東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12… 松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。 以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 -… 北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 - 1954年10月16日)は、日本の政治家。衆議院議員を通算4期務めた。 奈良県出身。関西大学専門部法律科卒。小学校訓導、函館区裁検事を歴任。その後弁護士となる。 1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で立候補して初当選。その後民政党を離党し、1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす。 院内会派の第一議員倶楽部に所属し、1940年に北浦がかつて所属していた民政党の先輩議員にあたる斎藤隆夫が反軍演説で除名された際にも除名に反対票を投じている。この時除名反対票を投じたのは北浦を含めて7名であり、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は北浦以外では投票にあたり民政党を離党した岡崎久次郎のみであった。
村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 … 村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 - 1958年1月26日)は、日本の陸軍軍人。1934年に満洲で起きた人質事件の解決に貢献したことで知られる。 愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後、旅順や大連でも働いた。 吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁されたときに、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2… 芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2日 - 1948年(昭和23年)5月18日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧制専門学校経営者。前名は茂。 芳賀善一郎の二男として福岡県遠賀郡(現北九州市)に生まれ、芳賀善次郎の養子となり、1927年(昭和2年)前名を改め翌年家督を相続する。福岡県立東筑中学校を卒業し、1909年(明治42年)八幡市役所に奉職する。同市農会副会長、福岡県消防協会理事、九州土地相談役などを歴任する。 のち、福岡県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)3月8日から同年9月28日まで在任した。この間、同年ジュネーブで行われた第28回列国議会同盟会議やベルギーのオーステンデで行われた万国議院商事会議評議員会に出席した。
伊庭 孝(いば たかし、1887年(明治20年)12月1日 … 伊庭 孝(いば たかし、1887年(明治20年)12月1日 - 1937年(昭和12年)2月25日)は、日本の俳優、演出家、作詞家、音楽評論家。佐々紅華、田谷力三、藤原義江らとともに「浅草オペラ」を築き上げた。 1887年(明治20年)12月1日、東京市神田駿河台に雑誌社経営者の伊庭真の次男として生まれる。幼少期に両親を相次いで亡くし、本家である心形刀流宗家当主伊庭想太郎の養子となる。番町小学校から東京府立一中に進学し、谷崎潤一郎らと同期だった。14歳のとき、養父の想太郎が刺殺事件を起こしたため府立第一中学を中退し、実兄で医師の伊庭秀栄がいた大阪に移り、天王寺中学に転校する。折口信夫や緒方章らと親交を結び、校友会雑誌『桃蔭』に中学生とは思えぬ端麗な随想を幾編も寄稿した。
松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1… 松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1日 - 1968年(昭和43年)7月30日)は、熊本県出身の日本の農業研究者・教育者・著述家である。 農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。
伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-194… 伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-1945年5月)は、日本の獣医師、朝鮮総督府官僚、朝鮮総督府道獣医官。 埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第二高等学校を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。 1920年、青島守備軍民政部技師となる。1925年、朝鮮総督府道獣医官仁川牛検疫所長となる。1927年以降、朝鮮総督府道獣医官兼朝鮮総督府道技師、移出牛検疫所長、京畿道警察部衛生課技師、警務局衛生課、獣疫血清製造所長、家畜衛生研究所長、警務局家畜防疫に関する専任技師を歴任する。 1936年、朝鮮総督府警務局家畜衛生主任道獣医官となる。 移出牛の血清診断の強制制度を緩和するための交渉の際、農林省に派遣され折衝した。
園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉… 園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉12月31日 - 1968年〈昭和43年〉8月25日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は耕作(後に穆に改名)、字は清卿、号は湖城の他に平盦がある。 滋賀県大津市出身。京都の藤井有鄰館の主事となる。書画の鑑定に精しく中国文物の収集を任されている。富岡鉄斎・内藤湖南らと交流し、森琴石らと平安印会を興した。門弟に加藤慈雨楼、水野恵らがいる。園田は古官印の研究をする時、官印には役人のさまざまな人生が投影されていることに思いを馳せ、香を焚きながら印譜作成に臨んだことが伝えられ記されている。
田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日… 田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日 - 1956年〈昭和31年〉5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選4回)。日本の道路法の基礎を築いた。 京都府船井郡園部町(現・南丹市)生まれ。京都府士族・田中勝次の長男。幼くして父を失う。1910年、立命館大学専門部法律科卒業。京都府庁、兵庫県庁、内務省等に勤務した。その後、臨時震災救護事務局事務官兼鉄道省事務官をつとめた。一貫して道路・交通・治水行政に従事した。 1936年には第19回衆議院議員総選挙に立憲政友会より立候補し初当選。その後も公職追放の期間を挟んで戦前2回(京都府第2区)、戦後1回(京都2区)、計4期に渡り国政に携わるなど活躍。
蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12… 蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12月27日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人。衆議院議員(3期)。旧姓・橘。 大阪府川辺郡、のちの小田村(現尼崎市)の橘家に生まれ、1917年(大正6年)蔭山しな の養子となり、1918年(大正7年)家督を相続した。 1907年(明治40年)陸軍士官学校(19期)卒。卒業後、京都帝国大学に派遣され、政治、経済学を学ぶ。陸軍歩兵少佐に進み大阪歩兵第8連隊大隊長となり退官した。その後、全国土地区画整理組合顧問、三和特殊製鋼、阪神急行自動車、日ノ丸無尽各(株)重役、(株)日本造機所社長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選。
渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉… 渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉12月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の二男。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の二男で、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄、渋沢篤二の弟、渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に学んだが、病を得て半途退学し実業界に入った。 石川島飛行機製作所社長、国産電機相談役、国際産業、十勝開墾、仏国通商、浅野セメント各取締役、日本醋酸製造、大島製鋼、渋沢同族、浅野セメント、東京石川島造船所各監査役、帝国飛行協会理事などをつとめた。 1914年、分家した。趣味は運動。住所は東京市滝野川区西ヶ原町。
石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 … 石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 - 1962年1月7日)は、日本の舞踊家、ダンサーである。いずれも作曲家の石井歓、石井眞木は息子、石井五郎は弟。また現代舞踊家の石井登は孫。舞踊家の石井武は曾孫である。 1886年(明治19年)、秋田県山本郡下岩川村(のちの山本町、現三種町)に石井龍吉・ハツ夫妻の長男として生まれた。1893年(明治26年)、下岩川尋常小学校に入学、吃音の友人の口真似をしているうちに自らも吃音となる。1897年(明治30年)に森岳尋常小学校の高等科に入学したが、友人との交流を優先して学業を怠るようになった。これを問題視した父の龍吉は、石井を能代港町の渟城尋常高等小学校の高等科に転校させ、能代の親戚の家から通学させた。
青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 -… 青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 - 1938年1月17日)は、日本の華族(子爵)、教育家。青山家当主。 篠山藩藩主青山忠良の子である青山忠惇の二男として1886年(明治19年)に生まれる。はじめは「惇揚」と名乗った。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。佐賀県立鹿島中学校、私立大倉商業学校、奈良県立高田高等女学校、長野県立上田高等女学校などで教鞭を執った。1934年(昭和9年)に旧丹波篠山藩主・青山家を継ぎ、名を「忠揚」と改め、郷土の育英に尽力した。1935年(昭和10年)に襲爵し、子爵となった。
尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月… 尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月25日 - 1960年〈昭和35年〉3月24日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。初名・百平。 佐賀県藤津郡古枝村(現鹿島市)で尾崎重吉の三男として生まれる。1898年頃、父の移住先北海道常呂郡常呂村に来住。すぐに働きはじめ、農業、出前持ち、馬橇の御者、馬喰などを経て、料理屋経営を行う。 1916年頃、釧路新聞通信所記者となる。北見実業新聞記者を経て、1920年、札幌に出て休刊中の『北海道報』を継承し『北海道新聞』(現『北海道新聞』とは異なる)に改題して経営を行う。同年4月、裁判所の許可を得て「天風」と改名した。その後、常呂郡置戸村の公有林伐採事件で検挙されて『北海道新聞』が休刊となり、釈放後上京して、雑誌「建設ノ日本」社長となった。
村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月… 村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月24日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。衆議院議員、福島県知事、郡山市長、川崎市長、会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。位階は従四位。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。阿部又吉の五男として生まれ、村井半之助の養子となる。会津中学、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福島県属兼警部となる。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、新潟県東蒲原郡長、同三島郡長、同理事官、長野県警察部長、大分県警察部長、熊本県書記官・警察部長、山形県書記官・内務部長、大阪府書記官・警察部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(… 久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日 - 1925年(大正14年)4月20日)は、日本のピアニスト。文部省からの辞令で音楽留学したウィーンで投身自殺した。 琴や三味線、長唄などの邦楽が盛んだった明治時代にピアニストとして活躍し、「音楽の都」とされるオーストリア・ウィーンで演奏を果たしたことから「日本初のピアニスト」と称される[リンク切れ]。 1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日に滋賀県滋賀郡膳所町馬場(現:滋賀県大津市馬場)で質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれる[リンク切れ]。3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負う。
三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月… 三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 富山県上新川郡飯野村(のち広田村飯野、現在・富山市)出身。三辺長三郎の三男として生まれる。富山中学、第四高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り埼玉県属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務属となり警保局に配属。その後、大正3年(1914年)に愛媛県視学官、大正5年(1916年)に大阪府視学官、大正8年(1919年)に内務省地方局事務官となり、地方局市町村課長・都市課長・行政課長などを歴任。
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉1… 西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1964年〈昭和39年〉12月26日)は、日本の国史学者。本名・直二。京都大学名誉教授。 1886年、大阪府西成郡清堀村(現・大阪市天王寺区)で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、史学科国史学専攻1期生として内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らの下で学んだ。1910年に卒業。同年、同大学大学院に進み、日本文化史を専攻。 1915年、京都帝国大学講師に就いた。1919年に助教授、1924年に教授昇格。1924年に学位論文『王朝ノ庶民階級』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。 政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任。
赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12… 赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉3月12日)は、日本の宗教学者。 1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗の徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し、3年の時には総代であった。 1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦、宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立。
額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1… 青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1971年4月21日)は日本の実業家。太陽石油の創業者。 明治19年12月21日高知県高岡郡高岡村(現土佐市)で生まれる。姉の嫁ぎ先に丁稚奉公をしたことがきっかけで商売の道に入り、明治41年に自身の名字を入れた「青木石油店」を高岡に開業。天秤棒を担ぎながら灯油を売り歩く日々を送る。しかし大正4年に経済の発展から将来性が見込めるとして、経営の拠点を愛媛県八幡浜に移し、石油製品の小売業へ転換。さらに独自の精製方法やオリジナルブランドを開発し、販路拡大を始める。大正9年に原油輸送の要であるタンカーを木製ながら自前で建造し、石油元売りに打って出る。
山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月2… 山内 亮(やまうち りょう、1886年(明治19年)12月20日 - 1960年(昭和35年)7月26日)は、日本の政治家。青森県八戸市の5代目市長。終戦直前の1945年8月、米軍による空襲の予告を受けて全市民に総退去を命じた。 戦争末期に青函連絡船を撃沈したハルゼー機動部隊により1945年(昭和20年)7月14日に八戸・三沢が空襲を受け、日東化学工業や尻内駅が被害を受けた。さらに8月5日にB29爆撃機が八戸市に飛来し八戸空襲を予告、8月9日にハルゼー機動部隊により八戸港にいた海防艦・稲木が撃沈された。こうした状況を受け、空襲や艦砲射撃による攻撃を見越し、8月10日に八戸市中心市街地からの総退去命令を決断した。
喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月2… 喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月20日 - 1947年〈昭和22年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位[要出典]勲一等功四級。 滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。
橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1… 橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1930年12月20日)は、日本の歌人・経済学者。号は東声とも書く。高知県出身。元妻は同じく歌人で、『平城山』の作詞者でもある北見志保子。 高知県中村市(現・四万十市)有岡の農家の二男として生まれる。本名・丑吾。宿毛小学校高等科時代に、一年上の川島朝野(後の北見志保子)と出会う。中村中学時代に短歌をはじめ、雑誌『青年』に投稿。第七高等学校在学中に『明星』の社友となり、与謝野鉄幹に東聲の号を授けられる。級友には中村憲吉、堀内卓造、森園天涙など。東京帝国大学英文科に進学するが、後に経済学科に転科して卒業。東京帝大進学後はいったん作歌から離れ、小説・新劇にも興味を持ち、森田草平と同居をしていた。
室積 徂春(むろづみ そしゅん、1886年(明治19年)12… 室積 徂春(むろづみ そしゅん、1886年(明治19年)12月17日 - 1956年(昭和31年)12月4日)は、滋賀県出身の日本の俳人。別号に碌々子、平明居主人、碌二道人など。旧姓は増永、本名は尚(たかし)。 1886年(明治19年)滋賀県大津市に生まれる。13歳から俳句を始め、正岡子規に入門、岡野知十にも学ぶ。早稲田大学に進むも、突如役者になると言い出し中退。新派の喜多村緑郎の一座に大木緑二という芸名で加わるが、しばらくして退団。役者業の断念を決めた巡業先の愛媛県宇和島市にそのまま住み、1913年、南予時事新聞(現在の愛媛新聞)に入社。また翌年には婿入りし室積姓となった。子規亡き後は高浜虚子門下としてホトトギスに拠り、虚子の『進むべき俳句の道』にて賞賛されホトトギス派の有力俳人となる。
澤木 四方吉(さわき よもきち、1886年12月16日 - … 澤木 四方吉(さわき よもきち、1886年12月16日 - 1930年11月7日)は、日本の西洋美術史家。慶應義塾大学部文学科、美術・美術史科の初代教授。『三田文学』二代目主幹。筆名は、澤木梢(こずえ)。学問としての西洋美術史を初めて日本に紹介し、その基礎を固めるなど、日本における西洋美術史研究の分野に残した功績は大きい。また、ミロのヴィーナス(アフロディーテ)を日本に紹介した。秋田県男鹿市出身。 生家は資産家で、12歳で故郷を出た。上京して明治学院に入学したが、翌1900年には兄弟達が通学していた慶應義塾普通部に転校した。同校では終生の友となる作家・水上瀧太郎と出会う。1909年、慶應義塾大学部文学科を卒業。
真島 正市(まじま まさいち、1886年12月15日 - 1… 真島 正市(まじま まさいち、1886年12月15日 - 1974年4月28日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。元東京理科大学学長。元日本学士院会員。元日本金属学会会長。元応用物理学会会長。文化功労者。日本学士院賞受賞。 香川県大川郡神前村(現さぬき市)生まれ。日本における応用物理学分野の権威であり、金属、木材、摩擦、衝撃、燃焼等、多方面に亘って物理現象を研究する。1965年文化功労者。主著に『応用物理学実験法』、『圧力測定法』等。
長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 -… 長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 - 1972年12月13日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に長瀬商店(のちの長瀬産業)。1917年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1943年に社長に就任し、1968年5月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章。 1972年12月13日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
波多野 林一(はたの りんいち、1886年12月15日 - … 波多野 林一(はたの りんいち、1886年12月15日 - 1962年1月7日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。郡是製糸(株)(現・グンゼ(株))第4代社長。参議院議員(1期) 早稲田大学卒。明治44年(1911年)郡是製糸(株)入社。創業者である波多野鶴吉の養子(旧姓は山内)となる。妻の寿衛は鶴吉の兄の郡是製糸(株)初代社長羽室嘉右衛門の五女。専務を経て昭和13年(1938年)に社長に就任。昭和22年(1947年)4月20日、第1回参議院議員通常選挙において京都府選挙区から出馬し当選、1期務めた。昭和31年(1956年)春の褒章で郡是において蚕種改良養蚕飼育法刷新や繰糸技術の向上などに努め関係団体要職に就いて蚕糸業振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
19代 式守 伊之助(じゅうきゅうだい しきもり いのすけ、… 19代 式守 伊之助(じゅうきゅうだい しきもり いのすけ、1886年〈明治19年〉12月15日 - 1966年〈昭和41年〉12月14日)は大相撲の立行司である。茨城県那珂郡勝田村(現・ひたちなか市)出身。本名:高橋金太郎。 幼少期は茨城県水戸市に住む。小さい頃から相撲好きで居住地の近くに住む相撲好きの和菓子屋永寿堂(現、茨城県水戸市本町の天保元年創立。油屋老舗)の2代目、稲葉角之助に可愛がられ、角之助の援助を受け都内の相撲部屋を訪問した際に「体が小さいから相撲取りは無理。でも行司でどうか。」と提案を受け、力士は断念したが、そのまま当時の峰崎部屋に入門し、角之助の援助を受け続けた上で行司の修行に入った。
徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12… 徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12月13日 - 1969年(昭和44年)11月17日)は、日本の華族、政治家、陸軍軍人。水戸徳川家第13代当主。貴族院議長、日本赤十字社社長を務める。階級は陸軍歩兵少尉、爵位は侯爵、のち公爵。徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる。字は子行、号は涛山、諡号は明公。
市川 又彦(いちかわ またひこ、1886年12月13日 - … 市川 又彦(いちかわ またひこ、1886年12月13日 - 1982年11月11日)は、日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。 東京市牛込に生まれる。1909年早大英文科卒。1910-1912年英国留学。1913年博文館に入り『英語世界』を編集。坪内逍遥に師事し、1926年早大講師、のち教授、1957年定年、立正大学教授、1976年退職。ジョージ・バーナード・ショーを主として研究・翻訳した。
福田 泰三(ふくだ たいぞう、1886年(明治19年)12月… 福田 泰三(ふくだ たいぞう、1886年(明治19年)12月12日 - 1964年(昭和39年)10月26日)は、昭和時代の政治家。山口県下関市長。 福田重治郎の二男として、下関に生まれる。1906年(明治39年)東京中学を卒業。下関市議を22年、山口県議を12年、下関市長を3期12年歴任した。 市長在任中は、関門商品取引所の誘致、下関水族館や火の山ロープウェイなどの観光施設の建設、下関市立大学・第一高校・体育館などの教育施設の整備に尽力した。ほか、全国市長会副会長を歴任した。 1964年(昭和39年)10月26日、肝臓がんのため死去した。市葬が行われた。
宮川 宗徳(みやがわ むねのり、1886年12月12日 - … 宮川 宗徳(みやがわ むねのり、1886年12月12日 - 1963年1月18日)は、神社本庁事務総長(初代:1946年2月 - 1948年4月)。内務省、文部省、東京市の官吏。「みやがわ そうとく」とも。 熊本の社家の出身。阿蘇で生まれ、長男として厳しく育てられた。「お母さんはどうして、僕だけにこんなに辛く當るのだらう」と思ったこともあるという。中学を出、仕送りを受けながら東京で遊学。宮川は折口信夫、秋岡保治と國學院で同級生だった。 明治43年(1910年)に國學院大學国史科を卒業、明治44年に日本大学政経科を修了。明治44年以後内務省、文部省勤務を経て、大正9年に東京市に転じ、同市で教育主事兼視学、監査課長、文書課長、牛込区長(1924年-1925年)、小石川区長(1926年-1927年)、下谷区長(1929年-1933年)、保健局長を歴任。
稲葉 圭亮(いなば けいすけ、1886年12月10日 - 1… 稲葉 圭亮(いなば けいすけ、1886年12月10日 - 1975年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。東京帝国大学法学部に入り、上杉慎吉の下で憲法学と社会学を学ぶ。在学中に七生社を結成する。1917年に同大学を卒業。翌年、中国に渡り、大総統府に勤務する。帰国後は法政大学講師となり、東亜研究所に勤務し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で新潟2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。当選後は大政翼賛会政調会商工委員、事務局参与となった。終戦後の1945年に無所属倶楽部に加入したが、翌年公職追放となった。
金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 19… 金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 1963年11月1日)は日本のドイツ文学者、翻訳家。 日本にグリム童話を紹介し、NHKラジオドイツ語講座の講師をも担当した。旧姓は山本。 1886年、東京府に生まれる。親は帝室博物館の職員。 京華中学校から第一高等学校を経て、1909年東京帝国大学文学部独文科卒業。 その後ドイツ帝国に留学中、第一次世界大戦勃発のため留学期間を短縮して、1914年10月20日に帰国。 第四高等学校教授の後、学習院高等科教授となり、成蹊高等学校(1939年 - 1942年)などでも講師を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12… 佐々木 家寿治(ささき かずじ / かじゅじ、1886年12月7日 - 1954年3月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、宮城県知事(1期)。「百姓知事」と呼ばれた。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。宮城県古川高等学校、盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)で学ぶ。 志田郡志田村(のち古川市、現大崎市)助役、同村長、同村会議員、宮城県会議員、同議長、同参事会員、志田村、志田郡、宮城県各農会長となる。 1930年、仙台市長選挙に立候補したが、市会(市議会)での得票数は4位に終わり、落選した。1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から出馬して当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙の再選時は投票のための買収があり、虚偽の約束手形を手に入れてそれに合わせた証言が行われた偽証証憑偽造偽造証憑使用教唆事件で1937年11月4日、大審院は上告棄却し佐々木は懲役4か月の実刑判決が確定。
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)1… 大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家。国家社会主義者 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。 東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴された。しかし梅毒による精神障害と診断され、訴追免除となった。なお、晩年はクルアーン全文を翻訳するなどイスラーム研究で優秀な実績を残した。
佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日… 佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日 - 1974年(昭和49年)12月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の中華民国専門家である。旧姓古川。 横浜市出身。本籍は青森県にあった。横浜一中を経て、海軍兵学校に首席入校。1907年(明治40年)卒業。席次は172人中26番。佐藤は海兵35期の一人である。1913年(大正2年)12月大尉へ進級し、「薩摩」分隊長。翌年海軍大学校(以下「海大」)専修学生を修了し、航海科専攻士官となる。佐藤は6艦で航海長を務めた。 1919年(大正8年)、海大甲種学生に入校(19期)。海大同期に草鹿任一、小沢治三郎がいる。1922年(大正12年)砲艦・「伏見」艦長となる(階級は少佐)。
河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月… 河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月5日 - 1965年(昭和40年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)12月、富山県礪波郡苗加村(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の三男として生まれる。終戦時の参謀次長河辺虎四郎中将(陸士24期、陸大33期優等)、瀧田俊吾軍医大佐は実弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした。 旧制高岡中学校を経て、陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校(27期優等)卒業。 1907年(明治40年)12月26日、歩兵少尉に任官して 石川県野田村に駐屯していた歩兵第35聯隊附から軍歴をはじめて以降、主要な経歴として名古屋歩兵第6連隊長、教育総監部第一課長、支那駐屯歩兵旅団長、第3軍司令官、支那派遣軍総参謀長、緬甸方面軍司令官、中部軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官、第1復員司令官を歴任した。
黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 195… 黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 1957年1月13日)は、熊本県出身の日本の心理学者・美術史家。号は「喪心亭」、「薼廬」。 1886年、熊本県熊本市で有馬源内の次男として生まれた。黒田家の養子となった。済々黌、第五高等学校を経て、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。心理学専攻で学び、1911年に卒業。同大学大学院に進学した。 1914年、京都帝国大学医科大学の副手に採用され、生理学を修めた。1920年、医学部講師に昇格。1923年、学位論文『両眼視現象の研究に就て』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1924年、日独文化協会日本研究所の初代所長として文部省海外研究生になってベルリンに駐在。
阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3… 阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3日 - 1980年(昭和55年)3月1日)は、日本の牧師・教育者。青山学院第6代院長。 日本メソジスト教会の初代監督の本多庸一は伯父。 弘前市に生まれる。母親は本多庸一の妹で、中田重治の近所に住んでいた。阿部の母親は、暴れん坊だった6,7歳頃の中田少年によく水をかけられていた。1901年(明治34年)8月中田重治が聖書学校の修養生たちで大伝道団を編成して、弘前で伝道集会をした時に、中田の説教を聴いて入信を決意する。 1905年(明治38年)、青森県立第一中学校を卒業する。1912年、青山学院高等科、および青山学院神学部を卒業する。その後、アメリカとカナダに留学する。
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12… 飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12月1日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家、編集者、新聞記者。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれる。 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市)出身。父親は、大場村初代村長でもある豪農であった。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父親の反対を押し切って早稲田大学専門部法学科に進学、野球部に入部する。この時、保証人になったのが小説家の押川春浪であり、下宿で同室であったのが針重敬喜であった。
金井 章次(かない しょうじ、1886年(明治19年)12月… 金井 章次(かない しょうじ、1886年(明治19年)12月1日 - 1967年(昭和42年)12月3日)は、日本の医師、官僚。蒙古聯合自治政府最高顧問。旧姓は倉島。 長野県小県郡住吉村[要出典](神科村を経て現上田市)で、倉島称平の四男として生まれ。旧上田藩士・金井広治の養子となる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第二高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒業。1912年同郷の山極勝三郎の病理学研究室に入り、1914年北里研究所に移籍。1920年ロンドン大学に留学、ついで1922年国際連盟事務局保健部に勤務。日本人の海外における風土馴化を研究し、1924年帰国して慶應義塾大学教授。 1930年南満州鉄道の招きで満州に渡り、満州青年連盟理事長代理となる。
小宮 悦造(こみや えつぞう、1886年(明治9年)12月1… 小宮 悦造(こみや えつぞう、1886年(明治9年)12月1日 - 1973年(昭和48年)1月21日)は、日本の内科学者である。 山梨県大月市に生まれ、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は入沢達吉が院長を務めた東京帝大附属の内科に医師として活動し、副手を経て助手として勤務した。1922年(大正11年)に医学博士を取得し、1924年(大正13年)には熊本医科大学(現在の熊本大学医学部)の教授となる。その後は同大学で教鞭を執る傍ら翌1925年(大正14年)には留学のため離日し、欧米の津々浦々で血球の神経性調節に関する研究に携わった。
中村 恒三郎(なかむら つねさぶろう、1886年(明治19年… 中村 恒三郎(なかむら つねさぶろう、1886年(明治19年)12月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 東京府出身。中村常吉の四男。1916年(大正5年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。岡山県属、福島県西白河郡長、和歌山県理事官、秋田県理事官、熊本県理事官、鳥取県書記官、秋田県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、高知県書記官・内務部長、神奈川県書記官・総務部長、京都府書記官・総務部長を歴任し、1937年(昭和12年)に退官した。 退官後は京都帝国大学書記官、川崎市助役を務めた。その後、弁護士を開業した。
井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)… 井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)12月 - 1975年(昭和50年)4月2日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選佐賀県知事、旭川市長、新潟市長。旧姓・村田。 埼玉県出身。村田謙吉の二男として生まれ、井上家の養子となる。第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、同理事官、長野県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、熊本県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長などを歴任。 1930年7月、佐賀県知事に就任。風水害からの復旧、教育調査会の設置などに尽力。
十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月2… 十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月27日 - 1914年10月9日)は、青森県北津軽郡中里町出身で二十山部屋に所属した力士。本名は岩田 金四郎。170cm、120kg。最高位は西前頭9枚目。 東奥義塾を卒業し、二十山部屋に入門。非常に文章・文筆巧みであったという。当時としては体格が良く、「アンコウ」の異名をとり、左四つからの寄りには威力があった。1903年5月初土俵、1909年6月十両昇進。新橋倶楽部事件では力士側の書記役を務めた。1911年2月に入幕し、前頭9枚目まで昇進。しかし病の為に不振に陥り幕下まで転落。1914年1月に廃業したが、年内に没した。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。