小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1… 小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。 山梨県西八代郡高田村出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満洲・長春へ赴任。夫人の小澤さくらによれば、「昼間まじめに診察していたのは、1931年(昭和6年)の満洲事変の前まで」だった。また、長春にいた頃、奉天の鉄道の責任者になり、初めて視察に行った際に、駅のプラットホームで何者かに狙撃されたが無事だった。1928年(昭和3年)に満州青年聯盟を、1932年(昭和7年)には満洲国協和会を結成し民衆の教化を行った。 満洲事変の立役者であった関東軍の板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。
坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 199… 藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。 判事・藤田菊江の二女として、赴任先である愛知県名古屋市橦木町(後の東区)で誕生。母・かめきがクリスチャンだった関係で幼児洗礼を受けている。父は仕事柄転勤が多く、一家はたきが尋常小学校2年生の時に那覇に、5年生の時に富山に、卒業後は旅順にと引っ越しを繰り返した。1913年(大正2年)に父は退官。大阪で弁護士事務所を開くが、頑固な性格が災いし経営は上手くいかなかった。 たきは1914年(大正3年)金蘭会高等女学校の3年に編入。
橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12… 橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12月23日 - 昭和45年(1970年)3月15日)は、日本海軍の軍人(最終階級は海軍大佐)、実業家。東京市渋谷区出身。 首相を務めた橋本龍太郎の伯父にあたる。 日本麦酒社員橋本卯太郎、マツの二男として生まれた。 大正9年(1920年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。海軍大学校選科学生として無線兵器研究のため派遣され、昭和3年(1928年)東北帝国大学工学部を卒業。以後、呉海軍工廠電気部員、海軍通信学校教官、海軍艦政本部員、海軍技術研究所員、独乙瑞典駐在並に駐在武官、沼津海軍工廠無線部作業主任等歴任。 戦後、寿電業社長、六興電気副社長などを務めた。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日… 茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。位階は従二位。 神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12… 平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12月20日 - 1952年(昭和27年)3月20日)は、昭和期の経済学者、教育者、政治家。参議院議員(2期)、経済学博士。 静岡県富士郡北山村(現・富士宮市)出身。1923年(大正12年)日本大学商学部法律学科を卒業した。アメリカに留学し、ワシントン大学、アリゾナ大学で学んだ。 米国カリフォルニア州カダループ日本人会書記長兼日本語学校長、日本大学専門部教授、同経済学部教授、同大監事、日本女子経済専門学校(現嘉悦大学)校長、日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、静岡県田子浦高等学校(現静岡県立吉原工業高等学校)校長、嘉悦学園理事長、平岡政治経済研究所長、公認会計士試験委員などを務めた。
広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - … 広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - 1989年1月4日)は、昭和時代の日本の農業経済学者。茨城県西茨城郡西那珂村(現在の桜川市)出身。専攻は農業史。旭川大学学長として、再建の立役者となった。 地主の末子に生まれ、当初は第二高等学校に入り医大を目指していたが、解剖学の授業に衝撃を受けて農学志望に転向する。1925年東京帝国大学農学部卒業後、更に法学部に転じて1929年卒業する。この間に吉野作造の新人会に所属していた。卒業後は恩師の佐藤寛次の勧めで農学部講師となる。1936年には東京農業大学農学部農業経済学科教授となった。 1941年、日本の支援で中華民国南京政府(汪兆銘政権)が設置した国立上海大学設置に際し、教授に招聘されて上海に渡るが、日本の第二次世界大戦敗北と同時に同大学も閉鎖される。
岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19… 岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19日 - 1944年(昭和19年)11月1日)は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。旧姓は森。森矗昶の弟。 漁師・森為吉の三男として、千葉県夷隅郡清海村(興津町、勝浦町を経て現勝浦市)に生まれる。のち1927年(昭和2年)岩瀬定吉の婿養子となる。千葉県立大多喜中学校を経て、1919年(大正8年)東京植民貿易語学校高等科卒業後、マレー半島トレンガヌにて煉瓦製造業を営む。 日本澱粉、桜組工業、辰巳倉庫、樺太炭業、昭和航空計器各社長、昭和火薬取締役、日本澱粉工業組合連合会理事長、隣保教育財団、大日本映画協会各理事、日本輸出農産物参与、日本甘馬鈴薯会社社長、日本水飴統制協議会、日本葡萄糖統制協議会各委員長などを歴任した。
羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月1… 羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月19日 - 1974年(昭和49年))は、昭和期の内務官僚、政治家。官選第35代富山県知事、公選第3代(通算第39代)福井県知事(在任期間は1955年4月26日~1959年4月22日、1期4年)。 三重県多気郡出身。羽根貞助の長男として生まれ、幼少期に富山県上新川郡大沢野村(現富山市)へ移住した。立命館中学校、大阪市立高等商業学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。立命館大学助教授となる。 1929年、内務省に入省し岐阜県属となる。以後、高知県書記官・警察部長、栃木県部長・警察部長、新潟県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。
井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1… 井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1977年5月27日)は、浄土宗の僧侶。佛教大学名誉教授。 1898年、奈良県磯城郡平野村(現:田原本町)瑞花院で生まれた。県立畝傍中学校(現:奈良県立畝傍高等学校)、佛教専門学校を経て、京都帝国大学文学部国史科に入学。1923年に卒業した。 卒業後は、華頂高等女学校教諭となり、次いで京都大学嘱託となって近衛家文書調査にあたった。 1945年、大阪府高石市の専称寺住職となった。また、京都西山短期大学講師として教鞭をとった。佛教大学助教授となり、後に教授昇進。1962年、学位論文『法然上人絵伝の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1969年に佛教大学を定年退職し、名誉教授となった。
中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12… 中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12月18日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、大正から昭和期の商工官僚、政治家。衆議院議員、特許局長官。旧姓・鈴木。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 静岡県浜名郡笠井町(現:浜松市中央区)で鈴木幸作の三男として生まれ、のちに同郡雄踏町(現:浜松市中央区)の旧家・中村源左衛門の養子となり中村家31代当主を継承した。第四高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、農商務省に入省し特許局属に任じられ、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、特許局事務官、同審判官、同意匠課長、製鐵所参事、同労務部福利課長、大阪鉱山監督局鉱政課長、特許局事務官・庶務課長、商工書記官・鉱山局鉱政課長、仙台鉱山監督局長、福岡鉱山監督局長、特許局長官、北海軍需監理部長などを歴任し、1945年(昭和20年)に退官した。
宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12… 宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12月18日 - 1965年(昭和40年)5月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選福井県知事。 鹿児島県坊津(現南さつま市の一部)出身。宮田長八の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市役所を経て、1929年、内務省に入省し徳島県属となる。 以後、三重県警察部保安課長、大分県警察部特別高等警察課長、岡山県警察部特別高等警察課長、大阪府警察部外事課長、滋賀県書記官・警察部長、満州ハルピン駐在、茨城県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安衛生部長、同特別高等警察部長、内務省警保局外事課長、京都府部長・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治3… 西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治31年〉12月18日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、新潟県議会議長。旧姓は中林。 新潟県北魚沼郡川口村(川口町を経て現長岡市)で、素封家・中林茂吉、ヒデの四男として生まれた。1916年(大正5年)3月、新潟県立工業学校(現新潟県立長岡工業高等学校)機械科を卒業した。 1916年、新潟鐵工所柏崎工場に入社。1921年(大正10年)刈羽郡枇杷島村(柏崎町枇杷島を経て現柏崎市枇杷島)の西川藤助に強く望まれて西川商店鉄工部に入った。1923年(大正12年)藤助の父・西川善之助の養子となる。
佐藤 知雄(さとう ともお、1898年12月16日 - 19… 佐藤 知雄(さとう ともお、1898年12月16日 - 1992年3月7日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元名古屋工業大学学長。元日本金属学会会長。日本学士院賞受賞。 三重県出身。名古屋中学校(現名古屋高等学校)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)を経て、1927年東北帝国大学工学部卒業。東北帝国大学工学部助教授を経て、1935年日本鉄鋼協会服部賞受賞。1939年東北帝国大学工学部教授。1959年名古屋工業大学長。1961年日本学士院賞受賞。1963年日本金属学会会長。1968年日本金属学会賞受賞。1971年本多記念賞受賞。1971年国際ロータリー第360区ガバナー。1972年市立名古屋科学館館長。
田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月… 田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月15日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 埼玉県北足立郡安行村(現在の川口市・草加市)出身。衆議院議員・田中左司馬の長男として生まれる。埼玉県立浦和中学校、第一高等学校を卒業。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年6月、北海道庁属となり拓殖部に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 1923年4月、北海道庁警視・警察部勤務となる。以後、道庁事務官、地方事務官・静岡県勤務、福岡県警察部特別高等警察課長、内務事務官・警保局勤務、ドイツ駐在(1931年7月~1934年12月)、兼内務書記官・大臣官房文書課長、内閣調査局調査官、内務書記官・地方局庶務課長、警保局警務課長を歴任し、文部省社会教育局長に就任。
澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月1… 澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月15日 - 2000年〈平成12年〉4月3日)は、日本の腹話術師、声楽家。本名は村井武雄。妻はアルト歌手の村井満寿(満寿の2人目の夫)、三男はクラリネット奏者の村井祐児。 東京府で誕生した。慶應義塾大学を卒業後、劇作家の小山内薫の招きで、築地小劇場に参加した。声楽を学んだ後、田谷力三らと共に、日本劇場の専属歌手として、終戦近くまで活動した。1932年(昭和7年)に日本音楽コンクールで、バリトン歌手として最優秀賞を受けた。 村井満寿の前夫である高階哲夫と友人だったこと、高階と離婚後の満寿に澄川が歌を習ったことが縁で、1933年(昭和8年)に満寿と結婚。
向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 1… 向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 12月15日 - 1992年 <平成4年> 5月29日)は、日本の実業家。フォトレジストメーカーの東京応化工業の創業者。位階は従五位。 1898年(明治31年)12月15日、福岡県に生まれる。1919年(大正8年)6月、築地工手学校(工学院大学の前身)を卒業。同月、農商務省東京工業試験所入所。1934年より、炭鉱用キャップライト向けの蓄電池材料の開発を手掛ける。1936年4月、東京応化研究所創業。1940年10月に法人化し、東京応化工業株式会社の初代社長となる。1976年4月に神奈川県工業技術研修センター副理事長に就任。1982年2月より東京応化工業会長。
塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1… 塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1969年5月10日)は、日本の算術教育者。4つ珠そろばんの普及者。島根県出身。 東京帝国大学卒業後、松本高等学校 (旧制)教授を経て文部省の図書監修官となる。 国際数学者会議で絶賛された画期的な教科書『尋常小学算術』を編集する。その際、乳井貢によって提唱された4つ珠そろばんによる珠算教育を全国で実施した。 数学者の遠山啓らが1958年に提唱した水道方式が筆算中心の計算指導体系であることに対して、暗算を重視して激しく反対した。 東京大学名誉教授で行政法学者の塩野宏の父である。 文部省時代、国定の小学校算術教科書の編集にあたった塩野は、「児童の数理思想を開発し、日常生活を数理的に正しく指導すること」を算術教育の目的とした。
岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月1… 岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月13日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、昭和時代の土木工学者、政治家、鉄道官僚、運輸官僚。参議院議員。運輸政務次官。陸軍司政長官。 岡田竹五郎の子として東京府に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省工務局改良課に奉職する。同年、関東大震災による鉄道被害の復旧のため国府津改良事務所で東海道線の復旧、改良工事に従事し、のち国府津改良事務所長となる。1932年(昭和7年)から2年間、在外研究員として欧米に留学した。1939年(昭和14年)広島鉄道局工務部長、1942年(昭和17年)鉄道省工務局計画課長を経て、1944年(昭和19年)陸軍司政長官となり、フィリピンに赴任した。
大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1… 大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1981年2月21日)は、日本の仏師、彫刻家、日本芸術院会員。本名は正。兄は洋画家の大内青坡。 仏教学者大内青巒の子として東京府麻布区に生まれる。 1922年、東京美術学校彫刻科卒業。在学中は、高村光雲に木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んだ。1927年、日本美術院同人。1936年以降は、帝展や文展に出品し、戦後は日展や院展を中心に出品した。ただし、日展が社団法人になった後は出品していない。 1933年、世田谷区で薬の製造販売をしていた久保川貞節氏が、渋谷で有名だった秋田犬ハチ公に感銘を受け、故上野英三郎教授の内縁の妻八重子氏と、吉川忠一渋谷駅長の許可を得、ハチ公の木像制作を大内に依頼。
西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11… 西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11日 - 1943年(昭和18年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・数藤。 北海道出身。陸軍中尉・小学校教員、数藤熊七の二男として生まれ、西家の養子となる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第24連隊付となる。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し騎兵第24連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)3月、陸士教官に就任し、1934年(昭和9年)8月、騎兵少佐に進級。1935年(昭和10年)2月、アメリカ駐在を命ぜられ、1936年(昭和11年)8月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9… 長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9日 - 没年不明)は、岐阜県羽島市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は吉村 彦三郎。最高位は十両11枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、「長良川」の四股名で1918年5月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進、3勝6敗と負け越し、幕下に落ちる。1925年5月再十両となるも1勝4敗1預と負け越し再び幕下に落ちた。「金華山」と改名後の1927年1月、十両に復帰したが2場所連続で負け越し、四股名を「長良川」に戻した後の同年10月は3勝8敗と負け越し、1928年10月に廃業した。 長良川→金華山→長良川
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 -… 瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 - 1961年(昭和36年)5月18日)は、日本の軟体動物学者。理学博士。3歳下の弟に軟体動物学者の瀧巖をもち、共に多板類などの軟体動物の記載を行った分類学者である。甥に花井哲郎を持つ。 1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。
高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - … 高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - 1969年4月27日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従三位。労働政務次官、衆議院議員(7期)などを歴任した。 栃木県大田原市生まれ。第五高等学校、1923年東京帝国大学法学部政治科卒業。 1924年、鉄道省入省。同期に佐藤栄作(元内閣総理大臣)、山本利三郎(鉄道技術者)、小野哲(元千葉県知事)。東鉄旅客課長、国際観光局ニューヨーク事務所長、タイ国大使館一等書記官、鉄道監、終戦連絡中央事務局参与などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙栃木選挙区に日本社会党から立候補し、初当選。 1955年、第2次鳩山一郎内閣労働政務次官。
晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 … 晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 - 1970年12月23日)は、現在の高知県土佐市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中西 弥太郎(なかにし やたろう)。176cm、86kg。最高位は東前頭12枚目。得意技は突っ張り、右四つ、下手投げ。 祖父や父の影響を受けて子供の時から土地相撲で活躍した。1915年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げていき、1923年1月場所で十両昇進。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の関取であった。十両昇進後は苦戦していたが、1928年5月場所に新入幕を果たした。しかし、幕内は2場所しか務められず、現役晩年は十両で相撲を取り続けた。
青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966… 青木 正(あおき まさし、1898年12月5日 - 1966年4月12日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。自治庁長官(第10・12代)、国家公安委員会委員長(第9代)、衆議院議員(7期)。 環境庁長官の青木正久は息子。 埼玉県北埼玉郡共和村(後の川里村、現鴻巣市)の旧家の生まれ。旧制不動岡中学校、東京農業大学卒業。 大卒後に実家へ戻り、農村の若者の育成指導にあたっていたが、各地で発生する小作争議の遠因に政治があると考え、農民のための政治家を目指してまずは政治記者になるため中外商業新報に入社、整理部長や論説委員となる。父が亡くなったことで1937年に16年勤めた中外商業新報を退社、家業を継ぐために帰郷。
藤原 義江(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月… 藤原 義江(ふじわら よしえ、1898年(明治31年)12月5日 - 1976年(昭和51年)3月22日)は、日本の男性オペラ歌手、声楽家(テノール)。愛称は吾等のテナー(われら-)。 太平洋戦争の戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手。藤原歌劇団を創設した。父親はスコットランド人で貿易商、母親は日本人で琵琶芸者、大阪府で生まれた。 1898年(明治31年)、山口県下関市で貿易会社のホーム・リンガー商会下関支社「瓜生商会」を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リード(Neil Brodie Reid)と、同県で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に出生。母キクの実家がある大阪で生まれたが、ネールは我が子を認知せず、また手切れ金の類を渡すこともなかった為、キクは働きながら九州各地を転々とした。
大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月… 大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月4日 - 1995年(平成7年)1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。農業・大平万太良の二男として生まれる。旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第22連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第22連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、中国駐在(南京、香港)を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年(明治31年)1… 花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年(明治31年)12月3日 - 1995年(平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧侶。東京大学名誉教授。 1898年、石川県金沢市で生まれた。第四高等学校を卒業し、東京帝国大学印度哲学科に進学。卒業後に同大学大学院に進んで日本仏教史を専攻した。 修了後は東洋大学教授に就いた。後に東京大学文学部教授、國學院大學教授を務めた。1935年、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。1942年、学位論文『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』を提出して文学博士号を取得。 1946年2月より、東大教授を務める一方で巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら7人のA級戦犯の処刑に立ち会った。
蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31… 蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31年〉12月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月6日)は、挿絵画家、詩人、アニメーション監督。 抒情画という言葉の考案者。童謡・抒情歌「花嫁人形」の作詞者。 1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。 蕗谷の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 198… 田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)は、日本の教育家、新聞記者、水泳指導者。静岡県浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)出身。 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られる。 田畑は1898年(明治31年)12月1日、浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)にて生まれた。実家は造り酒屋であった。 旧制静岡縣立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社する。
矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日… 矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日 – 1968年(昭和43年)10月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)で、矢野留松の二男として生まれる。1916年(大正5年)栃木県立烏山中学校(のち栃木県立烏山高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)烏山町で矢野自動車商会を設立し、事業の成長に伴い東野自動車株式会社に改組して宇都宮市に進出した。その他、栃木県中央貨物自動車取締役社長、宇都宮自動車取締役社長、芳南交通取締役社長、両毛酸素取締役社長、三共工業取締役社長、茨城県日産自動車販売取締役社長、東野鉄道(のち東野交通)取締役社長、那須高原開発取締役社長、金桝商会取締役社長、東野観光取締役社長、北関運輸取締役社長、東武宇都宮百貨店会長、三共石油会長などを務めた。
岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 19… 岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 1986年8月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家。 愛知県知多郡横須賀町(現・東海市)生まれ。小学校教員を経て、『名古屋新聞』『大阪時事新報』に勤務。小酒井不木の助手として『闘病術』の執筆を手助けする。 後に上京して博文館に入社。『文藝倶楽部』の最後の編集主任となる。1932年の同誌廃刊と同時に退社し、作家活動に入る。 1935年に第1回直木賞の候補となる。 太平洋戦争下の1944年に愛知県有松町(現・名古屋市)へ疎開し、そのまま名古屋に定住する。 戦後は東海地方の企業史執筆が多く、1960年に愛知県文化功労者。 『大阪時事新報』時代には江戸川乱歩と同僚であり、乱歩名義で発表された『蠢く触手』の代作を行ったことがある。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27… 山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、昭和時代の日本の鉱山学者。採鉱学の権威。主な研究分野は炭坑内のガス爆発や炭塵爆発。九州大学名誉教授。 現在の愛媛県伊予市にて生まれる。1922年(大正11年)九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業。1939年(昭和14年)工学博士。同年、母校の九州帝国大学の教授となり、生産科学研究所長、工学部長を歴任。1953年(昭和28年)11月から1961年(昭和36年)11月まで同大学総長を、退官後の1967年(昭和42年)4月から1978年(昭和53年)3月まで九州共立大学の学長を務めた。ほか、1963年(昭和38年)11月に起きた三井三池三川炭鉱炭塵爆発の政府技術調査団団長を務めた。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉1… 岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉12月26日 – 1979年〈昭和54年〉3月29日)は、日本の実業家。 元衆議院議員岸田正記の弟。元衆議院議員岸田文武の叔父。衆議院議員・第100代内閣総理大臣岸田文雄の大叔父。 広島県出身。父は岸田幾太郎。大正10年(1921年)早稲田大学政経科、大正14年(1925年)ハーバード大学各卒業。英独に留学、昭和元年(1926年)帰朝、内務省嘱託、富士瓦斯紡績に勤務、昭和9年(1934年)幾久屋百貨店専務。 宗教は真宗。趣味は庭球、碁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月2… 大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月24日 - 2013年〈平成25年〉1月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。神奈川県川崎市在住していた長寿の女性。2012年(平成24年)12月17日から死去するまで存命中の女性長寿世界一となっていた。 2011年12月2日に佐賀県在住の長谷川チヨノが死去したことに伴い、女性長寿日本一となる。 2012年12月17日、ディーナ・マンフレディーニが死去したことに伴い、114歳359日で女性長寿世界一となる。 2013年1月12日午前12時過ぎ、肺炎のため川崎市高津区の有料老人ホームで死去。7002115000000000000♠115歳19日没。
金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 197… 呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 1977年12月28日)は、日本の西洋古典学者で古代ギリシア・ラテン文学者。 1897年、東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)を務めた呉秀三・みな夫妻の長男として東京市本郷区に生まれた。第一高等学校医科をへて、1919年東京帝国大学医学部に入学したが、1922年に文学部英文科へ転じた。有島武郎を崇敬し、生前しばしば訪ねており、また父と同じく精神科医の歌人斎藤茂吉とも終生交流があった。 1925年に大学卒業した後、東京帝国大学文学部言語学科副手に採用された。1926年にヨーロッパ留学し、古代ギリシア文学・ラテン文学を修めた。1929年に帰国し、文学部講師に昇格。
神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。
河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日… 河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日 - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本の政治家。千葉県出身。 東京帝国大学法学部卒。大学在学中に新人会に参加し、卒業後日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選する。以後、当選12回。 戦後、日本社会党結成に参加するも、戦時中に大政翼賛会の活動に参画していたことから公職追放。追放解除後、1952年の第25回衆議院議員総選挙で社会党右派から政界復帰、1955年10月左右統一の日本社会党結成に参加する。 1956年鈴木茂三郎委員長の下で党国会対策委員長に就任。1958年警察官職務執行法改正法案に成田知巳総務局長と政府の赤城宗徳内閣官房長官への抗議や浅沼稲次郎書記長と与党自民党の川島正次郎幹事長、村上勇国対委員長に抗議した。
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。
室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12… 室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12月15日 - 1972年 <昭和47年> 4月30日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。位階は正五位。 北海道江差町出身、1905年より新潟県巻町(現・新潟市西蒲区)に住む伯母に養育された。このため新潟県出身と表記する資料も存在する。新潟県立巻中学校(現・新潟県立巻高等学校)を経て、1917年に東京薬学校を中退。 1917年3月に網走の回漕店に入社するも、同年9月に親戚が務める樺太の新聞社・樺太日日新聞社に転職し編集局社会部に配属される。 1918年に札幌で泊まっていた宿で記者募集の広告を見たことをきっかけに、北海タイムス社(現・北海道新聞社)に入社。