新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - … 新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - 2005年4月26日)は、日本の医学者。専門は病理学。学位は、医学博士(北海道帝國大學)。元札幌医科大学学長。 北海道瀬棚郡瀬棚町(現在の久遠郡せたな町)生まれ。1926年北海道庁札幌第一中学校卒業。北海道帝国大学予科修了。1933年北海道帝国大学医学部卒業。同医学部副手に就く。1936年同医学部助手。1937年同医学部講師。1938年同医学部病理学第一講座助教授。1944年樺太医学専門学校病理学講座教授。1946年樺太医学専門学校校長事務取扱。1950年札幌医科大学医学部病理学講座教授。1961年同附属癌研究所所長。1965年札幌医科大学学長に就任。
桑原翠邦(くわはら すいほう、1906年〈明治39年〉9月2… 桑原翠邦(くわはら すいほう、1906年〈明治39年〉9月20日 - 1995年〈平成7年〉3月27日)は、北海道帯広市出身の書家である。本名、清美。翠邦は号で魚目とも号した。書家の桑原呂翁は長男。 1906年、北海道河西郡帯広町(現在の帯広市)に生まれた。1921年、札幌鉄道教習所に入学し、大塚鶴洞に師事したことで、書を意識するようになった。また、後に同じく書家となる金子鷗亭、三宅半有とも鉄道教習所時代に出会っている。1924年に鉄道教習所を卒業し、職に就くが、川谷尚亭、比田井天来が相次いで北海道に来遊、彼らから上京を勧められたことで、金子とともに1932年に上京、以降比田井天来に師事した。翌年、上田桑鳩が中心となって結成された書道芸術社に参加した。
曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月… 曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月16日 - 2013年(平成25年)11月27日、旧姓:山本)は、日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学(現大邱大学校)教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。福岡教育大学名誉教授、韓国・建陽大学校名誉教授、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授。大韓民国国民勲章受章、ペスタロッチー教育賞受賞。吉川英治文化賞受賞。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年… 和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年10月5日 男性)は、日本の小説家・文芸評論家。編集者の傍ら樋口一葉研究に没頭。多くの伝記・研究をまとめた。私小説作家としても知られ、晩年には老人の性愛を描いた短編で注目された。 北海道山越郡長万部町出身。北海中学(現北海高等学校)、中央大学法学部独法学科卒業。新潮社勤務のかたわら同人誌に小説を執筆。樋口一葉研究を行い、第二次世界大戦中に『樋口一葉研究』(1942年)などを刊行した。 1935年から1949年にかけて市川市八幡・市川地区在住であった。1952年に発表された「塵の中」には戦争前後の市川から八幡の様子が随所に描かれている。 戦後は大地書房に勤務、小説雑誌『日本小説』を創刊(「中間小説」を創始したと評される)。
西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 19… 西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 1948年)は、日本の俳優である。本名西村 清司(にしむら せいじ)、旧芸名日向 錦之助(ひゅうが きんのすけ)。旧漢字表記西村 青兒。 1906年(明治39年)3月30日、北海道小樽市に生まれる。 北海道庁立小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、満18歳になる1924年(大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1926年(大正15年)3月、同社を抜けて小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に一時期参加したが、翌年1927年(昭和2年)3月には東亜キネマに復帰、京都・等持院の京都撮影所に所属する。同年からは、「日向 錦之助」の名で、井出錦之助監督の『夜光珠を繞る女性』や米沢正夫監督の『光に向ふ人々』(1928年)等に主演・準主演級で出演するが、1929年(昭和4年)夏に同社を退社している。
河口 陽一(かわぐち よういち、1906年3月30日 - 1… 河口 陽一(かわぐち よういち、1906年3月30日 - 1978年9月16日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。北海道上川郡永山村(現・旭川市永山)出身。 1926年に永山高等国民学校卒業。1947年の総選挙に北海道2区から日本農民党公認で出馬して初当選。その後農民新党→農民協同党→改進党と籍を移しながら衆院議員2期、農民協同党では書記長・改進党では組織委員長を務めた。 1952年の総選挙で落選。翌1953年の総選挙・右派社会党公認で出馬した1955年の総選挙でも落選に終わり、一時は政界を離れてホクレン農業協同組合連合会会長を務める。 1968年の参院選で北海道選挙区から自由民主党公認で出馬・当選して16年ぶりに政界復帰。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5… 田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。
佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16… 佐々木 章(ささき あきら、1906年(明治39年)2月16日 - 1963年(昭和38年))は昭和期の歌手、作曲家。 北海道函館市出身。函館商業学校中退。1936年(昭和11年)末より大村能章に声楽を師事した。1937年(昭和12年)9月に発売された「露営の歌」の吹き込みに参加。 戦後は作曲家として活動。デビュー前の三波春夫などを指導した。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月3… 前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月31日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。 第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。 北海道旭川市出身。庁立旭川中学校を経て東京外語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業後、ヨーロッパに留学、ローマ大学法科に学ぶ。 1936年朝日新聞ローマ支局に現地入社、記者としてイタリアのエチオピア侵入(第二次エチオピア戦争)などをスクープ。1947年大阪本社外報部長を最後に退社。 出版社経営を経て1950年、NHKに解説委員として入局。その後報道局長・編成局長・専務理事・副会長などを経て1964年、阿部眞之助会長が在職中に死去した事に伴い会長就任、1973年まで務めた。
小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8… 小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8日 - 1988年(昭和63年)7月20日)は、昭和期の日本の出版事業家。 現在の北海道旭川市に生まれる。 1928年、旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)を卒業後、北海道内の小学校で教員として勤務した。 穂高書房社長などを経て、1948年、設立に参画した教育出版専務となる。以後、副社長(1963年)を経て、1967年に社長に就任した。1975年に社長を宍戸馨に禅譲、のち相談役に退く。他に教科書協会常務理事などを務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小川 記正(おがわ きせい、1906年 - 2000年2月2… 小川 記正(おがわ きせい、1906年 - 2000年2月27日)は、日本の脚本家、小説家、映画プロデューサーである。1950年(昭和25年)以降、映画の脚本を小川 正(おがわ ただし)の名で書いたが、後年のテレビ映画では「記正」に戻した。 1906年(明治39年)、北海道札幌市の代議士の長男として同市に生まれる。父親は資産家で、道内に大きな牧場をいくつか所有していたが、ある事件により投獄され、獄中死した。賭博好きの母親の浪費により家計が傾くなか、慶應義塾大学政治経済学部に学ぶ。 20代のころは松竹蒲田撮影所演出部で助監督を務め、25歳になる1931年(昭和6年)、短篇映画『真夜中商売』を監督したが、同作は公開されなかった。
澤井 トメノ(さわい トメノ、1906年〈明治39年〉 - … 澤井 トメノ(さわい トメノ、1906年〈明治39年〉 - 2006年〈平成18年〉2月2日)は、日本のアイヌ文化伝承者。北海道の本別町教育委員会発行による『十勝本別アイヌ語分類辞典』への編集協力をはじめとして、記録や資料の少ない十勝地方のアイヌ語方言の伝承など、アイヌ文化の振興に大きく貢献した。 福島県から北海道へ入植した和人の両親のもとに誕生した。戸籍上は1909年(明治42年)生まれだが、実際には3年早い。生後間もなく、本別町のアイヌ女性である清川ネウサルモンの養女となり、アイヌ語で育てられた。17歳で澤井家に嫁いだ。 養母のネウサルモンは、アイヌの口承文学や歌謡の高名な伝承者であった。トメノもまた、12歳から13歳の頃までに養母から多くのアイヌ文化を教わり、アイヌ語十勝方言の数少ない伝承者となった。
本郷 新(ほんごう しん 、1905年(明治38年)12月9… 本郷 新(ほんごう しん 、1905年(明治38年)12月9日 - 1980年(昭和55年)2月13日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。息子は俳優の本郷淳、義娘(息子の妻)は柳川慶子。孫は俳優の本郷弦(無名塾所属)。 北海道札幌区(現札幌市)生まれ。父・敏慎(びんしん)は島根県松江市出身で、札幌農学校を卒業後に種苗・農具の会社を設立した。母・楯(じゅん)は山形県鶴岡市出身で、スミス女学院を卒業。キリスト教的な雰囲気の教育方針をとった。6人兄弟の次男。実家は南1条西13丁目。 1919年、旧制・札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)に入学。父の経営する会社が東京に進出したことから、東京の順天中学校に転入。
八田 尚之(はった なおゆき、1905年12月2日 - 19… 八田 尚之(はった なおゆき、1905年12月2日 - 1964年8月25日)は、日本の脚本家。生涯100本近い脚本作品のうち第二次世界大戦前に1作だけ自ら監督し映画化した教育映画がある。女優の宝生あやこは妻。 1905年(明治38年)12月2日、北海道小樽市の生まれ。北海道庁立小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)卒業後、上京。 1927年(昭和2年)、21歳のときに京都の牧野省三のマキノ・プロダクションと提携する同社所属俳優勝見庸太郎の勝見庸太郎プロダクション(勝見プロ)に入社。翌1928年(昭和3年)3月、オリジナルストーリーが勝見に採用され勝見自身による脚本(「勝見黙笑」名義)・監督・主演作『べらぼう長者』として映画化された。
富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1… 富樫 凱一(とがし がいいち、1905年11月17日 - 1993年4月21日)は、日本の土木工学者、建設官僚。東名高速道路の全線開通、本州四国連絡橋の完成などに尽力。文化功労者。 北海道旭川市生まれ。北海道帝国大学卒業。内務省に入り、関門国道改良事務所長、建設省道路局長、技監などを歴任し、1960年退任。1966年日本道路公団総裁、1967年土木学会会長、1970年本州四国連絡橋公団総裁。1978年海洋架橋調査会会長。 技術者として、関門トンネルの設計・建設や東名高速道路建設に一貫して尽力した他、本州四国連絡橋の児島・坂出ルート(瀬戸大橋)の建設に関しては、開発公団初代総裁として長大吊り橋を始めとする新技術の導入・開発に当たった。
岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 198… 岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。 1905年、北海道小樽市で生まれた。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、オタワ大学社会学部で学んだ。1929年に卒業。 1931年、新聞連合社(のち同盟通信社を経て、現:共同通信社)に就職。一方でトロント大学大学院経済史専攻に進み、1932年に修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任したほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所研究員として在外研究にあたった。
菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月1… 菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月18日 - 1990年(平成2年)10月17日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・巽。 北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)で生まれる。1924年、函館大谷女学校を卒業した。 その後上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事し、社会運動に関わるようになった。全国婦人同盟、無産婦人同盟の結成に加わり、無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務めた。1931年、中野区に中野組合病院の設立に尽力し、会計を担当した。 戦後、日本社会党の結党に加わる。1947年の衆院選に夫の菊川忠雄が旧東京4区から社会党公認で立候補し初当選した。君子は党の婦人部員として運動を推進し、婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた。
神本 利男(かもと としお、1905年〈明治38年〉9月18… 神本 利男(かもと としお、1905年〈明治38年〉9月18日 - 1944年〈昭和19年〉9月30日)は、満州国の警察官、日本陸軍のスパイ。 北海道十勝国中川郡本別町仙美里出身。「ハリマオ」こと谷豊を説得し、諜報員として引き入れた人物である。 1905年(明治38年)9月18日、開拓農民・神本利七の次男として生まれる。利七自身は農家だったが、家系は鳥取で先祖代々戦国時代から続く武家の名家だった。 1911年、釧路国足寄郡足寄村の愛冠小学校に入学、三隅小学校高等科を卒業。1920年4月、島根県の祖父宅に渡り、浜田中学に入学。武道では柔道を選択し、背負い投げの神本と呼ばれる。 1926年3月、拓殖大学予科入学。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。
旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日… 旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日 - 1978年1月31日)は、北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市、出生地は富山県下新川郡(現:富山県魚津市))出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は宮坂 幸吉(みやさか こうきち)。最高位は西関脇。 1905年8月18日、富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。2歳の時に家族で北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市)へ移住し、1921年の夏に友綱の一行が巡業で北海道へ来る際に、先乗りとして一足先に北海道へやって来た同郷の立浪親方(元小結・緑嶋)に見い出され、立浪部屋へ入門した。1922年1月場所で初土俵を踏み、1927年5月場所で新十両昇進を果たすが、ここから幕下との往復が5年以上繰り返されることとなる。
野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月2… 野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月25日 - 2019年〈平成31年〉1月20日)は、日本のスーパーセンテナリアン。北海道足寄町在住であった長寿の男性。2016年10月以降より存命する日本最高齢男性、2018年1月29日以降より存命する世界最高齢男性となっていた。 1905年、足寄町上利別にて野中温泉の創業者である父・益次郎(現在の富山県中新川郡立山町から北海道に入植)と母・キヨの間に生まれる。畑作との兼業で温泉を運営し、111歳の時点でなお温泉にて家族と暮らしており、1日3回の食事をとるほか、新聞も毎日読んでいた。長寿の秘訣について、野中は新聞社の取材に「温泉のおかげ」と語っている。
小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 198… 小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 1987年10月30日)は日本の競馬騎手、調教師。 1934年に京都競馬倶楽部で騎手となったのち、1937年より日本競馬会(後に国営競馬→日本中央競馬会)の調教師となる。以後八大競走2勝を挙げたニューフォードや、皐月賞優勝馬ニホンピローエース、1977年に中央競馬の年度代表馬となったテンポイント(JRA顕彰馬)などの活躍馬を管理した。1982年、黄綬褒章受章。 アイヌ民族の活動家としても著名であり、北海道アイヌ協会が社団法人化された際には組織の中枢を担った。 甥にそれぞれ騎手・調教師の田所稔と田所秀雄、又甥に田所秀孝、田所清広(義理)がいる。
山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 197… 山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 1970年)は、日本のノルディック複合、スキージャンプ選手。1932年レークプラシッドオリンピック日本代表。 北海道札幌市生まれ。北海中、北海道帝国大学農学部林学科卒業後、1929年に青森県の大鰐営林署へ就職。青森林友会所属で競技を続けた。 1932年レークプラシッドオリンピックスキージャンプで32位、ノルディック複合32位。 のちに鰺ヶ沢営林署をへて北海道庁へ異動。一方で全日本スキー連盟技術委員や複合部長などを歴任した。 理論家肌で逆転の発想をよくすることから””逆さん”の愛称で慕われた。
網島 毅(あみしま つよし、1905年(明治38年)6月2日… 網島 毅(あみしま つよし、1905年(明治38年)6月2日 - 1995年(平成7年)4月2日)は、昭和時代から平成時代の通信技術者。 北海道小樽市出身。1929年(昭和4年)北海道大学工学部を卒業、逓信省工務局に奉職。無線課長、電波局電波課長、電波局長、電波管理局長官を歴任。この間、1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック開催に際した日独間無線写真伝送実験、航空無線用超短波全方向式ビーコンの発明考案などに貢献した。 行政面では、1937年(昭和12年)カイロで行われた国際電信電話会議及び国際無線通信会議に政府委員として出席したほか、1948年(昭和23年)メキシコシティの国際短波放送会議にはSCAP代表の技術顧問として赴き、日本に対する国際放送周波数の割り当ての原則の確認を得た。
中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月… 中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月28日 - 1992年(平成4年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵54期。最終階級は海軍中佐。
松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年… 松田昇(まつだ のぼる、1905年5月18日 - 1982年11月20日)は、日本の高校野球指導者。高知県高等学校野球連盟初代理事長。高知商業高校、明徳高校野球部元監督。
岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1… 岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1905年5月1日 - 1990年5月10日)は、日本の女優。夫は千田是也。千田らとともに劇団俳優座を創設。 北海道出身。北海高等女学校卒業。一旦は就職したものの俳優を志し、1925年に築地小劇場に入り研究生となる。初舞台は、『寂しき人々』。築地小劇場の分裂を経て、1936年、新築地劇団に入団。1940年に弾圧による解散後、1944年2月に青山杉作、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎、東山千栄子ら10人で劇団俳優座を創立、以降俳優座の中心女優として活躍し、多くの舞台に立った。『肝っ玉おっ母とその子供たち』はその代表作で、1966年に芸術祭奨励賞を受賞している。
大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006… 大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006年9月1日)は、北海道浜中町出身の外交官。駐英大使、外務事務次官、帝国ホテル社長、日英協会理事長、日本国際問題研究所理事長など歴任した。勲一等瑞宝章受章。 北海道釧路支庁管内浜中町の貧しい酪農家で産まれる。旧制立教中学、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)を経て、1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。同年外務省に入省し、外交官補としてドイツに駐在。同期に朝海浩一郎(終戦連絡事務局長官、駐米大使)、山田久就(事務次官、駐ソ大使、環境庁長官)など。外相兼大東亜相秘書官・終戦連絡中央事務局賠償部長、外務省管理局長などを経て、1948年総務局長、翌年政務局長。
本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-193… 本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-1939年7月23日)は、日本の小説家である。北海道石狩郡当別町出身。 北海道に移住した元佐賀藩士・本庄一興の六男として生まれる。家業は農業と雑貨商で、8歳のときに渚滑村(現紋別市)に移住。同地の尋常高等小学校卒業後、代用教員を務める。兄を頼って樺太で1年生活した後、上京して青山師範学校(現東京学芸大学)に編入する。小学校の教師として、東京の名門、誠之小学校に勤務していたが、新興教育運動に参加し、下町の学校を希望して、東京府深川区にある明治第二尋常小学校に転任する。そこでの経験はのちに「白い壁」という作品として結実した。 その後、1930年3月に東京教員消費組合の事件で検束されたことを理由として退職勧告を受ける。
木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 198… 木曽 栄作(きそ えいさく、1905年1月19日 - 1984年)は、日本の英語学者。専門は商業英語。 北海道小樽市出身。1927年(昭和2年)小樽高等商業学校卒業。1931年(昭和6年)小樽高等商業学校助教授。1937年、アメリカペンシルベニア大学経営学部大学院に入学し、商業英語と国際貿易の研究のため、文部省在外研究員として在留。1939年、同大学修士課程修了。1943年、正六位に叙される。1944年、小樽経済専門学校教授。翌年、勲六等に叙せられ瑞宝章を授与される。1950年、小樽商科大学教授と小樽経済専門学校教授を兼務。1960年、再びアメリカへの出張を命じられ、ミシガン大学大学院言語学科において、英語学と外国語教授法を学ぶ。
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 … 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。 本名は伊藤整(いとう ひとし)。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1… 遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1998年12月14日)は、日本の経営者、電気技術者。 東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン)初代社長をつとめた。 北海道小樽市出身。1930年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。電通での勤務を経て、1952年にラジオ東京に入社し、取締役を経て、1956年1月に常務取締役テレビ技術局長に就任。 1963年にラジオ東京などの出資により東京エレクトロン研究所が設立されると、同社の初代社長に就任。1974年には会長に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年12月14日老衰のために死去。93歳没。
滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月… 滝内 礼作(たきうち れいさく、1905年(明治38年)1月10日 - 1993年(平成5年)11月2日)は日本の裁判官、弁護士。 北海道余市郡余市町出身。小樽商業学校卒業、東北帝国大学の聴講生となり、試験を経て本科編入、在学中の1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)3月、同法文学部法科卒業、翌4月に司法官試補として東京地方裁判所所属、それから予備判事、1929年(昭和4年)11月判事任官、1931年(昭和6年)5月山形地方裁判所判事転任、1932年(昭和7年)9月札幌地方裁判所判事転任。 滝内は東京地裁時代の1930年(昭和5年)、日本共産党員を講師に同じく判事の為成養之助らと研究会を結成、共産主義思想に共鳴、同党が国体変革して私有財産を否定していることを知った上で同年10月から1932年8月まで東京で他の同志とともに党資金として毎月5円から7円を支出、山形転任後は同志獲得のために動き同年3月から指導者として同地裁書記中心に主義宣誓も行い、同僚判事の福田力之助も引き込み、同年5月6月に現地の婦人十数名を集めて研究会を開催して主義宣伝を行ったり同地方責任者として左翼グループを結成、山形高等学校など上層階級対象に党員獲得活動をした。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5… 片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員、文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。 1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。 卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年… 伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年9月3日)は、1920年代に活躍した元スキージャンプ選手、実業家。後に全日本スキー連盟の会長を務めた。京都府出身。 父親の伴房次郎は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長(在職期間1921年11月28日-1935年4月2日) 京都府生まれで小学3年生の時父親の転勤に伴い小樽へ移り住んだ。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校) - 北海道帝国大学農学部 - 日本製粉(現・ニップン)株式会社。 1926年の第4回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。 1928年のサンモリッツオリンピックにスキージャンプ日本代表として出場するが、コーチも通訳もいない孤独な参戦を強いられたことに加え、台の規模や技術、道具など何もかもが自分たちがやってきたことと違うことに戸惑い本来のジャンプが全く出来ず、転倒もあって(元々、伴は着地は得意な選手であった)最下位に終わった。
大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 -… 大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。荒磯部屋→春日野部屋所属。本名は宮川→槙勇。最高位は十両7枚目。 北海道釧路市出身。荒磯部屋に入門し、1923年5月「大寉」の四股名で序ノ口に就く(のち春日野部屋に移籍)。1929年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1930年1月再十両。この場所は3勝8敗と負け越したが、翌3月は6勝5敗と勝ち越し、十両での唯一の勝ち越しとなる。当時は2場所の成績で番付を作成されたため、合計の成績が9勝13敗と負け越しとなったため再び幕下に落ちた。「大鶴」と改名した1931年1月三回目の十両昇進となったが、この場所と翌場所も負け越し、5月に幕下に落ちた。
早瀬 龍江(はやせ たつえ、1905年-1991年)は、北海… 早瀬 龍江(はやせ たつえ、1905年-1991年)は、北海道奥尻島出身の画家。福沢一郎絵画研究所に学んだ。夫は画家・白木正一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
白沢 ナベ(しらさわ ナベ、1905年〈明治38年〉 - 1… 白沢 ナベ(しらさわ ナベ、1905年〈明治38年〉 - 1993年〈平成5年〉10月21日)は、日本のアイヌ口承文芸伝承者。ユカㇻ(アイヌの口承文芸)の北海道千歳市における第一人者とされる。アイヌの古老の女性に対する敬称「フチ」をつけて「白沢ナベフチ」の名でも呼ばれる。 北海道のウサクマイ村(後の千歳市蘭越)で誕生した。ユカㇻの名人を父に持ち、幼少時よりユカㇻを聞かされて育った。17歳で結婚したが、23歳のとき夫と死別し、幼い子供2人を抱えて懸命に働いた。やがて父が死去し、死に際に「アイヌ民族の言葉を必ず伝えてくれ」と繰り返し言われたことが、後年に影響を及ぼすこととなった。 植林作業などで働いていたが、70歳で膝を傷めたことを機に仕事を辞め、ユカㇻの伝承に打ち込んだ。
竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12… 竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12月21日 - 2001年(平成13年)2月4日)は、北海道出身の詩人、小説家、霊能者。本名、竹内照代。 銀行員と芸者との間に札幌市で生まれるが、生後すぐに釧路の父方の祖父母に引き取られる。日本高等女学校を肺結核療養のため中退。婦人記者となった後に20歳で結婚し、一子をもうけるが、脊椎カリエスに罹患して1928年に離婚。以後、詩作を続け、1930年に第一詩集『叛く』を刊行した。2001年2月4日、老衰のため死去。 2002年9月29日、スイスのバーゼルで開催された 「国際児童図書評議会」 (IBBY) 創立50周年記念大会で、日本の美智子皇后がスピーチの中で代表作「頬」を引用したことから、改めて注目されるようになった。
上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966… 上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966年12月26日)は、日本の指揮者・ファゴット奏者。
森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 19… 森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 1988年11月19日)は、日本の産婦人科医。
永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1… 永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1985年3月19日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツ(旧・東京巨人軍)の初代4番打者として知られる。
石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1… 石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1987年10月1日)は、日本の昭和期の小説家。 北海道小樽市花園出身。函館師範学校(現・北海道教育大学函館校)卒業。小樽市の国民学校の教員を務めた後中国大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務した。蒙疆文芸懇話会幹事にも就任。 1943年、『蒙疆文學』1月号に寄せた「纏足の頃」で第17回芥川賞受賞。 1949年、後藤杜三らと「北海道文学者の会」結成。戦後は官能小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 200… 増田 吉郎(ますだ よしろう、1904年6月3日 - 2005年1月22日 )は、日本の経営者。宮崎銀行頭取を務めた。 青森県出身。1922年に函館商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1950年6月から1952年6月までに日本信用調査常務を務め、1952年8月には日向興業銀行(のちの宮崎銀行)専務に就任し、1961年10月から1975年12月までに頭取を務めた。 1974年11月には勲四等旭日小綬章を受章。 2005年1月22日、誤嚥性肺炎のために死去。100歳没。
南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月… 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月24日 - 1997年〈平成9年〉7月23日)は、日本の陸上競技選手。走幅跳および三段跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。位階は正五位。 北海道札幌区(現札幌市)出身。札幌中心部の狸小路商店街1丁目で酒屋「三国屋南部源蔵商店」を営んでいた南部源蔵の4男として生まれ、小学校高等科から攻玉社中学(現・攻玉社中学校・高等学校)に進学し、後に北海中学(現在の北海高等学校)へ転校する。腕白な子供であったが体はあまり強くなく、小学4年から始めた乗馬で体力を養った。北海中学3年の時に上級生にスカウトされて徒歩部(現・陸上競技部)に入部した。
小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 19… 小川 譲二(おがわ じょうじ、1904年4月10日 - 1974年1月21日)は、技官官僚・工学者。北海道大学出身初の北海道開発局局長。学校法人北海学園理事長。また、北海道における治水事業の第一人者である。 北海道札幌市生まれ。1928年北海道帝国大学工学部土木工学科を第1期生として卒業。 北海道庁に入庁し、札幌治水事務所に勤務。その後、釧路土木事務所所長、帯広土木現業所所長、石狩川治水事務所所長、北海道電源開発推進部長等を経て、1951年総理府技官・北海道開発局初代建設部長、1957年北海道開発局二代局長。1959年停年退官。1960年富士セメント(現、日鉄住金セメント)コンクリート工場建設実施本部長。