吉田田タカシ(よしだだたかし、1977年5月23日-)は、日… 吉田田タカシ(よしだだたかし、1977年5月23日-)は、日本の教育者、音楽家、ファシリテーター、クリエイティブ・ディレクター、芸術家。 兵庫県多可郡出身。兵庫県立西脇高等学校、大阪芸術大学デザイン学科卒業。 スカバンド『DOBERMAN』のボーカル、アートスクール『アトリエe.f.t. 』主宰、『まほうのだがしやチロル堂』共同代表、登校拒否の子どもから大人が学び社会を変える『トーキョーコーヒー』代表。 1998年、大阪芸術大学在学時にアートスクールアトリエe.f.t.を開校。“たのしいにいのちがけ”を胸に、老若男女約200名のメンバーと“つくるを通していきるを学ぶ”独自の教育を実践している。2015年6月にNHKニュースウオッチ9で特集され、ユニークで本質的な独自の指導方法が評価された。
山本 巧(やまもと たくみ、1972年〈昭和47年〉 - )… 山本 巧(やまもと たくみ、1972年〈昭和47年〉 - )は、日本の教育者、高校野球指導者。兵庫県立社高等学校硬式野球部監督、地歴科教諭。兵庫県多可町出身。 高校時代は社高校で、一塁手としてプレー。卒業後は民間会社勤務や学校職員などを経て佛教大で教員免許を取得した。 教員免許取得後は、西脇工業高校、小野高校の硬式野球部で監督を務め、小野では2008年夏の西兵庫大会で8強入りを果たした。 2014年春には社高校に赴任し、硬式野球部副部長に就き、同年夏からは橋本智稔前監督が顧問となり、監督に就任した。両氏は小野高校でも共に教職員として働いていた時期があり、旧知の仲である。 2021年、秋季兵庫県大会で、就任後初の県大会優勝・近畿大会出場(学校としては2003年以来18年ぶり)を果たした。
田中 利周(たなか としかね、1968年1月27日 ‐ )は… 田中 利周(たなか としかね、1968年1月27日 ‐ )は、日本の政治家、教育者。特別区議会議長会会長、文京区議会議長。早稲田アカデミー教務企画顧問。令和4年度東京都功労者表彰受賞。 兵庫県宝塚市生まれ。大阪教育大学附属池田中学校、大阪教育大学附属高等学校池田校舎、東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修了。 2007年4月の統一地方選挙で文京区議会議員選挙に出馬し、初当選した。以後、5期連続で当選を果たす。自由民主党の公認を受ける。2021年6月、文京区議会議長に就任した。2022年6月、特別区議会議長会会長に就任した。 2022年9月7日のFRIDAYデジタルの記事「投票率1位の文京区『当選区議1位~5位が大学院卒』で見えたもの」で、政治家・教育者としてインタビューにこたえている。
隂山 英男(かげやま ひでお、1958年3月7日 - )は、… 隂山 英男(かげやま ひでお、1958年3月7日 - )は、日本の教育者。立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長。JAPAN MENSA会員。 「隂」は「陰」の異体字であり、陰山 英男とも表記される。 兵庫県朝来郡和田山町(現・朝来市)出身。岡山大学法文学部法学科卒業。学生時代は放送文化部に所属しアナウンサーを目指すが挫折。佛教大学通信教育部にて教員免許を取得、兵庫県尼崎市立園和小学校、兵庫県城崎郡日高町立三方小学校で教師を務める。教師時代は典型的な“でもしか先生”であったが、同僚教師の過労死を切っ掛けに「命を大切にするなら、まず教師から。
隂山 英男(かげやま ひでお、1958年3月7日 - )は、… 隂山 英男(かげやま ひでお、1958年3月7日 - )は、日本の教育者。立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。小学館の通信添削学習『ドラゼミ』総監修者。元大阪府教育委員会委員長。
櫻井 久仁子(さくらい くにこ、本名:中林久仁子、1957年… 櫻井 久仁子(さくらい くにこ、本名:中林久仁子、1957年7月24日 - )は、日本の教育者、塾講師で進学塾経営者、著述家。日本では全く例がなかった、講師も生徒も女性だけというユニークな進学塾「アテネ」を運営する。『戦闘系教育論』、『教育にもセカンドオピニオンを!続・戦闘系教育論』など教育関係の著書もある。少林寺拳法有段者、フラワーデザイナー(1級)。神戸新聞カルチャー講師(夏休み読書感想文教室、フラワーデザイン教室)。 兵庫県神戸市出身。神戸大学附属住吉中学校から兵庫県立神戸高等学校、神戸大学卒業。 小学校、中学校時代は優秀な成績を修めた櫻井は第1志望校だけに絞り合格、神戸高校へ進学。順風満帆な高校生活を送るはずが、ほどなく授業内容が理解できない状態に陥り、入学後1年間で試験順位は最下位近くにまで落ち込んだ。
西 和彦(にし かずひこ、1956年〈昭和31年〉2月10日… 西 和彦(にし かずひこ、1956年〈昭和31年〉2月10日 - )は、日本のエンジニア・クリエーター・ビジネスマン・教育者。日本のパーソナルコンピューターの黎明期に活躍した人物でASCIIの創業者、MSXの生みの親である。 学校法人須磨学園学園長、NPO法人IoTメディアラボラトリー特別顧問、日本先端工科大学(仮称)設置準備委員会特別顧問。 兵庫県神戸市生まれ。須磨学園創立者・西田のぶの孫。 父の西邦大は須磨学園前理事長。関西大学商学部卒業。万世特攻基地で終戦を迎える。神戸銀行に入行。退行して須磨学園に奉職。商業科教諭、理事長を務めた。 母の西都は西田音吉とのぶの3女。奈良女子高等師範学校家政科卒業。
竹中 敏浩(たけなか としひろ、1956年 - )は、日本の… 竹中 敏浩(たけなか としひろ、1956年 - )は、日本の教育者。元兵庫県立神戸高等学校教頭、兵庫県立三木東高等学校第14代校長、兵庫県立北摂三田高等学校第12代校長。 兵庫県立神戸高等学校(27回生)を経て、信州大学理学部地質学科を卒業した。高校時代は、ラグビー部に所属[要出典]。 兵庫県高等学校の教員として、高等学校理科の地学分野で採用される。「以降、40年に渡って、兵庫県では高等学校理科の地学分野での採用がな」かったという。このほか、兵庫県立神戸甲北高等学校在職時の1998年、兵庫県理化学会兵庫県高等学校教育研究会理科部会の会誌に「理科教育の国際比較」という文章を掲載している。同校ではテニス部の監督も務めていた。
多賀 一郎(たが いちろう、1955年 - )は、日本の教育… 多賀 一郎(たが いちろう、1955年 - )は、日本の教育者、元小学校教諭。兵庫県神戸市出身。神戸大学附属住吉小学校、甲南小学校に教諭として勤務。在職中に、西日本私立小学校連盟国語部代表委員、日本私立小学校連盟国語部全国委員長などを歴任。国語教育の著書がある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤田 岳彦(ふじた たかひこ、1955年 - )は、日本の数… 藤田 岳彦(ふじた たかひこ、1955年 - )は、日本の数学者、教育者。中央大学理工学部教授。
谷岡 郁子(たにおか くにこ、1954年5月1日 - )は、… 谷岡 郁子(たにおか くにこ、1954年5月1日 - )は、日本の教育者、元政治家。学位は博士(芸術工学)(神戸芸術工科大学・1998年)。至学館大学・同短期大学部学長、学校法人至学館理事長、日本レスリング協会副会長。参議院議員(1期)、みどりの風代表などを歴任。 祖父は大阪商業大学創設者の谷岡登、父は元谷岡学園総長の谷岡太郎、弟は谷岡学園理事長の谷岡一郎、娘は漫画家の谷岡曜子。
大橋 節子(おおはし せつこ 1954年 - )は、日本の教… 大橋 節子(おおはし せつこ 1954年 - )は、日本の教育者、学校法人経営者。 学位は、博士(人間科学)。IPU・環太平洋大学学長・短期大学部学長、国際大学IPU NewZealand学長 兵庫県神戸市出身、甲南女子大学大学院博士後期課程修了、博士(人間科学)。 ・2013年に環太平洋大学次世代教育学部学部長、短期大学部学長補佐を経て、2015年より環太平洋大学短期大学部学長、2016年よりIPU・環太平洋大学第4代学長、2018年より国際大学IPU NewZealand 学長に就任している。 ・外部委員・役員としては、2015年から2021年まで国立大学法人お茶の水女子大学経営協議会委員を務め、現在、一般社団法人大学スポーツ協会(UNIVAS)理事、公益財団法人海外子女教育振興財団経営アドバイザリーコミッティー・アドバイザー、総社市教育基本計画検討会議会長、岡山商工会議所議員としても活動する。
松井 隆司(まつい たかし、1949年11月29日 - )は… 松井 隆司(まつい たかし、1949年11月29日 - )は、兵庫県明石市出身の音楽教育者。神戸演奏家協会会員、神戸学院大学管弦楽団指揮者、神戸学院大学吹奏楽部音楽監督、明石フィルハーモニー管弦楽団演奏委員及び指揮者。元神戸学院大学法学部教授。 神戸大学附属明石中学校、兵庫県立明石高等学校、大阪教育大学特設音楽課程卒業。神戸大学大学院修士課程(指揮)修了。 関西歌劇団、神戸オペラ協会、神戸アーバンオペラハウス等でトーマス・ザンデルリング、ブルーノ・ダルボン、松尾葉子、ティツィアーノ・セヴェリーニ、飯森範親、阪哲朗らのアシスタントとして合唱指揮、副指揮を務め多くの公演を成功に導いた。 管弦楽では大阪シンフォニカー、兵庫交響楽団、神戸室内合奏団を指揮。
吉永 元信(よしなが もとのぶ、1948年〈昭和23年〉 -… 吉永 元信(よしなが もとのぶ、1948年〈昭和23年〉 - )は、日本の図書館員、教育者。第17代国立国会図書館長。 兵庫県芦屋市出身。中学校の同窓に村上春樹がおり、高校生の頃は受験勉強のために毎日図書館へ通った。 大学進学後は政治学を専攻したものの、学生運動が盛んだったため講義があまり開かれなかった。その経験から落ち着いた人生を送りたいと考える様になり、研究をしたいという願望と国立国会図書館に勤務する大学の先輩から国会図書館で調査研究が出来ると聞いて興味を持ったことから、1971年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、その2年後の1973年に国立国会図書館へ入館した。 入館後、総務部長、副館長などを歴任。
吉永 陽一(よしなが よういち、1946年12月17日 - … 吉永 陽一(よしなが よういち、1946年12月17日 - )は、日本の音楽教育者、教員。神戸山手大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟副会長、関西吹奏楽連盟理事、NPO法人アマバンド&スポーツ副理事長。兵庫県神戸市兵庫区出身。
熊谷 保孝(くまがい やすたか、1946年 - )は、日本の… 熊谷 保孝(くまがい やすたか、1946年 - )は、日本の神道学者、教育者。 滝川高等学校卒業(同窓会副会長、会長代行)、國學院大學文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科博士課程修了、博士(神道学)。 日本学術振興会奨励研究員。昭和54年、滝川高等学校教諭、現在に至る。この間、武庫川女子短期大学非常勤講師、神戸学院女子短期大学非常勤講師、兵庫県立姫路短期大学非常勤講師、兵庫大学非常勤講師を歴任。
岩見 武三(いわみ たけぞう、1941年1月29日 - )は… 岩見 武三(いわみ たけぞう、1941年1月29日 - )は、日本の教育者、政治家。元兵庫県神崎郡市川町長(2期)。 市川町出身。神戸大学教育学部卒業。中学校教員を37年間務めたのち、区長6年間を経て2011年の市川町議会議員選挙に立候補し初当選を果たす(日本共産党公認)。 当選後は町議会議長を務めていたが、任期満了に伴う2015年の町長選挙に際して議員を辞職。「市川町 絆の会」の支援を得て無所属で出馬を表明する。選挙戦では子どもや高齢者の福祉の充実などを盛り込んだ「市川町ひまわりプラン2015」を掲げ、投開票の結果、再選を目指していた現職の岡本修平を下し初当選。兵庫県では隣接する嶋田正義福崎町長についで2人目(通算では山田兼三元南光町(現佐用町)長、工藤崇元上郡町長を含め4人目)の日本共産党員首長が誕生した。
高 丈二(こう じょうじ、1938年(昭和13年)11月22… 高 丈二(こう じょうじ、1938年(昭和13年)11月22日 - )は、日本の声楽家、テノール歌手、オペラ歌手、音楽教育者。沖縄県立藝術大学・聖徳大学名誉教授。旧名 黄 耀明と書かれた記録が存在する。 兵庫県神戸市出身。1958年(昭和33年)兵庫県立神戸高等学校卒業。1963年(昭和38年)、東京藝術大学卒業。1965年(昭和40年)、同大学院オペラ科修了。渡邊高之助に師事。1965年(昭和40年)モーツァルト『魔笛』タミーノ役で声楽家としてデビュー後、1968年(昭和43年)イタリアに留学。ヴェルディ音楽院に入学し、エットレ・カンポガッリアーニに師事。1970年(昭和45年)ミラノ・レオーネⅩIII劇場でロッシーニ『セヴィリアの理髪師』のアルマヴィーヴァ伯爵を歌い、好評を博す。
東後 勝明(とうご かつあき、1938年〈昭和13年〉11月… 東後 勝明(とうご かつあき、1938年〈昭和13年〉11月16日 - 2019年〈平成31年〉8月14日)は、英語教育者、早稲田大学名誉教授。 兵庫県神戸市生まれ。空襲で兵庫県小野市(当時小野町)に疎開。兵庫県立小野高等学校を経て早稲田大学教育学部英語英文学科卒業、同大学専攻科修了。ロンドン大学大学院教育研究科修士課程修了、博士課程修了。早稲田大学教授、2008年定年退職、名誉教授。東京YMCAインターナショナルスクール校長。1972年から1985年9月までの長きに渡りNHKラジオ「英語会話」の講師を務めた。1995年キリスト教に入信。英語学・英語教育に関する著書多数。英語音声学、英語教育学専攻。
岩田 信義(いわた のぶよし 1937年 - )は、日本の教… 岩田 信義(いわた のぶよし 1937年 - )は、日本の教育者、著作家、歴史家。神戸連続児童殺傷事件当時加害者の通っていた神戸市立友が丘中学校校長であり、事件に関わる著作を行った。 兵庫県神戸市出身。神戸大学教育学部卒業。神戸市内の学校教諭を経て神戸市立友が丘中学校校長に就任。事件当時は校長として、ことあるごとに記者会見を開き、記者からの質問には一つ一つ答えていた。 1998年には日本精神衛生会の広報誌で、メンタルヘルスについての連載を行っていた。 2000年には新潮45で、神戸連続児童殺傷事件が起きてから3年後に思うことの手記を掲載する。 2001年には『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」』という書籍を出版した。
井茂 圭洞(いしげ けいどう、1936年9月16日 - )は… 井茂 圭洞(いしげ けいどう、1936年9月16日 - )は、日本の教育者、書家。一東書道会会長、京都教育大学名誉教授、日本芸術院会員、文化功労者。本名は井茂 雅吉(いしげ まさきち)。 高等学校の教員を経て、京都教育大学教育学部教授、公益社団法人日展副理事長などを歴任した。 1936年生まれ、兵庫県出身。本名は雅吉。1954年より深山龍洞に師事。京都学芸大学(現・京都教育大学)卒。大学卒業後は、高等学校の教員として書道を教えていた。 61年「若山牧水の歌」が日展初入選。1991年京都教育大学教授。97年日展評議員。「清流」で2001年日展内閣総理大臣賞、2001年芸術院賞。2012年日本芸術院会員。
嶋田 正義(しまだ まさよし、1935年4月6日 - 202… 嶋田 正義(しまだ まさよし、1935年4月6日 - 2021年11月30日)は、日本の教育者、政治家。兵庫県神崎郡福崎町長(通算5期)。兵庫県町村会理事。全国小さくても輝く自治体フォーラム呼びかけ人。 福崎町出身。神戸大学教育学部卒業後、郷里の中学校での15年間に及ぶ教員生活を経て、福崎町議会議員(日本共産党公認)に転じる。町議は5期20年にわたり務めた。 1995年12月3日投開票の町長選挙に無所属(「明るい福崎町をつくる会」推薦)で立候補、現職の松岡忠能を破り初当選を果たす。当時、共産党籍を持つ首長は山田兼三兵庫県南光町(現佐用町)長、関口荘六新潟県三和村(現上越市)長に次いで3人目となった。
荒木 宏(あらき ひろし、1928年4月1日 - 1995年… 荒木 宏(あらき ひろし、1928年4月1日 - 1995年1月14日)は、日本の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、2期)を務めた。自由法曹団幹事。 神戸市出身。神戸商業大学(現・神戸大学)中退。小学校の教員をやりながら、関西大学法学部を卒業。1959年に弁護士となり、同年共産党に入党した。 1972年の第33回衆議院議員総選挙に旧大阪5区から立候補し1位で初当選を果たした。続く1976年の第34回衆議院議員総選挙でも同区から立候補し再選を果たすも、体調不良により1979年の第35回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界からの引退を表明する。地盤は引退当時、堺市選出の大阪府議会議員であった藤田スミに譲る。
小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2… 小西 俊造(こにし しゅんぞう、1918年11月3日 - 2012年10月27日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第6代目学長。医学博士(1950年、京都大学にて取得)。 兵庫県出身。1942年9月に京都大学医学部卒業。1950年「麻疹予防に関する研究」で同大学にて医学博士。1963年10月、山口県立医科大学教授に就任。1969年4月山口大学医学部附属病院長、1978年3月同大学学長となる。1984年2月同大学任期満了にて退官。同大学名誉教授となる。2012年10月、故郷の相生市にて多臓器不全のため93歳にて他界。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgah… 菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。 兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。 1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。
増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 198… 増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 1982年3月5日)は、日本の教育者。 兵庫県三木市出身。1917年増谷女学校補習科卒業。 増谷かめの養女となり、義母が経営する増谷女学校で学ぶ。卒業してすぐに増谷女学校の教諭となる。1922年に義母が没してから学校の理事に就任。 1965年に自身が理事の学校法人夙川学院が設立した夙川学院短期大学の講師に就任して後に教授になる。1969年に名誉教授になる。 増谷くらの提案で校内で下級生は上級生とすれ違う場合には礼をしようということになった。このように道徳的なものを日常生活で身に付けられるようにしていた。 1980年に定められた夙川学院の教育理念は「愛と誠実」「清新な学識」「清楚にして優雅」であるが、これは増谷くらの提案のもとに検討されていた。
淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉… 池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家。旧姓井上、号は南蛮堂。植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援したことでも知られる。谷崎潤一郎とも交流があり、1940年春に自らの美術館の開館式に招いた。 1891年(明治24年)11月24日に井上德左衞門の長男として 神戸市に出生。幼少時に叔父で神戸市議会議長を務めた池長通の養子に入り池長姓に改姓。池長家は、江戸時代から続く瓦屋や貸金業を祖父吉佐衛門の代(明治5年)にたたんで、兵庫一帯の土地を買い付け柳原や門口町、白川村などで住宅や不動産の賃貸業を指揮する。
船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(… 船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(明治22年)12月15日 - 1932年(昭和7年)12月22日)は、日本の声楽家(バリトン)、作曲家、音楽教育者。東京音楽学校声楽科主任教授。新字体で船橋栄吉と表記されることが多い。舟橋栄吉という表記もみられる。姓の読みを「ふなはし」としているものもある。 兵庫県明石市出身。2歳で父を失う。小学校卒業後、家業の旅館を手伝いながら独学し、小学校教員及び中等学校教員免許を取得。また母が長唄をよくしたことから、自身も音楽に関心を持つようになり、特に瀧廉太郎の『荒城の月』『箱根八里』などの唱歌を好んだ。やがて音楽を志して上京、東京帝国大学事務局で給仕として働く傍ら、外山國彦に師事。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。
神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 19… 神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 1959年4月16日)は、日本の教育者。関西学院大学商経学部教授、関西学院大学第4代学長、同学院院長(第5代、1940年〜1950年)などを歴任した。 1884年8月10日、東京麹町に生まれる。1901年、関西学院普通学部を卒業。カリフォルニア大学に留学し、同大学院に進学する。歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。吉岡美國第2代院長の娘婿となり、1921年、高等商業学部長就任のために帰国。大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部、大学の教授でもあった。ベーツ院長の離日後、1940年から1950年の10年間、第5代院長を務めた。
山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)… 山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)7月2日 - 1927年(昭和2年)6月19日)は日本の電気化学者、教育者。兵庫県多紀郡丸山村(現丹波篠山市)で誕生。苛性ソーダの電解法による製造方法を開発し大規模工業化への飛躍的な途を拓いた。粘土などからアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の初代校長。 日本で苛性ソーダの電解法による製造法を開発し、苛性ソーダ工業を飛躍的に発展させた。粘土や明礬石などの国産原料よりアルミニウムの元となるアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の創設に携わり、初代校長として高等技術教育に力を注いだ。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 -… 井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 - 1963年(昭和38年)7月19日)は、日本の家政学者・教育家。日本女子大学校(現在の日本女子大学)初の女性校長(第4代、1931年11月 - 1946年11月)。 1875年(明治8年)1月6日、兵庫県氷上郡船城村(現・兵庫県丹波市)に生まれる。10歳で氷上郡各町村組合立氷上高等小学校に入学。在学中に裁縫の教師から「女に学問はいらないというのは古い考え方である。これからは女子も大いに勉強して国家に尽くす人にならなければいけない」と言われ、京都府立第一高等女学校を志す。 15歳で京都府立第一高等女学校に進学する。同校の寮で広岡浅子(明治・大正期に活躍した女性実業家)の娘・亀子と同室になった縁で、広岡家が営む大阪の豪商・加島屋久右衛門家にも出入りするようになる。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865… 小泉 又一(こいずみ またいち、慶応元年5月20日(1865年6月13日) - 大正5年(1916年)5月16日)は、日本の文部官僚・教育者。族籍は兵庫県士族。位階および勲等は正四位・勲四等。 兵庫県姫路市出身。姫路藩士で藩校の教官の小泉吉善と母ふさ(同藩士の白倉直記の三女。天保14年12月生)の長男として生まれる。弟に海軍少将の小泉武三がいる。姫路中学校を経て、1887年(明治20年)に東京高等師範学校を卒業。沖縄県尋常師範学校教諭、沖縄県学務課長心得、沖縄県尋常師範学校校長補、徳島尋常中学校教諭、福岡県尋常師範学校教諭、同教頭、同校長、和歌山県第一尋常中学校校長を歴任した。1899年(明治32年)、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事に転じ、1905年(明治38年)からは同附属中学校主事も兼ねた。
森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864… 森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864年6月2日) - 昭和8年(1933年)1月12日)は、日本の教育者。 兵庫県出身。1885年(明治18年)、神戸師範学校を卒業し、ついで1889年(明治22年)に東京高等師範学校を卒業した。愛知県師範学校教諭、同校長、徳島県師範学校教諭、福岡県師範学校校長、東京高等師範学校教授、大阪府師範学校校長を歴任。1904年(明治37年)、大阪府視学官に任じられた。1906年(明治39年)、文部省視学官となり、さらに奉天省教育顧問として清に招聘された。1908年(明治41年)に帰国後は愛知県の明倫中学校校長を務めた。その後、宮崎県立宮崎中学校校長に就任した。
大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845… 大島 貞益(おおしま さだます、弘化2年2月17日(1845年3月14日) - 大正3年(1914年)10月19日)は明治時代の著作家(経済評論家)・翻訳家・教育者。号は「石華」。 日本におけるF・リストの紹介者および保護貿易論者として知られ、「日本のリスト」と称される。 但馬国養父郡大藪村(現兵庫県養父市大藪)で、大藪領主旗本小出英道の家臣、西洋兵学者・大島貞薫と敦子の三男に生まれる。幼名は益三郎。箕作麟祥の英学塾に学んだ後、慶応4年(1868年)7月に新政府の海軍省翻訳方に出仕し、以降文部省・統計寮・外務省などを転々とし明治11年(1878年)1月に外務省御用掛を免職となるまで翻訳業務に従事した。
加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6… 加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。