中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 198… 中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月… 大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月28日 - 1965年〈昭和40年〉4月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)、主婦と生活社創業者。 新潟県西蒲原郡峰岡村(巻町を経て現新潟市西蒲区)で生まれる。1922年(大正11年)信愛学院を卒業した。 1921年(大正10年)太陽印刷を設立。太陽印刷工業取締役社長に就任。1946年(昭和21年)太陽印刷を新元社に変更し『主婦と生活』を創刊。1948年(昭和23年)新元社を主婦と生活社に改名し社長に就任。1957年(昭和32年)河出書房(現河出書房新社)から『週刊女性』を引き継いだ。その他、主婦と生活文化学園長、日本出版販売取締役、日本出版協会会長などを務めた。
本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1… 本間 一咲(ほんま かずさく、1896年12月13日 - 1973年12月16日)は、日本の作詞家。新潟県佐渡島出身。 1896年(明治29年)、新潟県加茂郡新穂村(現在の佐渡市)に生まれる。1918年(大正7年)に東京府青山師範学校を卒業。 東京都内で45年にわたって教員を務める傍ら作詞の懸賞公募でたびたび入選し、戦前の懸賞歌謡界では「本間さんをしらない者はモグリといわれてもしかたがない」と評される存在であったと言われる。戦後は作詞と並行してふるさと詩社発行の雑誌『ふるさと』を中心に詩を発表している。 1973年(昭和48年)死去。享年78(満77歳没)。
佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8… 佐藤 芳男(さとう よしお、1896年9月 - 1967年8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。
野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979… 野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979年3月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高野。 新潟県中魚沼郡倉俣村(現十日町市)出身。1919年上野家政女学校高等科卒業。卒業後は故郷の小学校の教諭(訓導)を務め、税務署職員だった野村幸次郎と結婚した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選した。当選後は国民協同党に入った。翌1947年の第1回参議院議員通常選挙で新潟県から国民協同党公認で立候補したが落選した。1979年死去。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月2… 松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1972年〈昭和47年〉11月17日)は、昭和日本の実業家・政治家である。新潟県長岡市にあった電力会社北越水力電気や同社から派生した北越電化工業(現・北越メタル)の常務取締役を務めたのち、1947年(昭和22年)に初代の公選長岡市長に当選し2期8年在職した。 松田弘俊は、1896年(明治29年)2月28日、水落要松の次男として新潟県中魚沼郡下条村(現・十日町市)に生まれた。実家・水落家は江戸時代に代々庄屋を務めた家で、父・要松は下条村長や新潟県会議員にもなった。1914年(大正3年)に新潟県立加茂農林学校を卒業し、初め三菱合資会社新潟事務所に勤務した。
森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15… 森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15日 - 1950年〈昭和25年〉4月13日)は、朝鮮総督府の学務官僚。編修官として国語(日本語)教科書の編纂や、朝鮮における日本語普及政策に携わった。国際経済学者の森田桐郎(元東京大学経済学部教授)は長男。 1896年(明治29年)、新潟県北蒲原郡乙村(現・胎内市)にて生まれた。1915年、新潟県立新発田中学校を卒業。朝鮮半島に渡り、1918年3月に京城中学校附属臨時小学校教員養成所を卒業。 卒業後は朝鮮公立小学校訓導に任じられ、釜山第二尋常小学校に赴任した。1920年、金海公立尋常高等小学校訓導に転任後、同年中に京城櫻井公立尋常小学校訓導に異動。
川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月2… 川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月22日 - 1992年(平成4年)1月23日)は、日本の政治家。新潟県高田市長(2期)、直江津市長(1期)。 新潟県中頸城郡大倉村(のち和田村→高田市、現・上越市)大字石沢(旧石沢村)に生まれる。1914年、矢代川改修工事書記、1917年、和田村書記、1922年、西頸城郡書記、1924年、中頸城郡書記となったが、1926年の郡役所廃止により新潟県属となり、地方課勤務になる。1928年に退職し、高田市役所に入り、書記となった。1936年、庶務課長、1944年、助役となり、1946年、川上大造市長の辞職により5ヶ月間市長代理を務めた。 1947年、直江津町長選挙に立候補して当選、1951年に再選され、1954年の直江津市制施行に伴い、市長に就任した。
吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12… 吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年〈明治29年〉1月12日 - 1973年〈昭和48年〉7月11日)は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした。 父・雄一が新潟県警務署長を務めていた折、新潟市営所通にあった新潟県庁官舎で生まれた。父はその後行政職に転じ、新潟県内を佐渡郡長として佐渡市(旧相川町)、北蒲原郡長として新発田市(当時は新発田町)に赴任したのち栃木県に転じ、芳賀郡長として真岡市(当時は真岡町)へ、次いで下都賀郡長として栃木市(当時は栃木町)に赴任した。
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 新潟県刈羽郡鵜川村で蝋山政次郎と母寛子(衆議院議員・牧口義方の二女)の長男として生まれる。父は1872年8月に蝋山政右衛門の長男として生まれ、同家8代目の当主であった。祖父政右衛門が群馬県高崎市歌川町で蝋山酒造を経営していたため同地で育つ。父は上州銀行や上州信託、高崎倉庫株式会社の取締役をはじめ、上州電気鉄道株式会社の監査役を務めるなど群馬県経済界の重鎮であった。 1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。
川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 19… 川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。 1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの市山流四代目 市山七十世師匠と、父原良一の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。 松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月… 坂口 献吉(さかぐち けんきち、1895年(明治28年)8月3日 - 1966年(昭和41年)8月13日)は、大正 - 昭和期の日本の実業家。新潟市出身。元衆議院議員で元新潟新聞社社長の坂口仁一郎の長男。作家の坂口安吾の長兄。新潟日報社第2代社長。新潟放送初代社長。新潟県立新潟中学校、早稲田大学専門部政治経済科卒業。
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2… 岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。 新潟県南蒲原郡三条町(現三条市)出身。旧制新潟県立三条中学校より海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第26位、卒業時成績順位は96名中第13位。海軍砲術学校高等科を卒業後は砲術畑を歩んだ。 1942年4月20日、戦艦「霧島」の艦長に着任し、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。第3次ソロモン海戦では米戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」等と乱戦状態になり、舵を損傷した「霧島」は自沈、岩淵は救助され生還した。
田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月… 齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月2日 - 1960年〈昭和35年〉10月26日)は、日本の体育学者であり、かつ、陸上競技、水泳、野球で超人的活躍をした運動選手である。 新潟県佐渡郡高千村(現在の新潟県佐渡市)にて生まれる。佐渡の相川町立相川尋常高等小学校(現 佐渡市立相川小学校) から旧制佐渡中学校(現 新潟県立佐渡高等学校)へ進み、佐渡中学校時代から1m75cmの長身でありスポーツ万能の異名を取った。佐渡中学校時代には相撲、柔道、剣道、陸上競技、水泳、野球、端艇とほとんどの競技に選手として参加して活躍したという。 英語を得意としていたことから外交官になりたかったが、実家が貧しかったために教師になることを考え、新潟県高田市の新潟縣高田師範学校(昭和戦後に新潟大学教育学部高田分校となり現在は廃校)に進学し、更に東京高等師範学校に入学する。
菊地 勘左ェ門(きくち かんざえもん、1895年 - 198… 菊地 勘左ェ門(きくち かんざえもん、1895年 - 1980年)は、日本の動物学者。 新潟県河崎村(現 佐渡市)生まれ。広島高等師範学校卒業後、1921年に富山県立富山高等女学校(富山県立富山いずみ高等学校)へ着任。旧制富山高等学校(現富山大学)助教授などを経て、魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)校長、富山県立高岡中部高等学校校長を歴任。富山県博物学会初代会長。佐渡博物館館長、両津市教育長を歴任。 富山湾の貝類研究の草分けで、コレクションの多くは富山市科学博物館に収蔵されている。貝類の他には甲殻類のエビ・カニ類の研究も行った。植物学にも通じていた。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8… 近藤 伊與吉(こんどう いよきち、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の俳優、脚本家、映画監督である。村田実らの起こした新劇の劇団「踏路社」を振り出しに、映画俳優になり、映画も監督し、無声映画時代のスター俳優となったことで知られる。 1894年、新潟県佐渡に生まれる。 その後上京し、1917年2月17日に村田実、青山杉作、関口存男、木村修吉郎らの起こした新劇の劇団「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加し、俳優として舞台を踏む。1919年、25歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり映画理論家として知られる帰山教正の「映画芸術協会」設立に、村田実、青山杉作らとともに参加、設立第一作『深山の乙女』および『生の輝き』にそろって出演する。
鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8… 鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8月3日)は、昭和期の北海道の教育者。北海道文教大学短期大学部初代学長。 新潟県出身。越後国藩士の家に生まれる。1908年、新潟県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)卒業。1908年より1917年まで新潟県内の小学校教諭。1912年、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)卒業。北海道へ渡り、1917年、成美女学校(現・せいとく介護こども福祉専門学校)専任教諭。1942年6月、北海道女子栄養学校を設立し、校長に。1960年4月、北海道栄養学校校長に就任。1963年4月、北海道栄養短期大学を設立し、初代学長に。1963年12月、学校法人鶴岡学園初代理事長で夫の鶴岡新太郎が急逝し、2代理事長に就任。
金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1… 金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1日 - 1966年〈昭和41年〉11月27日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。
今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月… 今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月15日 - 1977年(昭和52年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 新潟県出身。新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第21連隊付となる。1920年(大正9年)4月、騎兵中尉に昇進した。 1922年(大正11年)2月から10月まで陸軍航空学校操縦学生となる。同年11月、飛行第1大隊付に発令され、1924年(大正13年)11月、下志津陸軍飛行学校教官に異動し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵中尉となる。
舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 19… 舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 1966年12月2日)は、新潟県出身の実業家、政治家。日本金属の創業者。三国鋼帯株式会社取締役、舟崎鋼業合資会社代表社員。 新潟県佐渡郡金丸村生まれ。旧制佐渡中学校(現在の新潟県立佐渡高等学校)を経て、1917年に早稲田大学理工学部機械科を卒業する。東京銅板技師、高砂鉄工所技師長、三船商事・日本特殊鋼材・日本航空機工業・日本ペニシリン製薬の各社長を歴任した。 1946年から2回、新潟1区から衆議院議員に当選(日本進歩党)。戦後、萩野由之(東京帝国大学教授)の遺した蔵書を高額で買い取り、母校新潟県立佐渡高等学校に寄付した。舟崎文庫の名で保存されている。
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27… 西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1982年〈昭和57年〉6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。位階は正四位。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月2… 石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月26日 - 1969年〈昭和44年〉8月5日)は、日本の生理学者、内科学者、内科医。医学博士。海軍軍医。最終階級は海軍軍医中将。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1912年(明治45年)3月新潟中学校卒業、同年(大正元年)9月新潟医学専門学校入学、1913年(大正2年)12月海軍軍医学生受命、1916年(大正5年)5月新潟医学専門学校卒業。 1916年(大正5年)7月海軍少軍医、1917年(大正6年)12月海軍中軍医、1919年(大正8年)9月海軍軍医中尉、1920年(大正9年)12月海軍軍医大尉、給油艦「知床」軍医長、1923年(大正12年)2月装甲巡洋艦「出雲」軍医長心得・分隊長心得、同年4月霞ヶ浦海軍航空隊分隊長、1925年(大正14年)12月海軍軍医少佐、1928年(昭和3年)4月新潟医科大学研究科学生(内科学・生理学)、1929年(昭和4年)11月海軍軍医中佐、1930年(昭和5年)12月横須賀海軍航空隊軍医長・分隊長、1931年(昭和6年)4月医学博士(新潟医科大学)、1933年(昭和8年)10月海軍航空廠医務部長、1934年(昭和9年)11月海軍軍医大佐、1938年(昭和13年)11月海軍軍医学校教官、1939年(昭和14年)4月海軍航空技術廠医務部長、1940年(昭和15年)11月海軍軍医少将、1943年(昭和18年)4月海軍航空技術廠航空医学部長、1944年(昭和19年)5月海軍軍医中将、同年11月佐世保鎮守府軍医長・佐世保海軍病院長、1945年(昭和20年)10月予備役。
岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11… 岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11日 - 1988年〈昭和63年〉3月9日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 新潟県三条市出身。1918年(大正7年)東京美術学校日本画科卒業、東京美術学校日本画研究科入学。松岡映丘に師事する。1921年(大正10年)新興大和絵会を結成し、新興大和絵運動に参加する。1924年(大正13年)第5回帝展に「手向の花」が初入選、1930年(昭和5年)第11回帝展で「高野創世」が特選。1937年(昭和12年)国画院に参加し、新文展にも複数回出品する。1939年(昭和14年)川﨑小虎らと日本画院を設立する。1952年(昭和27年)第8回日展運営会参事、1958年(昭和33年)同評議員を務める。
小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月1… 小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月16日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 新潟県豊栄市(現・新潟市北区)出身。小柳杢次の長男として生れる。新発田中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。「槇」乗組、「第7号駆逐艦」(松風)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。
青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年… 青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年〉7月7日 - 1991年〈平成3年〉)は、新潟県出身の地方自治功労者。月潟村長(1928年~1932年、1946年~1961年)。 1893年(明治26年)7月7日、新潟県西蒲原郡秋津村月潟(現・新潟市南区月潟)に生まれた。青年期には新発田の歩兵第16連隊に入隊して満州警備に派遣された。 1928年(昭和3年)には35歳で月潟村長に就任し、近藤月平らとともに1933年(昭和8年)の新潟電鉄線(後の新潟交通電車線)開業などに尽力した。新潟電鉄の設立者である奥山亀蔵は角兵衛獅子が消失したのを悲しみ、しきりに青柳に角兵衛獅子の復活を促した。
藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 19… 藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 1967年4月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。 1893年3月12日、新潟県中頸城郡潟町村大字土底浜(現・上越市大潟区土底浜)に、酒造家の藤縄正朔、妻ミカの次男として生まれる。女6人男3人の9人兄弟である。姉には、女子裁縫学校を創設し初代校長となった藤縄ヒサ、改称し、高田実科女学校(共に学校法人古川学園上越高等学校)二代校長となった古川フジなどがいる。藤縄家は代々土底浜の漁師であったが、正朔の代から酒造業を始めた。正朔は、晩酌のかたわらに藤縄たちを呼び、「人間、生を受けたからには、自ら働き、自らの手で業を興せ。決して人に頼ってはならない。
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月… 近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任、1921年(大正10年)3月に助教授に就任。
高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日… 高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月4日)は、日本の生化学者、内科学者、内科医。医学博士。東邦大学名誉教授、アメリカ国際アカデミー名誉会員。雅号は日庵主人。 新潟県新潟市学校町通(現 新潟市中央区学校町通)の新潟県直税署職員・高田善一郎の四男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)9月に仙台医学専門学校医学科に入学、1913年(大正2年)8月に東京府北豊島郡巣鴨町巣鴨(現 東京都豊島区巣鴨)の溝口伯爵家家扶・高田政敏の養子になった。 1915年(大正4年)9月に東北帝国大学医学専門部医学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年… 神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年)11月3日 - 1952年(昭和27年)6月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県古志郡長岡町(現長岡市表町二丁目)で、神山敬太郎の長男として生まれた。1907年(明治42年)新潟商業学校(現新潟県立新潟商業高等学校)を卒業した。 1912年(大正元年)12月、一年志願兵として入隊し、1916年(大正5年)3月、陸軍歩兵少尉に任じられた。以後、新潟市在郷軍人会副会長、同市在郷軍人会連合分会阪之上区分会長、同市軍友会幹事を務めた。 肥料・砂糖・麦粉等の卸問屋を営み、1926年(大正15年)12月、親族で合資会社神山商店に改組し代表社員に就任。
井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5… 井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5日 - 1985年(昭和60年)1月5日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県北蒲原郡板山村(現新発田市)で、弁護士の井伊小平太の長男として生まれた。新発田中学校(現新潟県立新発田高等学校)、第二高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。神戸海上保険勤務を経て、1922年、弁護士を開業し、農民事件の弁護を数多く担当した。 1926年、労働農民党新潟県連合会執行委員に就任。1927年、労働農民党と日本労農党の共同推薦を受けて新潟県会議員に当選。さらに、新潟県参事会員、新発田町会議員、金銭債務調停委員、県地方事務所参与、借地借家調停委員、新発田中学校講師などを務めた。
田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月1… 田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月11日 - 1983年(昭和58年)11月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡村松町(現五泉市)で素封家・田代兼次の三男として生まれる。新潟県立新潟中学校を経て、1915年、農林省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業した。 その後、佐渡島で漁業に従事。1916年、青森県技手に就任。1919年、日魯漁業の平塚常次郎に見いだされ同社に入社。函館製網船具 (株) に転じて新川工場長に就任し漁網の改良に従事。1931年に独立して漁網漁具製造販売業を営んだ。また、函館産業社長、函館青果卸売市場社長、北海道方面委員、函館地方裁判所調停委員、函館調停協会理事などを務めた。
川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月… 川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月6日 - 1950年(昭和25年)10月2日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長。 旧高田藩士の家に生まれる。旧制高田中学校から第四高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学政治科卒。さらに1921年(大正10年)東京帝国大学法律科を卒業した。卒業後は帰郷し、高田市で弁護士事務所を開業した。1924年(大正13年)高田市学務委員に任じられ、同年暮れに高田市会議員に当選した。1931年(昭和6年)には新潟県会議員に当選し、1939年(昭和14年)には市会議長に就任した。 1945年(昭和20年)高田市長中川潤治が召集され、市長が空席となったため、市会は市会議長の川上を推薦し、5月30日に正式に就任した。
松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4… 松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 祖父は越後長岡藩藩士、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章・富永恭次・田中新一らがいる。 同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前の歩兵第52連隊に配属される。
田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日… 田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、日本の社会主義運動家。コミンテルン初期の日本人代表として知られる。
鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月2… 鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月27日 - 1951年2月9日)は日本の小説家。 新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市西区黒鳥)生まれ。新潟県立小千谷中学校、早稲田大学英文科卒業。 作家を志し、学生時代にはダヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を翻訳出版。卒業後、直木三十五と冬夏社を立ち上げ経営するも関東大震災により半年で倒産。 『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞。代表作に『明智光秀』『甲越軍記』などの歴史小説がある。 ペンネームは夫人が『南総里見八犬伝』から得たもの。
関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 … 関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長(2期)。 新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ。1906年(明治39年)新潟県高田師範学校卒。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する。 1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する。※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts) 同年4月10日に就任した。
関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 -… 関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 - 1942年5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 新潟県北魚沼郡下条村(広瀬村、広神村を経て現魚沼市)で、素封家・関矢橘太郎、チエの二男として生まれた。慶応義塾大学に学ぶ。農業を営み、広瀬村信用組合監事、同理事、同村議、新潟県議、同議長、北魚沼郡青年団長、小出銀行取締役会長、堀ノ内銀行取締役、小出尾製糸(株)社長、北越殖民(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟10区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙には不出馬。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟3区から立憲民政党公認で立候補して復帰した。
小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14… 小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14日 - 1939年〈昭和14年〉9月1日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。 新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において津島村村長・小川重綽の五男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。
松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 196… 松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 1969年7月22日)は、日本の小説家。旧名は松岡 善譲(ぜんじょう)。 新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派松岡山本覚寺の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。 本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。久米正雄、山本有三、菊池寛、佐野文夫ら学友と1914年に第3次『新思潮』、1916年に第4次『新思潮』を創刊した。寺院を継ぐことを拒否し、かねてから筆名として用いた譲を戸籍名とした。
玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 198… 玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 1989年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。新潟県糸魚川市出身。法学者の玉田弘毅は息子。 歩兵大隊長のときに短期の戦車補備教育をうけ、戦車第4大隊付として一年余勤務して歩兵にもどり、また昭和11年、陸軍戦車学校で師団軽装甲車要員の教官となって、以後戦車拡張期における部隊長たるべき人の標準的コースを歩んだ。 ノモンハン事件において独立混成第1旅団麾下の戦車第4連隊連隊長として戦史上初の装甲部隊による大規模な戦車夜襲を決行した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
青木 好月(あおき こうげつ、本名:由平、1891年 <明治… 青木 好月(あおき こうげつ、本名:由平、1891年 <明治24年> 9月1日 - 1982年 <昭和57年> 1月16日)は、民謡歌手。佐渡おけさや江差追分を得意とした。 現在の新潟県加茂市で生まれた。家で瞽女を泊めていたため民謡を覚える。17歳で上京し、鮮魚店で奉公し後に独立した。民謡を趣味とし、ラジオ放送開始と共に全国から上京する民謡人の支援を行った。第二次世界大戦後、日本郷土民謡協会を設立し、理事長を務めた。民謡界の元老として1974年秋に勲五等双光旭日章を受賞した。墓所は永平寺東京別院長谷寺。護国寺に顕彰碑が建つ。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。
羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1… 羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月17日)は、日本の彫刻家。雅号は大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。 新潟県中蒲原郡川内村川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町の陸軍歩兵第30連隊に入隊、1915年(大正4年)に結婚。 1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻科木彫部に入学、高村光雲、白井雨山、大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望、朝倉文夫、関野聖雲にも学んだ。