銚子 利夫(ちょうし としお、1961年8月24日 - )は… 銚子 利夫(ちょうし としお、1961年8月24日 - )は、茨城県神栖市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 野球を始めたのは実兄の銚子洋二(市立銚子高-早大)の影響で、最初は内野手であったが、市立銚子高校2年次の1978年秋に投手へ転向。3年次の1979年には夏の甲子園にエース兼4番打者として、チームを初出場に導いたが、結果は初戦で高知高に敗退。高校生時代には、自身の苗字と校名が同じことにちなんで、「銚子高校の銚子君」と呼ばれた。同年のドラフトで近鉄バファローズから投手として4位で指名されたものの、入団を固辞。 高校卒業後の1980年に法政大学へ進学し、内野手へ再び転向。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。
田中 毅彦(たなか たけひこ、1959年8月27日 - )は… 田中 毅彦(たなか たけひこ、1959年8月27日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 茨城・土浦日大高では、三塁手として1977年春の選抜に出場。1回戦で智辯学園の山口哲治に抑えられ敗退。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、大野久のいた取手二高に敗れる。 同年ドラフト6位でヤクルト入団。1982年限りで現役引退。 県予選、関東大会にて本塁打を連発、高校通算28本塁打、打率.471という成績を残す。元西鉄の怪童にあやかり「中西二世」と注目された県屈指のスラッガーだった。しかし、高校時代に打球を眼に当て手術を受けた後遺症もあって、プロでは戦力と成り得なかった。
沢幡 誠士(さわはた せいし、1959年7月25日 - )は… 沢幡 誠士(さわはた せいし、1959年7月25日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城・大宮高では、1試合平均13三振を奪うという関東ではトップレベルの存在だった。右の本格派でカーブが武器。 1977年オフに、ドラフト外で広島東洋カープに入団。高校でバッテリーを組んでいた菊池敏郎も同じくドラフト外で広島に入団した。 1982年オフに自由契約となり、テストにて阪神タイガースに移籍。しかし、こちらでも一軍公式戦に出場がないまま1984年限りで現役を引退。武器はカーブ、スライダー。 引退後は、芳野スポーツ少年団や硬式野球練習NBFの指導などを行っている。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。
梅沢 義勝(うめざわ よしかつ、1959年4月25日 - )… 梅沢 義勝(うめざわ よしかつ、1959年4月25日 - )は、茨城県筑西市(旧下館市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 鬼怒商では1977年夏の甲子園県予選準々決勝に進出。大野久のいた取手二高と対戦するが、延長18回引き分け再試合の末に敗退した。 同年のドラフト2位でロッテ入団。堀内二世といわれる正統な本格派として評判だった。重い球質のストレートが武器、カーブ、シュート、スライダーを軸に中継ぎ投手として活躍。ロングリリーフを中心に起用され、1981年には倉持明とともにストッパーを務め、前期は防御率トップとなる。同年は130イニングを投げ規定投球回(6位、防御率3.25)に到達、7勝8セーブを記録した。
金沢 次男(かなざわ つぎお、1958年12月18日 - )… 金沢 次男(かなざわ つぎお、1958年12月18日 - )は、茨城県常陸太田市出身の元プロ野球選手(投手)。
鶴岡 昌宏(つるおか まさひろ、1957年5月6日 - )は… 鶴岡 昌宏(つるおか まさひろ、1957年5月6日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは外野手。 東洋大牛久高校を卒業した後に、東洋大学に入学する。在学中は投手のほかに外野手としても中軸を打った。2年上に達川光男、1年上に松沼雅之らがいた。 大学卒業後は社会人野球の日産自動車チームに入団する。当初は投手も兼ねていたが外野手専任となる。1982年の日本選手権大会と1990年の日本選手権大会では優秀選手に選ばれ、1990年には社会人ベストナインに選ばれた。また1991年の都市対抗野球では10年連続出場選手に選ばれれ、通算11年連続出場を果たした。1992年限りで現役を引退し、翌年はコーチを務めた。
高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は… 高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は、茨城県鹿島郡鉾田町(現:鉾田市)出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ。実兄はヤマハ硬式野球部監督を務めたヤマハ硬式野球部副部長の高柳信英。 鉾田一高では、1973年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、土浦日大高の工藤一彦に抑えられ完封負け。 高校卒業後は、国士舘大学に進学。東都大学野球リーグでは、1学年下のエース片岡大蔵を擁し1977年春季リーグ二部優勝。入替戦で日大を破り、2年ぶりの一部昇格を果たす。しかし優勝には届かず、1978年秋季リーグの3位が最高成績であった。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。
工藤 一彦(くどう かずひこ、1956年5月20日 - )は… 工藤 一彦(くどう かずひこ、1956年5月20日 - )は、青森県生まれ、茨城県筑波郡谷田部町出身の元プロ野球選手(投手)。野球解説者。 土浦日大高校では、1974年春夏の甲子園にエースとして出場。いずれも高校として初出場であった。春の選抜では1回戦では新居浜商に勝利するが、2回戦で報徳学園に惜敗。夏の選手権は県予選決勝で松沼雅之がいた取手二高に勝利し出場。2回戦(初戦)で原辰徳らのいた東海大相模と延長16回の熱戦の末2-3xでサヨナラ負け。同年の茨城国体(水と緑のまごころ国体)にも出場し、決勝で土屋正勝のいた銚子商に勝利し、優勝を飾る。 高校同期では捕手の荒川俊男(巨人)、中堅手の林真人(阪神)がプロ入りしている。
菊地 恭一(きくち きょういち、1954年12月26日 - … 菊地 恭一(きくち きょういち、1954年12月26日 - )は、茨城県稲敷郡江戸崎町(現・稲敷市)出身の元プロ野球選手(外野手)。右投げ右打ち。 東洋大牛久高では、1972年夏の県大会を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進む。先発投手として銚子商業高の根本隆と投げ合うが惜敗した。 高校卒業後は、社会人野球の東芝に入社した。都市対抗野球に出場し、社会人ベストナインにも2度選出される。1978年の都市対抗野球では3本塁打を放ち、チームの優勝に貢献した。同年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受けるが入団を拒否し、チームに残留した。この時の3位指名が落合博満だったが、社会人時代は東芝府中所属だった落合よりも菊地の方が評価が高かった。
薗部 潔史(そのべ きよし、1953年10月1日 - )は、… 薗部 潔史(そのべ きよし、1953年10月1日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
大西 忠(おおにし ただし、1952年12月15日 - )は… 大西 忠(おおにし ただし、1952年12月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 土浦日大高校では3番で中堅手、主将。同級生で同じく阪急入りした高須正義が4番を打った。1970年ドラフト会議で阪急ブレーブスから8位指名を受け入団。 1974年に引退した。引退後は土浦市に在住。すし店を経営をしていた。
高柳 信英(たかやなぎ のぶひで、1952年10月26日 -… 高柳 信英(たかやなぎ のぶひで、1952年10月26日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは捕手。字形の異なる髙栁 信英と表記されることもある。実弟は元プロ野球選手の高柳秀樹。 茨城県鉾田市出身。国士舘高校では1年秋に都大会ベスト4。1970年夏の東京都大会で準々決勝に進むが、帝京商工に敗退。卒業後は国士舘大学に入学する。東都大学野球リーグでは在学中二部リーグにとどまるが、1974年秋季リーグで優勝、入替戦で日大を降し翌年からの一部リーグ昇格を決める。 大学卒業後は、社会人野球の日本楽器チームに入団する。チームでは捕手として6年間プレーし、1976年の都市対抗では大昭和製紙の補強選手として、大会初出場を果たす。
梶間 健一(かじま けんいち、1952年〈昭和27年〉8月3… 梶間 健一(かじま けんいち、1952年〈昭和27年〉8月30日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 茨城県鹿島郡旭村(現・鉾田市)に生まれる。鉾田一高では3年次の1970年、エースとして夏の甲子園予選東関東大会準決勝に進出するが、後にプロでチームメイトとなる渡辺進遊撃手のいた銚子商に敗れ甲子園出場を逸する。 1971年に日本鋼管へ入社。 1974年の都市対抗にリリーフとして初登板。 1976年の都市対抗では樋野和寿三塁手・前川善裕外野手などの強力打線にも助けられ順調に勝ち進み、決勝では先発投手として起用され、北海道拓殖銀行を破り優勝を飾った。同年にはアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。
菅野 光夫(すがの みつお、1952年8月28日 - 200… 菅野 光夫(すがの みつお、1952年8月28日 - 2007年3月22日)は、茨城県出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 武相高校では、1970年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、東海大相模に敗退。高校同期にエースの東門明がいた。 卒業後は社会人野球の三菱自動車川崎に入社。守備の名手として知られ、1974年の都市対抗では東芝の補強選手としてチームの準決勝進出に貢献。同年には全日本選抜メンバーとしてキューバに遠征する。 1975年、日本ハムにドラフト1位で入団。1977年には行沢久隆と遊撃手の定位置を争い、1979年からは主に二塁手として起用される。1981年の日本シリーズでは全試合に出場し、12打数5安打2打点の好記録を残す。
市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は… 市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は、茨城県常総市出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城県の石下高校時代は、1970年の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗れる。 高校卒業後は、東洋大学へ進学し硬式野球部に入部する。東都大学リーグ通算37試合に登板し7勝8敗。1973年秋季リーグから3シーズン連続2位となるが優勝には届かなかった(卒業後の1975年春の2位を含めると4シーズン連続)。後に西武でチームメイトになる大学同期の松沼博久と、投手の二本柱として活躍した。また、大学の3学年後輩には達川光男がいた。 大学卒業後は、社会人野球の電電関東に入団。先発型の好投手が多く出場機会に恵まれなかったが、リリーフとして徐々に活躍。
高木 孝治(たかぎ こうじ、1952年6月15日 - )は、… 高木 孝治(たかぎ こうじ、1952年6月15日 - )は、茨城県勝田市(現在のひたちなか市)出身の元プロ野球選手(投手)。 水城高では1969年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、磯原高に9回裏逆転サヨナラ負けを喫した。その後も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、日本鉱業日立に進む。エースとして鈴木康二朗がおり、あまり出場の機会はなかった。 1972年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから7位指名を受け入団した。 なかなか一軍に上がれなかったが、1976年に一軍初登板を果たすと主に中継ぎで21試合に登板した。 1978年シーズン途中、野崎恒男との交換トレードで中島浩一と共にクラウンライターライオンズに移籍した。
根本 学(ねもと さとる、1951年5月14日 - )は、茨… 根本 学(ねもと さとる、1951年5月14日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 水戸工業高等学校から金陽社を経て、1970年にドラフト外で大洋ホエールズへ入団。一軍の1試合は偵察メンバー。主にブルペンでの調整役を務めた。 1972年オフ、山本恒敬と交換トレードで、藤池昇と共に日拓ホームフライヤーズへ移籍するが、こちらでは在籍1年に終わり、1973年に現役を引退した。
大室 勝美(おおむろ かつみ、1950年12月12日 - )… 大室 勝美(おおむろ かつみ、1950年12月12日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(外野手)。 土浦日大高から、社会人野球の日拓観光に入社するも4年で廃部となり、1972年にテストを受けてドラフト外で東映フライヤーズへ入団。翌年のキャンプイン直後に、社会人時代に在籍した日拓ホーム(日拓観光から社名変更)が東映から球団を買収し、日拓ホームフライヤーズと改名された。 1年目から1軍試合に出場し、この年は102試合に出場。2年目は86試合、3年目も79試合に出場した。1976年は38試合の出場に留まり同年に引退した。 引退後はフロント入りし、1997年からファイターズタウン鎌ヶ谷の開設にともなって鎌ヶ谷事業部業務部長に就任。
宮本 孝男(みやもと たかお、1950年4月17日 - )は… 宮本 孝男(みやもと たかお、1950年4月17日 - )は、茨城県龍ケ崎市出身の、元プロ野球選手及び元競輪選手。1972年及び競輪時代の登録名は宮本 孝雄(読み同じ)。 竜ヶ崎第一高校ではエース。切れのいいカーブを武器とした本格派。コントロールがあとひと息といわれているが、主将で四番を打ちバッティングも高く評価されていた。1968年ドラフト会議で東映フライヤーズから3位指名を受け入団。ポジションは投手。1972年の登録名は宮本 孝雄。同年限りで引退。 その後、競輪選手に転身。日本競輪選手会茨城支部に在籍していた。日本競輪学校第35期生で、同期には中野浩一らがいる。なお、競輪選手登録名は宮本 孝雄である。
鈴木 康二朗(すずき やすじろう、本名:鈴木 康二郎(読み同… 鈴木 康二朗(すずき やすじろう、本名:鈴木 康二郎(読み同じ)、1949年4月18日 - 2019年11月19日)は、茨城県北茨城市出身のプロ野球選手(投手)。 小学4年の時に野球を始め、中学卒業後1浪して磯原高へ進学する。3年生の時にエースになるが、夏の県大会3回戦で敗退し甲子園には出場できなかった。社会人野球の日本鉱業日立に進む。1971年の都市対抗野球に日立製作所の補強選手として出場。リリーフとして活躍し準々決勝に進むが、新日本製鐵広畑の山中正竹(住友金属から補強)、三沢淳の継投に完封を喫する。この時のチームメイトに小野寺重之、後にプロで同僚となる渡辺孝博らがいた。 1972年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトアトムズから5位指名を受け入団。
持丸 修一(もちまる しゅういち、1948年4月17日 ‐ … 持丸 修一(もちまる しゅういち、1948年4月17日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。茨城県北相馬郡藤代町(現在の取手市)出身。4校を甲子園大会に導いている。 藤代中学校時代には木内幸男に指導を受けたこともある。中学校卒業後、茨城県立竜ヶ崎第一高等学校に進学した。 1966年、3年生の時に第48回全国高等学校野球選手権大会に6番・二塁手として出場したが、2回戦で敗退した。1回戦の興南高等学校戦で2安打を記録している。國學院大學に進学後、新聞記者を目指していたが、4年の時に母校のコーチをし始め、卒業と同時に母校に赴任し、そのまま日本史の教員となった。1975年秋に27歳で監督に就任した。 就任16年目の1990年夏、第72回全国高等学校野球選手権大会に出場した。
桜井 憲(さくらい けん、1948年4月9日 - )は、茨城… 桜井 憲(さくらい けん、1948年4月9日 - )は、茨城県猿島郡境町出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 中学時代から投手で、地元茨城から進学した日大一高では、エースとして1966年の春季関東大会決勝で浅野高を降し優勝。夏の都大会では6回戦で敗退したが、本格派右腕として各球団から注目された。高校同期に投の二本柱であった保谷俊夫、捕手の村上修(富士重工業)がいた。 1966年第1次ドラフト会議で東映フライヤーズから1位指名を受け入団。1967年8月19日に南海ホークスを相手に初先発。しかし野村克也に本塁打を喫し、1回途中で降板を余儀なくされる。同年のジュニアオールスターにも出場。1968年には30試合に登板、うち10試合には先発として起用される。
鴨川 清(かもがわ きよし、1948年1月24日 - 201… 鴨川 清(かもがわ きよし、1948年1月24日 - 2017年6月24日)は、茨城県出身のプロ野球選手(捕手)。 那珂湊第一高から、社会人野球のオール常磐へ進み都市対抗野球に出場して福本万一郎(日拓観光でも同僚で一緒にプロ入り)ともバッテリーを組んだ。その後は日本鉱業日立、日拓観光を経て、1972年にドラフト外で日拓ホームフライヤーズへ入団。 1974年限りで現役を引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
橋本 實(はしもと みのる、1947年11月21日 ‐ 20… 橋本 實(はしもと みのる、1947年11月21日 ‐ 2012年9月18日)は、日本の高校野球指導者。茨城県出身。 水戸市の生まれ。水戸市立水戸第二中学校で野球を始め、茨城県立緑岡高等学校では三塁手だった。中央大学に進学したが肩を傷めて2年の時に退部。教員免許取得に専念した。卒業後に帰郷。 1975年に茨城県立岩井高等学校の野球部監督に就任してから、高校野球監督としてのキャリアをスタート。1984年に茨城県立佐竹高等学校に転じ、同校を県大会ベスト8まで進出させた。この実績を買われ、1987年に茨城県立水戸商業高等学校赴任。翌年夏から監督に就任した。伝統校の水戸商をOB以外が率いるのは史上2人目だった。
中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は… 中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 下妻第一高校から立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験、しかしその後は優勝に届かなかった。4年時には主将をつとめ、三塁手、三番打者として活躍。同期のエース土井池憲治、捕手の田中鞆雅(日本石油)のバッテリーを擁し、1年下の望月充とクリーンアップを組み、低迷期の立大を支えた。 卒業後は1970年に本田技研工業へ入社し、同年の都市対抗に四番打者として出場。河本昭人らの好投もあり準々決勝に進むが、住友金属の山中正竹らに抑えられ、渡辺弘基(日産自動車から補強)のサヨナラ押し出し四球で延長11回サヨナラ負け。
大塚 徹(おおつか とおる、1945年4月18日 - 201… 大塚 徹(おおつか とおる、1945年4月18日 - 2018年7月13日)は、日本のプロ野球選手。サンケイアトムズ・ヤクルトスワローズ、南海ホークスでプレーした。茨城県土浦市出身。茨城県立土浦第三高等学校卒業。息子は元東京ヤクルトスワローズの大塚淳。 茨城県立土浦第三高等学校では、捕手として1962年秋季関東大会準決勝に進むが、宇都宮商に敗退。 1964年国鉄スワローズに入団。1964年、1965年と2年連続でジュニアオールスターに出場。しかし根来広光、岡本凱孝らの壁を破れず、1968年から外野手に転向。同年は23試合に先発出場、一番打者として16試合に起用される。その後もユーティリティープレイヤーとして先発、代打、守備固めなど、臨機応変に活躍。
飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12… 飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12月4日)は、日本の元アマチュア野球選手。茨城県出身。 茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から1932年に慶應義塾大学へ進み、野球をプレーした。ポジションは投手だったと伝わる。 慶大卒業後応召され、1944年12月4日に屋久島西方海上で戦死した。1932年に慶大に入学していることから、1910年代前半に生まれたものと推定されるので、30歳前後で死没したことになる。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は、茨… 江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は、茨城県高萩市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督。 実家は旅館。日立一高では1年次の1958年、秋季関東大会県予選の準々決勝で結城一高からノーヒットノーランを達成。準決勝で土浦三高に敗退するが、好投手として話題になる。3年次の1960年には夏の甲子園東関東大会県予選決勝に進出するが、0-1で水戸商に惜敗。 高校卒業後は一般入試で早稲田大学2部政治経済学部に進学。最上級生であった安藤元博の後継として期待され、東京六大学野球リーグでは1年次の1961年春季リーグから登板機会を得る。しかし同年秋季リーグでは1死も取れずに5失点を喫して降板、2年次の1962年春季リーグでも3度先発のチャンスを貰うも結果を残せず、同期のエース・宮本洋二郎の後塵を拝す。
飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、… 飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、日本の陸上短距離選手、元プロ野球選手・コーチ。 1964年、100メートルの日本記録を29年ぶりに更新した。1964年東京オリンピックおよび1968年メキシコシティーオリンピックでは日本代表選手となる。 メキシコシティーオリンピック後に俊足を買われ、代走専門選手として1969年にプロ野球・ロッテオリオンズに入団し、実働3年間で通算盗塁数は23を記録した。 その後は指導者・審判員・スターターとして陸上界に復帰した。 茨城県水戸市出身。父は郵便局員で、7人きょうだいの三男だった。父は町内運動会で俊足を披露しており、少年時代の飯島も運動会では負け知らずだった。
篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城… 篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(内野手)。 水戸商では、1958年の夏の甲子園に遊撃手として出場。3回戦で石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商に延長16回0-1xでサヨナラ負け。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、1961年春季リーグ、1963年秋季リーグで打撃成績2位を記録、両季とも三塁手としてベストナインに選ばれている。 1964年に国鉄スワローズに入団、同年のジュニアオールスターにも出場する。1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。
安藤 統男(あんどう もとお、本名・安藤 統夫※読み同じ、1… 安藤 統男(あんどう もとお、本名・安藤 統夫※読み同じ、1939年4月8日 - )は、茨城県土浦市出身(兵庫県西宮市生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 兵庫県西宮市平松町で出生後に、実父の転勤で土浦市内に転居。土浦一高進学後は、2年次の1956年まで木内幸男監督の指導を受け、3年次の1957年夏に遊撃手兼控え投手として夏の甲子園へ出場。山本秀一を擁する県和歌山商との初戦に勝利したものの、高木守道を擁する県岐阜商の前に完封負けを喫した。 高校卒業後は1958年に慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、3年次の1960年秋季リーグの早慶六連戦では一番打者、遊撃手として活躍。
岡野 義光(おかの よしみつ、1938年11月28日 - )… 岡野 義光(おかの よしみつ、1938年11月28日 - )は、茨城県つくば市出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。 土浦第一高校では、捕手として1956年春季関東大会県予選決勝に進出するが水戸商に惜敗。夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが水戸一高に敗れる。高校の1年下に安藤統男がいた。 明治大学に進学。1年上に佐々木勲がおり、その後継として4年生からレギュラーとなる。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかった。卒業後は三協精機へ入社。1962年の産業対抗では準々決勝に進むが東黎工業に敗退。 強肩に定評があり、1962年シーズン途中に中日ドラゴンズへ入団。当時の中日は吉沢岳男が近鉄に移籍し、中心打者の江藤慎一を捕手に回すなど苦しい状況にあり、一軍定着が期待された。
石上 滋夫(いしがみ しげお、1938年3月23日 - )は… 石上 滋夫(いしがみ しげお、1938年3月23日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 土浦第三高校では、エース富島五郎を擁し1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。 1956年に富島とともに南海ホークスへ入団。1958年には二塁手、三塁手として6試合に出場するが、同年限りで引退。
富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 20… 富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 2018年12月20日)は、茨城県出身のプロ野球選手。 土浦第三高校では、エースとして1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。高校同期に石上滋夫がいる。 1956年に石上とともに南海ホークスへ入団。1年目から一軍で起用され4勝を挙げるが、その後はやや伸び悩む。1960年にはウエスタン・リーグで防御率1位を記録。1961年にも4勝、1962年には自己最多の40試合に登板するが、1964年限りで引退。引退後は日立電線の土浦工場に勤務した。
近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )… 近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 水戸農業高校、日本鋼管を経て1959年に近鉄バファローへ入団。1962年に引退。
岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没… 岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没年不詳)は、茨城県つくば市出身の元プロ野球選手。 下妻第一高校から東京鉄道管理局を経て、1957年に国鉄スワローズへ入団。
河野 安男(こうの やすお、1936年11月25日 - )は… 河野 安男(こうの やすお、1936年11月25日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 水戸農業高校から東京鉄道局を経て1959年に近鉄バファローへ入団。1960年退団。
鈴木 滋(すずき しげる、1936年10月15日 - )は、… 鈴木 滋(すずき しげる、1936年10月15日 - )は、1950年代に大洋ホエールズに在籍した茨城県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 茨城高等学校から1955年に大洋ホエールズに入団した。8月の読売ジャイアンツ戦では最終的に権藤正利のリリーフを仰いだものの8回途中まで2失点と好投し唯一の勝ち星を記録している。左腕から小さなカーブやシュートを武器とした。 翌年以降は故障もあって登板数も減り、1957年限りで引退した。
玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )… 玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。 水戸一高では中堅手として、エース橋本政雄(西鉄)を擁し1954年の夏の甲子園に出場。しかし1回戦で、この大会に優勝した中京商の中山俊丈投手に完封負け。 飛田穂洲をはじめ、早大野球部色が強い水戸一高に在籍しながらも慶大への進学を希望していたが卒業後は橋本とともに1955年に西鉄ライオンズ入団、高卒ルーキーながら一軍に定着する。翌1956年には外野陣の一角に喰い込み、5月からは一番打者に起用される。同年は規定打席には届かなかったが打率.297を残した。1956年からの3年連続日本一に貢献、西鉄黄金時代を支えた名脇役の一人である。
桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、… 桜井 薫(さくらい かおる、1935年4月26日 - )は、茨城県那珂湊市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 東京・王子で生まれたが、戦局が厳しくなった小学校3年の時に茨城県那珂郡那珂湊町(那珂湊市を経て、現在のひたちなか市)に疎開。那珂湊中学校から水戸一高に進みエースとして活躍。1952年秋季関東大会では準決勝に進み銚子商の原精次(大映ユニオンズ)らと投げ合うが、延長11回サヨナラ負け。翌1953年春季関東大会も準々決勝に進むが石田雅亮のいた明治高に逆転負け。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、北関東大会1回戦で作新学院に敗れ甲子園には届かなかった。1年下のチームメートに玉造陽二、橋本政雄(西鉄ライオンズ)がいた。
豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 20… 豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手・野球解説者。 現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、テレビ東京、テレビ大阪、スポーツニッポンなどの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。 3歳の時に日立市へ転居し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具 で野球をやったことが、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった。
鈴木 義文(すずき よしふみ、1934年8月15日 - )は… 鈴木 義文(すずき よしふみ、1934年8月15日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 土浦第三高校、全藤倉、東京ガスを経て1957年に中日ドラゴンズへ入団。1959年に退団した。
加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 19… 加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 1998年6月23日)は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 水戸商業高校では高校同期の豊田泰光らとともにクリーンアップを組み、一塁手・三番打者として活躍、控え投手としても起用される。1951年秋季関東大会県予選は決勝で竜ヶ崎一高に敗退。1952年の春季関東大会では準決勝に進み、エース衆樹資宏を擁する湘南高と延長15回の熱戦の末にサヨナラ負けを喫する。同年の夏の甲子園に出場。1回戦で都留高のエース矢頭高雄を打ち崩し2回戦に進むが、成田高に敗退。この試合ではエース高畑正盛(富士重工)をリリーフして甲子園初登板を果たす。 1953年に読売ジャイアンツへ入団。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。 水戸第一高等学校では、エースとして1949年秋季関東大会県予選決勝に進むが、水戸商に惜敗。翌1950年夏の甲子園予選でも北関東大会決勝に進むが、宇都宮工の神田昌男、吉成武雄(いずれものち大洋ホエールズ)のバッテリーに完封を喫し甲子園出場を逸する。 1951年に早稲田大学野球部に進み、東京六大学野球リーグでは在学中3度の優勝を経験。2年生からエースとして剛速球のストレートと大きなカーブを武器に活躍、なかでも早慶戦では6勝を挙げ大活躍した。2年次の1952年は慶應の河合貞雄と春秋にわたって全試合に投げ合いを演じ、春季2位、秋季優勝の記録を残した。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。
大里 晴信(おおさと はるのぶ、1931年10月1日 - 2… 大里 晴信(おおさと はるのぶ、1931年10月1日 - 2019年4月21日)は、茨城県常総市出身の元プロ野球審判員。審判員袖番号は5。 茨城県立水海道第一高等学校(のちに同校野球部監督も務めた)を経て法政大学を卒業後、1959年にセ・リーグ審判部入局。1981年からインサイドプロテクターを使用し、長らく中堅審判員として活躍したが、1973年6月12日の巨人対阪神タイガース戦で江夏豊が王貞治に対して投じた内角球をボールと判定したところ不服に思った江夏に突き飛ばされて、江夏を退場処分とした。また1990年の巨人対ヤクルト開幕戦で、巨人の打者・篠塚和典がヤクルトの内藤尚行から放ったライトポール際の打球を、一塁塁審の大里がホームランと判定した。
木内 幸男(きうち ゆきお、1931年7月12日 - )は、… 木内 幸男(きうち ゆきお、1931年7月12日 - )は、茨城県土浦市出身の高校野球指導者。茨城県立取手第二高等学校・常総学院高等学校の野球部監督を歴任したことで知られる。
塩瀬 盛道(しおせ もりみち、1931年5月23日 - 20… 塩瀬 盛道(しおせ もりみち、1931年5月23日 - 2001年3月25日)は、日本のプロ野球選手(投手・外野手。右投右打)、大学野球指導者(監督)、実業家。 初打席初本塁打を放つも、以後再び打席に立つことも試合に出ることもなかったため、通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000という、稀有の記録を有する選手である。この記録は、日本プロ野球の歴史の中で、塩瀬とドン・シュルジー(オリックス)の2例しか見受けられない。通算出場試合が1試合、しかも初球で仕留めた記録となると、塩瀬のみである。 東京府荏原郡馬込町(現在の東京都大田区馬込)で生まれる。戦火に遭い、母親の実家がある茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)へ疎開する。
初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 20… 初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 2015年1月8日)は、茨城県出身の元プロ野球選手(投手・外野手)。 下妻中では1947年に4番・投手として夏の甲子園茨城大会で優勝し、北関東大会に進出するも初戦で敗退。卒業後は東京鉄道局に進み、シュート、ドロップを武器に主戦投手として活躍。 その後は専修大学を中退し、1950年に新球団の国鉄スワローズへ入団。球威はないものの変化球や制球が良かったため高橋輝に次ぐ主戦投手として期待されたが、結果を出せずに2年目の1951年からは外野手に転向。3年目の1952年には規定打席に到達するが、佐藤孝夫の外野転向と安居玉一の入団、町田行彦の成長もありレギュラーから陥落。
田宮 謙次郎(たみや けんじろう、1928年2月11日 - … 田宮 謙次郎(たみや けんじろう、1928年2月11日 - 2010年5月5日)は、茨城県下館市(現・筑西市)出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ・監督、解説者・政治家。