吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
星野 仁十郎(ほしの にじゅうろう、1908年(明治41年)… 星野 仁十郎(ほしの にじゅうろう、1908年(明治41年)3月16日 - 1986年(昭和61年)7月22日)は、日本の政治家、アイスホッケー選手。栃木県(旧)日光市長を務めた。 日光町清滝水沢に生まれる。1942年(昭和12年)5月、日光町議会議員となる。その後、日光町の市制施行に伴い市議会議員となり1969年(昭和44年)7月まで議員を務めた。同年8月23日の日光市長選挙で当選。同月28日から1981年(昭和56年)8月27日まで市長を務めた。 市長在任中には前任者の佐々木耕郎と同様に観光施設の整備などに力を注いだ。さらに、清滝バイパスや霧降高原有料道路の開通など道路を整備することによる観光客増加を図った。
泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996… 泉 漾太郎(いずみ ようたろう、1908年1月5日-1996年10月23日)は、日本の詩人・作家。栃木県文化協会会長を務めた。 栃木県塩原温泉郷の一つである福渡温泉の旅館・和泉屋の後継ぎとして生まれ、のち14代目主人となる。本名・田代太平。 大田原中学(現栃木県立大田原高等学校)在学中に、全国中学生文芸コンクールに応募したところ、1位入選となり、そのときの審査委員長が野口雨情だった縁から、生涯雨情に師事して詩を書いた。 竹久夢二とは親友であり、山岡荘八は義兄弟の仲であった。旅館には、山岡が命名した『竜胆(りんどう)の間』という部屋もあった。旅館に逗留した新鷹会の時代小説作家たちとも交わった。のち小説も書く。
関 湊(せき みなと、1907年(明治40年)12月12日 … 関 湊(せき みなと、1907年(明治40年)12月12日 - 1984年(昭和59年)9月14日)は日本の実業家、経営者。学校法人獨協学園理事長。 昭和期の日本の実業家・学校法人経営者。明治期に西周らにより設立された獨逸学協会学校を母体とした学校法人獨協学園再建を天野貞祐(元文部大臣)と根津嘉一郎(東武鉄道2代目総帥)から託され、獨協医科大学等を創設し現在の獨協学園の基礎を作った。獨協学園理事長を務めた他、社会福祉法人関記念会の発起人会を立ち上げ設立に大きく尽力した。現在は獨協医科大学を協力病院とし、地域の高齢者福祉の中核事業を担う存在にまで成長している。 1907年(明治40年)、栃木県塩谷郡喜連川町(現・さくら市)に生まれる。
伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10… 伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10日 - 1987年(昭和62年)1月21日)は、囲碁の棋士。旧名は清子、旧姓は川田。栃木県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下、七段。女流選手権戦5連覇を含む優勝7回など。力戦派で巴流、巴御前の異名を取った。 足利市に生まれる。1917年(大正6年)に方円社の喜多文子に入門。その後中央棋院に所属し、若手棋士の研究会六華会にも参加。1924年の日本棋院設立とともに初段となる。1927年秋期、1929年秋期、1930年秋期の大手合乙組優勝。1940年三段。1943年四段。1952年に第1期女流選手権戦で、決勝で武田みさおを破って優勝。翌年は挑戦者杉内寿子に敗れるが、1957年からは5連覇。
椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - … 椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - 2007年12月3日)は、日本の実業家。栃木県出身。元住友商事副会長。 1924年(大正13年)、旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)修了。東京商科大学(現 一橋大学)卒業。元住友商事副会長。1973年(昭和48年)、(財)日本ラグビーフットボール協会会長に就任。1979年(昭和54年)、同 名誉会長に就任。1995年(平成7年)、同 名誉相談役に就任。 2007年12月3日、肺炎により100歳で死去。
刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年… 刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年3月8日)は、日本の洋画家。 栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。 1922年(大正11年)から川端画学校に通い、1924年(大正13年)に東京美術学校西洋学科に入学。東京美術学校在学中に和田英作に師事し、帝展に初入選した。 1929年(昭和4年)に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に新文展で無鑑査となる。さらに1946年、1947年には出品作品が日展特選となった。 画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 … 朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官。連絡調整中央事務局長官、外務審議官を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。1976年勲一等瑞宝章。
鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年1… 鈴木 賢二(すずき けんじ、1906年1月 - 1987年11月15日)は、栃木県出身の版画家、彫刻家。
木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1… 木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1975年8月9日)は、日本の書家。本名は信太郎、卜堂は号。木村東道は長男。栃木県足利市出身。 自ら日本書作家協会(1973年社団法人化)を興し、戦後書壇の隆盛の一翼を担いつつ、文人書家として多彩な創作活動を展開した。 戦前の旧東方書道会展で頭角を顕わし、戦後は新日本書道展、日本書作院、東方書道展などに創立から参画し、審査員を歴任、毎日書道展では初代グランプリ(準大賞)を受賞した。 1959年には同志を糾合、純正書道を標榜して日本書作家協会、新興書道展を創設し、書道の啓蒙と普及、後進作家の育成に尽力、会派を超えた指導力を発揮し、書芸術及び書壇の発展に寄与した。
能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明… 能勢一男(のせ かずお、1905年11月18日 - 没年不明)は、大日本帝国のボート競技選手(ローイング競技選手)。1928年アムステルダムオリンピックに日本代表として出場した。 1905年11月18日、現在の東京都豊島区目白に生まれる。旧制栃木県立宇都宮中学校(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、1923年に明治大学商科に入学した。1924年に端艇部に入部し、四番手として活躍した。その技量を買われ、1928年に主将に就任する。同年に開催されたアムステルダムオリンピックに主将・二番手として出場し、整調手も務めた。海や大きな川がない宇都宮出身の人物がボート競技で活躍するのは当時珍しいことであった。
猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 19… 猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 1985年1月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の活動などに参加した。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現:鹿沼市)で生まれた。父・春吉は一時鹿沼町の町長も務めていた。1923年に、宇都宮中学校を卒業。卒業後は小学校の代用教員として勤務した。 1926年に教職を辞めて上京し、画家を志して太平洋画研究所に入所。江馬修らと知り合い、翌年江馬の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に加入。はじめは画家として参加していたが、次第に文学に関心を持ち、1928年に初の童話「ドンドンやき」を『プロレタリア芸術』に発表。その後も相次いで童話を発表し、プロレタリア児童文学者として認知されるようになった。
大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29… 大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29日 – 1999年(平成11年)6月1日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県鹿沼市出身。1925年、東京女子高等師範学校文科卒。島根県立浜田高等女学校、滋賀県大津市高等女学校の教員を経て、結婚により宮崎県延岡市に移る。夫の死後、故郷の鹿沼へ戻り、栃木県立鹿沼高等女学校講師になる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では宮崎県から日向民主党公認で立候補して初当選した。当選後は国民協同党に入るが、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では宮崎1区から民主党公認で立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では選挙区を栃木1区に移して立候補したが落選した。
石井 陶泊(いしい とうはく、1905年 - 1999年)は… 石井 陶泊(いしい とうはく、1905年 - 1999年)は、日本の鍼灸師。日本経穴委員会専門委員。享年94。 栃木県生まれ。下野中学(現:作新学院高等学校)中退。1932年灸術試験合格、1933年鍼術試験合格。1965年から1977年に至るまで栃木県鍼灸師会会長。同心会副会長である藤田六朗医博の指導を受ける。1975年からは、日本鍼灸医学会理事、地方会会長、評議員、日本経穴委員会専門委員を歴任した。1991年までは全日本鍼灸学会栃木地方会会長を務めた。 石井は分娩後のウサギや曲がった若い糸瓜への施灸実験をきっかけにして、経絡を発生学的観点から検討した。
川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11… 川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11月12日 - 没年不明)は日本の尺八奏者。七孔尺八の普及につとめたことで知られる。本名川本健二。 1904年(明治37年)に宇都宮警察署長の第一子として生まれる。9歳の時に琴古流逸童派川本家の養子となる。東京音楽学校卒業後は竹内寿太郎の考案した七孔尺八の実用化につとめ、1931年(昭和6年)には七孔尺八普及会を創立している。1934年(昭和9年)よりコロムビア専属として活躍した。
荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsus… 荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsusaburo Arai、1904年10月17日 - 1990年7月25日)は、日本のカトリック高位聖職者。横浜司教区第6代教区長及び第4代司教。洗礼名はルカ。 栃木県宇都宮市出身。東京の暁星中学校を経てフランスに留学し、パリのサンスルビス神学大学哲学神学部を卒業後、1930年に当地で司祭に叙階された。 帰国後は東京大司教区の千葉教会、本郷教会、麹町教会担当及び大司教館付を歴任。 1949年には松戸教会の建設用地を確保し、1950年に定礎式を司式している 1951年5月に引退した脇田浅五郎司教の後任として同年12月9日に司教に任命され、1952年2月24日に司教に叙階された。
田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 198… 田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 1989年1月11日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。 栃木県下都賀郡国分寺町(現下野市)出身。栃木師範学校を卒業。小学校教員を経て、国民学校校長や県視学官などを歴任。1951年(昭和26年)から栃木県議会議員を4期務める。この間、1959年(昭和34年)5月から1960年(昭和35年)9月まで県議会副議長を、1964年(昭和39年)2月から1965年(昭和40年)3月まで県議会議長を務めた。1965年の第7回参議院議員通常選挙で栃木県選挙区から立候補して当選。参議院議員は1期務め、第2次佐藤第1次改造内閣では行政管理政務次官を務めている。
谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年… 谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年11月23日)は、日本の政治家、歌人。 本名は谷 国夫(たに くにお)。 栃木県那須郡湯津上村(現大田原市)佐良土に生まれる。1920年(大正9年)3月、宇都宮商業学校を卒業。家業の商店を継ぐ傍ら、歌誌『創作』に入会し若山牧水に師事した。後に吉植庄亮の『橄欖』に入会する。 1942年(昭和17年)4月、湯津上村議会議員に当選した。以後5回当選し、1951年(昭和26年)4月から村議会副議長を4年間、1965年(昭和40年)4月から村議会議長を2年間務めた。途中、1957年(昭和32年)12月には合併をめぐる対立から村議会議員を辞職している(後述)。
永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904… 永沢 勝雄(または 永澤 勝雄〈ながさわ かつお〉、1904年4月13日 - 1985年2月22日)は、将棋棋士。飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は21。栃木県佐野市生まれ。 東京府立工業高等学校卒業後、1929年(昭和4年)に飯塚勘一郎八段に入門。 翌1930年(昭和5年)、初段昇段。 1937年(昭和12年)、四段昇段。 戦後に開始された順位戦(1946年〈昭和21年〉)には主旨不賛成のため参加せず。 その後、現役を引退。奨励会幹事を務める傍ら、長く観戦記執筆を手掛ける。 1948年(昭和23年)、五段昇段。 1950年(昭和25年)、六段昇段。 現役当時から文筆に長じる。 雑誌「将棋研究」(将棋研究会)でも執筆を行う。
小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958… 小倉 繁(おぐら しげる、1904年3月16日 - 1958年5月29日)は、日本の俳優。栃木県宇都宮市出身。本名同じ。喜劇映画で活躍し、和製チャップリンと呼ばれた。 栃木県宇都宮市の生まれ。劇団に入り、地方巡業を経て、1923年に国活に入社。 1925年に松竹蒲田撮影所に入社。始めは端役を演じていたが、小津安二郎監督の『女房紛失』から頭角を現していき、短編喜劇映画の脇役として活躍。1929年、喜劇の神様と呼ばれ、城戸四郎が開拓したナンセンス喜劇を多く演出した斎藤寅次郎監督の『モダン怪談100,000,000』に国定忠次の幽霊役で出演。以降、ナンセンス喜劇の代表的俳優となり、軽妙なドタバタ演技で人気喜劇俳優となった。
手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 19… 手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 1983年2月12日)は、日本のドイツ文学者・評論家。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。 栃木県宇都宮市生まれ。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制松本高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部独文科助教授、1949年教授。1961年に学位論文「ゲオルゲとリルケの研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1963年より文学部長をつとめる。1964年定年退官後は立教大学教授、共立女子大学教授を歴任。1967年日本学士院会員、1972年、NHK放送文化賞受賞、1981年文化功労者。
山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1… 山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1969年3月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。弁護士。 栃木県栃木町(現:栃木市)に生まれる。旧栃木中、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒。卒業後は栃木商業学校教諭となり、1935年に高等試験司法科試験に合格し、弁護士となった。この他明治大学、日本大学の各講師を務めた。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。以来当選7回。在職中は衆議院地方行政委員長、同懲罰委員長、同科学技術振興対策特別委員長、第3次吉田内閣法務政務次官などを歴任した。
小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 196… 小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月12日)は、日本の俳優。叔父に日本画家の小杉放庵、長女は元女優の小杉公子。栃木県出身。 栃木県上都賀郡日光町生まれ。日本館にいた石井漠に舞踊、松島詩子にコールユーブンゲンを習い、浅草オペラの歌手として活躍する。その後は、伊庭孝の新星歌舞劇団を経て新劇協会に入り、帝国ホテル演芸場での『桜の園』のヤーシャで認められる。 1925年、築地小劇場に入り、『どん底』の靴屋のアリョーシカで認められ、これを持ち役とし、以降はこわもての風貌を武器に脇役として個性的な演技で活躍。映画初出演は、1927年に築地小劇場の座員と共に出演した『黎明』。
矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年… 矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年4月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)出身。1921年栃木県立小瀬農学校卒。1938年三共日産自動車(株)を創立。ほか三共物産(株)、(株)東武宇都宮百貨店、日産プリンス栃木販売(株)を創立。代表取締役などに就任した。この他宇都宮商工会議所副会頭や栃木県石油協同組合理事長を歴任。1968年の第8回参議院議員通常選挙に栃木県選挙区から自由民主党公認で立候補して初当選。第2次田中内閣で通商産業政務次官を務めた。1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で落選。同年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月… 大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月1日 – 1971年(昭和46年)7月22日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県那須郡境村(烏山町境を経て現那須烏山市)で生まれる。弁護士の書生のかたわら下野中学校(現作新学院高等学校)を卒業。中央大学専門部法科に進学し、三輪寿壮弁護士事務所の書生をしながら1927年(昭和2年)に大学を卒業。高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)宇都宮市で弁護士を開業した。 三輪の薫陶を受け日本労農党に入党し、1930年(昭和5年)宇都宮市会議員選挙(初回の普通選挙)で黒沢幸一と共に当選。労農大衆党栃木県連執行委員、栃木農民組合執行委員を務め、小作争議、労働争議を指導した。
印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 19… 印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 1990年5月9日)は、経済学・保険学者。明治大学名誉教授、創価大学名誉教授。明治大学商学部長、全国生活協同組合連合会の初代理事長等を歴任。 栃木県出身。栃木県立大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)卒、東京商科大学(現一橋大学)卒業。田中外次初代住友金属鉱山社長は志田鉀太郎ゼミの同期。1955年「保険本質論の再吟味」で明治大学より商学博士の学位を取得。明治大学商学部助教授、教授、学部長、1971年名誉教授、創価大学教授、1982年名誉教授。1982年から87年まで全国生活協同組合連合会の初代理事長を務め、一般の人が低額で加入できる生命共済事業を全国的に広めた。
川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 197… 川口 篤(かわぐち あつし、1902年9月29日 - 1975年6月25日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 栃木県栃木市生まれ。旧制宇都宮中学・旧制一高を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒。戦後、東京大学教養学部教授、1958年から1960年まで教養学部学部長、1961年まで評議員。1963年定年退官、学習院大学教授を務めた。 アンドレ・ジイド、エミール・ゾラをはじめ翻訳多数がある。
国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年… 国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年)9月7日 – 1974年(昭和49年)10月29日)は、昭和期の詩人、農民運動家、政治家。参議院議員、栃木県那須郡親園村長。 栃木県那須郡親園村(現大田原市親園)出身。1924年(大正13年)東洋大学文化学科を卒業した。その後、上智大学哲学科を中退。 1925年(大正14年)本所キリスト教産業青年会内産業学院主事に就任。この頃、白鳥省吾に師事し、『日本詩人』、『地上楽園』、『詩神』、『北方詩人』などに農民詩を発表した。1934年(昭和9年)親園村長に就任し1期在任した。また、農民青年運動を指導し全国農村青年連盟委員長となった。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して次点であったが、膳桂之助が公職追放で当選を辞退したため当選者となり(補欠、任期3年)、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 19… 野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 1985年3月13日)は、日本の精神科医。 1902年高知県生まれ。1909年栃木県へ転居。旧制・栃木県立栃木中学校を経て、1928年東京慈恵会医科大学卒業。東京帝国大学医学部、松沢病院勤務、35年藤沢病院長。38年「心因性精神病殊に拘禁性精神病に関する臨床的知見」で東京帝国大学医学博士。42年根岸国立病院副院長、57年東京慈恵会医科大学教授、67年退任。森田療法を研究、雑誌『神経質』の編集に従事した。別名・野村章吾。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
金井 喜一郎(かない きいちろう、1901年9月 - 196… 金井 喜一郎(かない きいちろう、1901年9月 - 1961年7月16日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、作画監督、撮影監督、アニメーション作家(英語版)であり、実業家である。出生名佐藤 喜一郎(さとう きいちろう)、養子縁組後本名金井 喜一郎、筆名金井 木一路(かない きいちろ)。 日本初のアニメーション作家のひとりである北山清太郎の助手からキャリアを始め、アニメーション映画の撮影・作画、独立後はドキュメンタリー映画の製作も行ったことで知られる。東京線画フィルム製作所、都商会、都映画社、「目黒スタジオ」として知られる東京録音現像をそれぞれ創立し、代表を務めた。 1901年(明治34年)9月、栃木県足利郡足利町(現在の同県足利市)に生まれる。
瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 194… 瀧田 貞治(たきた ていじ、1901年8月14日 - 1946年1月26日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、演劇史、俳諧史。 栃木県那須郡佐久山町(現・大田原市)出身。旧制大田原中学校から第四高等学校を経て1927年(昭和2年)、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、元禄歌舞伎研究のため大学院に進学したのち、1928年(昭和3年)に第六高等学校教授となる。1929年(昭和4年)より台北帝国大学助教授。1942年(昭和17年)には井原西鶴の研究団体である「西鶴学会」を組織し、年2回刊行の学術雑誌『西鶴研究』の編集に当たった。『西鶴研究』は1942年6月から1943年(昭和18年)12月まで4冊を刊行したが、第5冊の校正中、1945年(昭和20年)5月の台北大空襲によって原版が焼失し、発行不能となった。
横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 197… 横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 1975年11月10日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、栃木県知事(公選第4-7代)。 栃木県宇都宮市の出身。宇都宮中学校、第二高等学校理科甲類を経て、1925年東京帝国大学農学部卒業、農林省に入省。青森営林局の技手を振り出しに林野畑を歩き、1939年満洲国林野局計画課長、1944年同林野総局林産課長、1945年東満総省林政庁長となる。 同年、ソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留される。1948年に帰国。林野庁に入り、1950年に林野庁長官になる。 退官後の1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党から出馬して当選する。
吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1… 吉沢 新作(よしざわ しんさく、1901年3月21日 - 1980年2月27日)は、日本の銀行家。近畿銀行社長を務めた。 栃木県宇都宮市出身。1927年に法政大学専門部法科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1944年に近畿無尽に転じ、1945年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1967年4月に会長を経て、1972年には相談役に退いた。 1964年に黄綬褒章を受章し、1971年に勲四等瑞宝章を受章。 1980年2月27日、脳動脈硬化症のために死去。78歳没。
殿岡 利男(とのおか としお、1901年1月1日 -1982… 殿岡 利男(とのおか としお、1901年1月1日 -1982年3月29日 )は、栃木県足利市出身のアキレス創設者。
人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11… 人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 - 19… 荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 - 1945年6月26日?)は、日本の内務官僚。沖縄戦時、沖縄県警察部長として県民の避難・保護に尽力したとされるが、近年は北部疎開・義勇隊の編成など研究者から沖縄戦において戦争責任の声もあがっている。長男は国土庁審議官などを歴任した自治官僚の荒井紀雄。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都市上籠谷町)に農家の次男として出生。鐺山尋常小学校、清原尋常高等小学校、栃木県立宇都宮中学校と進み、その後上京し高千穂高等商業学校(現高千穂大学)に進学した後、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業、1927年高等文官試験に合格、同年内務省に入省した。 1932年、麻布六本木警察署長に就任。
岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 … 岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 - 1986年1月28日)は、日本の詩人。 栃木県足利市出身。佐野中学校を中退後、太平洋画会研究所にて学ぶ。北原白秋の「近代風景」や村野四郎らの「旗魚」に参加、1929年第1詩集『四月遊行』を刊行。のち「歴程」同人。1960年「新世界交響楽」で高村光太郎賞、1971年『岡崎清一郎詩集』で第9回藤村記念歴程賞、1973年『春鶯囀』で第24回読売文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 -… 栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は室井 昇二。最高位は十両10枚目。 栃木県那須郡黒磯町(のち黒磯市、現那須塩原市)出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年「那須昇」の四股名で序ノ口に就く。1929年5月十両に昇進。この場所4勝7敗と負け越し、同地位の翌9月場所でも2勝9敗と負け越し、この場所で廃業した。
田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日… 田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。 栃木県那須郡西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。 大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。 また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2… 山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2月11日 - 1978年〈昭和53年〉3月16日)は、日本の小説家。栃木県出身。初め編集者として活動し、時代小説作家に転身。明朗爽快な作風で支持を得た。 栃木県那須郡黒磯町生まれ。父親が鉄道員として黒磯駅に勤務していた当時に生まれた。本名は井口長次。旧制明治中学校卒業。 小学新報社『少女号』の編集者を経て、博文館に入社。『講談雑誌』編集長、『少年少女譚海』編集長をつとめる。1932年頃より兼業作家となり、1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。1944年、「獄中記」「檻送記」「蟄居記」の三部作(のち『崋山と長英』として出版)で第4回野間文芸奨励賞を受賞。
臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 19… 臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 1980年2月9日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 栃木県栃木市出身。1921年に東京高等工業学校窯業学科を卒業した。 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドを経て、現在のノリタケ)での勤務を経て、1924年に伊奈製陶に転じ、1933年に取締役、1948年9月に常務を経て、1963年12月に社長に就任した。1968年10月、相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章した。 1980年2月9日、脳梗塞のため死去した。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - … 高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - 1969年4月27日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従三位。労働政務次官、衆議院議員(7期)などを歴任した。 栃木県大田原市生まれ。第五高等学校、1923年東京帝国大学法学部政治科卒業。 1924年、鉄道省入省。同期に佐藤栄作(元内閣総理大臣)、山本利三郎(鉄道技術者)、小野哲(元千葉県知事)。東鉄旅客課長、国際観光局ニューヨーク事務所長、タイ国大使館一等書記官、鉄道監、終戦連絡中央事務局参与などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙栃木選挙区に日本社会党から立候補し、初当選。 1955年、第2次鳩山一郎内閣労働政務次官。
矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日… 矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日 – 1968年(昭和43年)10月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)で、矢野留松の二男として生まれる。1916年(大正5年)栃木県立烏山中学校(のち栃木県立烏山高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)烏山町で矢野自動車商会を設立し、事業の成長に伴い東野自動車株式会社に改組して宇都宮市に進出した。その他、栃木県中央貨物自動車取締役社長、宇都宮自動車取締役社長、芳南交通取締役社長、両毛酸素取締役社長、三共工業取締役社長、茨城県日産自動車販売取締役社長、東野鉄道(のち東野交通)取締役社長、那須高原開発取締役社長、金桝商会取締役社長、東野観光取締役社長、北関運輸取締役社長、東武宇都宮百貨店会長、三共石油会長などを務めた。
海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年… 海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年6月8日)は、栃木県大田原市生まれ。理化学研究所・主任研究員、東京工業大学教授、第28期日本機械学会会長を歴任。工学博士でもある。 高性能なピストンリングを大量に製造する方法「ピン止め加工」を確立し、理化学興業、後の株式会社リケンの技術的基盤を作った。
田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1… 田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1972年3月23日)は、日本の海軍軍人、海上保安官、警備官。機雷専門。最終階級は海軍大佐、警備監(後の海将)。 栃木県出身。田村徳吉の三男として生まれる。(旧制)栃木県立栃木中学校卒業を経て、1918年に海軍兵学校(46期)を卒業。海軍大佐として終戦を迎える。戦後は、第二復員省、海上保安庁と警備隊(海上自衛隊の前身)で掃海作業の責任者として活動した。 日本海軍は、田村久三元海軍大佐を最高指導者として機雷関係のスタッフを揃え、米海軍司令部との折衝を続けながら、占領軍指揮による掃海作業の準備へ入った。まず掃海艇の整備を行うと共に、当時解散しつつあった海軍軍人の中から人員の補充確保に努め、全国各地に所在する掃海関係船艇合計360隻、人員約1,900名をもって新たに掃海部隊を編成し、1945年(昭和20年)9月から10月にかけて占領政策のために一時中断されていた掃海作業を再開。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7… 金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7月7日 - 1983年(昭和58年)10月6日)は、大正から昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、栃木県栃木市長。幼名は亀吉で、35歳の時に益太郎と改名した。 栃木県下都賀郡栃木町入舟町(現栃木市入舟町)で、染物屋・金子忠吉(ただよし)の二男として生まれる。1912年(明治45年)3月、栃木町立第一尋常高等小学校高等科を卒業した。 その後上京し、働きながら独学し、山室軍平の導きでキリスト教に入信。雑司ヶ谷で小間物屋を開業したが、労働農民運動に加わった。1926年(大正15年)日本労農党に入党。 1929年(昭和4年)に帰郷して栃木県下の労農運動を大屋政夫、石山寅吉らと指導した。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。