舟喜 順一(ふなき じゅんいち、1920年 - 2010年4… 舟喜 順一(ふなき じゅんいち、1920年 - 2010年4月13日)は、日本の牧師、神学校教師。兵庫県神戸市まれ、群馬県前橋市育ち。福音派の神学教育者で福音派の指導者の一人。新改訳聖書の生みの親の1人とされる。元・聖書宣教会教師(晩年は常任顧問)、元・聖書同盟主事、元・新改訳聖書刊行会編集主事、同理事長。 父は舟喜麟一、弟に舟喜拓生、舟喜信、妻は翻訳者としても有名な舟喜晃子。 1920年、神戸平野教会の牧師であった舟喜麟一の長男として生まれる。生まれてすぐに、銚子福音伝道館の牧師に就任した父と共に転居する。(旧制)前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)で学ぶ。その時同級生だった羽鳥明をキリスト教に導く。
皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1… 皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は、群馬県桐生市東堤町出身の元プロ野球選手、コーチ、監督。 プロ野球選手の皆川康夫は子。 鉄道省職員だった父の三男として、桐生市に生まれる。 桐生西小卒業後、桐生中学に進学。当初、父は進学校である桐生工業に進んでほしいと思っていたが、兄が以前通っていたことや、野球部が強いことなどから父の反対を押し切り、同校に入学した。 桐生中学時代には、2年夏からベンチ入りを果たすと、1934年夏(2回戦敗退)、1935夏(2回戦敗退)、1936年春(準優勝)、1936年夏(ベスト4)の4回の甲子園に出場。同級生には大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、稲川豪一(三塁手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。
綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 199… 綱島 新八(つなしま しんや、1919年9月2日 - 1997年1月28日)は、群馬県出身のプロ野球選手(外野手)。1966年に綱島新哉に改名。 高崎市立商業補習学校から立教大学、社会人野球の明電舎、増田化学工業、山藤商店を経て、1949年に大映スターズへ入団。 1950年に松竹ロビンスへ移籍。1953年は前年に球団が吸収合併されたため洋松ロビンス所属となり、同年限りで現役を引退。 1958年にPL学園高等学校の監督に就任。1961年に退任するが1963年に復帰し、同年再び退任。1966年に拓殖大学の監督を務めた。
石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は… 石坂 富司(いしざか とみじ、1919年8月17日 - )は、日本の教育者。東京都立八王子東高等学校初代校長。群馬県沼田市出身。勲四等瑞宝章。専門分野は歴史。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16… 森村 國夫(もりむら くにお、1919年〈大正8年〉2月16日 - 2010年〈平成22年〉11月15日)は、日本の経営者。エバラ食品工業の創業者。 群馬県佐波郡剛志村上武士(現・伊勢崎市境上武士)出身。織物業に従事する森村和一郎・志づの第5子(末子)として生まれる。幼少期に父の事業が倒産したことから、境町の借家に引っ越して境町尋常小学校に学んだ。のちに清水建設社長を務める吉野照蔵は小学校の同級であった。 1933年に上京し、兄の経営するソース製造販売事業に従事しながら町田報徳学舎の夜学で学ぶ。1940年に第14師団に入営し、独立歩兵第1連隊に配属され満洲に派遣された。1943年に除隊。 終戦直後には代用醤油の製造を手がけたこともあった。
大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月… 大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月5日 - 2018年〈平成30年〉3月29日)は、日本の外交官、外務省官僚。駐米大使、駐豪大使、世界平和研究所理事長などの重職を歴任した。位階は正三位。勲一等瑞宝章、紺綬褒章受章者。 群馬県安中市中宿に生まれる。埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)、台中州立台中第二中学校[要出典]、第一高等学校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。 1942年(昭和17年)に外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。第8根拠地隊司令部付兼ラバウル民政部庶務主任となる。
相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明… 相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明)は、群馬県高崎市出身のプロ野球選手(外野手)。 高崎商業補習学校時代に甲子園出場はなし。中島飛行機製作所、全桐生を経て、1950年に国鉄スワローズに入団。26試合に出場するものの、目立った成績を残すことはできず、同年オフに退団。
大塚 鶴雄(おおつか つるお、1919年 - 没年不詳)は、… 大塚 鶴雄(おおつか つるお、1919年 - 没年不詳)は、群馬県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。 1939年から1942年までの登録名は柳 鶴震(やなぎ つるじ)。 桐生中学校から1939年に東京セネタースへ入団。同年3月26日の対巨人戦で1試合に2度の振り逃げを記録。1940年には104試合に出場するが、現在もプロ野球記録となる失策のシーズン記録となる75失策を記録している。 1941年に南海軍へ、1943年は大和軍に移籍した。戦後は社会人野球の全桐生でプレーした
宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1… 宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日)は、日本の教員で俳人。 杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる。 群馬県伊勢崎市に生まれる。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した。 熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した。陸軍航空本部付技術少尉として満州派遣されている際に敗戦となる。 敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した。
清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日… 清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1991年〈平成3年〉6月12日)は、日本の政治家。 群馬県知事(公選第9・10・11・12代)、群馬県議会議員(4期)、第47代群馬県議会議長、群馬県議会副議長、前橋市議会議員(1期)を歴任した。 群馬県前橋市出身。1936年、群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1939年、福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業。同年、日立製作所東京本社勤務となる。1943年、青森県立商業学校(現青森県立青森商業高等学校)教諭となる。1944年、群馬県立前橋工業学校(現群馬県立前橋工業高等学校)教諭となる。1948年、群馬県立前橋商業高等学校講師となる。
吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7… 吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7年〉7月19日 - )は、日本の経営者。清水建設9代目社長。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業。 1942年(昭和17年)、株式会社清水組(現・清水建設)に入社。 戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった。 1970年(昭和45年)、清水建設取締役に就任。 1981年(昭和56年)6月に清水建設社長に就任。 在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。
中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1… 中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位菊花章頸飾。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第32・33代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長などを歴任。
一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月… 一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月)は日本の経営コンサルタント。 群馬県前橋市出身。旧制前橋中学校卒業後に、中島飛行機の生産技術係長、富士機械製造の資材課長や、日本能率協会のプロジェクトマネージャーをなど経て、経営コンサルタントとして独立。生産管理、管理会計の分野からはじめ、社長専門のコンサルタントとして伝説をつむいだ。5000社を超える企業を指導し、多くの赤字企業を立て直した。 社長専門の経営コンサルタントの第一人者とされ、苛烈なまでに経営者を叱り飛ばす姿から「社長の教祖」「炎のコンサルタント」との異名を持つ。 ”ダメな会社はTOPがすべて悪い、人のせいにするな、部下のせいにするな、環境のせいにするな”が基本方針。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、19… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・欽一(きんいち)、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の政治家、実業家。伊香保町議会議長、株式会社木暮旅館(現・ホテル木暮)代表取締役社長、伊香保ガス株式会社代表取締役社長、上毛新聞社取締役。日本観光協会理事、群馬県観光協会長、群馬県スケート連盟会長、26代目武太夫。位階は従五位。 1918年(大正7年)、先代木暮武太夫(元運輸大臣、国会議員、旧名:正一)の長男として群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)に生まれる。木暮家は、天正10年(1582年)長尾輝景から伊香保温泉の安堵状を与えられた木暮下総守を先祖とする旧家で、木暮旅館(現在のホテル木暮)を営み、代々「武太夫」の名を世襲する家柄である。
国谷 純一郎(くにや じゅんいちろう、1918年〈大正7年〉… 国谷 純一郎(くにや じゅんいちろう、1918年〈大正7年〉2月23日 - 1986年〈昭和61年〉11月14日)は、日本の宗教哲学者、明治大学教授。 群馬県邑楽郡千江田村(現・明和町)生まれ。千江田村の小学校で学んだ後、同郡館林町(現・館林市)へ引っ越す。1935年(昭和10年)旧制館林中学校を卒業。明治大学予科を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業。1947年(昭和22年)同大学院修了。 1947年(昭和22年)明治大学予科講師となり、翌年同教授。1949年(昭和24年)に新制明治大学が誕生すると文学部助教授となり、1958年(昭和33年)教授。1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)にかけてドイツ・イギリスへ留学。
吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 -… 吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 - 2015年〈平成27年〉2月1日)は、日本の政治家。群馬県藤岡市長(4期)。旧姓・塚越。 群馬県藤岡市出身。群馬県立藤岡中学校(現在の群馬県立藤岡高等学校)卒業。東京中央郵便局に2年間勤務した後、1939年(昭和14年)宇都宮野砲兵第20連隊に入営し、中国大陸に派遣され帰国。1943年(昭和18年)吉野家に婿入りする。群馬県経済連に入り、多野支所長、経済連資材、肥料、畜産の各課長、畜産部長、参事を歴任する。その後、全国食肉学校理事、同副校長となる。 1978年(昭和53年)藤岡市長選挙に当選。市長就任後は、畜産の振興など産業育成策を進め、また、小中学校の新校舎の建設や都市計画事業、環境衛生施設の整備など長期的な発展力のある街づくりを目指した。
都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2… 都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2000年3月21日)は日本の民俗学者。群馬県勢多郡北橘村(現渋川市)出身。 民俗学研究、特に地史の分野で活躍し、地名を成り立ちから分類して自然地名・人文地名・修飾地名・新付地名という概念を打ち立てるなど、顕著な功績を残した。 1937年 群馬県師範学校卒業。1941年 今井善一郎と勢多郡誌作成のために民俗調査を行う。1946年 上毛民俗の会が発足し入会する。1947年 民俗学研究所例会で柳田國男と出会う。教師として、群馬県玉村町、高崎市、赤城村、北橘村、富士見村、黒保根村などの小中学校に勤務し、中学校長をつとめ1976年に退職。1983年からは群馬大学教育学部非常勤講師を勤める(1986年まで)。
金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 19… 金井 南龍(かない なんりゅう、1917年6月5日 - 1989年2月27日)は、日本の宗教家、易者、治療師、画家。「神理研究会」創設者で、月刊誌『さすら』の編集発行人。本名、金井三吉。筆名、金井久蜘蛛(くくも)。「一人一宗」を提唱した。 1917年(大正6年)、群馬県北甘楽郡福島町星田(現・富岡市)に生まれる。父・谷五郎は福島町の町長だった。生まれつき霊能があり、日常的に神霊との交流があったという。20歳で近衛師団に召集され、皇居や御用邸の警備にあたる。22歳で満州に出征。ノモンハンの戦闘(1939年)に参加したが、途中で肺結核に罹患し兵役免除となる。 1947年(昭和22年)、30歳で自動車販売会社を興す。
千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15… 千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15日 - 1944年(昭和19年)9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。ペリリューの戦いにおける千明大隊の奮戦で知られる。 群馬県利根郡片品村鎌田に近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として生まれる。旧制沼田中学校を経て、1935年(昭和10年)4月、陸軍士官学校に第53期生として入校。剣道の達人であり、在学中天覧試合にも出場した。1940年(昭和15年)3月の士官学校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任に任官。1944年(昭和19年)2月、満州国チチハルより南方へ出陣、同連隊第3大隊長としてペリリュー島の守備に就いていた歩兵第2連隊に分遣され同島南部「高崎湾」近くに布陣する。
神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月1… 神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月18日 - 1988年〈昭和63年〉12月22日)は、日本の生気象学者。東京農工大学教授、共立女子大学教授を歴任。医学博士。日本環境学会会長。 1917年(大正6年)、群馬県桐生市に生まれる。旧制桐生中学校を経て、1949年(昭和24年)気象大学校を卒業。 1949年(昭和24年)から気象研究所に勤務し、1950年(昭和25年)研究室長となった。1951年(昭和26年)東京医科歯科大学講師を兼務。1959年(昭和34年)「寒冷刺戟によるプレチスモグラムの変動について」で東京医科歯科大学医学博士。1976年(昭和51年)東京農工大学農学部教授となり、1980年(昭和55年)まで勤務。
植松 安太郎(うえまつ やすたろう、1916年〈大正5年〉1… 植松 安太郎(うえまつ やすたろう、1916年〈大正5年〉12月1日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の詩人、実業家、部落解放運動家。百合崎 迅の筆名でも知られた。日本アジア・アフリカ作家会議会員、新日本文学会会員、ラテンアメリカ行動委員会会員。季刊『原詩人』誌主宰。元日本共産党員で、部落解放文学賞佳作入選の経歴を持つ。 群馬県邑楽郡大川村(現・大泉町)の被差別部落で貧農の三男として生まれる。長兄の植松丑五郎は関東水平社青年同盟の執行委員として活動した。 1932年に郷里の高等小学校を卒業した後、所沢市の魚屋に5年の年季奉公に出されたが、半年で前借り金70円を踏み倒したまま、兄を追って東京に逃亡する。
小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月1… 小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月10日 - 2009年〈平成11年〉4月11日)は、日本の国文学者。田山花袋研究の第一人者。東洋大学短期大学学長を務めた。 群馬県桐生市生まれ。旧制桐生中学校、二松学舎専門学校を経て、東洋大学文学部国文科卒業。 1975年、「田山花袋研究」で文学博士号取得(東洋大学)。伝記的、実証的研究によって田山花袋研究の基礎を作った。館林市田山花袋記念館顧問。花袋のほか、森鷗外・夏目漱石・川端康成・太宰治についての研究も行う。 2009年4月11日、心臓疾患のため92歳で死去。
澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年… 澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年9月7日)は、群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。
山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日… 山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日 - 1968年〈昭和43年〉1月19日)は、日本の作詞家。代表作の『お富さん』は春日八郎の歌唱により戦後日本の復興を代表するヒット曲のひとつとなった。 東京市亀戸町に生まれ、母親の再婚を機に群馬県高崎市に転居、旧制高崎中学卒業後、東京美術学校に入学、高橋掬太郎門下で作詞を学び、歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。 1937年、日中戦争による召集で高崎歩兵第15連隊に入隊、同年9月20日、傷病により現地の野戦病院に収容、翌10月4日に満州チチハル陸軍病院に転院。病院で作詞を続け『踊る支那兵』を「幌馬車」に発表。帰還後に前橋市の料亭「鳥辰」の長女ふみ子と結婚、1942年に作詞した『暁の門出』『茶作り次郎長』『軍歌千里」がレコード化されプロの作詞家としてデビューするも、1944年に再び召集、東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊(東部第38部隊)の兵長として内地で終戦を迎える。
丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29… 丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29日 - 1982年〈昭和57年〉7月23日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。環境庁長官(第7代)を歴任した。所属派閥は福田派。青嵐会の結成にも参加した。陸軍軍医大尉。 1916年(大正5年)、群馬県吾妻郡坂上村(現・東吾妻町)の出身。出生地は坂上村とも長野県とも。高崎市に移り住み、1934年(昭和9年)旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業、1940年(昭和15年)東京医学専門学校卒業。医師免許取得後日本鋼管病院に勤務するが、同年10月軍医として応召。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年(昭和21年)7月に復員、群馬県群馬郡滝川村で内科医として開業。
柳澤 壽男(柳沢 寿男、やなぎさわ ひさお、1916年〈大正… 柳澤 壽男(柳沢 寿男、やなぎさわ ひさお、1916年〈大正5年〉2月24日 - 1999年〈平成11年〉6月16日)は、日本の映画監督である。 1916年、群馬県佐波郡玉村町に生まれる。 溝口健二に師事。松竹下加茂撮影所にて、大曽根辰夫や犬塚稔の助監督を務めた。亀井文夫監督の『小林一茶』を見て、ドキュメンタリー映画への道を志すことになり、1942年に松竹を退社した。1943年から1950年までのあいだ、日本映画社にて、『富士山頂観測所』などの作品を手がけた。1953年に岩波映画製作所と契約し、『新風土記 北陸』や『室町美術』などの文化映画を手がけた。1960年代半ばに岩波との契約を解消したのち、自主製作のドキュメンタリー映画に転身し、『夜明け前の子供たち』や『風とゆききし』などを手がけた。
五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月3… 五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月31日 - 1998年〈平成10年〉12月16日)は、日本の歴史家、郷土史家、教員。文学博士。 1916年(大正5年)群馬県伊勢崎市生まれ。旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を経て、1940年(昭和15年)東京高等師範学校研究科歴史科を修了。群馬県内の高等学校の教諭を歴任し、群馬県立吾妻高等学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立太田女子高等学校の各校長を勤めた。1976年(昭和51年)3月に退職。 1970年(昭和50年)群馬女子短期大学講師となり、のち教授。 関東近世史研究会、交通史研究会、地方史研究協議会員。群馬県を中心とした近世の街道、女性史で業績があった。
武者 一雄(むしゃ かずお、1916年〈大正5年〉1月2日 … 武者 一雄(むしゃ かずお、1916年〈大正5年〉1月2日 - 2008年〈平成20年〉12月17日)は、日本の小説家、児童文学作家、僧侶。群馬県出身。本名・中村一雄。『ビルマの竪琴』の水島上等兵のモデルとなったとされることで知られる。 碓氷郡松井田町(現 安中市)生まれ。13歳で僧となる。旧制高崎中学校(現 群馬県立高崎高等学校)を経て、1936年駒澤大学専門部仏教科卒業。卒業後ただちに高崎第15連隊に入隊。1938年に北支に出征した後1941年に帰国。福井県の永平寺で2年間修業するが再び召集され、フィリピン、タイなど東南アジアを転戦後、多くの死者が出たインパール作戦に参加し、ビルマ(今のミャンマー)で終戦を迎える。
小池 善吉(こいけ ぜんきち、1915年〈大正4年〉10月2… 小池 善吉(こいけ ぜんきち、1915年〈大正4年〉10月27日 - 2001年〈平成13年〉2月20日)は日本の社会学者。群馬大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町に生まれる。1933年(昭和8年)旧制前橋中学校を卒業。旧制新潟高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業。卒業と同時に兵役につき、1945年(昭和20年)に復員。 郷里に帰ると1946年(昭和21年)吾妻青年同志会を創設。1947年(昭和22年)から群馬青年師範学校に勤務する。1949年(昭和24年)に群馬大学学芸学部助教授となり、1967年(昭和42年)には群馬大学教養学部教授に就任。社会学を担当し、1981年(昭和56年)群馬大学を退官。
栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14… 栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の経営者。三重銀行頭取を務めた。 群馬県桐生市東久方出身。旧制桐生中学校を経て、1936年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年5月に取締役に就任し、1967年10月には三重銀行副頭取に就任し、1968年10月には頭取に昇格。1979年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役、1991年6月に相談役、1997年6月に特別顧問を経て、1999年6月には顧問に就任。 1980年四日市商工会議所会頭に就任し、翌1981年から三重県商工会議所連合会長を務めた。
浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11… 浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11日 - 1996年〈平成8年〉7月31日)は、日本の小説家、医師。 群馬県勢多郡富士見村(現・前橋市)出身。 祖父・浅田長太郎は平藩の足軽の家の出で勢多郡新里村山上の浅田民次郎の養子となり、後に初代新里村長となった。 晃彦は勢多郡富士見村に生まれ、利根郡片品村で幼少期を過ごした。1934年(昭和9年)に旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)に慶應義塾大学医学部を卒業。翌1942年(昭和17年)陸軍軍医として入隊、ラバウルで勤務し1946年(昭和21年)に復員した。 戦後は前橋で内科小児科を開業し、のちに日本郵船の船医となる。
岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 … 岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 - 1941年〈昭和16年〉12月8日)は、日本の海軍軍人である。「甲標的」(前部に45センチ魚雷発射管を備えた特殊潜航艇)による真珠湾攻撃の考案者の一人で、自ら搭乗して真珠湾攻撃で戦死した。「九軍神」の一人である。二階級特進により、最終階級は海軍中佐。 群馬県前橋市天川原町に、岩佐直吉・てる夫婦の5男、末子として生まれる。長兄・竹松は陸軍中尉だった。後の神奈川県知事・内山岩太郎は従兄にあたる。前橋市中川尋常小学校(現:前橋市立中川小学校)に入学後、前橋市城南尋常小学校(現:前橋市立城南小学校)が新設されると同校に転校、旧制・群馬県立前橋中学校(現:群馬県立前橋高等学校)を経て、海軍兵学校(海兵65期)を卒業した。
荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23… 荻原 秀夫(おぎわら ひでお、1915年〈大正4年〉4月23日 - 2004年〈平成14年〉6月14日)は、日本の小説家、編集者、警察官。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生まれる。内務省警察講習所(警察大学校)卒。警視庁に十年間勤務し、山岡荘八に師事、戦後犯罪小説や推理小説を書いた。1951年日本出版タイムス社に迎えられ、『週刊タイムス』編集局長を勤める。妻は詩人の荻原欣子(1925-2018)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月… 久保田 魁(くぼた かい/いさお、1915年〈大正4年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉5月27日)は、昭和時代に活動した日本画家、日展会員。 単色・同系色を繊細に使いこなして日本の山川を表現する風景画を得意とし、多くの作品が絵画として頒布されている。同時期に活動していた奥田元宋らとともに児玉希望に師事し、不忍池辯天堂の天井絵を合同で描いた。 1915年、群馬県桐生市にて生まれる。 奥田元宋や佐藤太清と親友関係にあり、絵の世界でも切磋琢磨しあう関係だったとされている。奥田と佐藤は文化勲章を叙勲しており、久保田もその才能に期待はされていたものの、久保田は長らく戦争に出兵しており惜しくもその機を逃した。
大島 正光(おおしま まさみつ、1915年〈大正4年〉1月7… 大島 正光(おおしま まさみつ、1915年〈大正4年〉1月7日 - 2010年〈平成10年〉5月1日)は、日本の医学者、海軍軍医、航空自衛官。東京大学名誉教授。初代航空医学実験隊隊長。医用電子工学、人間工学、宇宙医学、航空医学などを研究。群馬県出身。 ノーベル化学賞受賞者の野依良治と土佐藩山内家第19代当主の山内豊功は娘婿。 群馬県前橋市出身。旧制太田中学校を四年修了し、旧制第一高等学校に入学。 1938年(昭和13年)に東京帝国大学医学部を卒業後、海軍軍医となる。 戦後は労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)を経て、1958年(昭和33年)11月、航空医学実験隊長。1951年(昭和26年)に「精神疲労に関する研究」によって医学博士号を取得。
野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月… 野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年〈大正3年〉11月16日 - 1998年〈平成10年〉3月29日)は、野口体操の創始者。東京芸術大学名誉教授。群馬県北群馬郡駒寄村(現・吉岡町)出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
斎田 朋雄(さいだ ともお、1914年〈大正3年〉7月23日… 斎田 朋雄(さいだ ともお、1914年〈大正3年〉7月23日 - 2012年〈平成24年〉7月)は、日本の詩人。本名は斎田 友雄(さいだ ともお)。群馬県ペンクラブ会長、西毛文学代表、日本ペンクラブ、日本現代詩人会、群馬詩人クラブ会員。 群馬県甘楽町福島に生まれる。 満州事変勃発の1931年(昭和6年)頃、詩の同人活動を開始した。1953年(昭和28年)、総合文学雑誌『西毛文学』(NCID AA11685096)を創刊した。1957年(昭和32年)群馬詩人クラブを創設。 1971年(昭和46年)、同じ群馬出身の詩人・大手拓次に触れ、その功績を大きく評価。自ら「大手拓次曼荼羅」を著し、『西毛文学』に連載した。
森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 -… 森 寅雄(もり とらお、1914年〈大正3年〉6月11日 - 1969年〈昭和44年〉1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。 群馬県山田郡桐生町新宿(現・桐生市新宿)に、野間(旧姓・岡田)善次郎・ヤスの子として生まれる。初名は野間 寅雄。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。寅雄の名は、要蔵とともに白河戦争で戦死した彼の息子(野間寅雄の大叔父)・森寅雄にちなんだものである。
河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日… 河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日 - 2011年〈平成23年〉3月9日)は、日本の歴史学者。専門は東南アジア史。東京外国語大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。文学博士。 群馬県高崎市に生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1938年(昭和13年)に東北帝国大学法文学部西洋史学科を卒業。 1939年(昭和14年)に東北大助手となり、1942年(昭和17年)よりタイへ留学。帰国後の1944年(昭和19年)に文部省民族研究所員となり、1945年(昭和20年)東京外事専門学校(1949年より東京外国語大学)教授に就任。1964年(昭和39年)にはアジア・アフリカ言語文化研究所教授を兼任。
藤井 精一(ふじい せいいち、1914年〈大正3年〉4月28… 藤井 精一(ふじい せいいち、1914年〈大正3年〉4月28日 - 1988年〈昭和63年〉1月11日)は、日本の政治家。前橋市長を務めた。 1914年(大正3年)、群馬県前橋市神明町(現・千代田町)に生まれる。旧制前橋中学校から新潟県立小千谷中学校に転校し、1932年(昭和7年)同校を卒業。 その後は前橋市役所に勤務し、税務課長、庶務課長、商工部長、総務部長を歴任。石井繁丸市長のもとで1971年(昭和46年)より前橋市助役を務める。 1978年(昭和53年)前橋市長選挙に立候補し初当選。1982年(昭和57年)と1986年(昭和61年)にも当選を重ねる。 市長在職中には市民体育館、文化会館、総合運動場、市庁舎の建設を実現した。
岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31… 岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31日 - 2002年〈平成14年〉7月8日)は日本の高分子化学者。工学博士。 東京工業大学教授、東京大学教授などを歴任。ジイソシアナートとグリコールとの重付加反応によってポルランと名付けたポリウレタンの合成に成功。反応性高分子および耐熱性高分子などの分野で多くの業績を上げた。 群馬県北群馬郡榛東村出身。
徳野 大空(とくの たいくう、1914年〈大正3年〉3月9日… 徳野 大空(とくの たいくう、1914年〈大正3年〉3月9日 - 1974年〈昭和49年〉6月12日)は、群馬県安中市出身の書家。本名は徳野 輝雄(とくの てるお)。現代書芸、筆および墨の研究で知られる。 1914年(大正3年)、群馬県碓氷郡後閑村下後閑(現・安中市下後閑)に生まれる。1931年(昭和6年)半田神来に師事。1933年(昭和8年)群馬県師範学校を卒業。同年より碓氷郡秋間小学校に勤務。 1935年(昭和10年)に比田井天来の門に入り、天来の下で多様な古典を学習した。1937年(昭和12年)上京、翌1938年(昭和13年)より世田谷区玉川小学校に勤務する。1940年(昭和15年)手島右卿に師事。
福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23… 福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉3月18日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。親子2代で内閣総理大臣を務めた福田赳夫の実弟、福田康夫の叔父。小倉クラッチ監査役[要出典]。アントニオ猪木の格闘技の後援会会長を務めた[要出典]。 上州戦争下では、清和政策研究会候補として、群馬県選挙区で中曽根派の最上進や中曽根弘文らと激しい代理戦争を繰り広げた。 1914年(大正3年)群馬県群馬郡金古町足門(群馬町足門を経て現・高崎市足門町)に、金古町長を務めた福田善治の三男として生まれる。1932年(昭和7年)旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を卒業。
黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913… 黒沢 丈夫(くろさわ たけお、旧字体: 黑澤 丈夫、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍少佐、戦闘機操縦士、政治家。 群馬県上野村村長を10期連続40年務めた。日本航空123便墜落事故の事故処理に尽力したことで知られる。また「御巣鷹の尾根」の命名者でもある。称号は上野村名誉村民。正五位、旭日重光章。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。
江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日… 江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日 - 1938年〈昭和13年〉12月2日)は、大正時代から昭和時代前期にかけての女流歌人。 河井酔茗と島本久恵に師事し、貧困の中で多くの歌を詠んだが最期は自殺した。「薄幸の天才歌人」「女啄木」と呼ばれた。ただし作風は啄木とは大きく異なり万葉調であった。 群馬県利根郡川場村大字谷地に、1913年(大正2年)11月23日に父熊吉、母ユワの長女として生まれる。父は博徒で生活能力がなく、兄廣寿は幼時の脳膜炎の後遺症で知的障害があった。母が飲食店を切り盛りして三人の子どもを育てた。川場村尋常高等小学校での学業成績は優秀だったが進学は諦めた。 1930年(昭和5年)2月から沼田の郵便局に勤めるが、6月3日に母が急逝したため帰郷し家族の世話のために家業を継ぐ。
田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - … 田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - 2003年3月4日)は、日本の競馬騎手、調教師。旧姓・新井(あらい)。 1935年に騎手デビュー。1937年に騎乗馬ハッピーマイトで日本競馬会施行による第1回の帝室御賞典(後の天皇賞・秋)に優勝した。1955年に調教師に転身して以降は、1985年の皐月賞と菊花賞、1987年の天皇賞(春)などを制したミホシンザンなどを手がけた。1984~1988年、日本調教師会々長。1989年、勲五等双光旭日章受章。1992年、定年引退。 1913年、群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)の農家に生まれる。白沢尋常小学校高等科を卒業後、村の馬喰の勧めで片品村の千明牧場へ奉公に入り、ここで乗馬の手ほどきを受けた。
並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日… 並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日 - 2003年〈平成15年〉)は、日本の経営学者。 群馬県甘楽郡下仁田町本宿出身。旧制高崎中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年東京工業大学機械工学科卒。同年立川飛行機に入社。戦後、日本能率協会に入る。東京商工指導所工業診断課長、玉川大学工学部教授を務め、84年定年。1973年黄綬褒章受章。
武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13… 武士 桑風(たけし そうふう、1913年〈大正2年〉8月13日 - 2008年〈平成20年〉12月17日)は、日本の書家。本名、今治(いまじ)。 群馬県佐波郡上陽村(現・玉村町)に生まれる。群馬県師範学校卒。教員となり県内で勤めた後、1939年に上京し都内の小中学校で教壇に立った後1973年に退職。書道は半田神来・比田井神来に師事、前衛書道(墨象)の分野で新境地を開拓する。戦後いち早く毎日書道展等の設立に参加し、現代書作家協会代表、全日本書道連盟顧問などを務めた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
萩原 進(はぎわら すすむ、1913年〈大正2年〉7月23日… 萩原 進(はぎわら すすむ、1913年〈大正2年〉7月23日 - 1997年〈平成9年〉1月20日)は、日本の歴史学者。群馬県吾妻郡長野原町出身。群馬県の郷土史研究に従事。群馬県議会図書室長、前橋市立図書館長を歴任。 1913年(大正2年)、群馬県吾妻郡長野原町の農業兼雑貨商の父茂一・母いはの第三子(長男)として生まれる。1934年(昭和9年)群馬県師範学校を卒業。 群馬県内の小学校教諭として勤務し、1945年(昭和20年)吾妻郡長野原国民学校教頭。その間1943年(昭和18年)からは群馬県社寺兵事課史蹟主事をつとめる。 戦後は教職員不適格者指定を受け退職し、群馬県農業会に勤める。1948年(昭和23年)群馬県議会書記、翌年同図書室長に就任する。
坂村 吉正(さかむら よしまさ、1913年〈大正2年〉6月1… 坂村 吉正(さかむら よしまさ、1913年〈大正2年〉6月19日 - 1983年〈昭和58年〉6月2日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員(4期)。館林市名誉市民。 群馬県邑楽郡郷谷村(現・館林市)に生まれる。旧制館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)、旧制第一高等学校文科を経て、1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。 大学在学中の1936年(昭和11年)に高等文官試験に合格し、大学卒業後に農林省に入省。1956年(昭和31年)水産庁漁政部長生産部長となり、日ソの外交交渉に尽力。1959年(昭和33年)農林経済局長、1962年(昭和37年)農林水産技術会議事務局長を経て1963年(昭和38年)に退官する。