阿部 政文(あべ まさぶみ、1953年 - )は、秋田県出身… 阿部 政文(あべ まさぶみ、1953年 - )は、秋田県出身の元アマチュア野球選手(投手)である。 大館鳳鳴高校では1971年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、秋田市立高の船木千代美(法大-熊谷組-TDK)らに抑えられ完封負け。西奥羽大会には進めなかった。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中2回優勝。1974年春季リーグでは1年上の矢野暢生とともに投の二本柱として優勝に貢献する。直後の全日本大学野球選手権大会は、決勝で駒大を降し優勝。同年の第3回日米大学野球選手権、1975年の第11回アジア野球選手権日本代表に選出されている。リーグ通算37試合登板、12勝7敗、防御率2.13、82奪三振。
村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋… 村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋田県横手市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 横手市立金沢小学校、横手市立金沢中学校を卒業後、秋田県立六郷高等学校に進学。1試合18奪三振で無安打に抑えたにも関わらず、試合に敗れた、いわゆる「ノーヒットありラン」を経験。高校卒業後は三菱自動車川崎に入社。菅野光夫とは三菱自動車川崎時代のチームメイト。 1974年の都市対抗野球では、菅野と共に東芝の補強選手として出場し、チームの準決勝進出に貢献。 1974年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は中継ぎ、特に対左打者用ワンポイントとして起用された。 コントロールに難があり登板機会に恵まれなかったが、入団4年目にサイドスローに転向し飛躍する。
佐藤 守(さとう まもる、1952年 -)は、日本の元アマチ… 佐藤 守(さとう まもる、1952年 -)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。 本荘高校では1969年秋季東北大会県予選準々決勝に進むが、大館工に惜敗。翌1970年夏の甲子園県予選も準々決勝で大曲農に敗れた。同年のドラフト会議で本格派右腕投手として注目され、大洋ホエールズから2位指名されたが入団を拒否。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1971年秋季リーグで早慶戦に登板。1972年秋季リーグでは5勝3敗、防御率1.55の好記録を残した。しかし直後に故障、活躍の場を失う。1973年春季、1974年春季リーグで優勝を経験するが、故障が長引き登板機会はほとんどなかった。
三浦 正行(みうら まさゆき、1951年9月18日 - )は… 三浦 正行(みうら まさゆき、1951年9月18日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(捕手)。
一ノ関 英徳(いちのせき ひでのり、1951年5月7日 - … 一ノ関 英徳(いちのせき ひでのり、1951年5月7日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。名前について、一の関秀則とする資料もある。 秋田県立五城目高等学校卒業。1969年11月12日、ドラフト会議でヤクルトアトムズから13位で指名され、入団。 左腕の本格派で、制球力をやや欠きながらも重い速球には威力があった。 1970年から1971年にかけてヤクルトの在籍。一軍公式戦に出場することはなく、1971年に引退した。引退後は郷里の秋田で農業をしている。
山田 久志(やまだ ひさし、1948年〈昭和23年〉7月29… 山田 久志(やまだ ひさし、1948年〈昭和23年〉7月29日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ、野球解説者。秋田県能代市出身、兵庫県西宮市在住。 現役時代はNPBの阪急ブレーブス(パシフィック・リーグ)で1969年から1988年までプレーし、12年連続開幕投手を務めるなどエースとして活躍した。通算654試合登板、3865投球回、284勝166敗、防御率3.18、2058奪三振を記録、チームの8回のリーグ優勝に貢献、特に1975年・1976年・1977年には3年連続の日本シリーズ優勝を経験している。通算284勝はNPBのアンダースロー投手としては最多で、球界関係者からは史上最高のサブマリン投手と称されることもある。
大沢 勉(おおさわ つとむ、1948年5月23日 - 202… 大沢 勉(おおさわ つとむ、1948年5月23日 - 2024年7月12日)は、秋田県能代市出身のプロ野球選手(捕手)。 秋田県立能代高等学校で野球部に入り、厳しい練習を耐え抜いて2年生から試合に出るようになった当初は一塁手を務めていた。2年生夏の全国高等学校野球選手権西奥羽大会3回戦(対秋田県立金足農業高等学校)では、同点の9回裏2死満塁の場面で、三塁手の山田久志が自分の前に来たゴロを大沢のいる一塁に悪送球してサヨナラ負けを喫する。大会後に大沢は捕手への転向を指示され、同じく投手への転向を指示された山田とバッテリーを組んだ。新チームに捕手が不在だったことから、肩の強い部員が本塁からの二塁送球を試された結果指名されたという。
水谷 勇(みずたに いさむ、1947年5月22日 - 201… 水谷 勇(みずたに いさむ、1947年5月22日 - 2010年?)は、秋田県出身の元プロ野球選手。 秋田県立大曲農業高等学校では、1965年夏の全国高校野球大会で甲子園に出場し準決勝まで進んだ秋田高校と1勝1敗の成績を残しており、長身からの速球を武器とする本格派。他にもカーブ、ドロップ、シュートを武器とする。1965年のドラフト会議で阪急ブレーブスに9位指名され入団したが、わずか1年間で自由契約となり、一軍の試合には1試合も出場できなかった。詳細は不明だが既に亡くなっている(2010年に死去したとの説がある)。
三浦 健二(みうら けんじ、1946年 - )は、秋田県出身… 三浦 健二(みうら けんじ、1946年 - )は、秋田県出身の元アマチュア野球選手(投手)。 秋田工業高等学校では、エースとして1963年秋季東北大会に進む。1回戦で弘前高と延長12回0-0で日没引き分け、再試合では延長15回1-0でサヨナラ勝ちし話題となる。決勝で秋田商に完封勝ち、翌1964年春の選抜への出場を決めた。しかし大会では、1回戦で海南高の尾崎正司に抑えられ敗退、海南高はこの大会に優勝する。同年夏の選手権にも出場。1回戦で高知高の光内数喜(芝工大-鐘淵化学)と投げ合うが敗退、高知高もこの大会に優勝している。この試合では高知高の四番打者であった有藤通世の顔面に死球を直撃、以後の試合を欠場させることとなった。
簾内 政雄(すのうち まさお、1945年5月12日 - )は… 簾内 政雄(すのうち まさお、1945年5月12日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(投手)。 満州で生まれるもすぐに引き揚げた。能代高では1963年、3年生の時にエース、四番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は長浜北高を大差で降すが、続く2回戦で林田真人のいた岡山東商業高に敗退した。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立へ入社。1965年の都市対抗野球に日立製作所の補強選手として出場。同じく富士重工業から補強された高橋恒夫と左右の二本柱を組み、チームの準々決勝進出に貢献。これを含め都市対抗野球大会には3年連続出場した。 1965年のプロ野球ドラフト会議で東京オリオンズから5位指名を受けるも拒否し、日本鉱業に残留。
菅原 勝矢(すがわら かつや、1945年4月4日 - )は、… 菅原 勝矢(すがわら かつや、1945年4月4日 - )は、秋田県大館市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
成田 光弘(なりた みつひろ、1942年10月7日 - 20… 成田 光弘(なりた みつひろ、1942年10月7日 - 2023年10月19日)は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市)出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。 小学生の時、父親が出張のお土産にキャッチャーミットを購入し、野球を始めるきっかけになった。 しかし、当時は野球をするには充分な環境がなかったため、本格的に取り組むのは中学校へ進学してからになる。 高校進学は当初家が農家だったこともあり、秋田県立鷹巣農林高等学校を希望していたが、秋田市立秋田商業高等学校野球部の勧誘があり、秋田商業高等学校への進学を決めた。甲子園出場は計3回経験している。 秋田商業高等学校を卒業後、大毎に入団する。大毎入団の経緯としては他に大洋、西鉄、中日の計4球団から誘いがあったが、秋田商業高等学校OBの三平晴樹がいたことが決め手となった。
佐々木 幸男(ささき ゆきお、1942年9月30日 - )は… 佐々木 幸男(ささき ゆきお、1942年9月30日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手。 金足農業高校から電電東北を経て1962年に阪急ブレーブスへ入団。1968年に引退した。
石戸 四六(いしど しろく、1941年6月4日 - 1980… 石戸 四六(いしど しろく、1941年6月4日 - 1980年8月2日)は、日本のプロ野球選手(投手)。秋田県大館市出身。 長男ではあるが、6月4日に生まれたことに因んで「四六」というユニークな名前が付けられた。“六四”ではないのは、父親によると「六四だと頭が重くて、下が軽いからフラフラするだろう。四六だと下が大きくて安定する。男が一生、フラフラ生きてどうするのだ」であるためという。秋田商業高校では、エースとして1957年秋季東北大会県予選決勝に進むが、金足農に完封負け。翌1958年夏の甲子園に出場。しかし初戦(2回戦)で板東英二を擁する徳島商と対戦し、自らのエラーもあり0-3で敗れた。 社会人野球の日立製作所に進み、1962年に日本鉱業日立の補強選手として都市対抗に出場。
三平 晴樹(みひら はるき、1938年7月26日 - 201… 三平 晴樹(みひら はるき、1938年7月26日 - 2016年7月25日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手)。 秋田市立土崎中学校卒。秋田商では、エース三浦清(慶大-日本石油-大昭和製紙)の控えにとどまる。1年上に嵯峨健四郎、1年下には佐々木吉郎がいたが、在学中に甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立に入団。 1957年の産業対抗野球に出場、東洋紡富田から大会新記録となる15三振を奪い一躍注目を浴びる。 1958年に大毎オリオンズに入団。1年目から一軍に上がり6月には先発として起用される。7月12日には近鉄の伊藤四郎と投げ合い初完封勝利を果たした、1960年には初の2桁勝利となる12勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献、規定投球回(防御率リーグ10位)にも達する。
小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 202… 小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 2020年1月13日)は、秋田県出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。 秋田高校では1954年、2年生の時にエース青山伍(大映スターズ)を擁し、四番打者、右翼手として第36回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦(初戦)で恵川康太郎のいた三原高に敗退。青山以外のチームメートに高橋捷郎(慶大-東洋レーヨン)がいた。同年の秋季奥羽大会県予選も決勝に進むが、エース嵯峨健四郎を擁する秋田商に惜敗。翌1955年夏は奥羽大会1回戦で岩手高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は立教大学に進む。東京六大学野球リーグでは5度の優勝を経験。4年時の1959年秋季リーグで優勝に貢献し、自身もベストナイン(外野手)に選ばれている。
嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2… 嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2011年11月1日)は、秋田県秋田市上北手出身のプロ野球選手(投手)。 秋田商業高では、エースとして1954年秋季東北大会準決勝に進むが、盛岡商業高に敗退。翌1955年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き、奥羽大会に進むが1回戦で盛岡工業高に敗れる。なお、高校時代の1年後輩には、後に大毎オリオンズや阪急ブレーブスなどで活躍する三平晴樹がいた。三平も高校卒業後、嵯峨と同じルートでプロ入りしている(但し、プロでチームメイトになる事は無かった)。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立に入団。1956年の都市対抗野球にエースとして出場、準々決勝に進むが大昭和製紙に敗れる。
滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没… 滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没年不明)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。左打者。 秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業後、秋田鉱山専門学校(現:秋田大学)に入学。 卒業後はノンプロの中央工業に所属し、1948年、外野手として急映に入団。1949年からは大映に移籍、1950年には初めて規定打席(33位、打率.249)に達する。1952年6月22日にはサイクルヒットを達成し、同年は63試合に先発出場。翌1953年は一塁手に転向、開幕から三番打者として活躍しチームの3年ぶりの3位進出に貢献した。1954年は自己最高の打率.283(14位)を記録する。
五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 200… 五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 2007年1月12日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 旧制秋田県立角舘中學校から立教大学へ進学し、主将を務めた。リーグ通算13勝32敗。 1950年に創立された近鉄パールスへ入団。3月31日に対毎日オリオンズ戦でプロ入り初登板、5安打5与四球2奪三振の内容で完封勝利を挙げた。初登板完封勝利は日本プロ野球史上10人目、球団およびパ・リーグでは初めての記録となった。この年は37試合を投げて8勝15敗の成績だった。1951年9月16日の対阪急ブレーブス戦で、野口二郎からパ・リーグ史上初、日本プロ野球史上3人目の代打サヨナラ本塁打を放っている。
永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 -… 永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 - 2018年4月25日)は、秋田県出身のプロ野球選手(捕手)。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、第27回全国中等学校優勝野球大会が日中戦争の激化により中止されるなど甲子園出場はなし。専修大学を経て1949年に読売ジャイアンツに入団。同年2試合に出場するも、翌1950年に引退。 2018年4月25日に老衰のため死去。
渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)… 渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)2月8日 - 2013年(平成25年)6月22日)は、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手。 秋田市立土崎商業学校(現:秋田市立秋田商業高等学校)卒業後、1941年に阪神軍に入団。その後、1944年(昭和19年)に応召。 1946年から大阪タイガースに復帰。同年は開幕投手を勤め、10勝を挙げる(12敗)。同年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合ではパシフィック先発の湯浅芳彰と投げ合い、被安打5・88球で完封勝ちした。
渡辺 敬蔵(わたなべ けいぞう、1921年 - 没年不明)は… 渡辺 敬蔵(わたなべ けいぞう、1921年 - 没年不明)は、秋田県出身の元プロ野球選手(外野手)。 秋田市立土崎商業学校(現・秋田市立秋田商業高校)では渡辺誠太郎と共に投手として活躍した。渡辺誠太郎とは後にプロ野球においてもチームメイトとなっている。卒業後の1942年に阪神軍に入団した。 シーズン途中に大洋軍(後の大洋ホエールズとは無関係)に移籍したが、同年引退した。
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日… 赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。 なお、「ヒユウタロウ」は誤読である。巨人の星の星飛雄馬風に「ヒュウタロウ」である。 秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。 1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。
梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944… 梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手。 1916年、秋田市に生まれた。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ。4回(1931年~1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎(土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。
畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1… 畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1981年5月23日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手。右投右打)、野球指導者。 横手中学から専修大学を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(翌1935年より東京巨人軍)結成へ参加しプロ入り。日本プロ野球最初のリーグ戦(日本職業野球連盟)を開始した1936年7月3日の対大東京戦に先発登板し6イニングを1失点に押さえて巨人球団史上初の公式戦勝利投手となった。1937年以降は新設したイーグルス(1940年途中より黒鷲軍、1942年より大和軍)へ移籍。1937年に春季・秋季シーズン合わせて32敗を喫しているが、これはプロ野球記録とされている中山正嘉の29敗(1940年。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
三浦 由美子 は、日本の元女子プロ野球選手。秋田県秋田市出身… 三浦 由美子 は、日本の元女子プロ野球選手。秋田県秋田市出身。
斎藤 正人(さいとう まさと)は、日本の元アマチュア野球選手… 斎藤 正人(さいとう まさと)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは捕手。 秋田高校で2年生の時に、1965年夏の選手権で左翼手として出場し、チームは準決勝に進むが、その準決勝で上田卓三、林田俊雄らがいた三池工業高校に敗れた。 翌1966年の夏の選手権では捕手として出場した。しかし1回戦で加藤英夫、矢沢正、伊熊博一、平林二郎らがいる中京商業高校に敗れた。岐阜国体にも出場したが、1回戦で報徳学園高校に敗れた。同年のドラフト会議で西鉄ライオンズから4位指名されたが入団を拒否。 高校卒業後は秋田相互銀行に入社した。
落合 博満 は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監… 落合 博満 は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督、野球解説者、タレント。