三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 19… 三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 1985年1月13日)は、日本の官僚、外交官、教育者。
京都府:2,682人
三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 19… 三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 1985年1月13日)は、日本の官僚、外交官、教育者。
高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月1… 高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月15日 - 1974年(昭和49年)12月6日)は、日本の弁護士、政治家。京都市長(第19代)。国立京都国際会館初代館長。京都自由人権協会理事長。初代京都市会議長で第1回衆議院議員を務めた中村栄助の三男。 中村栄助の三男として京都市に生まれる。京都府立二中では野球部で小西作太郎とバッテリーを組んでいた。第五高等学校を経て1918年に京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。学生時代は河上肇を顧問とする労学会に所属、キリスト教社会主義運動に参加。1917年、友愛会の初代京都支部長に選ばれた。賀川豊彦の影響により普選運動に携わった。 京大助手、同志社大学講師を経て、神戸で弁護士を開業した。
小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - … 小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - 1985年2月5日)は、日本の実業家。朝日新聞社元常務。全国高校野球の生みの親でもある。京都府京都市出身。 京都第二中学、旧制三高を経て、1918年に京都帝国大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社。印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり、他社よりも先駆けて扁平活字を考案し採用した。 京都二中時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった。
牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日… 牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日) - 1989年7月24日)は、日本の法制史家。京都大学名誉教授。 京都府天田郡下川口村(現福知山市)出身。京都府立第三中学校・広島高等師範学校を経て、1918年7月に京都帝国大学文科大学史学科、また1921年に京都帝国大学法学部卒業。1923年に同大学法学部助教授となり、2年間訪欧し在外研究。帰国して後、1930年に教授となり、1933年の瀧川事件に際しては、大学当局の措置に対して辞表を撤回し残留。1935年「鎌倉時代ノ封建制度ノ研究、殊ニ封建的恩地私領ノ成立ニ就テ」により京都帝国大学法学博士。1941年からは法学部長を務め、1945年に退職する。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 19… 岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 1974年3月20日)は、日本の実業家で、エコナックホールディングスの創業者でもある。 京都府京都市出身。1908年に京都市立第一商業学校を卒業した。1926年に日本レースを設立し、1942年に同社の社長に就任した。 近畿放送、京都銀行の各取締役などを歴任し、1965年4月に京都商工会議所会頭に就任した。1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1974年3月20日に腹部腫瘍のために死去。82歳没。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10… 戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得し、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立して設計活動した。 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。 1959年に造園家アメリカ協会 (ASLA) メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明… 2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日 - 1973年(昭和48年)12月11日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。幼名は虎三。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎) 京都府京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる。梅逕尋常小学校を経て、1908年(明治41年)京都府商業学校予科1年在学中に父が死去し、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した(タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)。
三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 19… 三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 1932年1月18日)は、日本の作家、評論家。 京都市生まれ。京都師範学校校長・加藤正矩の娘で、加藤弘之の姪に当たる。本名・安子、旧姓・加藤。 やす子は長女であるが父正矩の正妻の子ではない。正妻には子がなく、やす子と妹は正妻を「おかあさま」実母を「ばあや」とよんで、妻妾同居の家で育った。9歳で一家は東京へ移り、やす子は府立第二高女に進んだが、病気のため退学。ついでお茶の水高等女学校に入学し、19歳で卒業。1910年(明治43年)三宅雪嶺の甥にあたる理学士三宅恒方と結婚、大正元年にはのちに作家となった長女艶子が誕生した。この頃より雑誌に評論や随筆を書き始め、5年には夏目漱石のもとで創作を学び、漱石没後は小宮豊隆に師事した。
石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年… 石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年(明治23年)1月26日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家で石原産業の創業者。 京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、二・二六事件では叛乱軍に資金を提供して逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された。 1890年(明治23年)京都府京都市に生まれる。
眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -194… 眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -1946年3月15日)は、日本の教育者。旧制灘中学校初代校長。戦後まもない1946年に発疹チフスに感染し、灘校校長在職中に死去した。唱歌や童謡の作詞も行い、灘校の校歌・生徒歌の作詞の他、国定教科書に詩が採用されている。
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 19… 池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。 1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。 本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。 父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。
大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年… 大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年> 10月5日 - 1981年 <昭和56年> 2月27日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。位階は正五位。京都府京都市出身。 1909年に京都府立第一中学校を卒業し、同年に大橋商店に入社。1948年に蝶理社長に就任し、1958年5月には会長に就任。1959年9月から1960年5月までに再び社長を務めた。家政学園理事長も務めた。 1944年に紺綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年2月27日、老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - … 吉阪 俊蔵(よしざか しゅんぞう、1889年9月10日 - 1958年7月14日)は、日本の男性官僚。商工省・内務省で活動した。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市灘区)の造り酒屋の六男に生まれる。京都府立三中、五高を経て、1913年東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、初め農商務省に入り、その後商工省を経て内務省に移った。1919年パリ講和会議全権随員となり、1921年に内務省社会局書記官に就任。1928年12月に国際労働機関理事会日本政府代表事務所長に就任しジュネーヴに駐在した。1936年内務省社会局参与。退官後は商工中金理事長、日本商工会議所専務理事等を歴任。 妻の花子は動物学者・箕作佳吉(箕作阮甫の孫)の次女で、俊蔵・花子夫妻の長男が建築家の吉阪隆正である。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年… 夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。呉甌・李元暉と共に、王揖唐側近の部下と目された。 日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後の1929年(民国18年)10月21日、北平特別市政府秘書処秘書に任命された。後に黄郛配下となり、行政院駐平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している。
大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)1… 大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)12月28日 - 1922年(大正11年)2月8日)は日本の経済学者。専攻は経済哲学・経済思想史。 京都市上京区に生まれる。1905年、京都市立商業学校を卒業し神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。津村秀松に師事し、1909年、500頁に及ぶ卒業論文「帝国主義論」を提出(のち刊行)して卒業し東京高等商業学校専攻科(現・一橋大学)に入学。關一の指導を受け、關の退官後は福田徳三の指導を受けた。1911年には卒論「社会主義に関する研究」を提出し卒業し、同年小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)講師、小樽高等商業学校図書館主幹に就任。 1913年、同校の教授に昇任し、同年1月から1917年8月まで「経済学及商業学研究」のためヨーロッパに留学した。
金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月2… 金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月22日 - 1977年(昭和52年)1月7日)は、帝国大学で学んだ日本初の女子大学生の一人、日本初の女性理学士の一人として知られる数学者。東京女子高等師範学校教授。夫は画家の金山平三で、後半生は夫の画業を支えた。旧姓名の牧田 らく(まきた らく)で言及されることも多い。 京都府京都市中京区に、呉服商・牧田久吉の次女として生まれる。京都府高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校の前身)在学中に数学への関心を深める。らくの父は「女に学問などいらぬ」という考えの持ち主で、女子高等師範学校への進学にも反対していたが、高等女学校時代の恩師がらくの父を説得し、進学が許されたという。
鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 195… 鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 1957年9月1日)は、軟式野球に用いるボールを発明した人物である。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7… 田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7月 - 1950年(昭和25年)4月8日)は、日本の衆議院議員、厚生参与官。 京都府京都市出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、京都帝国大学大学院で都市社会政策を専攻した。大阪毎日新聞社に入社。その後、京都市会議員、同議長、京都府会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に京都1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、出馬し、当選。幣原内閣で厚生参与官を務めた。 1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年死去。 その他、京都ホテル株式会社取締役、内外出版印刷株式会社監査役、京都府教育委員長を務めた。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21… 梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日 - 1986年〈昭和61年〉1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。 京都府京都市下京区生まれ。生家は染物問屋だった。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った。
木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 19… 木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 1936年10月24日)は、日本の俳優である。木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)。木村 健二、木村 健次、木村 建治と表記に揺れがある。新派を経て映画界に転向、昭和初期まで大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所、不二映画社などに出演した名脇役として知られる。 1887年(明治20年)12月18日、京都府京都市に生まれる。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業。 天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎、石川新水、栗島狭衣、梅島昇らの新生劇団に加入し、新派悲劇『浅草物語』で初舞台を踏む。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1… 中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1958年9月1日)は、日本の作家、労働運動家、政治家。衆議院議員を2期務めた。 1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に出生し私生児として届け出された。旧制大成中学校(5年級編入学)を経て海軍兵学校に志願するも、出自を理由に入校はならなかった。その後、中央大学、早稲田大学に入るがいずれも中退。 少年・青年時代から機関車掃除夫や陸軍宇治火薬造所職工、新聞配達、南満州鉄道社員など、多種多様な職に就く傍ら無産運動にも尽力。朝鮮で新聞記者を務めていた時代には、藤田組による鉱山労働者虐待の実態を報じ、投獄されたこともある。 帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年… 園 正造(その まさぞう、1886年1月1日 - 1969年11月24日)は、日本の数学者。代数学を専門とする。京都帝国大学名誉教授。西京大学(現京都府立大学および京都府立大学女子短期大学部)初代学長。 京都市生まれ。1910年に京都帝国大学理工科大学数学科卒業。1921年、京都帝国大学教授。 日本の数学界の黎明期を支えた数学者の一人である。エミー・ネーターらと同時期に、代数学の抽象化に大きな役割を果たした。分離可能性に関する研究は後に森嶋通夫によって経済学へ応用された。 豪快な人物であったらしく、祇園から人力車で大学へ出勤したという逸話を持つ。また、数学に留まらず哲学・宗教・思想にも強い興味を持ち、雑誌「改造」などに論文を発表している。
岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(… 岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(明治18年)3月10日 - 1946年(昭和21年)8月15日)は、日本の大正・昭和期における大蔵省官僚・銀行家。大蔵省官僚としては主に特殊銀行・植民地金融を担当した。滋賀県出身。 1885年(明治18年)3月10日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の三番目の妻・義子。八男七女の六男として誕生したが、長男・四男が夭折により対外的には四男と称す。 京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)より第四高等学校(1905年(明治38年)7月5日卒業)を経て、1909年(明治42年)7月10日東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月… 黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月16日 - 1948年(昭和23年)7月19日)は、日本の法制官僚、政治家。貴族院議員、法制局長官。 京都府出身。黑崎武右衛門の二男として生まれた。郡山中学、第三高等学校を経て、1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験に合格。逓信省に入り通信局書記に就任。その後、法制局参事官、内閣恩給局審査官、法制局書記官などを歴任。その他、日独戦役講和準備委員、法制審議会幹事、交通審議会幹事などを務めた。1933年3月、齋藤内閣の法制局長官となり1934年7月まで在任。退任後すぐ同月3日に貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年(昭和21年)5月17日まで在任した。
江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年… 江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年5月10日)は、日本の歴史学者。日本における風俗史の研究の基礎を築いた一人である。京都女子大学名誉教授。 京都市出身。江馬天江の孫、江馬章太郎(京都府立医学専門学校教授)の子。 1907年に新設の京都帝国大学文科大学史学科第1回生として入学、1910年に卒業。卒業論文は「京都市制史」。同年、「日本風俗史」の研究のため同大学大学院に進学する。卒業後、京都市立美術工芸学校の教員となり、1911年には「風俗史研究会」を設立する。有職故実の文献や史料から過去の風俗の考証を進めるだけでなく、実際に衣装などを復原・着用して考察を進める方法を採用し、1915年から毎月1回「時代扮装実演会」を開き、1916年には研究会の機関誌「風俗研究」を創刊した。
川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年… 川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、大正から昭和時代前期の政治家。京都府舞鶴市長、加佐郡中筋村長。 水鳥作蔵の二男として京都府舞鶴市に生まれる。京都師範学校を卒業し教職に就く。加佐郡中筋村助役を経て、1919年(大正8年)4月、同村長に就任。ついで加佐郡町村長会長、京都府会議員、郡農会長などを経て、1932年(昭和7年)10月、舞鶴町長となる。周辺町村との合併を推し進め、1938年(昭和13年)8月、市制施行とともに市長臨時代表者を務め、同年9月10日、舞鶴市長に就任した。東舞鶴市と合併して新たに舞鶴市が成立した後も市長を務めた。
下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月… 下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月31日 - 1965年(昭和40年)1月9日)は、日本の文部官僚。東京女子高等師範学校校長。女子学習院長。
木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30… 木子 七郎(きご しちろう、1884年(明治17年)4月30日 - 1955年(昭和30年)8月24日)は、日本の建築家。 1884年(明治17年)、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる。木子幸三郎の弟である。1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1901年(明治34年)、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築科に入る。1911年(明治44年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大林組設計部技師として来阪。1913年(大正2年)、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。
松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月… 松阪 広政(まつざか ひろまさ、1884年(明治17年)3月25日 - 1960年(昭和35年)1月5日)は、日本の司法官僚・政治家。 検事総長、および太平洋戦争時の司法大臣を歴任した。 京都府久世郡宇治町(現在の宇治市)の地主で製茶業の家に生まれた。京都二中、東京神田中学校、一高を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科を卒業。1912年(大正元年)、検事となる。 名古屋裁判所の検事だった1925年3月に定型犯として賭博に関する調査を命じられた。7月に東京へ転出した後も高木常七により継続され12月に完成。あくまで事務処理の利便目的だったが結果が優れていたため、司法資料に取り上げられた。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - … 橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。 1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。 文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。 1945年、病没。
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日… 羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。