茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日… 茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。位階は従二位。 神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1… 原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1992年4月7日)は、日本の鉱物学者。理学博士(東京帝国大学)。 神奈川県横浜市生まれ。1924年、東京帝国大学理学部卒業。1925年、熊本高等工業学校教授・第五高等学校教授。1929年、欧州の大学留学。1931年に北海道帝国大学理学部の地質学鉱物学教室創設とともに同助教授となり、1932年、同理学部教授。1939年 東京帝国大学 理学博士 「本邦産硼素鉱物の研究」。1947年北海道大学理学部教授。 1958年、理学部長。1962年に定年退官。北海道大学名誉教授。同年、新設の旭川工業高等専門学校校長となり、1970年に退職。1972年、旭川工業高等専門学校名誉教授。
大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉… 大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1940年〈昭和15年〉7月28日)は、日本のマルクス経済学者。筆名に成瀬 光雄がある。 神奈川県横浜市で大森啓助の子として生まれる。1922年(大正11年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。1924年(大正13年)東京帝大助教授。 1928年(昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。 1933年(昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。 1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙される。
河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2… 河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2日 - 1965年〈昭和40年〉7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。春秋会(河野派)会長、領袖。 新聞記者を経て1932年に政友会の代議士となり、戦後、自由党結成に参加。自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」 と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務め、日ソ国交回復交渉及び漁業交渉に尽力した。総理総裁を狙い、1964年、池田首相退陣後の総裁の座を佐藤栄作と争ったが敗れ、翌年急死した。
今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日… 今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日 - 1977年〈昭和52年〉9月19日)は、横浜生まれの小説家、天台宗大僧正(法名 春聽)、中尊寺貫主、参議院議員。大正末期に新感覚派の作家として出発。その後出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。 作家・評論家で初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。
小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 19… 小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 1984年2月11日)は、日本の政治家・官僚。郵政大臣。 神奈川県足柄上郡酒田村(現・開成町)に、酒造業・小金仁左衛門の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、一高を経て、1922年東京帝国大学法学部を卒業、農商務省に入省する。特許局属。商工省鉱山局長、鉄鋼局長、燃料局長官を歴任した。 戦後の1949年第24回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補し当選する(当選同期に佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・有田喜一など)。
藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月1… 藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。1938年の飛行によって、距離と1万キロ速度において、当時の世界新記録を達成した。 本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。 1924年(大正13年)10月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任官し所沢陸軍飛行学校付となる。1926年(大正15年)1月、第21期操縦学生となり操縦訓練を受ける。
坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月1… 坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月11日 - 1984年(昭和59年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。農業・坂間重次郎の長男として生まれる。厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)までシベリアに派遣された(ロシア語研究)。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となり、1930年(昭和5年)12月、ポグラニチナヤ特務機関長に転じた。
笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月… 笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月6日 - 1984年〈昭和59年〉3月29日)は、日本の詩人。 横浜市の富裕な商人の家庭に生まれ育つ。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、1週間で勤めを辞し、遊民となる。ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。 詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。 三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月2… 大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月24日 - 2013年〈平成25年〉1月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。神奈川県川崎市在住していた長寿の女性。2012年(平成24年)12月17日から死去するまで存命中の女性長寿世界一となっていた。 2011年12月2日に佐賀県在住の長谷川チヨノが死去したことに伴い、女性長寿日本一となる。 2012年12月17日、ディーナ・マンフレディーニが死去したことに伴い、114歳359日で女性長寿世界一となる。 2013年1月12日午前12時過ぎ、肺炎のため川崎市高津区の有料老人ホームで死去。7002115000000000000♠115歳19日没。
大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年〈明治30年〉10月… 大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年〈明治30年〉10月9日 - 1973年〈昭和48年〉4月30日)は、日本の小説家・作家。大仏次郎(新字体)とも書く。本名は、野尻 清彦(のじり きよひこ)。 『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学の作者として有名なほか、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、新作歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。作家の野尻抱影(正英)は兄。 神奈川県横浜市英町(現在の横浜市中区)に生まれた。道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたる。父・政助は1850年(嘉永3年)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現在の和歌山県御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社し、勤勉実直な人だった清彦が生まれた時は単身赴任で宮城県石巻支店に勤務しており、その後四日市に移った。
岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月1… 岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月10日 - 1965年(昭和40年)10月10日)は、日本の政治家、外交官。内閣官房長官(第6代)、外務大臣(第72-74代)、衆議院議員(3期)。第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。また陸上競技選手(中距離走・長距離走)としての経歴も持つ。 神奈川県横浜市生まれ。米屋を営む岡崎安之助の十男。23歳上の長兄に政治家で日米富士自転車を創業した岡崎久次郎がいる。 厚木中学(現神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業。 カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。
井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1… 井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日)は、日本の詩人、作家、新聞記者。本名・康治。日高駿一の筆名も用いた。 生涯で3回結婚した。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった。 神奈川県小田原市出身。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された。 さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した。
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12… 相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。 神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校、第四高等学校を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年に史料編纂官補(同年、有栖川宮奨学金を受ける)、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義、1933年に史料編纂官となった。
横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月… 横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月12日 - 1985年(昭和60年)1月16日)は、日本の内務官僚・弁護士。内閣情報部長、官選県知事。 神奈川県出身。商業・横溝豊吉の四男として生まれる。横浜一中、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年2月、内務省に入り、東京府属として内務部庶務課に配属された。 1923年2月、広島県警視・警察部警務課長に就任。以後、同警察部保安課長、福岡県警察部特別高等警察課長、復興局長官官房計画課勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、内閣書記官、内閣官房総務課長、兼法制局参事官、兼内閣調査局調査官、情報委員会事務官、内閣情報部長などを歴任。
北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年… 岡本 伝之助(岡本 傳之助、おかもと でんのすけ、1896年〈明治29年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉1月15日)は、日本の政治家、実業家、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第二区選出)。横須賀名誉市長。さいか屋会長。横須賀商工会議所顧問。 神奈川県三浦郡横須賀町(現横須賀市)出身。岡本傳兵衛の長男。神奈川県立横須賀中学校で学び、中退した。1905年、家督を相続し父業の呉服商を継ぎ、後百貨店さいか屋を設立し、社長となる。 さいか屋、さいか屋商事、相模運輸、神奈川県繊維製品配給統制各社長、小美屋、神中鉄道、興電社各取締役、日本百貨店組合理事、横須賀方面繊維製品小売商業組合理事長、相模運輸監査役、同常務取締役、横須賀商工会議所会頭、同顧問などを務めた。
牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月… 牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1936年〈昭和11年〉3月24日)は、日本の小説家。神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身。 自然主義的な私小説の傍流としてみなされることが多く、17年間の作家生活の中で珠玉の短編十数編を残して早逝した「マイナー・ポエット」といわれている。「ギリシャ牧野」とも呼ばれた中期の幻想的な作品で新境地を拓いたが、小田原の生家で悲劇的な最期(縊死自殺)を遂げた。享年39歳。 牧野信一は、決して大作家とはいえない一詩人的な作家ではあるが、その「内発的な自我破り、想像力の開放、分裂に処するパロディの方法の発見」などは文学史的には重要な意味があると磯貝英夫は考察し、その後継者的な作家として、井伏鱒二、坂口安吾、石川淳、太宰治らの名を挙げている。
座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2… 座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2日 - ?)は、日本の歴史学者。神奈川県相模原市地域の郷土史家として知られる。神奈川県師範学校本科卒業。神奈川県商工実商学校教諭、相模原市立旭中学校校長、相模原市史編纂委員等を歴任。 現在の神奈川県相模原市南区に出生。1974年(昭和49年)の『相模原の歴史』を初めとして複数の郷土史書を著し、『相模原市史第7巻』を著述した。 1980年(昭和55年11月2日)の84歳の折、教え子や有志により相模原市麻溝台字はの原1894番地に肖像が建設された。敷地提供者は座間末治嗣子及び座間功。同像は1989年(平成元年)道路拡幅のため相模原市南区下溝3256-9に移された。
飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月… 飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月27日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は日本の歌人。本名、飯田 昇。 1896年(明治29年)、神奈川県高座郡海老名村に生まれる。日本大学社会課中退後、法政大学、水難救済会、八雲書店等に勤務したのちに天弦社の代表となる。童謡歌手、女優の飯田ふさ江は娘。 作歌を始めたのは厚木中学校在学中であり、莫哀の雅号は旧制中学3年の頃に漢文を担当していた教師がつけたものである。1915年(大正4年)に前田夕暮の『詩歌』に参加した。詩歌の廃刊後は活動を休止するが、1922年(大正11年)『覇王樹』に参加し橋田東声に師事する。東声の死後は森園天涙の『珊瑚礁』に転じたが再び覇王樹に戻っている。
松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月1… 松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月10日 - 1989年9月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本専売公社総裁。 神奈川県出身。旧制第一高等学校を経て、1921年(大正10年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。 1921年5月、大蔵省入省し、参事官付。主税局国税課長、大臣官房文書課長などを歴任。1940年(昭和15年)5月25日、銀行局長。同年12月14日、主税局長。1944年(昭和19年)に谷口恒二(のちに日本銀行副総裁、東京大空襲で戦災死)のあとを受けて大蔵次官に就任。1945年2月、田中豊に大蔵次官の座を譲って勇退した。
木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月1… 馬淵 美意子(まぶち みいこ、1896年〈明治29年〉3月16日 - 1970年〈昭和45年〉5月28日)は、日本の詩人、画家。 幼年時代より絵を志し有島生馬に師事する。二科展に4回出品し入選を果たすが、のちに絵を断念して詩作に転じる。1952年に刊行した『馬淵美意子詩集』は読売文学賞の候補となった。夫は洋画家の庫田叕。 兵庫県神戸市に生まれる。1902年(明治35年)、長崎尋常小学校へ入学した。1909年(明治42年)、鎌倉女学校へ入学し、後に卒業した。1916年(大正5年)、父親の専断により結婚し二児を得るが、1922年(大正11年)に離婚する。1926年、有島生馬に師事する。1928年(昭和3年)、二科展に初入選し、以後3回出品する。
相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2… 相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1963年〈昭和38年〉11月23日)は、神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市)生まれの書家。 1916年に早稲田実業学校を卒業し、早稲田大学商科に入学したが、中途で退学している。1913年より中村春堂に師事し、また小野鵞堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。東洋家政女学校、慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校、女子高等学園に勤務した。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。
本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年… 本間 精(ほんま きよし、1895年8月1日 - 1948年9月1日)は、昭和時代の内務・警察官僚。官選の秋田県知事、岡山県知事、福岡県知事。 本間啓太郎(農林省勅任技師)の長男として生まれる。横浜一中、第二高等学校を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年9月、大学院に進み経済行政を専攻した。 1920年(大正9年)7月、神奈川県属となり内務部地方課に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年(大正10年)8月、神奈川県警視に就任し、以後、沖縄県内務部学務課長、山口県内務部学務兵事課長、群馬県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、栃木県内務部長、広島県書記官・内務部長、警視庁警務部長、北海道庁総務部長などを歴任。
川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月1… 川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月10日 - 昭和47年(1972年)9月1日)は、日本の版画家。神奈川県出身。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971年2月24日)は、日本のドイツ文学者。 1895年、神奈川県横須賀市生まれ。東京帝国大学文学部独文科で学び、1918年に卒業した。 卒業後は第四高等学校教授となった。戦後の1949年7月、第14代第四高等学校校長となった(1950年3月まで)。一方で、同1949年は国立学校設置法の施行による新制金沢大学が設置され、包摂されることとなったことから金沢大学教授となった。1960年に金沢大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は桃山学院大学教授として教鞭をとった。 なお、1909年生まれのドイツ文学者に名古屋大学教授を務めた伊藤武雄がいるが、全くの別人である。
陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4… 陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4月4日 - 1941年〈昭和16年〉9月28日)は詩人、実業家。昭和初期に政治家としても活動した。 1895年、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)砂子生まれ。1913年(大正2年)に横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)卒業。 1919年(大正8年)の雑誌『太洋の周辺』の同人になり、1924年(大正13年)に詩集「銅牌」を刊行する。また、労働学校の講師になり、労働者の教育に従事する。 1932年(昭和3年)に社会民衆党から川崎市会議員選に出馬して最高点で当選、1936年には神奈川県会議員にも当選して1938年 - 1939年に県会副議長。
岩本 信行(いわもと のぶゆき、1895年3月2日 – 19… 岩本 信行(いわもと のぶゆき、1895年3月2日 – 1963年4月5日)は、日本の政治家。国務大臣、衆議院副議長(第34・35代)、衆議院議員(5期)。位階は正三位、勲等は勲一等。 神奈川県高座郡大野村上鶴間(現相模原市南区)に、農業・岩本次左衛門の長男として生まれる。小学校を卒業後、東京府南多摩郡忠生村(現東京都町田市)にあった漢学塾・尚絅塾で学ぶ。大野村役場書記、高座郡書記を経て家業の農業に専念し、また養蚕組合を設立して組合長になったり、青年団長を務めるなど、地域の世話役的活動を積極的に行った。 大野村会議員(1922年)を経て、1928年神奈川県会議員に当選し、1946年まで選出される。
二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)… 二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)1月3日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。
古谷 専三(ふるや せんぞう、1894年7月27日 - 19… 古谷 専三(ふるや せんぞう、1894年7月27日 - 1991年9月6日)は、日本の英文学者。 神奈川県出身。旧制厚木中学校卒、教員検定試験合格、早稲田大学中退、日本大学文理学部卒、小学校・中学校教員、私塾経営をへて1942年日本大学助教授、教授、1959年「Studies in George Eliot’s realism」で日大文学博士。64年定年、1966年帝京大学文学部教授、文学部長。三男は英文学者の古谷三郎。ジョージ・エリオットが専門。
吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月2… 吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月22日 - 1988年(昭和63年)5月18日)は、日本海軍の軍人として太平洋戦争を戦った海軍少将。戦後は慶應義塾大学医学部を卒業し、医師として活躍した。娘の夫は後宮虎郎。 海軍中将・吉見乾海の長男として江田島に生まれる。弟の吉見博之は後に主計大尉となった。祖父の吉見雲台は越後長岡藩医で戊辰戦争で戦死している。小田原中学、広島一中を経て海軍兵学校入校。1915年(大正4年)12月同校卒業(第43期)。同期生に矢野志加三、中澤佑、高木惣吉らがいる。 海軍砲術学校高等科学生を卒業し、「帆風」砲術長、「霧島」分隊長、「対馬」砲術長、「陸奥」分隊長等を経て海軍少佐に進級。
佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - … 佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - 1974年5月24日)は、日本の実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。 神奈川県横浜市出身。横浜一中、一高、1917年東京帝国大学経済学部卒業後、米山梅吉の紹介で、三田会の学閥の色合いが強い戦前の三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。ニューヨーク支店長、大阪支店長など、海外要員として経営中枢からは遠ざけられ、1941年には三井銀行の海外担当取締役、1943年の帝銀発足時も常務にあった。戦後は一転して1946年の公職追放の発表に先立って、万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)はじめ、戦前三井財閥のリーダー池田成彬に、池田の子飼でありかつ万代の後継と目されていた大矢知昇常務も退任したため、佐藤が予期せぬ頭取の座に就任した。
徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963… 徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963年)は、日本の西洋経済史学者。初代横浜国立大学経済学部学部長。 神奈川県横浜市生まれ。1919年に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業。上田貞次郎門下。 上智大学などで教鞭を執り、1921年から文部省在外研究員としてイギリス、ドイツ、フランスに留学した。1924年に帰国すると横浜高等商業学校の教授となり、経済原論及び商業史を担当した。 1947年一級官。1949年横浜国立大学経済学部学部長兼横浜経済専門学校校長事務取扱。1950年横浜国立大学附属図書館経済学部分館長兼務。退官後、横浜国立大学名誉教授。 1963年正四位勲二等瑞宝章、従三位。
西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月… 西田 半峰(にしだ はんぽう、1894年 - 1961年7月26日)は、日本の版画家、画商。三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。本名は西田武雄(にしだ たけお)。 6歳の頃、母方の親類の養子となり横浜へと移り、1945年に三重へ疎開するまで関東で過ごす。横浜商業学校に在学中、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選。その後、本郷洋画研究所に入りエッチング(銅版画)の画法の研究・普及に熱心に努め、1923年には東京で画廊「室内社画堂」を開き、日本で最初の洋画商となり、1932年11月には日本エッチング研究所の名のもと、雑誌「エッチング」を創刊・編集したことから「エッチングの父」とも呼ばれる。
内藤 千代子(ないとう ちよこ、1893年(明治26年)12… 内藤 千代子(ないとう ちよこ、1893年(明治26年)12月9日 - 1925年(大正14年)3月23日)は日本の小説家。雑誌『女学世界』に多くの恋愛小説を発表し、女子学生に絶大な人気を誇った。槍ヶ岳に登頂した初めての日本人女性でもある。 東京府東京市下谷区下谷西町(現在の東京都台東区東上野)で、士族出身の象牙彫刻師である父広蔵と母いくの長女として生まれる。3歳の時に神奈川県高座郡鵠沼村(現・藤沢市)に移り住み、以後生涯を鵠沼で過ごす。父広蔵は漢籍の素養を持つ教養人であったことから、教育は全て父の手によって行われ、内藤は学齢期になっても学校に行かせてもらうことはできなかった。その後、生涯に渡って一切学校教育を受けていない。
柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26… 柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉1月16日)は、日本の哲学者。西田哲学から戦後唯物論に転じ、平和運動や労働者教育にも尽くした。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)生まれ。家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家で、謙十郎は、村会議員を経て収入役・助役になった柳田勘作の長男であった。1908年神奈川師範学校に入学。1913年、愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。のち、神奈川師範学校附属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山師範学校教諭、岩手師範学校教諭などを務める。 1922年4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月1… 佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月17日 - 1970年(昭和45年)12月6日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 横浜市に生まれる。1911年(明治44年)神奈川県立横浜第一中学校卒業。 横浜市会議員、同参事会員、横浜地方裁判所調停委員、横浜土地協会理事を歴任した。ほか、実業家として佐久間家代表社員、花咲水産缶詰取締役、瑞興貿易会長を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は内閣、大東亜省、外務省の各委員を務めた。 戦後、公職追放となった。
元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - … 大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。 1893年(明治26年)1月11日、東京府(現・東京都)に生まれる。 大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現・東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、幕府の御家人出身で、小牧(こまき)が本姓であった。熊本藩出身の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。 元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、 「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 197… 高田 敏子(たかだ としこ、1892年4月10日 - 1974年4月1日)は日本の女子教育および英語教育を先駆的に推進した教育者。静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。名前の表記は「敏」の例もあるが、戸籍上の表記は「敏子」。高田常三郎と常子の娘として生まれる。大正から昭和初期に「高田女塾」、「高田女学校」を、戦後は「日本キリスト会川崎教会・高田英語学園」を設立して、女性や子供の英語教育に終生献身した。姉の坂本真琴は大正・昭和期に日本の婦人参政権運動に尽力したことで知られる。 高田家は三島の裕福な士族で、敏子の父常三郎は画家を志し(画号常斎)、なおかつキリスト教に入信するなど、明治という時代にあっては大変開明的な家庭環境にあった。
松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19… 松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家であり、相模ゴム工業の初代会長である。日本で初めてコンドームの開発と商品化に成功し、一代で相模ゴム工業を避妊器具のトップメーカーに育て上げた。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現:神奈川県厚木市)に生まれる。旧姓は市野。父は祖父から受け継いだ製紙工場を経営していた。6人兄弟の3番目の次女として生まれる。幼少期から負けず嫌いのわんぱく娘であった。 実業補習学校を4年間修了後に東京で行儀見習いを経験し、その後、同年の松川儀良と結婚した。夫の勧めで、神奈川県一帯で横浜の長者町にて医療用酸素の卸売業を開始した。
相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 -… 相馬 英二(そうま えいじ、1892年(明治25年)2月 - 没年不明)は、日本の実業家。弁天倉庫監査役。相馬合名出資社員。旧姓・小栗。 愛知県・小栗次郎の二男。小栗卓衛の弟。相馬市作の養子となる。横浜市立商業学校卒業。 宗教は曹洞宗。趣味は読書、旅行、囲碁。北海道在籍で、住所は函館市富岡町、東京市淀橋区百人町。
原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6… 原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6日 - 1962年(昭和37年))は、昭和時代前期の政治家。神奈川県平塚市長。神奈川県多額納税者。 原田勝右衛門の長男として平塚に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、家業を継ぐ。1938年(昭和13年)10月21日、平塚市長に就任した。ほか、相模瓦斯常務取締役、平塚江陽銀行取締役、大政翼賛会県支部協力会議員、同市支部長などを歴任した。戦後、公職追放となった。
丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 196… 丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 1967年2月23日)は、日本の造園学者。造園学の教育者。 横浜市生まれ。第二高等学校を経て、1917年東京帝国大学農学部農学科を卒業。ただちに宮内技手として内匠寮に入り、新宿御苑において桜と菊の研究に従事した。1922年ヨーロッパ留学を経て、1924年三重高等農林学校教授、1929年東京大学助教授となり園芸学を担当した[要出典]。同年2月、東京帝国大学農学博士。論文の題は「日本菊花ニ関スル研究」。1932年同大学教授に就任。原煕の後継者として、東京大学農学部農学科園芸第二講座として花井及び庭園学を担当。この講座を大成させた。1952年定年退官、東京大学名誉教授。