嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9… 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京浅草に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日… 河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日 - 1963年(昭和38年)9月27日)は、日本の大蔵官僚、大蔵大臣。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日… 神保 格(じんぼう かく、1883年(明治16年)4月18日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、日本の言語学者。
穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 19… 穂積 重遠(ほづみ しげとお、1883年4月11日 - 1951年7月29日)は、東京府出身の法学者。専門は民法。東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」といわれる。東宮大夫兼東宮侍従長。男爵。勲一等旭日大綬章。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 197… 武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 1972年6月7日)は、日本の植物学者、登山家。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月… 宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。税関吏・宇佐美潤屋の長男として生まれる。東京府立第一中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校を卒業(14期)し、1903年(明治36年)、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。 佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長、東京警備参謀長などを歴任。 1930年(昭和5年)3月、騎兵監部付の時に陸軍少将に進級。
人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月1… 人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月4日)は、日本の詩人、教育者。本名は圓吉(えんきち)。昭和女子大学(日本女子高等学院)の創設者。 東京に生まれ、岡山県で育つ。早稲田大学高等師範部英語科を卒業後、讀賣新聞社に記者として勤務する。早大在学時より詩作に励み、1907年(明治40年)5月に相馬御風・三木露風・加藤介春・野口雨情らと早稲田詩社を起こす。1909年(明治42年)に加藤介春、三富朽葉、福田夕咲らとともに自由詩社を結成、口語自由詩運動の基礎を作り、新体詩の普及に努めた。また、1920年(大正9年)に日本女子高等学院(後の昭和女子大学)を創立し、教育者としての功績も残している。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月… 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。
石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11… 石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11月2日)は、将棋棋士。七段。東京の京橋生まれで深川育ち。川井房郷七段門下。 日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 戦前死没者のため、日本将棋連盟ウェブサイト内「物故棋士一覧」に名前の掲載はないが、「棋士データベース」における加藤恵三八段、佐瀬勇次名誉九段の「師匠」欄、および「棋士系統図」においてその名を確認することができる。 明治43年(1910年)28歳の時に入段、大正4年(1915年)までに将棋同盟会(後の将棋同盟社、日本将棋連盟の前身の一つ)に付け出し二段で加入し、同年中に三段、大正7年(1918年)四段、大正11年(1922年)五段、大正14年(1925年)に六段に昇段した。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。
加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3… 加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1962年〈昭和37年〉3月24日)は、日本の教育者。仙台育英学園創立者。 福島県北会津郡、のちの若松町(現会津若松市)で、米屋を営む加藤利喜次郎、こま の二男として生まれた。家業の手伝いをしながら漢文などの学びを続けた。 その後、親が準備してくれた炭百俵を持って上京し、炭を売却して学費・生活費を工面した。まず、神田区猿楽町(現千代田区神田猿楽町)の東京学院に入学し国漢学を学び、1901年(明治34年)3月に卒業。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)に入学。炭の売却金も底をつき始め米屋で奉公しながら通学し、1904年(明治37年)3月に卒業した。
小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 19… 小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 1960年7月15日)は、日本の独文学者、詩人。別名・小牧暮潮、初号・小牧楚水。
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )1… 山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 … 有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 - 1947年11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍中将有地品之允の三男として東京に生まれる。 1900年(明治33年)3月、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。 1915年(大正4年)5月26日、駆逐艦「夕暮」駆逐艦長に就任。1917年(大正6年)11月、海軍大学校(甲種第15期)を卒業し海軍少佐に昇進した。 1918年(大正7年)1月、「槇」艦長となり、第二特務艦隊司令部付、「柏」駆逐艦長などを歴任し、1919年(大正8年)9月15日、第2水雷戦隊参謀に就任。
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 19… 滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。父・滋野清彦の男爵を襲爵。「欧州の空で戦った侍飛行家」とも評され、フランス陸軍航空隊のエース部隊のパイロットとして活躍しレジオン・ドヌール勲章、クロワ・ドゥ・ゲール勲章を受勲。通称をバロン滋野。 1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋に生まれた(東京生まれとも)。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退する。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学し、本科器楽科でコルネットを習得した。
十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(… 十二代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1882年(明治15年)9月9日 - 1946年(昭和21年)3月16日)は、日本の歌舞伎役者。八代目片岡仁左衛門の娘の子で、十代目片岡仁左衛門の養子。本名は片岡 東吉(かたおか とうきち)。東京・今戸出身。 1885年(明治18年)東京・千歳座(現在の明治座)で本名の片岡東吉で初舞台を踏み、その後二代目片岡土之助を経て1901年(明治34年)四代目片岡我童を襲名。 1936年(昭和11年)1月、東京・歌舞伎座『馬切』の織田信孝で十二代目片岡仁左衛門を襲名。この当時、東京歌舞伎では女形が不足していたため、関西歌舞伎の仁左衛門も招きを受け昭和9年(1934年)頃から拠点を東京に移し、六代目尾上梅幸を失った十五代目市村羽左衛門の相方を多く務めた。
6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日… 6代目雷門 助六(かみなりもん すけろく、1882年9月9日 - 1934年5月6日)は、東京出身の落語家。本名は青木 鏡太郎。8代目助六は弟子で実子。 東京本郷に生まれる。生家は水戸徳川家直属の請負師だった。一時、静岡県沼津に住む。 尋常小学校を出てすぐ11歳で伯父の草履屋に奉公に出ていたがまともに勤まらなかった。15歳の1897年ごろに母の弟であった4代目柳亭左楽(オットセイの左楽)の門下に入って左太郎となる。約5年ほど前座修行を経て1902年に二つ目で左市に改名する。 1904年、5代目助六(後の3代目志ん生)門下に移って3代目都家歌六の名で真打に昇進する。その後日露戦争に従軍したが復員。
箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28… 箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28日 – 1964年〈昭和39年〉12月15日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。工学博士。最終階級は海軍造兵中将。 兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した。
石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年… 石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年7月4日)は、日本の歴史学者。日本学士院会員。専門は神学史、キリスト教史。 1882年、東京市本郷区本郷4丁目39番地に本郷教会牧師石原量、母ちせの次男として生まれた。「少年の頃既に聖書を教えられ、中学四、五年の頃その研究に少なからず興味を覚えて、その頃受洗」(『石原謙著作全集』11巻214頁)したと、牧師である父の強い影響でキリスト教信仰を持ったことを記している。洗礼は1900年1月7日、18歳の時数寄屋橋教会(現日本基督教団巣鴨教会)の田村直臣牧師から受けた。 早稲田中学を経て、1901年(明治34年)7月一高に入学し、1903年に最初の論文「ナザレの聖者を論ず」を書いた。
五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15… 五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15年(1882年)6月28日 - 昭和20年(1945年)4月13日)は歌舞伎役者。本名は岩井 久次郎(いわい ひさじろう)。屋号は大和屋。定紋は丸に三ツ扇、替紋は杜若丁字。俳名に燕子がある。 四代目岩井粂三郎の子として東京浅草の花川戸に生まれる。明治20年(1887年)8月に岩井紀の丸で初舞台。明治28年(1895年)4月または29年(1896年)3月、明治座で四代目岩井久次郎を襲名。明治39年(1906年)10月東京座『異風行列』の濃姫で五代目岩井粂三郎を襲名、名題昇進。市村座から後に四谷の大国座に出る。その後関西に住み着き活躍。晩年は再び東京に戻っている。
渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月1… 渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月16日 - 1946年(昭和21年)8月13日)は東京出身の俳人。本名は渡辺義(よし)。 東京府東京市浅草区浅草小島町(現在の東京都台東区小島)に生まれる。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。育英小学校卒業を経て、1899年、日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。また同居した妹つゆ女も俳人であった。 1906年、高浜虚子に師事。千鳥吟社より「俳諧草紙」を創刊(1909年「文庫」に合併)。
岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15… 八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没… 磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり、そのとき磯川はすでに数え年55歳である。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った。
飯島 彌十郎(いいじま やじゅうろう、前名・賢一、1882年… 飯島 彌十郎(いいじま やじゅうろう、前名・賢一、1882年〈明治15年〉4月27日 - 1939年〈昭和14年〉1月24日)は、日本の醤油醸造家、政治家(東京府北豊島郡上板橋村長、東京府会議員)、地主、豊島病院管理者、実業家。 先代彌十郎の三男。「栗原屋」と称し、醤油醸造業を営んだ。 また浅草土地興行取締役、三東鉱業監査役、東京府北豊島郡郡会議員、同郡農会幹事、同郡教育会幹事、上板橋村長、同村会議員、同村青年団団長、同村安養院信徒総代、同村土木衛生学務各委員長、同村消防組頭、同村農会長などをつとめた。 1930年7月、板橋町長花井源兵衛の後を襲い豊島病院組合の管理者に当選した。 住所は上板橋。
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943… 中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943年2月26日)は、日本の官僚、華族。鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。勲三等男爵。墓地は多磨霊園。
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 -… 尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 - 1947年1月4日)は、歌舞伎役者。本名:鈴木 僖重(すずき きじゅう) 1882年(明治15年)1月11日鈴木喜右エ門(江戸時代から有名な日本橋・料亭小倉亭~[江戸時代:本所小梅小倉庵]どちらも震災大火のため焼落)の長男として東京市京橋区中橋和泉町1番地に生まれる(現在の中央区築地2丁目)。六代目尾上菊五郎を師匠とし、尾上家の舞台では番頭もしていた。舞台では玉乗りを得意としていた。 幼い頃から歌舞伎座が身近にあったことから歌舞伎の世界に憧れる。当時銀座にあった料亭三浦(現在「新三浦」とし築地に移転)にて菊五郎と話し合い、菊五郎の元で歌舞伎を演じたい僖重と、番頭を欲しがっていた菊五郎の希望が合致し、菊五郎の初めての付き人になった。
生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年… 生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日 - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である。本名同じ。 1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる。 群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する。
加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957… 加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957年)は、日本の地方政治家。東京府清瀬村(現在の清瀬市)の村長を務めた。父の加藤鉄五郎(1858年 - 1932年)も村長を務めている。 清瀬村会議員を経て、1926年に父の鉄五郎が村長を辞任した折に、後任として就任する。[要出典]。 1927年、東京府が府立結核療養所の清瀬設置を決定すると、新三郎は反対した。いったんは取りやめになったものの、翌年、再び設置を決定すると、新三郎らはさらなる反対の議決と、それに同意する地元住民の陳情書を提出し、当地への結核療養所の設置に反対の意思を示した[要出典]。 1930年に村長を辞任。その後、結核療養所は小島長太郎が村長の時代に設置された[要出典]。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年1… 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年11月6日 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた。
兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 19… 兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 1961年5月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。児玉源太郎の三男として生れる。学習院中等科を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となり、1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。 参謀本部員兼軍務局課員、近衛師団参謀、参謀本部員などを経て、1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。帰国後、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、兼航空部事務官、兵器局課員、軍務局課員(軍事課)、近衛歩兵第3連隊付、歩兵第34連隊長、参謀本部課長などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月… 潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月11日 - 1955年〈昭和30年〉1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。 1881年(明治14年)、綿職人・潮房太郎の二男として島根県美濃郡横田村(後に同郡豊田村字横田となり、現在は益田市横田町)に生まれる。郁文館中学、一高を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学卒業後に内務省入省。行政法の専門家として活動、衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年(昭和3年)に田中義一内閣の内務次官となり、濱口内閣・第2次若槻内閣で次官を務めた後に1931年(昭和6年)に貴族院勅選議員となる(研究会所属)。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。