後藤 嘉一(ごとう かいち、1905年(明治38年)4月29… 後藤 嘉一(ごとう かいち、1905年(明治38年)4月29日 - 1990年(平成2年)7月3日)は、昭和時代から平成時代初期に活躍した新聞記者、郷土史家。山形県の郷土史研究の先駆者として知られ、特に山形市史の編纂事業における中心的役割で評価されている。 小説家の後藤紀一は弟であり、孫は劇作家の後藤ひろひとである。 1905年(明治38年)4月29日、嘉一は山形県東村山郡山辺町の農家に、父嘉兵衛、母とみの間に生まれた。1920年(大正9年)3月、15歳で山辺小学校を卒業し、当初は自作農を志していた。しかし家業の農業が大正期の農業不況により困窮し、19歳で転身を余儀なくされた。 嘉一の初期の文学活動はこの時期からはじまっており、1919年(大正8年)9月には14歳で、同級生の高内寿郎、斎院喜一、峯田覚治らと文芸回覧月刊雑誌『楓』を第7号まで発行した。
高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
佐藤 正能(さとう まさよし、1901年(明治34年)5月1… 佐藤 正能(さとう まさよし、1901年(明治34年)5月10日 - 1979年(昭和54年)11月14日)は、日本の教育者、ドイツ法学者、横浜国立大学教授、財団法人荘内館理事。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 ※この歌は佐高信が自著で取り上げた事で有名になった。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1… 森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手。 1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した。 1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年… 岡 邦雄(おか くにお、1890年1月15日 - 1971年5月22日)は、日本の科学史家。 山形県米沢市生まれ。東京物理学校(現在の東京理科大学)卒。1924年旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)助教授。文化学院大学部設立に助力し、教師も務める。1932年に共産主義活動を理由に一高を解雇され、同年、戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加した。 1936年には糟糠の妻と6人の子を捨て、26歳のロシア語翻訳者桝本セツとの恋愛に走ったことで世間を騒がせ、新聞には、自らが唱えた新しきモラルの実践か、と揶揄された。 1938年に治安維持法違反の疑いにより逮捕。1945年10月9日、全政治犯の釈放に際し、宮城刑務所を出所した。
高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月… 高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月28日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は、日本の哲学者。男性。元東北大学総長。文化功労者。 1886年、山形県東置賜郡上郷村(現米沢市)で生まれた。13歳の時に父を失い、米沢にあった母の実家本間家で育った。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学文科大学に入学。哲学科で学び、1910年(明治43年)に卒業。同大学大学院へ進み、修了した。大学院在学時の26歳の時に処女論文「意識現象の事実と其意味」(1912年5・6月号『哲学雑誌』)を発表して西田幾多郎『善の研究』を批判し、西田と論争を展開して注目された。
田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954… 田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954年10月30日)は、日本の教育社会学者。 山形県置賜郡添川村(現・飯豊町添川)生まれ。山形県立米沢中学校卒、1907年早稲田大学文学部文学科卒。新潟県立高田中学校教諭、1913年に退職して上京、大日本文明協会で翻訳の仕事をする。1915年大日本文明協会編集部員。1946年早大文学部講師。のち教育学部講師を兼ねる。
亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 197… 亀井 高孝(かめい たかよし、1886年6月8日 - 1977年10月4日)は、日本の西洋史学者。
小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 19… 小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 1945年1月18日)は、日本の植物学者・登山家。高山の植物、地衣類、蘚苔類の研究で知られる。 植物学者の小泉源一は実兄。 山形県米沢市にて、旧米沢藩士の家に生まれる。盛岡高等農林学校に学ぶが中退して中学教員となった。山形県内の中学校に勤務後、1911年、北海道庁立上川中学校の教員となった。この間大雪山に登り、地形・地質の調査と植物採集を行い、日本山岳会の機関紙『山岳』に記事を寄稿し、研究調査結果を、『大雪山 登山法及び登山案内』として1926年に刊行したことから、「大雪山の父」と呼ばれるようになった。その後高知県立第三中学校を経て、長野県立女子師範学校、松本高等学校の講師となり、長野県内、関東、近畿の山岳や名勝を調査した。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。
小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日… 阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日 - 1959年〈昭和34年〉10月20日)は、日本の哲学者・美学者・作家。東北帝国大学法文学部教授、同学部長、帝国学士院会員。仙台市名誉市民。『三太郎の日記』著者。 1883年、山形県飽海郡上郷町(後の松山町、現・酒田市)大字山寺に生まれる。教師であった父の阿部富太郎とゆき(旧姓・竹岡)夫妻の次男。富太郎は叔父の阿部七郎衛門とわかの夫妻の養子となるが、わかのはゆきの長姉で竹岡家の姉弟は全員がキリスト教徒でもあった。8人兄弟で、加藤ます(加藤儀藏夫人)、阿部一郎(農業指導者・実業家、山形県食糧営団理事長、山形糧穀加工社長、阿部襄の父)、阿部次郎(本人)、堀三也(軍人、陸軍大佐、昭和通商社長)、阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、竹岡勝也(日本史学者、九州帝国大学教授)、柏木礼子(柏木俊一夫人)、阿部六郎(ドイツ文学者・文芸評論家、旧制成城高校・東京藝術大学教授)と、兄弟のうち、次郎を含む4人が大学の教師となる。
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1… 寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授。学位は理学博士(1917年・東京帝国大学)。東北帝国大学教授、東京帝国大学教授、同総長事務取扱、同理学部長、同地震研究所所長、同航空研究所所長、逓信省高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。 1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる。 興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 192… 羽太 鋭治(はぶと えいじ、1878年11月1日 - 1929年8月31日)は、日本の性科学者。 山形県山形市出身。文学に憧れながら医師を志し、済生学舎卒業、1900年(明治33年)医術開業試験に合格、故郷で開業するがのち上京し文筆活動をしながら医学研究を行い、1912年(明治45年)から一年半ドイツに留学して医学博士の学位を得、生理学を学び、1914年(大正3年)、神田小川町に泌尿生殖器科医院を開業。1920年(大正9年)に『性慾と人生』を創刊(-1921年)、多くの通俗性科学書を著した。その後本郷にいづま医院内で活動。文芸、芸術にも造詣が深く、当時の西欧における性科学の発達に応じて、性欲を中心とし、恋愛、売春、避妊、自慰など、当時変態性欲とされていたものなどを啓蒙的に縦横に論じた。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - … 日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - 1924年7月3日)は、日本の地球物理学者。理学博士(1906年)。東北帝国大学教授。岩石や地震波の研究者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。 日下部定治の3男として山形県東村山郡金井村(現・山形市)に生まれる。幼い頃は社交性がない神経質な子供であり、村の寺に小僧として3年間預けられたこともあった。小学生の頃から数学などが非常に得意であった。旧制山形尋常中学、旧制二高へ進み、1900年、東京帝国大学物理学科を卒業。
小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年… 須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立し、1923年に栄養部長に大橋タカ子を登用している。日本の脚気史に於いては、臨時脚気病調査会委員を務めたことで知られる。 「栄養」の提唱者でもある。「森鷗外、尾崎行雄などの支持を得て「栄養」に改めた」との説もある。 羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市の赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門(一真)と母いわの長男として生を受ける。
川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年… 川上 瀧彌(かわかみ たきや、明治4年1月24日(1871年3月14日) - 大正4年(1915年)8月21日)は、日本の植物学者。 明治4年(1871年)1月24日、羽後国飽海郡松嶺(現・山形県酒田市)に庄内士族の二男として生まれた。7-8歳から付近の山を歩いて植物採集を始めた、9歳で腸チフスが原因で右足の膝が曲がったまま伸びない悪性リウマチとなった。手術により、どうにか歩行できるようになった。明治24年(1891年)に札幌農学校予科に入学、 明治33年(1900年)に本科を卒業した。この間、庄内、北海道、千島などの植物を研究し多数の学術論文を書いている。明治30年(1897年)には阿寒湖の尻駒別湾で発見した緑藻に「マリモ」の名をつけた。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2… 伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2月11日) - 昭和5年(1930年)5月14日)は、旧米沢藩士で山形県の漢学者・歴史家・史料収集家。 米沢藩(山形県置賜地方)の藩士の子として誕生。米沢藩藩校の興譲館で漢学を修める。 旧米沢中学校(山形県立米沢興譲館高等学校)で教鞭を執り、明治14年(1881年)からは山形県師範学校(後の山形大学教育学部、現在は山形大学地域教育文化学部に改組)、明治23年(1890年)からは上杉家記録編纂所の総裁となる。 明治41年(1908年)に財団法人米沢図書館を設立、翌年に開館した(後の市立米沢図書館)。旧藩時代の文書や興譲館の蔵書などの貴重書保全に務めた。
宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4… 宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4月15日) - 1893年(明治26年)2月13日)は、日本の刑法学者、政治家。明治法律学校(のちの明治大学)創設者の一人。衆議院議員。 ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。ボアソナード起草にかかる旧刑法下で、フランスの刑法理論である新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献し、「東洋のオルトラン」と呼ばれた。なお、オルトランはボアソナードの師である。 その後、宮城の刑法理論は、資本主義の発達に伴う累犯の増加に対応できないとして新派刑法理論の立場から批判された[誰によって?]。 民法典論争では、梅謙次郎と共に施行断行派に与したが、その最中腸チフスのため42歳で急死した。
伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明… 伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明治3年(1870年))は、出羽庄内藩領の酒田(現在の山形県酒田市)出身の儒学者。 田原藩家老渡辺崋山に見出され、以降田原藩藩儒として仕える。家老渡辺崋山、藩医鈴木春山とともに田原の三大山と謳われた。崋山の影響を受けた鳳山は、ペリー来航時には「鎖港攘夷の策はとるべきではなく、開港進取の策こそ守るべき」と積極的開国を主張し、欧米文化の摂取を主張した。 儒学者としては、京都、江戸、酒田などに私塾を開塾した。孫子の注解書である著書『孫子詳解』は高い評価を得ている[誰によって?]。
小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年… 小関 三英(こせき さんえい、天明7年6月11日〈1787年7月25日〉 - 天保10年5月17日〈1839年6月27日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。名は好義、幼名は弁助、通称は良蔵。号は鶴斎、鶴洲、篤斎など。 天明7年(1787年)出羽庄内藩給人組外・小関知義(弥五兵衛)の次男として鶴岡に誕生。幼少期に火傷を負って足が不自由となる。 文化元年(1804年)江戸に上り、吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学と医学を学ぶ。 文政4年(1821年)故郷の鶴岡に帰り医者を開業するが、翌文政5年(1822年)には蘭学者・大槻玄沢の紹介で仙台藩医学館の教師に着任する。翌文政6年(1823年)長崎に赴いてシーボルトの下で学ぶ。
佐藤 佳(さとう けい、Kei SATO)は、日本のウイルス… 佐藤 佳(さとう けい、Kei SATO)は、日本のウイルス学者。学位は博士(医学)(京都大学・2010年)。東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野・教授(分野長)、東京大学新世代感染症センター・主任研究員。
田中 真美(たなか まみ)は、日本の医療福祉工学者。東北大学… 田中 真美(たなか まみ)は、日本の医療福祉工学者。東北大学大学院医工学研究科教授、日本学術会議会員。日本学術振興会賞受賞。 山形県山形市出身。山形市立第十中学校、山形県立山形東高等学校を経て、1993年東北大学工学部機械工学科卒業。1995年東北大学大学院工学研究科博士課程前期課程修了。1999年博士(工学)。 2001年東北大学大学院工学研究科助教授。2002年東京工業大学精密工学研究所助教授併任。2003年文部科学省在外研究員(フランス国立工芸院)。2008年東北大学大学院医工学研究科教授。2014年東北大学男女共同参画推進センター副センター長。 2018年東北大学総長特別補佐(共同参画担当)、日本機械学会理事。
深田 康算 は、日本の美学者。京都帝国大学教授。山形県生まれ… 深田 康算 は、日本の美学者。京都帝国大学教授。山形県生まれ。父は旧会津藩士深田康守で、その長男。大塚保治とともに日本における美学研究の先駆者となる。中井正一は門下生で、深田の死後その全集の編纂を行った。
伊藤 隆壽(寿)(いとう たかとし、1944年 - )は、日… 伊藤 隆壽(寿)(いとう たかとし、1944年 - )は、日本の仏教学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は禅学、禅宗を中心とした中国仏教。 山形県高畠町生まれ。1967年駒澤大学仏教学部仏教学科卒業。同大学院修士課程修了。1972博士課程満期退学。駒澤大学講師、助教授を経て、教授。[要出典] 1994年『中国仏教の批判的研究』で博士号(仏教学、駒澤大学)取得。 2010年駒澤大学を退職、名誉教授。曹洞宗自性院住職。[要出典] 著書に『三論宗の基礎的研究』『中国仏教の批判的研究』『肇論一字索引』など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岡部 大介(おかべ だいすけ、1973年 - )は、日本の認… 岡部 大介(おかべ だいすけ、1973年 - )は、日本の認知科学者、博士(学術)、東京都市大学教授、慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。山形県鶴岡市出身。
善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士… 善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士、儒学者、政治家。本姓は高山、旧名は司(つかさ)、通称は勝右衛門、号は霞城。足利藩士、足利藩権大参事。 文政5年(1825年)、出羽国山形藩士・高山新兵衛の次男として山形で生まれる。秋元氏が館林藩に転封となったため館林に移り住んだ。 天保14年(1843年)に江戸に遊学し、長戸得斎や林大学頭に師事。安政2年(1855年)31歳のとき足利藩士・善野勝右衛門家の養子に迎えられ、勝右衛門を襲名。文久元年(1861年)、37歳で栃木町の栃木陣屋奉行となった。 元治元年(1864年)、栃木町は天狗党の乱において田中愿蔵の放火に遭い、大部分を焼失。