増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 198… 増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 1982年3月5日)は、日本の教育者。 兵庫県三木市出身。1917年増谷女学校補習科卒業。 増谷かめの養女となり、義母が経営する増谷女学校で学ぶ。卒業してすぐに増谷女学校の教諭となる。1922年に義母が没してから学校の理事に就任。 1965年に自身が理事の学校法人夙川学院が設立した夙川学院短期大学の講師に就任して後に教授になる。1969年に名誉教授になる。 増谷くらの提案で校内で下級生は上級生とすれ違う場合には礼をしようということになった。このように道徳的なものを日常生活で身に付けられるようにしていた。 1980年に定められた夙川学院の教育理念は「愛と誠実」「清新な学識」「清楚にして優雅」であるが、これは増谷くらの提案のもとに検討されていた。
和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月1… 和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月12日 - 1968年 <昭和43年> 8月13日)は、日本の経営者。丸善石油(現在のコスモ石油)社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県豊岡市出身。1914年に旧制豊岡中学校を卒業。満鉄での勤務を経て、1930年に丸善石油に転じ、1951年11月に専務に就任し、1952年10月には社長に昇格し、1963年までに務めた。 1959年に紫綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1968年8月13日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 19… 栗原 民雄(くりはら たみお、1896年5月21日 - 1979年10月8日)は、日本の柔道家(講道館10段、大日本武徳会範士)。 選手として1929年の御大礼記念天覧武道大会で優勝するなどし、指導者としては武道専門学校主任教授や京都府警察柔道教師を務めた。のちに講道館柔道殿堂にも選ばれている。 兵庫県姫路市生まれ。姫路中学校を経て、1915年(大正4年)大日本武徳会武術専門学校に5期生として入学。同期には兼元藤兵衛や山口孫作(のち隆三)らがいた。1917年1月に講道館に入学。1918年(大正7年)3月卒業後、同校研究科に進む。1919年4月、神宮皇學館助教授に就任。 1920年(大正9年)4月、武道専門学校助教授に就任し、翌年教授となる。
小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12… 小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12日 - 1971年(昭和46年)1月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡神戸村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で、小畑彦太郎の二男として生まれる。1916年(大正5年)姫路師範学校を卒業した。 1916年、兵庫県内の小学校訓導に就任。その後、鉄鋼線材製造業を営む。阪神被覆電気溶接棒製造工業組合主事、同組合常務理事、西日本電極棒工業組合専務理事、日本電気溶接棒工業組合専務理事、日本溶接工業代表取締役、兵庫県宍粟郡神戸村薪炭組合長、同郡薪炭組合連合会副会長、兵庫県民主政治会宍粟郡支部長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)… 横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年… 由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年1月27日)は、日本の牧師、讃美歌作家。日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られる。パスカルの研究家で「パンセ」を翻訳した。教育者・郷土史研究者足立正の次男。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市)に足立正の次男として生まれ、生後間もなく由木虎松の養子になる。 養父虎松の宣教活動のために、鹿児島、神戸、対馬などに転居する。養父の影響を受けてクリスチャンになり、神戸二中時代に洗礼を受ける。洗礼を受けてすぐの中学3年の時、すでに最初の賛美歌を作った。1914年、死の危険に直面して献身を決意する。関西学院高等学部文科(関西学院大学文学部の前身)で聖書学と神学を専攻する。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月2… 中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月25日 - 1977年(昭和52年)1月14日)は大正~昭和期(1920年代後半~1970年代前半)の実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。 1880年に父・幾次郎が起こした林兼商店に入社した謙吉は1924年に28歳で常務に就任、終戦前の1945年には大洋漁業の副社長まで出世した。戦後の公職追放で謙吉は大洋漁業の経営から退き、兄の兼市が2代目の社長となった。1952年に公職追放令が解かれると、謙吉は大洋漁業の副社長に復帰し、1953年に兄の兼市が急死すると、大洋漁業の社長に就任した。
松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Mats… 松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Matsushita, 1896年〈明治29年〉3月3日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、パナソニックの創設者である松下幸之助の配偶者。三洋電機の創設者である井植歳男の姉。 井植清太郎の次女として兵庫県津名郡浦村(現在の淡路市)に生まれる。浦高等小学校を卒業後、技芸学校に通って裁縫技術を覚えた後、大阪に出て船場(京町堀)で女中奉公を務める。炭屋を経営していた平岡屋の紹介で、松下幸之助と出会う。見合いは松島にある芝居小屋「八千代座」の前で行われた。見合いとは言っても目の前を通り過ぎるだけのものであった。この結婚に父であった清太郎は強く反対するが、当のむめのの意思は変わらなかった。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
東後 琢三郎(とうご たくさぶろう、1896年 - 1971… 東後 琢三郎(とうご たくさぶろう、1896年 - 1971年9月)は、日本の都市計画家。福岡県や近畿地方(関西)における都市計画及び土地区画整理事業で活動した。旧制中学校卒業で事務官として役所に入り、後に特別昇進を遂げた。 兵庫県立小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)卒業後、1916年に加西郡役所に入庁する。 1920年10月より、都市計画地方委員会書記兼兵庫県属として都市計画神戸地方委員会(1921年に都市計画兵庫地方委員会に改称)に勤務する。この年に都市計画法が施行された。 1928年7月から内務省都市計画地方委員会事務官となり都市計画福岡地方委員会に転動した。福岡在勤のまま1931年10月、地方事務官との兼務で福岡県内務部都市計画課長に就任する。
園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)1… 園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)12月20日 - 1942年(昭和17年)4月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。鳳鳴義塾塾長・園田定太郎の長男として生まれる。鳳鳴中学校(現兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、陸軍兵器本廠付兼整備局課員、参謀本部付(支那研究員)、整備局課員、軍務局課員を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に進級し整備局課員・参謀本部員を兼務した。
岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1… 岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1954年12月8日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1921年に東京帝国大学経済科を卒業し、鉄道省、大阪鉄道での勤務を経て、1930年10月に宇治川電気(のちの山陽電気鉄道)に入社。 1940年10月に常務、1943年10月に専務を経て、1949年4月に社長に就任。 1954年12月8日、社長在任中に死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1… 山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1日 - 平成6年(1994年)2月22日)は、日本の天台宗の僧侶。第253世天台座主を20年務め、「比叡山宗教サミット」の開催や「一隅を照らす運動」に尽力した。その行動的な姿から「空飛ぶお座主」といわれた。 明治28年(1895年)12月1日、兵庫県揖保郡太子町に生まれる。母に連れられて寺に参詣した際、修行者の姿に心を惹かれて仏教に憧れたという。明治37年(1904年)延命寺で出家し、堀恵慶の弟子となる。この時「恵諦」の法名を賜る。16歳で比叡山に入り、比叡山中学に入学。大正9年(1920年)天台宗西部大学卒業、卒業後は天台学の専門研究員となる。
西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月2… 西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月26日 - 1974年(昭和49年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海兵44期恩賜・海大26期恩賜。最終階級は海軍大佐。 1895年(明治28年)10月26日、兵庫県揖保郡神岡村東嘴崎(現たつの市神岡町)に生まれる。小学校のころより抜群の成績を誇った。旧制龍野中学校でも成績はトップであり、龍野中学校のクラスメートであった哲学者の三木清でさえも次席でついに西田を抜くことができなかった。また『陸の田中、海の西田』(田中とは、終戦時の第12方面軍司令官 兼 東部軍管区司令官であった田中静壱陸軍大将〈陸士19期恩賜・陸大28期恩賜〉)と並び評された。
浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24… 浅井 清(あさい きよし、1895年(明治28年)10月24日 - 1979年(昭和54年)8月14日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士。人事院初代総裁、貴族院勅選議員。正三位勲一等瑞宝章、銀杯一組(菊紋)。 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、慶應義塾大学部法律科を卒業。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)までヨーロッパに留学、1929年(昭和4年)法学部教授に就任。憲法・行政法を専攻し、ハンス・ケルゼンの影響を受け天皇機関説を主張した。 1946年(昭和21年)7月19日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不… 岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は中家 秀一(なかや ひでかず)。旧芸名は岩城 秀雄(いわき ひでお)。 1895年(明治28年)10月2日、兵庫県神戸市山本通(現在の同県同市中央区山本通)に生まれる。関西学院中学部卒業後、早稲田大学英文科に進学する。 早稲田大学2年修了(中退)後、海運業輸出部主任を務めていたが、1917年(大正6年)、岩城秀雄という芸名で新国劇創立と共に同劇団に入団。以降、主に端役・脇役として出演するが、1922年(大正11年)頃からは岩城秀哉と改名して活動している。1924年(大正13年)1月、帝国キネマへ入社。同年2月7日に公開された佐藤紅緑原作の松本英一監督映画『大盗伝』や、同年4月2日に公開された若山治監督映画『肉弾』など、悪役俳優として活躍していたが、出演配役に岩城の名前は見当たらず、岩城自身も少々不平があったようである。
前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947… 前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947年1月19日)は、神戸市出身の日本画家。本名は八十八。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田中 源三郎(たなか げんざぶろう、1895年(明治28年)… 田中 源三郎(たなか げんざぶろう、1895年(明治28年)8月12日 - 1953年(昭和28年)12月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県明石郡大久保村江井島(大久保町を経て現明石市)で生まれる。同志社大学、法政大学で学んだ。 兵庫県会議員に選出され、同参事会員も務めた。1937年(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から立憲政友会公認で出馬して当選したが、1939年(昭和14年)8月4日、衆議院議員選挙法違反事件の上告が大審院で棄却され判決が確定したため議員を退職した。戦後、1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙で兵庫県第1区から日本自由党公認で出馬して再選され、1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第3区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に通算3期在任した。
近藤 憲二(こんどう けんじ、1895年2月22日 - 19… 近藤 憲二(こんどう けんじ、1895年2月22日 - 1969年8月6日)は、大正・昭和期の無政府主義者。 1895年2月22日、兵庫県氷上郡前山村に生まれる。兵庫県立柏原中学を卒業後、上京して早大政経科に入学。在学中の1914年、大杉栄の論文集『生の闘争』に感動し、大久保に大杉を訪ね同志に加わる。バクーニン主義をとる。1916年、荒畑寒村と『労組』を、続いて『青服』(囚人服の意)を発行する。1919年、大杉の『労働運動』同人となる。1920年、「日本社会主義同盟」準備会発起人となる。1921年、第2回メーデーで警察隊と激突、市ヶ谷刑務所に下獄。1923年、大杉の計画する全国アナキスト同盟結成を手伝い関西・九州をオルグにまわる。
村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉… 村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉2月21日 - 2004年〈平成16年〉7月30日)は、男性長寿日本一だった人物。 兵庫県八鹿町(現・養父市)生まれ。1910年ごろ病気を機に金光教に入信。1946年から朝来教会教会長を務めた。2002年までは朝の祈祷を日課としていた。2003年ごろからは自室で休むことが多く、2004年6月から体調を崩し入院していた。 2004年7月、腎不全のため兵庫県和田山町(現・朝来市)の病院で死去。109歳160日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11… 野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11日 - 1978年(昭和53年)3月28日)は、日本の実業家。阪神電気鉄道社長・会長、阪神百貨店社長、阪神不動産社長、阪神タイガースオーナーなどを歴任。阪神甲子園球場の設計者でもある。大阪北ロータリークラブ初代会長。朝日放送元取締役。勲二等瑞宝章受章。1974年野球殿堂入り。 現在の兵庫県加西市出身。旧制姫路中学(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制第八高等学校、京都帝国大学工学部卒業後、1922年に阪神電鉄へ入社。1924年から甲子園球場建設の設計主任として携わり、1941年に取締役、1951年に社長に就任。1967年から5年間、会長を務めた。
関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11… 関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本のドイツ語学者(ゲルマニスト)。通称:ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。 ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。 兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓は陸軍主計大尉。大阪陸軍地方幼年学校を経て1913年に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、士官候補生として千葉県佐倉市の歩兵第57連隊に勤務。1915年、東京の陸軍士官学校を卒業(第27期)。同年12月、陸軍歩兵少尉となるも肋膜炎を患い休務を続ける。
岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - … 岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - 1933年2月13日)は、神戸市出身の日本画家。本名は敏郎。 若くして没したため、充分な活躍はできなかった。作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的美しさをモティーフに独自の作風をみせている。菊池契月に師事する。10代半ばで卓越した技術で花鳥画を制作した後、竹久夢二に魅了されて雑誌などに掲載された絵を模写したり、夢二風の少女の絵などを描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)… 久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、囲碁棋士。兵庫県出身。方円社、日本棋院に所属、名誉九段。昭和初期の関西囲碁界の重鎮であり、橋本宇太郎、木谷實らを弟子としながら東京に送り出した他、多くの棋士を育てた。「偉大なる素人」と呼ばれ、大模様の碁を得意とし、初手天元も研究した。連珠八段でもあり、久保松機山を名乗った。 尼崎市生まれ。5歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。特定の棋士に師事することはなく、ほとんど独学で棋力を磨いた。9歳の時に禅晶寺の碁会で泉秀節に九子で対局して勝ち、秀節は養子にすることを望んだが伯父が許さなかった。
川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、18… 川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 - 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。 1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 19… 小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 1951年9月16日)は、日本の経営学者。関西学院高等商業学部教授。大丸百貨店監査役、神戸ゴルフ倶楽部理事。族籍は兵庫県士族。兵庫県多額納税者。氏の本宅については本記事の「邸宅」の節及び「日本一の富豪村・住吉村」を、別荘は「六甲山荘」の記事を参照。 第10代学校法人関西学院院長の小寺武四郎、元ユニチカ社長の小寺新六郎は甥。 大日本紡績監査役の小寺成蔵の長男として生まれる。 1912年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、関西学院高等学部に進学し、同学部商科第1期卒業生(16年)12名の一人となった。その後、アメリカ・インディアナ大学、コロンビア大学に留学する。
土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997… 土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997年5月3日)は、日本の実業家。住友化学工業社長・会長。住友化学の中興の祖でもある。 兵庫県武庫郡大庄村浜田(尼崎市浜田町に)父・武内舛量、母・菊恵の長男として生まれる。生家は浄専寺と言い、境内に大きな樅や楠のある広い寺である。武内家は武内宿禰(神功皇后、応神天皇らに仕えた大臣。蘇我氏の祖と伝えられる)の子孫といわれる。土井は武内宿禰から数えて、ちょうど七十代目の末裔にあたる。父武内舛量は、西本願寺に勤め、法王の大谷光尊(明如上人)(大谷光瑞の父)に目をかけられ、日清戦争のころ軍隊布教使となった。ところが軍隊布教でマラリアにかかり、1897年9月、土井が3歳のとき、32歳で死去した。
片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12… 片岡 董(かたおか ただす、1894年(明治27年)4月12日 - 1963年(昭和38年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。旅館業・片岡平八郎の四男として生まれる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 参謀本部付、参謀本部員を経て、1928年(昭和3年)3月、陸軍兵器本廠付となり、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で1931年(昭和6年)3月まで聴講した。
柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9… 柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 兵庫県加東郡上東条村(現、加東市)森出身。旧制兵庫県立小野中学校を経て海軍兵学校卒業(43期)。アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日に戦死し、海軍中将に特別進級している。柴崎の戦死は、司令部があった地下壕を負傷者の治療にあてるために移動している最中であった。このことを知った部下達は、「司令官は我々を助けるために戦死した。司令官のためにも最後まで戦う」と決意した。
桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年… 桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年> 3月12日 - 1991年 <平成3年> 7月5日)は、日本の経営者。日本化成工業社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県姫路市出身。1918年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、同年に旭硝子に入社。1940年5月に日本化成工業(のちの三菱化成)に転じ、1943年9月に取締役に就任し、1946年12月に常務を経て、1950年6月には社長に就任。1958年3月にから1959年9月に会長を務めた。 1964年4月には科学技術学園理事長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年7月5日肺炎のために死去。
小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3… 小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3月11日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。「宍粟のトラ」と称された。 兵庫県宍粟郡神戸村安積(一宮町を経て現宍粟市一宮町安積)で、小畑彦太郎の長男として生まれる。小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)兵庫県会議員に選出され、1935年(昭和10年)まで在任。1933年(昭和8年)県会議長となり、阪本勝副議長とのコンビで県会に新風を吹き込んだ。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で兵庫県第4区から立憲政友会公認で出馬して初当選し、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙でも再選された。
小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 196… 小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 1960年3月18日)は日本の写真家。奈良を中心に各地の仏像を撮り、1922年(大正11年)、美術史家で書家・歌人としても名高い會津八一の勧めを受けて飛鳥園を創業。文化財写真の草分けとして知られる。美術史家小川光暘は次男、写真家小川光三は三男。 平成29年、晴暘が生前、朝鮮半島で撮影した写真の原版が飛鳥園で発見された。
石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1… 石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1963年11月27日)は、日本の建築家。同期卒業の堀口捨己、山田守らと分離派建築会を結成し、日本の近代建築運動の第一歩を記した。数寄屋橋の旧朝日新聞社でデピュー後に設立した設計事務所において、支所の開設や法人化など、時代を先取りした事務所経営を行なった。 神戸市生まれ。大阪市高津尋常小学校卒業、旧制大阪府立今宮中学校卒業、東京高等工業学校中退、旅順工科大学予科中退、旧制第三高等学校卒業。 1920年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大阪の竹中工務店に入店。 1922年から自費で欧米を視察し、特にドイツの近代建築運動にふれた。 1927年、白木屋の設計を機に竹中工務店を退社。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1… 太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。贈正四位・勲二等。京阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)社長や関西電力の社長・会長を歴任。関西電力時代には黒部ダム建設を指揮した。 兵庫県城崎郡城崎町湯島(現・豊岡市)で地元の開業医、太田垣隆準(りゅうせつ)の長男として生まれる。 第五高等学校、京都帝国大学経済学部卒業。1920年に日本信託銀行へ入行したが、1925年には阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移った。阪急では小林一三のもとで出札係や阪急百貨店の店員などの業務を広くこなした。1946年12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併して改称)社長に就任。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
小池 新太郎(こいけ しんたろう、1893年11月10日 -… 小池 新太郎(こいけ しんたろう、1893年11月10日 - 1949年7月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡染河内村(現・宍粟市)生まれ。1923年5月、家督相続。兵庫県立農学校で学んだ後、普通文官試験に合格して、1930年まで税務署属であった。染河内村農業会長、同森林組合長、同農地委員会長、宍粟郡畜産組合長(1939年3月22日から)、同家畜保険組合長、同輓馬組合長、兵庫県農業会宍粟支部長、中国食品工業(株)取締役社長、日東工業(株)取締役となる。 1936年2月11日から1940年2月9日までと、同月11日から1946年3月5日まで第17・18代染河内村長を務めた。
赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9… 赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1969年(昭和44年)6月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。農業・赤藤多一郎の二男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。 1919年(大正8年)5月、台湾歩兵第2連隊付となる。1913年(大正10年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校独逸語委託専科を修了した。同年6月、ベルリンに留学。1914年(大正11年)3月、仙台陸軍地方幼年学校教官に就任し、陸士教官、歩兵第21連隊中隊長を経て、1926年(大正15年)9月から1927年(昭和2年)6月まで、憲兵練習所に派遣された。
伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 196… 伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 1967年10月30日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 兵庫県神戸市生まれ。1920年早稲田大学英文科卒。1924年新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、のち文芸春秋系の作家となる。その後児童文学界の重鎮となり、『西遊記』の再話などで知られた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893… 上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893年3月30日 - 1987年)は、日本の武道家である。大阪で空真流空手道を発展させた。 3歳のとき、兵庫県赤穂市で上島作治郎、松原嘉年、赤田政治から今真流柔捕術を学び始める。 9歳のとき、沖縄出身の赤穂市警察官上島菅から空手型のピンアンとクーシャンクー(公相君)を教わり研究を始めた。 1918年、25歳で上島は今真流柔捕術の教授に任命された。 1926年、本部朝基著『沖縄拳法 唐手術 組手編』の出版にあたり、本部門下の唐手術普及会幹事長、杉本得二とともに編集に携わる。大阪市東淀川区に移り1925年(大正14年)上島柔道場を開設。また沖縄の空手教師数名がそこで空手も練習し、教えた。
3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈… 3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈明治25年〉12月2日 - 1980年〈昭和55年〉8月17日)は、日本の酒造家・実業家・慈善家。兵庫県多額納税者。辰馬悦蔵商店社長。北辰馬家第三代当主。紺綬褒章を多数回受章。 兵庫県西宮市出身。先代辰馬悦蔵の長男。1917年、家督を相続し前名・寛爾を改め襲名した。1918年、京都帝国大学史学科卒業。 酒造業を営み、銘酒白鷹の醸造元として知られたが、1929年、酒造業の全般を株式会社辰馬悦蔵商店に移して自らその社長となり、経営に努めた。後これを退き、その取締役となった。1976年、辰馬考古資料館設立。 3代悦蔵は京都帝国大学に学び、家業の酒造のかたわら、考古学の研究と考古資料の収集に努めた。
寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月… 寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月8日 ‐ 1975年〈昭和50年〉1月12日)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 鏑木清方の門人。名は徳重、兵庫県明石郡明石町字樽屋町にて生れる。父は綿布問屋柿屋の当主寺島徳松、母は「とし」。上に二人の姉がいる三人兄弟の末っ子であった。幼少時は病弱で尋常小学校に通う頃から健康になったが、当時の男の子に似合わぬおとなしい気性で、姉たちとままごとなどしたりするのを母としは案じた。やがて徳重は九つになると読書に熱中するとともに、目に付くものをスケッチするようになり、十一になると『源氏物語』を原文で読破する。しかしこの徳重の様子に、親や姉また親類の者は将来を心配するばかりであったという。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月2… 岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月27日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、国文学者。号は柿衞。聖心女子大学名誉教授。伊丹市長、伊丹市名誉市民。柿衞文庫設立者。逸翁美術館元館長。位階は従五位。 1892年、兵庫県伊丹市生まれ。生家は江戸時代より続く酒造業を営む岡田家であり、22代目当主として利兵衛を襲名。1918年、京都帝国大学文科大学国文科を卒業。 卒業後は梅花女子専門学校で教鞭をとる。1937年10月から1939年7月まで伊丹町長をつとめた。戦後の1945年12月17日、第4代伊丹市市長に就任。1946年11月26日に退任するまで、戦後復興に尽力した。市長退任後は公職追放となった。
三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)7月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、演劇評論家。媚びぬ劇評に徹し、また、文楽の興隆に尽くした。 兵庫県加古川市寺家町の造酒屋に生まれた。6歳のとき父が建てた芝居小屋に、入りびたって育った。同志社中学校、慶應義塾大学予科、本科文学部と進んだ学生時代にも、歌舞伎や文楽を見続けた。 1917年(大正6年)(25歳)、三田文学に『新聞劇評家に質す』を寄せ、三木竹二、杉贋阿弥、岡鬼太郎らを称揚し、饗庭篁村、伊原青々園、七代目松本幸四郎らを批判して、劇壇・文壇に反響を呼び、小山内薫らに認められた。『演藝画報』誌にも書くようになった。
赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6… 赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6月18日 - 1977年(昭和52年)1月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺田。 本籍新潟県。寺田弥蔵の二男として生まれ、赤柴幾太郎陸軍大佐の養子となる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第40連隊付となる。朝鮮臨時派遣歩兵第2大隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第80連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀、陸軍省人事局付、人事局課員、欧州出張などを経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し陸士付となる。