服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1… 服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1999年11月29日)は、日本の銀行家、実業家。日本人初の世界銀行副総裁。 服部岱三・芳枝夫妻の長男として1918年(大正7年)三重県三重郡三重村(現:四日市市)に生まれる。幼少時は父の海外転勤に従いロンドンで7年間、上海で3年間を過ごした。長崎県の旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。卒業後台湾銀行に入行したがすぐ海軍予備学生となり、海軍大尉としてラバウルで終戦を迎え、そのまま現地で日本人戦犯の弁護人も務めた。 47年復員後日本銀行に入行。1950年フルブライト基金によりミネソタ大学大学院にて留学し財政、金融を学ぶ。
宮崎 道生(みやざき みちお、1917年10月13日 - 2… 宮崎 道生(みやざき みちお、1917年10月13日 - 2005年4月1日)は、日本史学者、新井白石の研究者。 三重県尾鷲市出身。1941年、東京帝国大学文学部国史学科卒業、文学部大学院、文学部副手・助手を経て、1945年、弘前高等学校教授。1949年、弘前大学文理学部助教授。1961年、文学博士。1965年、弘前大学人文学部教授、1972年、岡山大学法文学部教授。1978年、國學院大學教授。1988年、定年退任、講師となる。1991年退任。1997年春、勲三等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 20… 伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 2016年10月29日)は、日本の小説家、詩人。『静かなノモンハン』などの戦場小説や、時代小説、私小説風な身辺小説などがある。日本芸術院会員。
角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月… 角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月15日 - 2017年(平成29年)4月7日)は、日本の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員(11期)。 三重県度会郡豊浜村(現伊勢市豊浜)出身。学歴は宇治山田中学(現三重県立宇治山田高等学校)を卒業。その後三重高等農林学校(現在の三重大学)農業土木学科を卒業し、さらに満洲大同学院を卒業した。 満洲国開拓総局などに勤務。従軍して陸軍中尉で終戦を迎えた。その後、農林省に勤務して、農林技官、全農林中央執行委員長、日本社会党三重県本部委員長などを歴任する。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補するが落選。
沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年… 沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年2月1日 - 1944年12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。
逵原 実(つじはら みのる、1917年 - 2005年、逵原… 逵原 実(つじはら みのる、1917年 - 2005年、逵原ミレイ、姓は「辻原」とも書かれる)は、三重県出身の人物。軍歌『戦友の遺骨を抱いて』の作詞者である。 1917年(大正6年)生まれ。三重県立宇治山田中学校卒業。作家・吉川英治の青年運動に参加(土の愛の家)。1937年(昭和12年)、大日本帝国陸軍近衛歩兵第1連隊に入隊し、華中(中支)・華南(南支)・フランス領インドシナ(仏印)・タイ・マレーと転戦する。1942年(昭和17年)のシンガポールの戦いの後、『戦友の遺骨を抱いて』の詞をしたためた手帳を原嘉章に手渡した。軍の宣伝班の計らいで曲が付けられ、陣中新聞『建設戦』紙上に発表されると、たちまち全軍に流行した。
前田 光嘉(まえだ みつよし、1916年(大正5年)9月16… 前田 光嘉(まえだ みつよし、1916年(大正5年)9月16日 - 2009年(平成21年)4月13日)は、日本の官僚。元建設事務次官。三重県出身。 建設省都市局長、営繕局長、住宅局長、大臣官房長を経て、1965年(昭和40年)建設事務次官に就任。1967年(昭和42年)に退官。 1970年(昭和45年)から1978年(昭和53年)まで日本道路公団総裁を務めた。1989年(平成元年)の春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。
高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27… 高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27日 - 2010年7月25日)は、日本の実業家・篤志家。伯東株式会社創業者・代表取締役会長。香良洲町名誉町民。 1953年(昭和28年)にエレクトロニクス専門商社の伯東株式会社を設立して代表取締役社長・会長を務め、東証一部上場企業に育て上げた。 香良洲町に対して、浜っ子幼児園の建設費用の寄付、めぐみの広場の用地取得費用及び整備費用の寄付、高山元気づくり事業寄付などを行い、郷土の発展に貢献した。香良洲町が津市に編入された後も多額の寄付を行い、魅力ある津市政の推進に貢献した。浜っ子幼児園には高山の銅像(胸像)が設置されている。2011年(平成23年)8月18日にはサンデルタ香良洲に顕彰コーナーが設置された。
今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 … 今井 正郎(いまい まさお、1916年(大正5年)5月3日 - 1995年(平成7年)7月19日)は、昭和から平成時代の政治家。三重県亀山市長。亀山市名誉市民。 亀山市出身。1941年(昭和16年)京都帝国大学法学部卒業。満州石油に入社し、三協油脂勤務、南国船舶人事庶務各課長を務める。 1956年(昭和31年)三重県中小企業団体中央会事務局長を経て、1959年(昭和34年)から11年間に渡り亀山市収入役を務める。1970年(昭和45年)同市長に当選し、6期務め1994年(平成6年)引退した。
内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2… 内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手・審判員。日本プロ野球最初の大型左腕投手である。
小嶋 千鶴子(こじま ちづこ、出生時の戸籍名は岡田 千鶴子(… 小嶋 千鶴子(こじま ちづこ、出生時の戸籍名は岡田 千鶴子(おかだ ちづこ)、1916年〈大正5年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉5月20日)は、日本の実業家。イオンの前身であるジャスコの創設者で、イオングループの共同創業者。イオン株式会社名誉顧問などを歴任した。 1916年(大正5年)3月3日に三重県四日市市に生まれる。父は岡田惣一郎で母は岡田(旧姓・美濃部)田鶴。夫妻の第二子で、5人きょうだい(一男四女)の二女であった。千鶴子の後にも2人続けて女子が誕生したことから、5人目も女子なら家系を絶やさぬよう婿養子を迎えることを検討していたが、5人目で男子の卓也が誕生した。千鶴子が誕生した時は血縁関係の父方の祖父の岡田惣七(婿養子に入る前の旧姓が前田末吉)と四日市岡田家の家系の祖父の岡田惣右衛門の2人の四日市岡田家の祖父が存命中であり、2人の祖父からかわいがられて教育された。
稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23… 稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日?)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 三重県一志郡川合村(現・津市)生まれ。1934年(昭和9年)6月に広島県呉市の呉海兵団に入団し、同所での訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組。海軍水雷学校に入校、駆逐艦「呉竹」に着任。その後、海軍水雷学校高等科水雷術練習生課程を修了した。1941年(昭和16年)11月18日にアメリカ太平洋艦隊の根拠地であったハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦「伊24」に乗り込み、倉橋島を出撃する。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正… 市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。 娯楽映画からドキュメンタリー、さらにはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』をはじめとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。 1915年(大正4年)11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。
小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1… 小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1992年12月5日)は、三重県出身のプロ野球選手(内野手)。
伊藤 清(いとう きよし、1915年〈大正4年〉9月7日 -… 伊藤 清(いとう きよし、1915年〈大正4年〉9月7日 - 2008年〈平成20年〉11月10日)は、日本の数学者、大蔵官僚。学位は理学博士(東京帝国大学・1945年)。位階は従三位。確率論における伊藤の補題(伊藤の定理)の考案者として知られる。第1回ガウス賞受賞者。 1915年、三重県員弁郡(現いなべ市)で生まれた。同じく数学者である伊藤清三は弟。東京帝国大学理学部数学科で学び、1938年に卒業した。 卒業後の1938年、大蔵省入省。銀行局に配属された。1939年、内閣統計局に配転される。1943年、内閣統計局を退官し、名古屋帝国大学助教授となった。1945年、東京帝国大学に学位請求論文『確率過程について』を提出して理学博士の学位を取得。
小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22… 小西 甚一(こにし じんいち、1915年〈大正4年〉8月22日 - 2007年〈平成19年〉5月26日)は、日本の文学者(日本中世文学、比較文学)。文学博士(東京文理科大学・論文博士・1954年)。筑波大学名誉教授。 東京高等師範学校、東京文理科大学国語国文科、同研究科を卒業後、東京教育大学教授、筑波大学教授、筑波大学副学長を歴任。米国に長く滞在し、日本文学の国際化や学問の輸入に貢献した。『古文研究法』の執筆など、大学受験指導の啓蒙でも知られる。 1951年(昭和26年)、『文鏡秘府論考』により日本学士院賞を受賞。1987年(昭和62年)、勲二等瑞宝章。1999年(平成11年)、文化功労者。 三重県宇治山田市船江町(現・三重県伊勢市船江)に生まれる。
矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日… 矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日 - 2000年7月14日)は、日本の歴史学者・政治学者、北海道大学名誉教授。中欧史を研究。 1915年、三重県桑名市生まれ。1938年、名古屋市の第八高等学校 (旧制)卒業。東京帝國大学文学部に進み、西洋史を専攻する。1938年、東京帝國大学文学部を卒業し、同大学院へ進学。1940年、東京帝國大学大学院文学研究科を修了し、同文学部の副手となる(1943年まで)。 日本大学、東京女子大学などの講師を経て、1949年に成蹊大学政治経済学部教授に就く。1950年、北海道大学法経学部教授となり、1953年の学部改組に伴い法学部教授となった。1957年以降、同大学スラブ研究センター研究員を併任する。
近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 19… 近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 1997年1月21日)は、日本の環境共生学者・研究者・指導者。探検家。専門は植物遺伝育種学などで、種無しスイカの生みの親でもある。三重県松阪市生まれ。 1915年、小津茂右衛門の次男として生まれる。は旧制津中学(現・三重県立津高等学校)を経て1939年、東京農業大学農学部農学科卒業。京都帝国大学農学部遺伝子研究室副手。1941年、財団法人木原生物学研究所所員。1944年同研究所主任。1948年、同研究所主任・京都大学副手を辞任、東京農業大学助教授就任。1950年、東京農業大学育種学研究所創設。1954年に農学博士。1957年、東京農業大学教授就任。
森井 茂(もりい しげる、1915年4月12日 - 1987… 森井 茂(もりい しげる、1915年4月12日 - 1987年4月11日)は、三重県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身[1]。井村正勝は長男[1]。
井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 201… 井村 二郎(いむら じろう、1914年11月3日 - 2011年5月6日)は、日本の実業家。井村屋グループの創業者。三重県松阪市出身。井村正勝は長男。 1932年に松阪商業学校を卒業し、父親が経営する和菓子屋を継ぐ。1947年に井村屋製菓を創業し、社長に就任。1974年に会長を経て、1979年に相談役に就任した。 2011年5月6日、肺炎のために死去。96歳没。
西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - … 西山 方富(にしやま まさとみ、1914年10月31日 - 1987年4月12日)は、日本の経営者。井村屋製菓社長、会長を務めた。三重県松阪市出身。 1932年に三重県立松阪商業学校を卒業。髙島屋での勤務を経て、1947年に井村屋に転じ、専務に就任し、1970年に副社長を経て、1974年5月には社長に就任。1979年6月に監査役に就任。 1987年4月12日食道静脈瘤破裂と肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
辻本 芳郎(つじもと よしお、1914年(大正3年)9月7日… 辻本 芳郎(つじもと よしお、1914年(大正3年)9月7日 - 1991年(平成3年)9月17日)は、日本の地理学者。東京学芸大学名誉教授。学位は、理学博士。専門は工業地理学。 三重県生まれ。三重県立上野中学校を経て、1935年東京高等師範学校卒業。1938年応召、旅順重砲兵連隊に入営。1939年東京文理科大学理学部地学科地理学専攻卒業。1941年召集解除、陸軍教授、陸軍経理学校教官。1947年東京第二師範学校教授、1949年東京学芸大学助教授、1952年教授。1959年「伝統的在来工業の地域構造 東海陶業地域を中心として」で理学博士(東北大学)。1960 - 66年東京学芸大学附属世田谷小学校校長兼任、1975 - 77年東京学芸大学附属図書館長。
冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - … 冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。高砂部屋から大山部屋に所属。三重県四日市市出身。本名は広瀬 政治(ひろせ まさじ)。最高位は西十両9枚目。得意技は左四つ、寄り。 1931年5月場所に初土俵。1939年5月場所に十両に昇進。この場所は6勝9敗と負け越した。関脇・高登が引退し大山部屋を興すとともに移籍し、その最初の場所である翌1940年1月場所でも3勝12敗と大きく負け越し、幕下に陥落した。1941年5月場所に27歳で廃業した。
駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 199… 駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 1994年12月27日)は、日本の作家、文芸評論家、中国文学者。島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授などを歴任した。 1914年1月14日、父の勤務地の大阪府大阪市に生まれる。本籍は三重県安濃郡多門村(現在は津市)で、家は明治23年(1890年)の名簿によると地価総額3036円余りの素封家だった。兄は父の姉の家を継いだ美術史家の谷信一。父の転勤で広島、金沢、東京と移動したのち、津で祖父母に育てられ、津中学校卒業、旧制山形高校を経て1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。 1941年旧制松江高校教授となるが、1942年召集されて支那に出征、捕虜となり共産党の工作員と誤認されて死刑宣告を受けるが日本人と分かり釈放。
小川 修次(おがわ しゅうじ、1913年9月18日 - 20… 小川 修次(おがわ しゅうじ、1913年9月18日 - 2008年1月16日)は、日本の実業家。日本特殊陶業取締役社長や、同社取締役会長を務めた。 三重県伊勢市出身。三重県立宇治山田中学校(現三重県立宇治山田高等学校)を経て、1935年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、日本碍子入社。1936年日本特殊陶業に転勤。1961年日本特殊陶業取締役。1965年日本特殊陶業常務取締役。1971年日本特殊陶業専務取締役。1972年日本特殊陶業取締役副社長。1973年日本特殊陶業取締役社長。1977年森村商事取締役。1978年藍綬褒章受章。1979年昭和法人会会長。同年ブラジル連邦共和国サンフランシスコ勲章グラン・クルース章受章。
内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 20… 内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 2005年11月2日)は、日本の生物学者。個体群生態学の、日本における草分けの一人である。 内田は京都大学農学部を主な活躍の場として、個体群生態学の研究を行った。彼の手法は実験室内において、マメゾウムシなどのモデル生物の実験個体群を対象として、恒温機の中のシャーレという、極めて管理された条件下での個体群動態を調べる、というものであった。これはいかにも人工的な実験に見えるため、そんなシャーレの中の研究で本当の自然は分からない、という批判を受けたこともあった。しかし彼はこのような手法を用いての研究を続け、密度効果や相変異など、様々な成果を上げ、多くの弟子を育てた。
杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月… 杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月8日 - 1997年(平成9年)2月10日)は、日本の政治家。三重県鈴鹿市長を務めた。位階は正五位。勲等は旭日中綬章。鈴鹿市名誉市民。 河芸郡箕田村(現在の鈴鹿市)出身、家業は代々続いた造り酒屋で屋号は箕田屋と言われていた。夫人も四日市市の造り酒屋から輿入れしている。 1942年6月、河芸郡神戸町議会議員、翌1943年2月に合併により鈴鹿市議会議員に就任。1946年に33歳の若さで鈴鹿市の2代目市長に就任。翌1947年、公職選挙法施行による市長選挙に立候補し、無投票のまま公選市長として就任。 1957年5月三重県市長会会長、1970年6月全国市長会副会長、1971年7月全国市長会相談役を歴任。
田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 -… 田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 - 1983年11月2日)は、日本の小説家である。三重県三重郡富田村(現・四日市市富田)出身。早稲田大学在学中より小説を多く書いたが、応召して中国を転戦。戦中の経験に基づく独特の生命観に裏打ちされた「肉体派作家」として熱狂的に支持された。 高知県出身の中学教師である父親と、京都府出身の母親のもとに生まれる。母親は文章や歌を書くことが好きな人だった。11歳上の姉と5歳上の兄がおり、姉も文学好きだった。父親が校長を務めていた四日市の旧制富田中学(現三重県立四日市高等学校)を経て、1929年第二早稲田高等学院に入学。1931年早稲田大学文学部仏文科に進学した。
奥瀬 平七郎(おくせ へいしちろう、1911年〈明治44年)… 奥瀬 平七郎(おくせ へいしちろう、1911年〈明治44年)11月13日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)は、日本の忍術研究家、小説家、三重県上野市(現・伊賀市)の元市長。三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)生まれ。 1911年(明治44年)、三重県阿山郡上野町(現・三重県伊賀市)で代々続く醤油製造販売業「細平(こまへい)」の二男として生まれる。父の平十郎(1887年〜1956年)は、家業を従業員に任せ上京。霞翠の号で当時の代表的な投稿雑誌や文芸誌、詩歌誌に数多くの作品を発表、文芸誌『初楓』を創刊、また東京二六新聞記者として、上野町の『伊賀新聞』に小説『鞠子』を71回にわたって連載するなど文筆家として活躍した人物だった。
山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月2… 山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 2007年〈平成19年〉2月6日)は、日本の政治家、内務・建設官僚。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。自治大臣(第32代)、国家公安委員会委員長(第41代)を歴任した。 現在の三重県桑名市に生まれる。旧制富田中学、松本高等学校文科甲類を経て1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部政治科に入学。在学中に高等文官試験行政科に合格し、1936年、大学卒業。 1936年、内務省に入省する(同期に山田正雄陸上幕僚長)。入省後、愛媛県で別子銅山の公害調査、富山県で内務省高等官として都市計画等の地方行政に携わる。終戦後の1946年、当時内務政務次官であった世耕弘一の下、経済警察の立場で隠退蔵物資摘発に携わった後、神奈川県国家地方警察隊長、国家地方警察本部人事課長、防衛庁人事局長、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、建設省官房長を務め、建設事務次官を最後に退官。
西村 幸生(にしむら ゆきお、1910年11月10日 - 1… 西村 幸生(にしむら ゆきお、1910年11月10日 - 1945年4月3日)は、1930年代の日本を代表する職業野球選手(投手)。三重県宇治山田市大世古町(現:伊勢市大世古二丁目)出身。 主戦投手として、大学野球の関西大学、職業野球の大阪タイガース(現在の阪神タイガース)といった名門チームの黄金時代を築き、初代巨人キラーとしても知られる。現在では、「酒仙投手」と呼ばれることも多い。甥の西村隆明 は、伊勢市内で鰻料理店を営んでいる。 1917年に入学した宇治山田市第七尋常小学校(現在の伊勢市立厚生小学校)で野球を始め、1923年に三重県立宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に進学して野球部に入部するとたちまちエースになり、その後主将を任された。
永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10… 永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10月16日 - 1992年(平成4年)9月28日)は、日本の政治家。三重県名張市長(4期) 。位階は正五位。 三重県那賀郡国津村(現・名張市)出身。1929年、三重県立名賀農学校(のち三重県立名張高等学校、三重県立上野農業高等学校を経て、現・三重県立伊賀白鳳高等学校)卒。1950年、国津村議会議員となり、2期務め、1954年、合併による名張市発足により、名張市議会議員となる。名張市議を5期務め、議長も務めた。1970年、名張市助役となり、1974年、名張市長に就任した。市長を4期務め、1990年に退任。翌1991年、勲三等瑞宝章を受章。1992年に死去。
田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15… 田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15日 - 2002年(平成14年)8月10日)は、日本の政治家で、三重県知事(5期)、衆議院議員(1期)を務めた。三重県四日市市塩浜地区出身。学歴は東京帝国大学卒業である。元四日市市長の加藤寛嗣は従兄弟である。1944年(昭和19年)佐藤喜代子と結婚して、2女をもうける。喜代子と死別後の1975年(昭和50年)には元総理大臣三木武夫の妻睦子の妹である三重子と再婚した。元衆議院議員の松崎哲久は義理の息子、映画監督として人気のあった藤田敏八は甥(姉の子)である。 1909年(明治42年)12月15日、三重県四日市市蔵町の母の実家で生まれる。塩浜尋常小学校、塩浜高等小学校、三重県立第二中学校(現・四日市高校)から東京府立第五中学校(現・小石川高校)へ転校して、第八高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。
金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9… 金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9月6日 - 1995年 <平成7年> 9月20日)は、日本の経営者、銀行家。百五銀行頭取を務めた。位階は正五位。 三重県鈴鹿市出身。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1940年に百五銀行に入行。1955年10月に取締役に就任し、1957年10月に常務、1963年10月に専務を経て、1969年5月に副頭取に就任し、1977年11月に頭取に昇格。1991年6月に会長に就任。1987年6月から1995年6月までに近畿日本鉄道取締役を務めた。 1980年11月に勲五等瑞宝章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年9月20日心筋梗塞のために死去。
田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 200… 田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 2002年4月17日)は、日本の国文学者・国語学者・教育者。学位は、文学博士(國學院大学・1961年)。國學院大学名誉教授、元国学院女子短期大学初代学長。三重県亀山市生まれ。東京都育ち。田邊正男とも表記される。 国語学者として中学校・高等学校の多くの国語教科書・古文教科書・指導要領の策定に関わった この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
中谷 泰(なかたに やすし/なかたに たい、1909年5月2… 中谷 泰(なかたに やすし/なかたに たい、1909年5月20日 - 1993年5月31日)は、三重県松阪市出身の画家。東京藝術大学教授。 戦前、新文展で特選。春陽会会員となる。絵本画家のいわさきちひろに油絵を指導したことでも知られる。本名は中谷泰一(なかたにたいいち)。 戦後は、日本美術会の書記長を務めた美術評論家の水沢澄夫に誘われ、同会に入会。春陽会や、日本アンデバンダン展(日本美術会主催)、平和美術展(美術家平和会議主催)にも作品を出品した。その後、日本美術会代表、東京藝術大学美術学部教授、財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長、日本美術会附属美術研究所「民美」所長を歴任した。 戦前から挿絵も手がけ、坪田譲治の名作児童文学『善太と三平』(童話春秋社、1940年)の挿絵を皮切りに、戦後のNHKのラジオドラマ番組「光を掲げた人々」をもとにした「光を掲げた人々」シリーズ全12巻(光の友社、1954年)の多くで挿絵を担当。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 … 平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 平田紡績の創業家に生まれる。2代目平田佐次郎の第12子・七男であり、長兄に平田佐十郎、次兄に平田佐武、三兄に平田佐矩、四兄に平田佐雄、五兄に宗村佐信(宗村の養子)、六兄に平田佐義。長姉にあさお子、次姉にあさへ子、三姉にますへ子、四姉に富枝子。甥に宗村完治、宗村南男と宗村明夫がいる。三重郡富洲原町出身(現在の三重県四日市市富洲原地区富田一色町)出身。
佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20… 佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20日 - 1933年(昭和8年)12月17日)は、山梨県生まれ、名古屋育ちの日本の競泳選手。 1928年アムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト。 山梨県南巨摩郡八日市場村(現:山梨県南巨摩郡身延町八日市場)で電気技師だった佐田多一、妻ちよの長男として生まれる。父の仕事の関係で転居を重ねた。佐田家の実家は富士川にほど近く、夏休みに帰郷した際には急流の中を泳ぐなど幼少より水に親しんでいた。 父の仕事で転居した名古屋の愛知水泳協会に所属し活躍する。旧制富田中学(現:三重県立四日市高等学校)卒業後、明治大学に進み、水泳部主将を務めた。
東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 19… 東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 1980年10月21日)は、日本の農林官僚。食糧庁長官、農林事務次官を務め、退官後は農政調査委員会理事長や日銀政策委員などを歴任した。農業経済学者の東畑精一は実兄。 三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)で地主の父・東畑吉之助、母よしをの四男として生まれる。1925年に三重県立津中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類に入学した。1928年、東京帝国大学へ入学。在学中の1930年10月に高等試験行政科に合格し、1931年大学卒業後に農林省へ入省。 終戦後には、農政課長として第一次農地改革の原案の作成にとりかかった。東畑が作成した原案では、地主が保有できる貸付地の限度を3haとしていたが、当時農林大臣であった松村謙三は完全自作農主義を持論としており、その限度を1.5haとすることを主張した。
城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 … 城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 - 1979年〈昭和54年〉10月30日)は、日本の建築学者。名古屋工業大学名誉教授。日本建築史の専門家として、多くの城の再建に携わったことで知られる。建築家の城戸武男は兄。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)の生まれ。旧制三重県立上野中学校をへて、1929年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築学科卒。 1934年名高工助教授、1942年教授、戦後学制改革により名古屋工業大学教授に就任。 1949年、「近世日本城廓建築に関する基礎的研究」により京都大学から工学博士を授与。1969年2月、名工大学長代行に就任するが、学内の大学紛争の影響で同年9月に辞任。
小河内 芳子(こごうち よしこ、1908年3月16日 - 2… 小河内 芳子(こごうち よしこ、1908年3月16日 - 2010年3月3日)は、日本の児童図書館員。東京の公共図書館に勤務し、児童サービスに従事した。児童図書館研究会の設立メンバーであり、30年ちかく会長をつとめたほか、日本図書館協会児童青少年委員会の設立に寄与し初代委員長をつとめるなど、児童サービスの普及と発展に尽力した。「児童図書館員の草分け」「児童図書館員のパイオニア」と評されている。 1908年(明治41年)3月16日、三重県桑名町に生まれた。小河内家は桑名藩の重役で、父の小河内弥兵衛は桑名町助役をつとめる有力者だった。 1924年(大正13年)三重県立桑名高等女学校を卒業。1925年(大正14年)に上京して日本女子大学校国文科に入学した。
田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年>… 田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年> 2月7日- 1993年 <平成5年> 1月9日 )は、日本の経営者。位階は正四位。 三重県四日市市出身。1930年に行文行政科に合格し、1931年に東京帝国大学法学部法科を卒業した後に鉄道省に入省した。1952年には日本国有鉄道理事に就任した。 1954年5月に近畿日本鉄道常務に就任し、1961年11月には専務に就任した。一方で、1955年には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1968年5月から1976年6月までに三重交通社長を務め、1976年6月から1978年6月までに防長交通及び防石鉄道社長を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。
佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1… 佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1月30日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の実業家。サンジルシ醸造の社長、会長と中京テレビ放送社長を務めた。 1908年(明治43年)1月30日に三重県桑名市船場町316で父・初代佐藤信之助、母・ゑきの長男として生まれ、佐藤義一と名付けられた。旧制富田中学校を経て、1930年(昭和5年)3月に慶應義塾高等部卒業し、大蔵省醸造試験所で1年間醸造学を学んだ後、家業の佐藤信之助商店に入って味噌・醬油製造業に従事した。 早くから若手実業家として桑名財界で活躍し、桑名電軌と桑名土地建物の取締役に就任し、1936年(昭和11年)6月22日に桑名瓦斯の監査役にも就任した。
下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年… 下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年)は、日本の歴史家、官僚。 三重県津市出身。三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)、第八高等学校卒、1931年東京帝国大学法学部卒。東京市、名古屋市で自治行政に携わる。のち京都地方裁判所司法委員。本務のかたわら西洋史を研究した。
西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年… 西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年)は、長野県の教育者、書家。雅号は秋象(しゅうしょう)。 長野県生まれ。生家の西川豊後守藤原社家は「家学(かがく)」として、代々有職故実、太鼓・鼓・笛・和歌・書などに嗜んできた。 三重県伊勢市の旧制神宮皇學館附属中学(現皇學館中学校・高等学校)在学中から、書を尾上柴舟(書家・歌人、女子学習院《現学習院女子大学》教授)に師事し、18歳で院展入選、書家活動を開始。官立神宮皇学館大学歴史科卒業後、同政教学部卒業。 その間、尾上柴舟の紹介で京都大学・吉澤義則教授の研究室(国文学)に足繁く通い、教えを受ける。北京大学、台北大学などの講師を務める。
加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 19… 加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 1995年12月13日)は、日本の実業家。トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役、顧問、名古屋商工会議所副会頭、学校法人関西学院理事長、世界デザイン博覧会協会協会理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。息子(次男)はレーシングカーデザイナーの加藤眞。 1907年11月25日、三重県伊勢市生まれ。甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校、4回卒)を経て、1930年に関西学院高等商業学部を卒業。日本ゼネラルモータースへ入社。 1937年、トヨタ自動車工業設立と同時に同社へ入社。1950年にトヨタ自動車販売設立に伴い、同社へ移る。
安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 19… 安保 正敏(あぼ まさとし、1907年11月18日 - 1971年3月20日)は、日本の実業家。三重交通社長と東海テレビ放送社長を務めた。三重県松阪市出身。赤福餅で有名な赤福代表取締役社母兼社長である濵田勝子は三女、その夫は同社元会長である濵田益嗣。 1929年に、同志社専門学校高等商業部を卒業。 1942年に、松阪電気鉄道社長に就任し、1944年に統合により、三重交通専務に就任し、1954年に社長に昇格した。1957年に近畿東海放送社長に就任し、1959年にラジオ東海との合併により1971年に東海ラジオ放送社長にも就任した。1957年に東海テレビ放送副社長にも就任し、1967年には社長に昇格した。
野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 198… 野田 理一(のだ りいち、1907年11月10日 - 1987年2月22日)は、日本の詩人、美術評論家、随筆家。三重県津市出身。 戦前より詩作、また海外美術の鑑識眼も醸成していた。荒地同人。大正時代生まれがほとんどの同人の内で年長であった。自らの人生は語らず、作品のみを残す。美術評論では早くからジョン・ケージ、フンデルトヴァッサー、ルーチョ・フォンタナなどを紹介する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。