を経て、1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。梅田製鋼取締役、大阪無線監査役、日本造船監査役、鐘渕実業嘱託などを務めた。 1943年(昭和18年)5月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
耳野 卯三郎(みみの うさぶろう、1891年〈明治24年〉1… 耳野 卯三郎(みみの うさぶろう、1891年〈明治24年〉11月12日 - 1974年〈昭和49年〉3月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。 大阪府大阪市出身。1907年東京葵橋洋画研究所に入る。1916年東京美術学校西洋画科卒。文展、帝展に出品、1933年光風会会員。1934年帝展特選。1942年文展審査員。戦後は日展に出品、1956年同運営会参事。1958年同評議員。1962年日本芸術院賞受賞。1967年日展理事、芸術院会員、勲三等瑞宝章受章。『耳野卯三郎静物画集』(美術工芸会、1964)がある。児童書の挿絵も多く手がけた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岩崎 卯一(いわさき ういち、1891年(明治24年)11月… 岩崎 卯一(いわさき ういち、1891年(明治24年)11月10日 - 1960年(昭和35年)6月8日)は、大正-昭和期の社会学者、政治学者。関西大学第17・19・20代学長。 佐賀県杵島郡武雄町生まれ。武雄町立高等小学校を卒業後、1908年(明治41年)に佐賀商船学校に進学したが、地元の有力者の勧めにより旅順夜学校に入学。しかし病を得て中退し、しばらく牟田万次郎(広滝水力電気専務)のもとに身を寄せていたが、鵜沢総明および原嘉道と面識を得たことがきっかけで法曹界に入ることを決意。神戸警察署で通訳を務めながら関西大学専門部法律学科に通い、在学中に弁護士試験に合格。1915年(大正4年)卒業後、関西大学初の留学生としてアメリカに派遣され、コロンビア大学で社会学および社会立法学を学び、ドクター・オブ・フィロソフィーの学位を得た。
2代 木村 浅七(淺七、きむら あさしち、1891年(明治2… 2代 木村 浅七(淺七、きむら あさしち、1891年(明治24年)11月10日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県足利市長。幼名・保之助。 栃木県足利郡足利町助戸(現足利市助戸)で、木村国三郎、タキ夫妻の二男として生まれる。1898年(明治31年)祖父浅七の養子となる。1913年(大正2年)東京高等商業学校を卒業した。 1914年(大正3年)家業の輸出絹織物製造販売業に従事。1915年(大正14年)市場調査のためオーストラリア、インドなどに渡航。1916年(大正5年)祖父の死去に伴い2代浅七を襲名した。木村工場を引き継いで事業を拡大。明治紡績監査役、野沢屋輸出店監査役、両毛整織監査役、日本輸出人造織物工業組合連合会監事、足利輸出絹組合理事、人絹織物工業組合理事、足利銀行取締役、桐生機械工業取締役などを務めた。
三戸 寿(みと ひさし・三戸 壽、1891年11月9日 - … 三戸 寿(みと ひさし・三戸 壽、1891年11月9日 - 1967年5月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将、海軍省廃止時の海軍次官。潜水艦の権威者であった。
松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 19… 松田 義之(まつだ よしゆき、1891年11月9日 - 1981年9月9日)は、版画家、教育者。 愛知県北設楽郡出身。号は芳雪。1917年東京美術学校図画師範科卒。青森高等女学校(現青森県立青森高等学校)教員、三重県で公立学校教師となり三重県立神戸中学校(現三重県立神戸高等学校)教員、1920年東京美術学校助教授、40年教授。51年東京藝術大学教授、59年定年退官、名誉教授。文部省教科書編集委員など。銅版画では、1932年から帝展、日本版画協会展などに出品した。
平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月… 平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月4日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の政治家、弁護士、教育者。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期、自由民主党)、南満洲鉄道副総裁、2代目大東文化大学学長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現高鍋町)出身。平島重綱の長男。幼少時より秀才の誉れが高く、高鍋学校(現宮崎県立高鍋高等学校)、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)から学校推薦で第一高等学校に進学。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。内務属、長崎県理事官、南満洲鉄道秘書役、同参事、台湾総督府秘書官兼事務官などを務め、弁護士を経て司法大臣秘書官となる。
野村 不二(のむら ふじ、1891年11月4日-1987年)… 野村 不二(のむら ふじ、1891年11月4日-1987年)は、日本の弁護士(元裁判官)、林業経営者、地方政治家。鹿児島県弁護士会会長、日本治山治水協会理事などを歴任。九州経済林業社長。 鹿児島県肝属郡高山村(高山町を経て現肝付町)前田出身。父は高山町長を務めた。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)と第五高等学校 (旧制)を経て、1917年東京帝国大学法科大学を卒業。1918年司法官試補、1919年~1923年判事(浦和、名古屋、鹿児島各地方裁判所)。1921年弁護士登録。判事退官後に鹿児島市で弁護士開業し、鹿児島県会議員に推されて3期10年務める。第二次世界大戦の鹿児島市街地大空襲で子供を亡くす。
小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - … 小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者・社会科教育学者。 東京出身。1919年東京高等師範学校卒、1922年東京帝国大学文学部社会学科卒、横浜実科高等女学校教諭、1925年千葉県銚子町公正会主事。1927年東京帝大経済学部卒。1932年東京府豊島師範学校教諭、1934年東京市視学。39年東京市主事教育局教育研究所長、1952年駒澤大学教授(-1962)、1955年東京経済大学教授、1956年亜細亜大学教授・日本経済短期大学教授、1971年亜細亜大を定年、名誉教授。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1… 米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1日 - 1959年(昭和34年)3月5日)は、大正・昭和前期の歌人。出生名、米田菊次。本名、米田雄還。同じく歌人の米田登は次男。 奈良県磯城郡川西村(現・川西町)の農家の長男として生まれる。尋常小学校卒業後、伯父が住職を務める香久山村の法念寺に寄寓。1907年(明治40年)、大阪市の上宮中学に入学。18歳より短歌を始め、若山牧水の添削を受ける。1911年(明治44年)前田夕暮の白日社に入社し、雄郎の筆名を使い始め、自由律短歌及び定型律短歌を作る。1917年(大正6年)には歌集「日没」を発行。 早稲田大学中退後、1918年(大正7年)滋賀県蒲生郡(現・東近江市)石塔町の浄土宗寺院・極楽寺住職となり、また高等小学校の代用教員も務める。
小栗 忠七(おぐり ちゅうしち、1891年11月 - 196… 小栗 忠七(おぐり ちゅうしち、1891年11月 - 1964年)は、日本の都市計画家。内務省の建設官僚として、「都市計画法規類集」及び「土地区画整理の歴史と法制」の編さん出版を始め都市計画の指導、発展に多大な功績を残す。また内地及び日本統治下の台湾などで制度の立案・運用に関わった。 「疎開」という日本語の生みの親の一人でもある。 静岡市に生まれる。1911年3月、旧制静岡県立静岡中学校を卒業後、静岡県に奉職したが、後に東京府を経て、1927年に内務省大臣官房都市計画課に勤務する。 1937年に内務省を退官して、名古屋市に奉職し駅前土地区画整理事業を事務所長として遂行した。1939年からは満州国交通部都邑計画司事務官として法規改正を担当し、同国において交通部事案に大きな業績を残した。
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月… 豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年… 大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年〉11月24日 - 1973年〈昭和48年〉2月28日)は、洋画家、日本芸術院会員。 旧姓は氏原。大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市内畑町)に生まれ、大阪市で育つ。旧制岸和田中学校(現在の岸和田高等学校)に入学するが、3年のとき、母が亡くなったため大阪市に戻り、桃山中学校に転入する。1911年に叔父の大久保家を継いだ。 東京美術学校西洋画科で黒田清輝に学ぶ。同級に鍋井克之がいた。在学中に文展に初入選。卒業後も同校研究科に進み、1918年修了。1916年-1918年文展特選。1923年には渡仏して以後4年間をヨーロッパで過ごす。1935年多摩美術大学教授。
中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - … 中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシア文学者。
中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11… 中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11月22日 - 1943年〈昭和18年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県川辺郡、のちの川辺町(現南九州市)で、役場書記・中薗平左衛門の三男として生まれる。川辺中学を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。大阪砲兵工廠員、陸士生徒隊付などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。翌月、野砲兵第6連隊中隊長に就任。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第15師団参謀、第3師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官を歴任し、1927年(昭和2年)7月、砲兵少佐に昇進。
米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 196… 米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 1968年1月)は、日本の銀行員、作詞家。島根県出身。本名は米山 豊蔵(よねやま とよぞう)。 1890年(明治23年)、島根県神門郡杵築町(現在の出雲市大社町)の旧家に生まれる。1907年(明治40年)に京都市立商業実修学校を卒業し、大阪の三十四銀行へ入行。京橋、次いで神田支店長に就いた。三十四銀行は1933年(昭和8年)に鴻池・山口の両行と合併して三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)となり、船場支店長を経て天満、朝日橋、中央市場支店長を歴任する。 定年退職後は島根へ帰郷し悠々自適の生活を送っていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効記念事業として島根県が懸賞募集を行った県民歌で応募作「薄紫の山脈」が宮田隆の応募作「青い空なら」と並んで準入選で採用された。
上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1… 上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1978年7月7日)は、日本の児童文学者童話作家教育者である。 1890年に栃木県上都賀郡東大芦村(現 鹿沼市)に生まれる。地元の引田尋常小学校および高等科を卒業して上京。日本銀行に見習いとして採用される。1907年、日本基督教団日本橋教会で洗礼を受け、以後、キリスト者の道を歩む。1919年に結婚した後に日本銀行を退職、アメリカ合衆国へ留学する。1923年にワシントン州立大学教育学部卒業後、帰国。子供之友編集主任、日本キリスト教文化協会長などを歴任する。1938年、洗足幼稚園の経営を引き継ぐが、戦局の悪化に伴い1944年に休園。やがて1945年3月の東京大空襲により幼稚園が焼失し、郷里に疎開させていた家族のもとへ戻る。
日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月1… 日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月19日 - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。関東州官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。日下謙太の長男。1916年(大正5年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、臨時産業調査局事務官、水産局書記官、水産講習所教授、水産局事務官・農商務局書記官、農商務参事官、特許局事務官、法制局参事官、商工書記官、関東庁事務官・長官官房文書課長、同内務局殖産課長、同内務局長、関東局司政部長、台中州知事などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後、台湾拓殖株式会社理事に就任。その他、星規那産業株式会社代表、台湾単寧興業株式会社代表、台湾畜産興業株式会社取締役、南日本化学工業株式会社取締役、台湾産金株式会社取締役、南日本塩業株式会社取締役、台湾通信工業株式会社取締役、台湾石炭株式会社取締役などを務めた。
小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年… 小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年)11月19日 – 1958年(昭和33年)3月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 千葉県武射郡蓮沼村(現在の山武市)出身。1910年(明治43年)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業。自由通信社に入社し、外交部長、支配人、社長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第21回衆議院議員総選挙まで4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で外務参与官を務めた。 大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 また『立憲政友会史』『立憲政友会報国史』の編纂に携わった。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月… 渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月16日 - 1986年1月16日)は、工芸研究者。 愛知県西春日井郡新川村(現・清須市)出身。本名は清重郎。1916年東洋大学専門部哲学科卒。1931年帝国美術学校講師、多摩帝国美術学校教師、1939年東京高等工芸学校講師、1948年多摩造形芸術専門学校教授。1953年校名変更で多摩美術大学教授、1965年定年退任、名誉教授。1961年「東洋文様史の研究」で東洋大学文学博士。日本工芸会評議員。東洋に伝わる建造物や工芸品、着物の文様を系統的に研究した先駆者。
鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月1… 鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月15日 - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。前名は義雄。主な軍歴を第二艦隊に歩み、太平洋戦争において軍令部第二部長、第三戦隊司令官を歴任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、台湾沖で乗艦「金剛」 の沈没時に戦死した。 山形県出身。新庄中学を経て、海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中29番。鈴木は海軍大学校航海学生を修了した航海科専攻士官で、重巡洋艦「加古」など4艦の航海長を務めた。 大尉で第一艦隊参謀を務め海大甲種23期を修了。高木武雄、角田覚治、田結穣らが同期生である。中佐時代は欧米出張を経て、日本海軍の前進部隊である第二艦隊の参謀に就任。
坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)… 坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)11月15日 – 1970年(昭和45年)12月28日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、栃木県河内郡姿川村長。栃木県を代表する戦後昭和期の農業指導者。 栃木県河内郡姿川村下欠(現宇都宮市)で、坪山弥重、トモの二男として生まれる。1910年(明治43年)栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業した。 その後、家業の農業に従事。徴兵され、その後、陸軍砲兵中尉に昇進し、帝国軍人教育会地方委員、帝国在郷軍人会姿川分会長、同河内郡連合分会長などを務めた。また、地方森林会議員、栃木県馬匹畜産組合連合会副会長、同養蚕組合連合会副会長などにも就任した。
崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月… 崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月15日 - 1934年(昭和9年)5月11日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)、鉄道官僚、ジャーナリスト。 鹿児島県鹿児島市に竪山吉太郎の二男として生まれ、崎山賢輔の養子となった。一年志願兵制度によって陸軍歩兵中尉に任じられ、1920年に中央大学経済学部を、翌年に日本大学法律科を卒業した。鉄道局書記、鉄道属、鉄道省嘱託を経て、やまと新聞記者となった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回連続当選を果たした。その他、南九州窯業株式会社取締役も務めた。墓所は多磨霊園(11-1-11-8)
和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年… 和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年6月22日)は、大正後期から昭和前期にかけての東洋史学者。 1890年、神奈川県高座郡鶴嶺村(現在の茅ヶ崎市)の豪農の家に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科東洋史学専攻に進学。1915年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後は、中央大学予科および東京帝国大学講師となった。1924年に留学を命じられ、欧米や中華民国に留学。帰国の翌年の1927年に東京帝国大学助教授に昇格。折りしも、留学中に東京帝国大学における東洋史学の基礎を築いた白鳥庫吉・市村瓚次郎が定年退官を迎え、世代交代の最中にあった。和田は池内宏・加藤繁とともに新しい東洋史学科の中心的な地位に立つことになった。
富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 19… 富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 1984年10月17日)は、日本の詩人、歌人。校歌や市町歌の作詞など、旺盛な詩作活動を行なったことから「兵庫県文化の父」と称される。 岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。1902年に上京し、同年12月から会計検査院に勤める。1908年、与謝野寛と与謝野晶子の新詩社に加わり、石川啄木とともに歌会に参加する。以来、啄木に思想的な影響を受け、啄木の死に際してエッセイを発表した。 1912年、歌集『悲しき愛』を出版する。その前後にホイットマンやエドワード・カーペンターの訳詩集を刊行し、彼らの詩を日本に初めて紹介した。1915年、最初の詩集『末日頌』を上梓。
上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、189… 上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、1890年〈明治23年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の実業家。元内外除虫菊会長。上山殖産代表取締役。和歌山県多額納税者。大日本除虫菊の創業者上山英一郎は養叔母ゆきの夫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。先代・市郎兵衛の長男。先代・市郎兵衛は南海水力電気を起こした。1922年、家督を相続し、前名・市三郎を改め襲名する。 祖業を継ぎ農業を営み、傍ら上山殖産会社を創立する。上山殖産社長、南海水力電気社長、関西配電理事、南海工業会長、内外除虫菊会長を務めた。 人となりは、朗らかな明るい紳士である。先代・市郎兵衛より、父子共に社会公共に尽した。
上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8… 上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8日 - 1953年(昭和28年)12月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 栃木県芳賀郡中村(現在の真岡市)に栃木県会議員上野大太郎の三男として生まれた。真岡中学校、第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。西沢金山株式会社社員、第一生命保険相互会社社員、下野電力株式会社支配人、野州電気株式会社専務取締役などを務めた。その後、弁護士を開業し、栃木県会議員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月… 永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月5日 - 1965年(昭和40年)7月17日)は、日本の実業家・政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長(第3代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、川口町長・鋳物業、永瀬庄吉の長男として生まれる。1909年、埼玉県立浦和中学校卒業後に東京高等工業学校を修了した。 1912年以降、永瀬鉄工所管理者、川口商工会議所会頭、川口鋳物工業組合理事などを務めた。 1933年、川口市の市制施行に伴い市会議員に就任し、初代議長を務めた。1935年7月1日、第3代川口市長に就任し、1938年4月1日まで在任。その他、埼玉県産業報国会副会長、大政翼賛会埼玉県支部参与などを務めた。
矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 197… 矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)は、日本の美術史家、美術評論家である。音楽家矢代秋雄は長男。秋雄の長女(孫)は古代ギリシア美術史研究者平山東子。妻の弟が木村健二郎。 横浜で讃岐高松藩元藩士の矢代宗勝と神戸出身の美佐の長男に生まれる。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭をしていた。横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学したが、文科大学英文科に転じ、1915年に卒業。一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第7回文展に入選。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり美術書の翻訳をしたりして学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生になった。
小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11… 小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11月5日 - 1972年(昭和47年)11月23日)は、大正・昭和期の産業組合活動家、政治家。参議院議員(1期)。ホクレン農業協同組合連合会の創立者とされる。 兵庫県城崎郡、のちの日高町(現豊岡市)で生まれる。8歳で北海道に移住し、現在の岩見沢市峰延町で農業を営む。1914年(大正3年)峰延産業組合(現峰延農業協同組合)を設立し理事に就任し、組合長を30年務めた。1919年(大正8年)北海道信用購買販賣組合聯合會(北聯、現ホクレン農業協同組合連合会)を設立し理事に就任。1936年(昭和11年)北聯会長に就任。北海道食糧営団理事長、同農業会長、同青果物配給公社社長、北海道販売農協連会長、道購買農協連合会会長、道農協中央会会長、全販連理事、全購連理事などを歴任。
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890… 山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家、社会主義者、労働運動家、婦人運動家である。戦前、公娼制度の廃止、女性労働者の地位向上、古い家族制度の批判、社会主義フェミニズムの理論化、女性社会主義者の組織化などを展開。アウグスト・ベーベルの『婦人論』の最初の完訳者としても有名。戦後も、女性運動、婦人労働運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。息子は山川振作。 1916年、『青鞜』1月号に、「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に與ふ」を発表し、『青鞜』1915年12月号に発表された伊藤野枝の論文「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」を批判した。
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3… 足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。1912年(明治45年)、第三高等学校卒業。1915年(大正4年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となったが、翌年に警視庁警部に転じ、同警視、赤坂青山警察署長、島根県警視・保安課長、同理事官・学務課長、香川県理事官・視学官・学務課長、同事務官、同書記官・学務部長、静岡県書記官・学務部長、青森県警察部長、栃木県警察部長、同内務部長、福岡県警察部長を歴任。1932年(昭和7年)、鹿児島県書記官・総務部長に就任し、1936年(昭和11年)に退官した。
西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11… 西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11月2日 - 1933年7月28日)は、鹿児島県西囎唹郡西国分村(現・鹿児島県霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。第30代横綱。本名は松山 伊勢助(まつやま いせすけ)。 1890年に鹿児島県で生まれる。子供の時から剛力で鳴り響いたため、二代目西ノ海嘉治郎に見出されたことから上京、鹿児島県出身の力士が多く所属する井筒部屋に入門した。1910年1月場所で源氏山大五郎と名乗って初土俵を踏むと順調に昇進、序二段、三段目、幕下で5戦全勝を記録し、十両2場所目の1915年5月場所でも6勝無敗1分を記録。1916年1月場所に新入幕を果たすとこの場所は9勝1敗の好成績で、1918年5月場所で関脇に昇進する。
河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月… 河合 長明(かわい たけはる、1890年(明治23年)11月2日 - 1971年(昭和46年)5月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県松山市出身。陸軍士官学校第25期卒業。陸軍重砲兵射撃学校に乙種学生として入学、成績優等につき卒業時拳銃を下賜される。陸士教官(兵器学部教官、32期区隊長)、高射砲第3連隊副官を経て、1940年(昭和15年)3月9日に甘木の高射砲第4連隊長(西部軍・西部軍砲兵隊)に就任し、8月1日に陸軍砲兵大佐に進級した。1941年(昭和16年)7月22日に西部軍司令部附となり、11月12日に防空第5連隊長(東部軍・東部防空旅団)に就任して市川に位置した。 1944年(昭和19年)6月に第19野戦高射砲隊司令官(第8方面軍)に就任し、ラバウルに出征した。
吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11… 吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11月1日 - 昭和22年(1947年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 農業・川内清作の五男として大分県に生れ、佐賀県の貿易商・吉岡又吉の養子となる。中津中学校、第五高等学校中退、士官候補生を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。陸士生徒隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長となる。 1927年(昭和2年)2月、参謀本部付勤務(庶務課)となり、参謀本部員、支那駐屯軍参謀、歩兵第45連隊大隊長、第8師団参謀などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀となり、翌年8月、歩兵中佐に昇進。
大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11… 大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11月1日 - 1974年(昭和49年)3月13日)は、鹿児島県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡、のちの東市来町(現日置市)で、農業・村長、大迫半七の子息として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)3月、陸士教官となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、吉林駐在)を務め、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。
佐藤 与助(與助)(さとう よすけ、1890年11月1日 -… 佐藤 与助(與助)(さとう よすけ、1890年11月1日 - 1971年)は、日本の資源工学者。専門は採炭学、及び日本の炭鉱・炭田に関する史的研究。 三宅長市の三男として福岡市に生まれ、炭鉱経営者で篤志家であった佐藤慶太郎の養子となる。1910年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校工科を経て、1916年7月九州帝国大学工学部採炭学科を卒業。 卒業後、九州帝国大学工学部講師となり、1918年9月採炭学研究のため欧米に留学、1920年6月に帰国後、明治専門学校(現・九州工業大学)の教授に就任し、鉱山学科長、および採炭学科長を務めた。その後、東北帝国大学工学部講師を経て、1947年9月同教授に就任、1948年8月同鉱山学科主任教授となる。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。
小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1… 小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1979年1月15日)は、ヤマト運輸創業者。東京都東京市京橋区数寄屋町二丁目(現・中央区銀座、数寄屋橋交差点付近)出身。 銀座の原料紙問屋「川善」の分家を経営していた両親(父・善兵衛、母・もと)の元で生まれ、8人目の三男であったことから八三郎と名付けられた(1930年2月に改名)。1902年3月の泰明小学校高等科2年卒業後は大手町の商工中学校に進学するも、川善の廃業により退学。長姉の嫁ぎ先で薪炭商を営む上田家の「山登屋」に預けられた。 東京外語学校の夜学で英語を学び、工場などで働いたのち、1914年5月25日(当時24歳)に手車による移動販売の「挽き八百屋」として独立し、京橋の大根河岸で野菜を仕入れ、銀座、新橋、芝、赤羽橋で売り歩いた。
青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月2… 青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月28日 - 1982年〈昭和57年〉6月25日)は、日本の大蔵官僚・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現:長野県長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。 入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。
伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1… 伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は、事業を起こしたい夫・治輔と東京に住んでいた。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに、夫の実家に戻り、長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治2… 黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治22年〉11月24日 - 1978年〈昭和53年〉4月16日)は、日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。 日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた[要出典]。旧筑前国福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。 祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を務めた黒田長成、母は清子(島津忠義の次女)である。姉妹のうち、幸子は長嶺公固の妻、良子は高倉永輝の妻。 妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子(1915年生)は前田利建に、次女の光子(1921年生)は山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。
広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(… 広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 - 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。 徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。 第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、静岡県多額納税者。相模屋社長。熱海伊豆山温泉組合長。 静岡県田方郡熱海町(現・熱海市)の温泉旅館業、相模屋・浜田文作の息子。1913年、家督を相続した。温泉旅館業を営んだ。千人風呂相模屋旅館を経営し、静岡県多額納税者に列した。永く区長の要職にあった。 熱海小学校学務委員であった。伊豆銀行、箱根ホテル各監査役、伊豆銀行熱海支店相談役を兼任した。 相模屋旅館について、三郎によると「先代文作が苦心経営の結果、顧客の信用を高め高評を博するようになり、千人風呂に久邇宮殿下の御行啓の幸栄を賜り、また松方侯爵、浅野侯爵、松浦伯爵、寺島伯爵、渡辺子爵、三浦子爵、後藤男爵等の諸華族方を始め、文士には、大町桂月、有島武郎、実業家には、福島浪蔵、山科礼蔵、織田昇次郎、久原房之助、村井吉兵衛の諸氏も来遊されてこの風呂で深い感興をそそられたこともあった」という。
生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)… 生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。