三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
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三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6… 竹内 端三(たけのうち たんぞう、1887年(明治20年)6月‐1945年(昭和20年)8月7日)は日本の数学者。東京出身。理学博士。東京帝国大学教授。
権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5… 権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5月17日 - 1951年(昭和26年)1月5日)は、日本の社会学者。 東京生まれ。明治32年、早稲田中学に入学。東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1921年大原社会問題研究所に入る。1924年にヨーロッパに渡る。のちに日本大学講師、文部省の委託を受けて各地の都市研究に従事する。 1919年(大正8年)に実施した、小額俸給生活者の家計調査は有名。また同時期、京都の映画監督で、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男(保篠龍緒)とともに協力する。
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943… 梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島 卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある。 1887年、東京市日本橋区本船町に生まれる。慶応義塾普通部3年を経て東京薬学専門学校に入学するも中退。1910年、菊池武成門下で新派俳優となる。翌1911年、川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年に高田実の門下となる。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。
片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - … 片岡 長正(かたおか ちょうせい、1887年4月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元女形である。芸名の読みは「かたおか ちょうしょう」と表記されることもある。芸名を片岡 長生とするのは誤りである。本名は桑島 莊一郎(くわじま そういちろう)とされるが、桑島 長生(くわじま ちょうせい、くわじま ちょうしょう)、桑島 長正(読み同じ)、桑島 藏一郎(くわじま ぞういちろう)、幸島 喜一郎(こうじま きいちろう)の説もある。幼名は澤村 鶴松(さわむら つるまつ)。旧芸名は桑島 壯一郎(くわじま そういちろう)、久和島 壯一(くわじま そういち)、久和島 莊一(読み同じ)。旧劇を経て横田商会、日活京都撮影所に所属し、尾上松之助の相手役として活躍した名女形として知られる。
林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日… 林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 千葉県海上郡椎柴村字塚本(現・銚子市塚本町)に生まれる。1907年(明治40年)6月、正則英語学校を卒業後に渡台し、嘉義庁庶務課勤務を振り出しに、台南州文書課秘書係長、台南州文書課長、台北州文書課長を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任した。ついで1939年(昭和14年)1月、台南州北港郡守に転じた。 この間、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)に掛けて樺太庁に出向し、長官官房秘書課および文書課にて勤務した。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治… 奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治20年)3月10日-1967年(昭和42年)10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会(日弁連)会長、第二東京弁護士会(二弁)会長を歴任。在野法曹界の元老格だった。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民(旧・名瀬市名誉市民)。 鹿児島県にある徳之島の亀津(現・大島郡徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校卒業(現・徳之島町立亀津小学校)。沖縄県にわたって学資をかせぎ、遭難のすえ宮崎県に漂着して鹿児島県本土経由で上京。東京で弁護士事務所の書生をしながら正則英語学校の夜学に通い、後にドイツ語教授の住み込み書生に転じて京華中学校 (旧制)卒業。1906年(明治39年)の旧制高等学校試験に合格。
三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2… 三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2月28日 - 1919年〈大正8年〉12月7日)は、山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身の男子テニス選手。日本における硬式テニスの導入を最も早く提言した人物であり、早稲田大学の「三神記念コート」にその名を残している。 豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に生まれる。上に姉4人、兄3人がいたため、8番目の子どもで四男、という意味で「八四郎」と名付けられた。アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした三神吾朗は、彼の弟である。 早稲田中学(現・早稲田高等学校)を経て早稲田大学に入学。
北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日… 渡辺 仁(わたなべ じん、1887年(明治20年)2月16日 - 1973年(昭和48年)9月5日)は、近代日本の建築家。作品のスタイルは歴史主義様式のほか、表現派、帝冠様式、初期モダニズムと多岐にわたっている。主要作品には服部時計店、東京帝室博物館(原案)、第一生命館などがある。記念碑的な建築物を設計した。 1887年(明治20年)2月16日 新潟県佐渡生まれ。東京育ち。父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)。 1912年(明治45年)7月 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に務めた。 1917年(大正6年)12月 逓信省入省。大臣官房経理局営繕係勤務。1920年退職。 1920年(大正9年)4月 独立し、渡辺仁建築工務所開設。
村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 … 村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 静岡県に堀慎作の長男として生まれ、村田熊三郎の養子となった。錦城中学校、第二高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同警視、同理事官、同日高郡長、京都府理事官、兵庫県理事官、福岡県書記官・学務部長、和歌山県警察部長、岐阜県警察部長、山形県警察部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年… 東家 楽燕(あずまや らくえん、本名:岡部 六弥、1887年2月3日 - 1950年3月8日)は明治から昭和にかけて活躍した浪曲師。東京出身。
小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月3… 小川 孝喜(おがわ たかよし、1887年(明治20年)1月30日 - 1950年(昭和25年)11月18日)は、日本の政治家。立川町(現:立川市)の初代町長、立川市の初代市長である。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
福田 泰三(ふくだ たいぞう、1886年(明治19年)12月… 福田 泰三(ふくだ たいぞう、1886年(明治19年)12月12日 - 1964年(昭和39年)10月26日)は、昭和時代の政治家。山口県下関市長。 福田重治郎の二男として、下関に生まれる。1906年(明治39年)東京中学を卒業。下関市議を22年、山口県議を12年、下関市長を3期12年歴任した。 市長在任中は、関門商品取引所の誘致、下関水族館や火の山ロープウェイなどの観光施設の建設、下関市立大学・第一高校・体育館などの教育施設の整備に尽力した。ほか、全国市長会副会長を歴任した。 1964年(昭和39年)10月26日、肝臓がんのため死去した。市葬が行われた。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1… 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1… 山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1952年3月24日)は、日本の元俳優である。本名:山本 鎌藏(やまもと けんぞう)。ハリウッド映画からスタートした日本人俳優で、帰国後は松竹蒲田撮影所、日活太秦撮影所、新興キネマ東京撮影所などで活躍した名脇役として知られる。 1886年(明治19年)11月4日、神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町)に生まれる。旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済科に進学する。 1904年(明治37年)2月、早稲田大学を中退して渡米。種々の職業に従事していたが、日本から来た在留邦人相手の新派劇団に急遽加入し、各地を巡業する。
後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 19… 後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 1967年11月10日)は、作家、フランス文学者、比較文学・比較思想史研究者。 東京にて後藤五郎の六男に生まれる。「金座の後藤」と称された工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。浅草橋の小学校に通い、同級生には木村荘太や桜間弓川がいた。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第2次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発する。1913年、東大仏文科を卒業し、陸軍士官学校の教師となる。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て創作を続けるが、大正5年(1916年)、「女の哀話」もの小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に攻撃され、なおも創作を続けた。
二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治… 二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治19年)9月23日 - 1940年(昭和15年)8月19日)は歌舞伎役者。本名は鈴木 鐵彌(すずき てつや)。屋号は若松屋。 東京市四谷区(現在の東京都新宿区)出身。初代市川左團次の門人となり、1896年(明治29年) 9月東京歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』で市川左喜松を名乗って初舞台。師の死後は子息の二代目市川左團次一座に加わり、若女形として腕を上げる。 1906年(明治39年)9月明治座の初代左團次追善興行『世響太鼓功』でお静実ハ梅が枝と巴御前の二役を勤め市川莚若と改名。1911年(明治44年) 正月明治座で二代目市川松蔦を襲名した。1913年(大正2年) には二代目左團次の妹で日本舞踊の高橋幸子と結婚。
小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1… 小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1948年2月11日)は、日本の国語学者。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19… 谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20… 藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感()」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡し、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。
三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、188… 三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。本名は太田 照造(おおた しょうぞう)。 「三代目」とはいいながら、この「市川壽海」の名跡を襲名したのはこの太田照造ただ一人なので、かれのことを単に市川壽海(いちかわ じゅかい)と呼ぶことが多かった。 主に関西歌舞伎を中心に舞台を務め、初代中村鴈治郎・中村魁車・三代目中村梅玉らの死後は、三代目阪東壽三郎と並んで「双壽時代」と呼ばれる一時代を築く。 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町の仕立職・中村力蔵の子として生まれる。
山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1… 山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1886年(明治19年)6月9日 - 1965年(昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。
六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明… 六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明治19年)6月1日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は大正から昭和戦前期に活躍した歌舞伎役者。屋号は明石屋。 定紋は丸十、替紋は水仙丸。本名は青木 八重太郎(あおき やえたろう)。 歌舞伎役者中村鷺助(本名青木喜之助)の子として東京浅草に生まれる。父が下回りの役者だったことから幼くして歌舞伎の世界に入り、五代目中村歌右衛門に入門。明治24年(1891年)、浅草座で中村翫兵衛を名乗って初舞台。明治31年(1898年)6月に中村翫、翌年1月に初代中村おもちゃと名乗り、初代中村吉右衛門や初代助高屋小傳次らの子供芝居に出る。 明治35年(1902年)6月、市村座において中村駒助を襲名。
池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月… 池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月13日 - 1917年(大正6年)12月1日)は、明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方。 1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に1人の弟、3人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。
武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 195… 武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者(上代文学)。万葉集や古事記の研究で業績がある。元國學院大學教授。日本学士院賞受賞。 1886年(明治19年)、東京市日本橋区(現・東京都中央区)で生まれた。幼少期は大阪で育ち、大阪府第五尋常小学校(現 天王寺中学)に入学。同級生に折口信夫・岩橋小弥太・西田直二郎がいた。1908年(明治41年)國學院大學に入学し、三矢重松に師事した。 1913年(大正2年)に國學院大学を卒業。翌年、小田原中学校教諭となった。1916年(大正5年)に退職し、東京帝国大学において、佐佐木信綱の『校本万葉集』編纂に従事する。
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)… 住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「淀」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀、東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。
岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962… 岡田 満(おかだ みつる、1886年4月19日 - 1962年4月28日)は、日本の大正・昭和期における歯科医、大学教授。滋賀県出身者の歯科医として、初の医学博士。 1886年(明治19年)4月19日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の3番目の妻・義子。八男七女の七男として誕生したが、長男と四男が夭折しており対外的には五男と称す。 1898年(明治31年)早稲田中学入学に伴い上京し、長兄岡田国太郎宅より通う。1908年(明治41年)7月20日、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)第14回生(本科6名の一人)として卒業する。
大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 19… 大倉 燁子(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 1960年7月18日、本名:物集 芳子(もづめ よしこ))は、日本の小説家。 国学者・物集高見の三女。兄の物集高量は国文学者、妹の物集和子も小説家。 東京府東京市本郷区弓町(現・東京都文京区本郷)出身、学歴は東京女子高等師範学校中退。文学を志して妹の和子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。以後は漱石門下の作家として、本名や「岩田由美」、「岩田百合子」の名義で『兄』、『生家』、『母』などの小説を発表した(1909年 - 1912年)。
秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 -… 秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 - 1975年6月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。 東京市浅草生まれ。9歳で奉公に出され、のち少年記者となり、銀行、外人商館、郵便局、横浜市役所などで働き独学する。1909年「二六新報」に入社。その後国民新聞、報知新聞で演劇記者として活躍。1923年東京朝日新聞に入社。1941年朝日新聞定年後も劇評を担当した。 歌舞伎や大衆演劇に精通し、1961年日本演劇協会功労賞受賞(永年にわたって担当した「朝日新聞」の劇評により)。 1966年第1回長谷川伸賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年… 平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明(ひらつか はる)。 大正から昭和にかけ、婦人参政権など、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌『青鞜』の創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である(大昔は女性は自らいきいきと輝いていたが、今は自分の力で輝けない)」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[要ページ番号]。
西村 好時(にしむら よしとき、1886年1月22日 - 1… 西村 好時(にしむら よしとき、1886年1月22日 - 1961年4月30日)は、日本の建築家。多くの銀行建築を設計したことで知られる。
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月… 河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月13日 - 1955年〈昭和30年〉1月22日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員。 旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村(現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。 旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。
李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年… 李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年9月20日または1896年10月26日 - 1979年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、弁護士、検察官、裁判官、政治家。米軍政庁大法院長代理、第4代米軍政庁検事局検事総長、過渡政府大検察庁検察総長、初代法務部長官、制憲・第3・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は慶州李氏、号は愛山。李益斎の子孫で、性理学者の李寛俊は祖父、自彊会と大韓協会の中心人物だった李宗栄は父、独立運動家の李始栄(朝鮮語版)は叔父。元国会議員の李泰九(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚道大邱都護府(現・韓国大邱広域市)出身だが、先祖代々は慶州に在住。
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958… 平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月… 尾上 茂樹(おのうえ しげき、1885年(明治18年)11月20日 - 1922年(大正11年)10月27日)は、日本の発明家、実業家。 東京府南足立郡北千住町(現・東京都足立区)出身。1899年(明治32年)に小学校卒業と同時に石川島造船所に研究生として入所した。その後、海軍機関兵となった。除隊後の1909年(明治42年)に名古屋に鉄工場を設立し、発電機の製作に従事した。1910年(明治43年)に尾上商会(現在のOMC株式会社)を設立した。1911年(明治44年)に大豆粕粉砕機を発明した。大豆粕粉砕機は勧業博覧会にて金牌を受賞した。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11… 石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11月5日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の財界人、経営者。位階は正三位。 東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長(在任1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年))。日産化学工業元社長、元会長。昭和電工元社長、元会長。 1885年(明治18年)11月5日、東京に生まれる。関東酸曹常務・卯一郎の長男。父・卯一郎は大坂の出身で、石川家は江戸時代、「宇田屋」という屋号の商家であった。父は関東酸曹というカセイソーダ製造の化学会社を経営した。 旧制京華中学を出て、1903年(明治36年)旧制第一高等学校工科(二部)に入学。
柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉… 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。 父は柳原前光伯爵。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。母のりょうは没落した新見正興の娘で、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であった。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。
渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日… 渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日 - 1939年(昭和14年)1月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)… 2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)9月8日 - 1967年(昭和42年)4月22日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した講談師。本名、玉川悦太郎。初代神田松鯉の子。 東京港区芝源助町に生まれた後、京橋五郎兵衛町に転居。1895年、父の門下として高座に上がり、神田悦山を名乗る。1905年から神田小伯山を名乗り、1921年、2代目神田松鯉を襲名。1965年、勲五等双光旭日章受章。 道楽者として有名であり、講談の途中に駄洒落を入れるのが特徴だった。阿部主計は「単調でダラダラと粘った口調のリズムや、抑揚も立体感もない退屈な演技」と評した。6代目三遊亭圓生は「なぜ落語家にならなかったのか」と惜しんだ。
池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日… 池田 大伍(いけだ だいご、1885年(明治18年)9月6日 - 1942年(昭和17年)1月8日)は、歌舞伎の劇作家、劇評家、翻訳家。甥は池田弥三郎。 池田鉸三郎・乃婦の次男に生まれた。家は幕末から続く銀座の天ぷら屋「天金」で、兄が金太郎、本人の幼名が銀次郎だった。1891年から私塾の鍋町小学校に通い、公立の麹町小学校を卒業した。その後商工中学を経て、1907年早稲田大学英文科を卒業した。東京毎日新聞の劇評を2年書いた後、1911年(明治44年)、坪内逍遙らの文芸協会の演芸主事となった。1913年(大正2年)の文芸協会解散後は、東儀鉄笛・土肥春曙らと劇団「無名会」を組織し、翌1914年、第一作『滝口時頼』を上演した。
大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 … 大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 - 昭和45年(1970年)8月18日)は、日本の実業家。元住友化学工業社長。