嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月1… 嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月15日 - 1933年(昭和8年)11月30日)は、日本の私小説家。山口県吉敷郡仁保村(現在は山口市仁保)出身。わずか6年間に約30の短編小説を書いたのみだが私小説作家として当時高い評価を得た。 人生問題に悩み、近角常観に傾倒。妻の婚前の男関係に悩んだ末、妻子を捨てて、愛人と駆落ちして上京。『不同調』記者となり、同誌に発表した『業苦』『崖の下』で注目された。葛西善蔵に強く影響され、『途上』で文壇に地位を確立するも、翌年病没。厳しい倫理観を基調に、自己を告白した独自の作風で、いわゆる破滅型私小説の代表的存在と目された。 1897年(明治30年)12月15日、父・若松、母・スキとの間に生まれる。
斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)… 斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)12月15日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。斎藤と表記されることが多い。 宮崎県宮崎郡住吉村(現宮崎市)で、斉藤東作の四男として生まれる。1922年(大正11年)東亜同文書院商務科を卒業(第20期生)した。 東京中央金庫を経て天津隆和公司に入社。1927年(昭和2年)天津正栄洋行を設立した。その後、満州国の創立に尽力し、同国国務院総理秘書、満州日日新聞社顧問、大連日日新聞社顧問などを務めた。また1940年(昭和15年)財団法人宮崎県斉藤奨学会を設立し会長に就任した。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け宮崎県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12… 柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月2日)は日本の教育者、実業家、財界人。位階勲等は勲二等正四位。桐蔭学園の創立者。 筑波大学(旧東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。 理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。 未来ある若者を思い奨学金制度、財団法人柴田育英会(現公益財団法人柴田育英会)を創立。 茗渓会会長、桐蔭学園初代理事長、茗渓学園初代理事長、科学技術学園理事長、柴田育英会初代会長、筑波学都資金財団各理事長、紫峰会初代会長、都教育委員をつとめる。
今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月… 今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月15日 - 1980年(昭和55年)5月17日)は、大正から昭和期の内科医、右翼活動家、政治家。衆議院議員、医学博士。 富山県射水郡新湊町(高岡市、新湊町、新湊市を経て現射水市)で生まれる。1920年(大正9年)長崎医学専門学校(のち長崎医科大学、現長崎大学)を卒業し、その後、京都帝国大学医学部で研究した。 別府市の朝見病院長を経て、1930年(昭和5年)東京市京橋区で開業した。大川周明の雑誌『満蒙』に執筆し、大川の治療を行ったことなどから神武会に加盟した。1936年(昭和11年)大日本青年党に加わり、その後、大日本赤誠会に改称。また、日本医師会理事、日本医療団評議員、富士工業社長などを務めた。
真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 … 真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 - 1944年3月7日)は、宮城県栗原郡栗駒町(現栗原市)出身で尾車部屋、峰崎部屋、片男波部屋、伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は石川 三郎治。174cm、85kg。最高位は東前頭5枚目。 1916年5月尾車部屋より初土俵、その後兄弟子の三杦磯と行動をともにした。1920年5月十両昇進。1922年1月入幕し、この場所は優勝旗手を務めた。立合いの駆け引きがうまく、よく言えば「後の先」、悪く言えばペテン立ちの傾向があった。1927年10月に廃業してブラジルに渡り、料理店を経営。またブラジル相撲協会を立ち上げた。 陸奥ノ山→真砂石(1924年5月)
潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1… 潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1937年11月6日)は、青森県西津軽郡木造町(現・つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 義夫。現役時代の体格は身長170cm、体重90kg。最高位は西前頭11枚目(1930年1月場所・3月場所)。得意手は突っ張り、左四つ、寄り、足癖。 旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業し、小学校の代用教員をしていたという、角界では異色の経歴を持つ。遠縁に幕内力士立汐祐治郎・立汐唯五郎の兄弟がいた。3代高砂(元大関2代朝潮)に入門して1917年1月場所で初土俵。6年後の1923年5月場所に十両昇進、1928年3月場所で入幕した。
大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 … 大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 - 1954年11月30日)は、日本の学者。専門は、政治心理学。関西学院大学教授、法学部長、学長を歴任した。 1897年、滋賀県大津市に生まれる。関西学院専門部文学部社会学科を卒業後、東北帝国大学法文学部に進学し、1926年卒業。同年4月に、関西学院専門部教授に就任し、政治学・政治思想史を担当した。 1934年、大学昇格に際して法文学部助教授に就任。1937年、教授に昇任。1947年、新制大学法学部に移り、第2代法学部長に就任。1951年4月には学長に就任するが、学長在任中の1954年11月、病気のため急逝した。
滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 19… 滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 1975年3月5日)は、日本の地球物理学・気象学者。京都大学理学部名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。日本気象学会関西支部創設者・元支部長。日本農業気象学会元近畿支部長。河川水温調査会熱収支部会元会長。微細気象学・工業気象学の第一人者の一人。 専門は、地球物理学・気象学/気候学(特に微細気象学・工業気象学)、大気科学・水理学・農業気象学。 1897年神戸市生まれ。第二神戸中学校を卒業後、中央気象台練習部を経て、1916年中央気象台臨時雇となり神戸測候所勤務。1924年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(指導教授:地球物理学のパイオニアで京都大学阿武山観測所初代所長の志田順)。
柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月… 柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。江原道知事、咸鏡南道知事。 柳生繁一の長男として愛知県に生まれ、1900年(明治33年)家督を相続する。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し翌年、高等試験に合格した。同年、朝鮮総督府に出仕し、平安南道属、平壌専売支局長、全羅南道警察部長などを経て、1940年(昭和15年)10月、京畿道内務部長に就任する。その後、府事務官総督官房会計課長を経て、1941年(昭和16年)11月、江原道知事に任じた。のち咸鏡南道知事となった。1945年(昭和20年)退官した。
堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12… 堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。
森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 195… 森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 1951年7月15日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家・劇作家、演出家である。山本 正夫(やまもと まさお)という筆名もある。 1897年(明治30年)12月6日、兵庫県神戸市に生まれる。 非常に裕福な商家の家庭に長男として生まれ、育てられた。父の金蔵の代から、大沢商会の大沢善夫(のちのゼーオー・スタヂオ社主)の祖父とも親交があった。長じて東京に移り、慶應義塾に進学する。1918年(大正7年)ころ岡本綺堂に師事、帝国劇場での上演台本等を書き、同人誌『群像』を主宰する。1920年(大正9年)、当時慶應義塾の学生でのちの映画監督・山本嘉次郎やのちの脚本家・小林正の「白夜会」と協力し、栗原トーマスの講演会等を行う。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 19… 小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 1967年〈昭和42年〉12月29日)は、日本の俳優。本名は小川 寅次。 1897年(明治30年)12月1日、東京市浅草区蔵前に生まれる。5歳のときに新派の舞台で初舞台を踏み、弟の小太郎と共に新派の名子役といわれる。のちに新国劇に入団。沢田正二郎に芸の細かさを認められ、『三等水兵の日記』『髪』などでのコミックな役や、『国定忠次』などの老爺役を得意として大幹部俳優となる。戦後の1946年(昭和21年)に退団して新国民座を主宰するが、経済的事情から解散する。 1951年(昭和26年)、映画俳優に転向し、大映の『万華地獄』に出演して以来、各社の作品に出演。
薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 196… 薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 1966年8月4日)は、日本の政治家・新聞記者。衆議院議員。福井県おおい町出身。 地主・薩摩三蔵の二男。第三高等学校を経て、1922年に拓殖大学支那語科を卒業。学生時代から猶存社に出入りし、拓大魂の会を組織した。 1923年から1928年まで大東文化協会幹事となり、同協会の副会長であった政友会代議士・小川平吉の秘書役を務めた。 国民新聞に入社し、経済部長、主筆、論説委員を歴任した。 海軍大将の加藤寛治とは親戚であったことから、ロンドン海軍軍縮会議の結果をめぐって表面化した統帥権干犯問題の際に、北一輝らの民間右翼と加藤ら海軍艦隊派とのつなぎ役となる。
大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月3… 大川 博(おおかわ ひろし、1896年〈明治29年〉12月30日 - 1971年〈昭和46年〉8月17日)は、日本の実業家、映画製作者、プロ野球オーナー。東映初代社長。日本教育テレビ (NET) 初代会長、2代目社長。 7人兄姉の末っ子として、新潟県西蒲原郡加奈居村大字羽黒(松長村、燕市の一部、中之口村を経て、現在の新潟市西蒲区)に生まれる。先祖は戦国時代の勇将、村上義清の家臣だったといい、江戸時代には庄屋、明治期には戸長(村長)を務め、村では名家として扱われていた。しかし、父が理財に疎かったこともあって家計は次第に苦しくなった。 1913年(大正2年)、15歳の時、上京して上野の岩倉鉄道学校に入学した。
楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12… 楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12月29日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、大正~昭和時代の中国哲学者。楠本海山の子として生まれ、祖父に楠本端山を持つ。
高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 19… 高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日)は、日本の俳優である。本名高木 英二(たかぎ えいじ)。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる。 1896年(明治29年)12月28日(12月12日)、兵庫県神戸市に生まれる。 東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。
内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)1… 内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)12月27日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の魚類学者。 東京神田小川町駿河下出身。第一高等学校卒、東京帝国大学農学部水産学科を卒業。 卒業後は同大学講師、朝鮮総督府水産試験場技師をへて、1942年九州帝国大学農学部教授となる。戦後、1947年に『朝鮮魚類誌』を九州大学に提出して農学博士の学位を取得。九州大学付属水産実験所所長として勤務した。定年退官、名誉教授。 魚類の生活史を研究テーマとした。 内田清之助、内田勇三郎は従兄。
久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 -… 久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 - 1986年7月31日)は、日本の宗教社会学者・仏教学者、立正大学仏教学部元教授。名誉教授。日蓮宗の僧。 新潟県生まれ。1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1926年、ロンドン大学で社会学を専攻。1930年、立正大学文学部教授。1960年、「宗教集団の社会学的研究」により、日本大学文学博士。1973年、立正大学名誉教授。
宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1… 宮入 近治(みやいり ちかじ、1896年12月21日 - 1963年6月24日)は日本の実業家、生物学者。 長野県埴科郡五加村(現千曲市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て1921年千葉医学専門学校卒業。1933年、改組後の千葉医科大学衛生学教室に入り、腸内菌の研究に携わる。1935年、「水素イオン濃度の腸内菌に及ぼす影響」で医学博士。1940年研究中に、腐敗菌に対して強力な拮抗現象を示す芽胞菌を発見し、これを「宮入菌」と命名し、整腸剤ミヤリサンの製薬特許を受ける。1947年ミヤリサン製薬を設立し、初代社長に就任する。1959年「整腸剤の製造法」について社団法人発明協会から発明賞を受賞。
寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月… 寺田 甚吉(てらだ じんきち、1896年(明治29年)12月21日 - 1976年(昭和51年)1月24日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員。寺田甚与茂の長男。妻は元女優の筑波雪子。正四位勲二等、研究会所属。職業野球チーム・南海軍(現在の福岡ソフトバンクホークス)創設者・初代オーナー。 大阪府出身。慶應義塾大学卒業。甚与茂の死去後は、寺田合名会社社長をはじめ、和泉銀行頭取、南海鉄道、岸和田紡績(後の大日本紡績、現在のユニチカ)、日本純生食品工業各社長を歴任した。南海鉄道社長時代には阪急電鉄の小林一三と阪神電鉄取締役の細野躋に誘われる形で現在の福岡ソフトバンクホークスの源流に連なる職業野球チームの南海軍を創設し、初代オーナーを務めた。
福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1… 福田 邦三(ふくだ くにぞう、1896年12月20日 - 1988年10月17日)は日本の生理学者である。旧名川村邦三。東京大学名誉教授、山梨大学名誉教授でもあった。実兄は川村清一と川村多実二。 岡山県津山中学校(旧制)卒業。 東京帝国大学医学部卒、1932年医学博士。論文の題は「蛙の筋が全困憊に至るまでに遊離するエネルギーに就て(英文) 」。名古屋帝国大学教授、戦後東京大学医学部教授、57年定年退官、名誉教授、のち山梨大学教授・学長。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。
尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20… 尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20日 - 1971年(昭和46年)7月8日)は、小説家。 作家活動は短かったが、今なお斬新さを失わぬ彼女の作品は、近年になり再評価が進んでいる。 鳥取県岩美郡岩井村(現・岩美町)にて教員の父長太郎と母まさ(西法寺住職の三女)との間に1896年(明治29年)、長女として生まれた。兄3人、妹3人の7人兄弟姉妹の中で育つ。まもなく父の転勤のため鳥取市に移り、1903年(明治36年)に醇風尋常小学校に入学した。1905年(明治38年)自宅に近い面影尋常高等小学校尋常科三年に編入し、1907年(明治40年)同校尋常科四年を卒業した。そして引き続き高等科に進学し、1909年(明治42年)3月に二年の課程を首席で修了した。
大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1… 堀江 邑一(ほりえ むらいち、1896年12月18日 - 1991年11月24日)は、日本の経済学者。 専攻はソ連経済、マルクス経済学。妻は日本共産党衆議院議員の苅田アサノ。日ソ協会(現日本ユーラシア協会)顧問などを務めた。 徳島県の出身。京都帝国大学経済学部を卒業後、同大大学院に進学し河上肇の一番弟子として彼の薫陶を受ける。1926年に高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)教授となり、翌年ドイツへ留学しベルリン社会科学研究会(後のベルリン反帝グループ)に参加、ドイツ共産党へも入党した。また、1933年には上海の東亜同文書院に留学するが、この時高商時代の政治活動を理由に検挙、留学から半年足らずで内地へ戻ると共に休職。
東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月… 東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月15日 - 1986年(昭和61年)1月11日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員。 石川県出身。東栄松の三男として生まれる。1923年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 萬朝報記者、読売新聞記者、國民新聞記者、拓務省嘱託、日満醸造社長、逓信大臣秘書官、東京市会議員などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて石川県第一区で民主党から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、民主自由党総務に就任。 炭鉱国管疑獄により逮捕され、1950年4月21日、東京地方裁判所で、懲役4ヶ月の判決を受けた。その後、控訴して争い、1951年5月22日、東京高等裁判所で無罪となり判決が確定した。
山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1… 山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1978年9月22日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸士卒(30期)、陸大卒(39期)。
足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1… 足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1980年10月10日)は、歌人、劇作家、小説家。千葉県生まれ。本名・直太郎。別号・高梨直郎。早稲田大学文学部国文科卒。橋田東声の『珊瑚礁』に拠って歌人として出発、次第に戯曲、小説に手を染める。聚芳閣の経営者足立家に婿入りする。妻の養兄が足立欽一。
本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1… 本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1973年12月16日)は、日本の作詞家。新潟県佐渡島出身。 1896年(明治29年)、新潟県加茂郡新穂村(現在の佐渡市)に生まれる。1918年(大正7年)に東京府青山師範学校を卒業。 東京都内で45年にわたって教員を務める傍ら作詞の懸賞公募でたびたび入選し、戦前の懸賞歌謡界では「本間さんをしらない者はモグリといわれてもしかたがない」と評される存在であったと言われる。戦後は作詞と並行してふるさと詩社発行の雑誌『ふるさと』を中心に詩を発表している。 1973年(昭和48年)死去。享年78(満77歳没)。
久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1… 久山 秀子(ひさやま ひでこ、1896年12月11日 - 1976年12月5日)は、日本の探偵小説家。 覆面作家であり、女性名義で作品を発表していたが、実際は男性である。本名は片山 襄(かたやま のぼる)、のち改名し芳村 升(よしむら のぼる)。別名義に久山千代子、富田達観、片山秀。 代表作は、女スリ師の隼お秀(はやぶさ おひで)こと久山秀子を主人公とする、「隼お秀」シリーズ。 1896年(明治29年)12月11日生。本籍地は東京都目黒区中目黒とされているが、出生地も同じかどうかは不明。出生名は片山襄(かたやま のぼる)で、のちに芳村家の婿養子となり、芳村升(よしむら のぼる)と改名した。本人の述懐によれば、下町生まれの旗本直参の跡取り息子だったが、長唄の師匠の家に婿養子に入ったという。
竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11… 竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11日 - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の著作家、政治家。衆議院議員。 千葉県下埴生郡八生村大竹(印旛郡八生村を経て現成田市)で生まれる。1918年、東京外国語学校露語科を卒業。朝鮮銀行浦塩支店に勤務。その後、報知新聞記者、東京毎夕新聞記者、国士舘高等拓殖学校講師、朝鮮林業協会附属北方産業研究所主事などを務め、著述家としても活動した。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で千葉県第二区から立候補して当選。以後、27回総選挙まで連続5回当選した。この間、衆議院文部委員長、第3次鳩山一郎内閣の文部政務次官、自由党政調会文教部長、同文化部長、同憲法調査会副会長などを歴任した。
手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10… 手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10日 - 昭和38年(1963年)4月18日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位。郵政大臣(第18代)、参議院議員(2期)。 鳥取県西伯郡富益村(現米子市富益町)の農家に生まれた。手島菊松の二男。 旧制米子中学校(現米子東高等学校)、第四高等学校を経て、大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部卒業。逓信省に入る。 昭和12年(1937年)経理局長、昭和15年(1940年)管理局長、昭和16年(1941年)航空局長官、同年10月逓信次官に任ぜられ航空局長官事務取扱を命ぜられる。昭和18年(1943年)10月退官。 戦後は実業界に入り、昭和20年(1945年)国際電気通信社長、日本郵便逓送顧問などを歴任した。
林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日… 林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、東京都出身の日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。なお、孫に元衆議院議員の林潤がいる。
田中 幾三郎(たなか いくさぶろう、1896年(明治29年)… 田中 幾三郎(たなか いくさぶろう、1896年(明治29年)12月10日 - 1967年(昭和42年)11月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 三重県北牟婁郡尾鷲町矢ノ浜町(現尾鷲市)で生まれる。代用教員などを務め、苦学して1920年(大正9年)日本大学専門部法律科を卒業。高等試験司法科試験に合格し弁護士を開業した。内閣拓殖局嘱託、東京地方裁判所司法委員、民主法曹協会会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙に三重県第2区から右派社会党公認で出馬したが落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙に出馬して初当選。以後、第29回総選挙まで再選され、衆議院議員を連続4期務めた。
池田 亀鑑(いけだ きかん/戸籍名・いけだ かめのり、明治2… 池田 亀鑑(いけだ きかん/戸籍名・いけだ かめのり、明治29年〈1896年〉12月9日 - 昭和31年〈1956年〉12月19日)は、日本の国文学者。小説家。号は桃園(とうえん)。平安文学専攻で、特に『源氏物語』の研究(源氏学)で知られる。1948年(昭和23年)、学位論文『古典の批判的処置に関する研究』により、論文博士(東京大学)。兼任で多くの学校で教壇に立った。 名前の読みについて、一般には「きかん」とされているが、「かめのり」とする資料もある。 1896年(明治29年)、鳥取県日野郡福成村(現・日南町)で、宏文(父)と母・とら(母)の間に生まれる。1916年(大正5年)に鳥取師範学校を卒業し、溝口尋常高等小学校訓導。
石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12… 石橋 雅義(いしばし まさよし、1896年(明治29年)12月7日 - 1978年(昭和53年)9月18日)は、昭和時代の日本の化学者。専門は分析化学。 千葉県出身。1921年(大正10年)京都帝国大学理学部化学科卒業。京都帝国大学講師、理学部助教授、ドイツ留学を経て、1936年(昭和11年)同大教授となる。1959年(昭和34年)定年退官し、同大名誉教授。その後、近畿大学教授、1961年(昭和36年)から1967年(昭和42年)にかけて金沢大学長、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)にかけて奈良大学長を歴任。のち奈良大学名誉学長。ほか、海洋化学研究所長、同理事長、日本分析化学会会長、日本学術会議会員を務めた。
郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù… 郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù Dá-fū、1896年12月7日 - 1945年9月17日)は、浙江省富陽県出身の中国の近代の小説家、文章家、詩人。達夫は字で、本名は郁文 (いく ぶん)。 郁達夫は本名を郁文といい、浙江省富陽県満洲街(現在の達夫街)のインテリ一家の三男(郁家19世)として生まれた。(長兄 郁華、次兄 郁浩) 3歳の時に父が亡くなり、家が貧しくなったが7歳の時に塾に入り、9歳の時には賦詩を作るようになった。また、富陽県立高等小学に学び、之江大学予科に進学し、杭府中学に入学した(徐志と同学年である)。1913年長兄の郁華に従って、日本に留学した。ここまでの郁達夫の生活は、自伝「わが夢わが青春」に詳しく描かれている 。
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6… 坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、日本の学者、評論家。外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫妻の娘として1896年(明治29)に生まれる。
小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12… 小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12月6日 - 1951年(昭和26年)9月26日)は、日本の法学者、医学者である。 神奈川県に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部に入学する。1923年(大正12年)に卒業後は、法医学の研究に専念し1926年(大正15年)に愛知医科大学の助教授となり後に教授に昇格した。 その後は名古屋医科大学(現在の名古屋大学医学部)を経て、校名変更により1939年(昭和14年)から1948年(昭和23年)名古屋帝国大学にて教鞭を執る。勤務中に医学博士を取得し、第22代日本法医学会の会長に就任し、指紋の研究を主に鑑識科学の研究に専念した。この影響もあり、大学退職後の1949年(昭和24年)に発生した下山事件の衆議院法務委員会に参考人として招致され事件解決に導いた。
北大路 信明(きたおおじ のぶあき、 1896年(明治29年… 北大路 信明(きたおおじ のぶあき、 1896年(明治29年)12月3日 - 1973年(昭和48年)3月15日)は、昭和期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。 男爵・北大路実信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)11月15日に男爵を襲爵。 旧制学習院高等科を経て、1923年(大正12年)3月に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。大日本麦酒に入社し、名古屋支店員となった。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973… 安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973年7月20日)は、医学者、随筆家。 本名・宮本璋(しょう)。東京神田に小児科医の子として生まれる。第二高等学校、1922年東京帝国大学医学部卒。1927年東京帝国大学助教授。1936-1938年ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所に学ぶ。戦時中はジャワに派遣。1947年東京医学歯学専門学校教授、1949年東京医科歯科大学教授、1956-1959年医学部長。1962年定年退官、名誉教授。1971年正四位勲三等旭日中綬章受勲。安騎東野の筆名で随筆を書いた。
鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日… 鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日 ‐ 1980年(昭和55年)1月24日) は、大正末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 宮崎県児湯郡上穂北村穂北(西都町を経て現西都市穂北)で、鹿島栄三郎の三男として生まれた。1923年(大正12年)東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業した。 宮崎県、大阪市の小学校訓導、宮崎県立宮崎工業学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)長兼教諭、青年学校視学委員、宮崎県教育会長、同県建設業協会長、国土計画審議会委員、上代日向研究所委員、日本教育会宮崎県副支部長、宮崎県教育委員長などを務めた。 1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
蓮見 重治(はすみ しげはる、1896年(明治29年)12月… 蓮見 重治(はすみ しげはる、1896年(明治29年)12月2日 - 1988年(昭和63年)1月26日)は、日本の法律家、法学者。弁護士、元仙台高等裁判所判事、元東北学院大学教授。 1896年(明治29年)12月2日に栃木県那須郡境村に生まれる。1924年(大正13年)に法政大学専門部法律科を卒業する。 1925年(大正14年)に52号試験に合格し、翌年弁護士を開業する。1930年(昭和5年)に、裁判官に転進し、台湾総督府法院判官に任官する。 仙台高裁判事を最後に退官し、退官後は東北学院大学法学部教授(専門は刑法)に就任する。 1988年(昭和63年)1月26日、老衰により死去、91歳。 1970年(昭和45年)に勲二等瑞宝章を受章する。
北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12… 北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12月1日 - 1973年(昭和48年)9月1日)は、昭和時代の日本の建築家、数寄屋(茶室)建築学者。東京高等工業学校 (現・東京工業大学)卒。大阪府出身。 大阪府南河内郡北八下村(現・堺市北区の一部および松原市の一部)の北尾吉郎兵衛(浄郭)の四男として生まれる。 父は社寺・楼閣建築に携わるも、春道の9歳の時(1904年・明治37年)には本願寺門跡の僧侶となったため、春道も同時に本願寺の衆徒となった。また春道の初名は春吉であったが、同年に名を改めている。 春道は上京し東京高等工業学校 (現・東京工業大学)に入学、伊東忠太のもと建築設計の実務に携わり、伊東のヨーロッパ旅行にも同行した。
蜂須賀 年子(はちすか としこ、1896年12月 - 197… 蜂須賀 年子(はちすか としこ、1896年12月 - 1970年12月29日)は、東京都出身のデザイナー。教育者。父は蜂須賀正韶。母は筆子。外祖父は徳川慶喜。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1… 大塚 好治(おおつか こうじ、1895年12月27日 - 1979年4月25日)は、日本の化学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元応用化学教室担当。 専門は、無機工業化学・分析化学・物理化学。 鳥取県出身。1917年旧制大阪高等工業学校(のちの大阪大学)卒業。同校助手となり、1929年旧制大阪工業大学(のちの大阪大学工学部)講師。1933年大阪帝国大学工学部応用化学科助教授などを経て、1952年大阪大学大学院工学研究科にて工学博士(大阪大学)。1958年大阪工業大学工学部応用化学科教授、応用化学教室を担当。1977年大阪工業大学名誉教授。1979年逝去。 大阪工業大学工学部応用化学科で、1958年の同学科開設時より18年の長きに渡り教鞭を執り、同学科初期の応用化学(特に、無機工業化学・分析化学・物理化学)の研究・育成に貢献した。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。