松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 19… 松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 1993年2月10日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授。 1904年、和歌山県伊都郡妙寺町(現かつらぎ町)出身。1922年和歌山県立和歌山商業学校卒、1925年山口高等商業学校卒業、同年歩兵第8連隊入営、1927年青島学院商業学校教諭、1929年大日本帝国陸軍少尉、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。金融論の井浦仙太郎ゼミ出身で、本科2年時に、論文「戦時戦後におけるわが国為替相場変動の研究」が鳳聚会二等上席に入選し出版される。 大学卒業後は彦根高等商業学校金融論担当助教授就任が一旦決まったが、その後担当が専門外の原価計算及び簿記と変わり、辞任も考えた末以降会計学専攻に転じて高瀬荘太郎に師事し同職を務めた。
寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1… 寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1996年4月3日)は日本の数学者。専攻は幾何学。大阪大学名誉教授、理学博士(1938年)。正四位勲二等瑞宝章。
黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日… 黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日 - 1986年(昭和61年)6月18日)は、日本のジャーナリストで経営者。 毎日新聞社取締役、中部本社社長や毎日大阪会館社長を務めた。1921年 全国中学校大会で走高飛1m69cmの日本記録を樹立しアジア大会(当時:極東選手権大会)に出場。日本学生陸上競技連合の設立に関わる。 1904年 (明治37年)1月3日 東京市神田区小川町3番地にて父 安吉と母 くりの長男として生まれる。二人の弟と3人の妹の6人兄弟。 1911年(明治44年)4月 東京市小川尋常小学校(平成2年に閉校)に入学 1917年(大正6年)龍馬13歳 小川尋常小学校卒業。
西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1… 西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1990年)は、和歌山県日高郡寒川村(現:日高川町)出身の作詞家。大正・昭和時代に活動した。 1903年(明治36年)10月、寒川村の垣口家に出生。のち川上村の西川家で養子に迎えられた。 小学校高等科を卒業後は植林の仕事に就き、和歌山市を訪れた際に「紅葉渓納涼音頭」の公募に入選して懸賞金50銭を得た。尋常小学校の訓導であった1934年(昭和9年)、報知新聞社が皇太子(明仁)の生誕を記念して歌詞を一般公募した「皇太子殿下御降誕奉祝歌」において、全国から寄せられた約5,800編の中から西川の応募作が一等入選で採用され、東京音楽学校の作曲によりキングレコードから発売された。
小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - … 小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - 1969年5月3日)は、日本のアマチュア天文家。日本の流星観測のネットワークを組織。 現在の岡山県津山市上之町の山本家に生まれる。1921年、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り京都大学の山本一清に師事し、同会の流星課長として月刊誌『天界』に流星観測報告や論文を発表。1925年、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居(小槙姓となる)。以後、教職に就きながら流星観測を続け1943年に「紀伊天文同好会」を設立。後にこれが「日本流星研究会」に発展し、全国三百数十カ所にわたる流星観測のネットワークを組織。日本全国のアマチュア天文家と交流し青少年の宇宙への夢を育んだ。
綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17… 綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17日 - 1983年〈昭和58年〉5月18日)は、日本の作家、時代考証家、日本武術(古武道)史研究家。 和歌山県和歌山市出身。牧師だった父に「キヨシ」と名付けられるも、生後間もなく死別。母の再婚に伴い、綿谷家に入る。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1930年に早稲田大学政治経済学部卒。在学中、教授の山口剛から推薦を受け真山青果に師事し、創作、歴史考証を学ぶ。 戸伏 太兵(とぶし たへい)の筆名で小説や戯曲も書き、『戯曲集 天ノ川辻』所収の「天ノ川辻」「十津川秋雨の譜」「遊撃四番隊」の3作が第11回直木賞の候補になっている。
井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12… 井上 鑑昭(いのうえ のりあき、明治35年(1902年)12月3日 - 平成6年(1994年)4月13日)は、日本の武道家。親英体道(親和体道)の創始者である。合気道の開祖植芝盛平(うえしば もりへい)は叔父にあたる。 本名は井上要一郎といい、鑑昭は別名である。その他の別名として、祥治(よしはる)・聖祥(せいしょう)・方軒(ほうけん)・照祥(てるよし)と名乗っていた時期もある(この項では、一般的な鑑昭の表記で統一する)。 和歌山県西牟婁郡(現在の田辺市)に生まれる。生家は貿易商を手広く営む裕福な家庭で、生活には何不自由なく育ったが、井上自身はすぐに風邪をひいて寝込んでしまう体の弱い少年であった。
城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年… 城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年1月13日)は、日本の作家。 和歌山県西牟婁郡周参見町(現・すさみ町)出身。本名・福島静。和歌山県立和歌山高等女学校(現・和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒。在学中から少女小説を書き、1924年『薔薇の小径』を刊行。『女人藝術』『婦人戦線』などに小説を発表。戦後は少女小説や童話を書く。
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 -… 岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市東区田島町(現・中央区)で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(現・橋本市柱本)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。
玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 -… 玉碇 佐太郎(たまいかり さたろう、1901年3月29日 - 1975年10月25日)は、和歌山県海南市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名山村 佐太郎(やまむら さたろう)。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重105kg。得意手は押し。 1920年1月場所初土俵、1925年1月に十両昇進、一時幕下に陥落したが、1928年3月新入幕をはたした。横綱・宮城山福松に強く、金星を3個獲得している。1932年1月、春秋園事件で脱退。1937年末の関西協会の解散まで現役を続けた。 徹底した押し相撲で、指が変形したほど稽古に打ち込んだ。生涯四つ相撲になったのが二番、打っ棄りを食らったことは一度もなく、「相撲の神様」と呼ばれた幡瀬川が絶賛していた。
田中 四郎(たなか しろう、1901年 - 1945年8月1… 田中 四郎(たなか しろう、1901年 - 1945年8月15日)は、日本の実業家。歌人・俳人としても知られ、青野 梓のペンネームでも活動した。神戸高等商業学校在学中に初代学生横綱になった経歴があるほか、戦時期には出版統制機関である日本出版文化協会で要職を務めている。夫人は金子直吉の次女・須磨子。 和歌山県出身。和歌山商業学校(現在の和歌山県立和歌山商業高等学校)時代、全国少年相撲大会で優勝した。 1918年(大正7年)、神戸高等商業学校に入学(第16回生)、相撲部に所属。全国少年相撲大会での優勝経験によって相撲部キャプテンであった久琢磨がスカウトをかけたという。1919年(大正8年)、第1回全国学生相撲大会で優勝し、初代学生横綱となった。
上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月… 上山 輝一(かみやま てるいち、1900年〈明治33年〉5月9日 - 1982年〈昭和57年〉5月26日)は、日本の政治家。東京都中野区長、東京都議会議員(2期)を務めた。計理士、税理士。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 1900年現在の和歌山県有田市に生まれる。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)第6回卒業。1955年4月以来、東京都議会議員に連続2回当選(日本民主党→自由民主党)。1963年3月21日に中野区長に就任。1967年3月に再選。区長を1963年3月22日から1971年3月27日まで務めた。その後1972年4月から1982年5月26日まで高千穂商科大学の理事を務めた。
竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 196… 竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 1967年4月15日)は、日本の実業家。ジャパンライン(現商船三井)創業者・初代社長。 和歌山県和歌山市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、商工省入省。小学校で両親を失い、家庭教師をしながら大学に通った。 その後退官し、1937年日東鉱業汽船設立。海運業のほか証券業、新聞業、石油、ガス、石炭、金属、不動産、化学などを幅広い事業を手がける。 戦後1947年に日東商船創立。1964年大阪商船との合併交渉が決裂し、大同海運と合併し、ジャパンライン設立、同社社長に就任。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年… 今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年)3月25日 – 1969年(昭和44年)6月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 和歌山県和歌山市で生まれた。メリヤス製造業を営み、和歌山商工会議所議員、和歌山メリヤス生地工業組合理事長、和歌山県莫大小製造統制組合理事長、同県メリヤス商工業協同組合理事長、日本メリヤス工業会理事、同会生地部全国委員長、日本メリヤス統制取締役などを務めた。 政界では、1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)まで和歌山市会議員に在任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で和歌山県第1区から日本自由党公認で立候補して当選し、次の第24回総選挙でも当選し、衆議院議員に連続2期在任した。
阪田 誠盛(さかた しげもり、1900年3月21日 - 19… 阪田 誠盛(さかた しげもり、1900年3月21日 - 1975年2月)は、日本の実業家。陸軍将校。日本陸軍の特務機関である「松機関(阪田機関)」を組織、満州・上海・香港を舞台に数々の謀略に携わる。帝国陸軍はもとより、蔣介石率いる国民軍からも絶大な信頼を得た稀有な日本人。中国名は田誠。 1900年3月21日、和歌山県田辺市生まれ。幼名は文吉。生家は阿部で藤原の流れをくむ、代々神官を務めた名家である。父親は阿部誠輝(しげてる)。剣の達人であった誠輝は、西南戦争で官軍将校として出征、田原坂の戦闘において武功をあげた。後に明治政府より男爵位を叙せられるが「分不相応」と返上している。誠輝の死後、母親のタツが奈良の豪商、阪田作次郎の養女となり、阪田姓を名乗るようになる。
田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治3… 田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治33年)2月3日 – 1972年(昭和47年)5月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。「田渕」と表記される場合がある。 和歌山県有田郡、のちの金屋町(現有田川町)で生まれた。法政大学専門部法律科で学んだが、関東大震災で負傷し中退した。 1937年(昭和12年)日本林産鉱業取締役社長、1938年(昭和13年)明治採炭鉱業社長にそれぞれ就任し、1942年(昭和17年)から三重県、奈良県で亜炭鉱山上野炭鉱などを経営した。その他、奈良県亜炭鉱業会長、近畿亜炭鉱業会理事、全国亜炭鉱業連合会常任理事、奈良県亜炭協同組合理事長、石炭増産協力会推進専門委員、全国亜炭産業会総務理事、全国亜炭協会長、国際化成社長、伊賀窯業取締役などを務めた。
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 19… 田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。父親は神戸で貿易会社を経営していた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、神戸高商を受験したが受からず、親戚が慶應義塾長の鎌田栄吉と知り合いであったことから同大経済学部に進学し、1923年に卒業。
清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月… 清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月27日 - 1967年(昭和42年)11月11日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 和歌山県那賀郡(現紀の川市)で、清原英三の長男として生まれる。旧制・和歌山県立粉河中学校、旧制・第一高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。 1923年12月、高等試験行政科試験に合格し、1924年5月、裁判所書記兼司法属に任官し東京地方裁判所書記兼大臣官房調査課に配属された。同年12月、高等試験司法科試験に合格し、1925年3月、司法官試補に任官し大阪地方裁判所詰となる。1926年11月、検事に任官し大阪地裁予備検事となる。
古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 -… 古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 - 1992年12月3日)は日本の社会事業家、教育者、ラジオ・テレビタレント、政治家。日本におけるボーイスカウト草創期の指導者の一人。初代の公選高槻市長、ボーイスカウト日本連盟理事、日本キャンピング連盟常任理事を歴任した。 1897年(明治30年)6月27日、和歌山市に古田吉兵衛の長男として出生。1914年(大正3年)、和歌山商業学校を卒業。 1919年(大正8年)、和歌山の聖救世主教会で受洗し日本聖公会に入信。同年神戸に移住する。 1921年(大正10年)12月1日、神戸聖ミカエル教会でボーイスカウト神戸第1隊(ウォーカー隊)を指導していたフレデリック・ウォーカー宣教師、竹内宗六神父の援助を受け、平井哲夫と共に神戸ボーイスカウト山手隊を結成。
高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 … 高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 - 没年不明)は、和歌山県和歌山市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は宮尾 三郎。176cm、94kg。最高位は西前頭6枚目。得意技は右四つ、寄り、投げ。 早稲田実業高校に在学中、自ら角界に飛び込んだインテリ力士。 1912年5月初土俵、1919年5月十両昇進。1922年1月入幕を果たす。病気療養中に家族とともに関東大震災に遭遇し、本人以外の家族は全員死亡したため、悲嘆に暮れてしまい、1924年1月場所前に27歳の若さで廃業した。被災当時、義両親、二人の義姉、妻と二人の子供がいたが、妻は翌月に第三子の出産を控えていたという。 廃業後は家族の冥福を祈るため、高野山で出家得度を受け、満州にいる兄の元に身を寄せ、その後、四国巡礼のお遍路さんになったというが、その後の消息は不明。
森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月… 森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月16日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県有田市長。位階は従五位。 和歌山県有田郡宮崎村(箕島町、有田町を経て現有田市新堂)で、森川仙太郎の二男として生まれる。1914年(大正3年)和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業した。 柿本銀行に入行。簑島信用組合理事、日本除虫菊輸出組合理事、和歌山県除虫菊製品工業組合専務理事、帝国除虫菊取締役社長、北海道除虫菊工業取締役社長、紀ノ川製粉取締役社長、キング除虫菊取締役社長、北王製油取締役社長などを務めた。 1918年(大正7年)紀勢西線鉄道敷設期成同盟会幹事長に就任。
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年… 島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。 和歌山県出身。島本熊太郎の三男として生れる。和歌山中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て、1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。 「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した。
逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日… 逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日)は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。 和歌山県和歌山市生まれ。1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける。 1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった。
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉… 松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。 パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。 1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。
大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月… 大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月27日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、日本画家、南画家、歌人。本名は新治郎(しんじろう)。和歌山県和歌山市出身。はじめ洋画を学び、のち日本画に転向。寺崎広業、のちに小室翠雲に師事。大東南宗院の設立に参加。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。
石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 -… 石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 - 1958年1月23日)は、日本の洋画家。 1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。 1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。
前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
天牛新一郎(てんぎゅう しんいちろう、1892年11月25日… 天牛新一郎(てんぎゅう しんいちろう、1892年11月25日 - 1991年6月2日)は、明治時代後期から昭和時代の古書店主。 和歌山県伊都郡見好村(現・かつらぎ町)で生まれる。 1907年(明治40年)、大阪ミナミの二ツ井戸で露店の古本屋を始め、1915年(大正4年)、日本橋南詰東半丁で天牛書店を開店する。その後、古書店としては他に見られない品ぞろえと確かさで近畿在住の文化人の定評を得て、大阪府古書籍協同組合理事などを歴任し、1972年(昭和47年)に大阪産業功労賞、1974年(昭和49年)には大阪文化賞を受賞する。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月… 田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月9日 - 大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人・芸術家。特に版画家としてよく知られている。 明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校(後に和歌山中学校と統合)を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - … 鍋島信太郎(なべしま のぶたろう、1892年3月28日 - 1973年8月22日)は、日本の数学者・数学教育学者。 和歌山県橋本市出身。和歌山県師範学校予備科卒、東京高等師範学校卒、東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授。1956年定年退官、日本数学教育学会名誉会員。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、189… 上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、1890年〈明治23年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の実業家。元内外除虫菊会長。上山殖産代表取締役。和歌山県多額納税者。大日本除虫菊の創業者上山英一郎は養叔母ゆきの夫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。先代・市郎兵衛の長男。先代・市郎兵衛は南海水力電気を起こした。1922年、家督を相続し、前名・市三郎を改め襲名する。 祖業を継ぎ農業を営み、傍ら上山殖産会社を創立する。上山殖産社長、南海水力電気社長、関西配電理事、南海工業会長、内外除虫菊会長を務めた。 人となりは、朗らかな明るい紳士である。先代・市郎兵衛より、父子共に社会公共に尽した。
稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月2… 稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月20日 - 1942年〈昭和17年〉9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。 人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、18… 15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助、1889年〈明治22年〉9月 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の商人(天産物直輸出商)、実業家。大日本除虫菊社長を務めた。大日本除虫菊の創業者・上山英一郎の長男。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。東京高等商業学校に学び、天産物直輸出商を営んだ。ユーゴスラビア国に紀州産蜜柑苗を移植、寄贈した。1930年、大日本除虫粉社長に就任した。1939年、日本除虫菊輸出組合理事長に就任した。 大阪商工会議所貿易部長、ユーゴスラビア国日本駐箚名誉領事、大日本除虫菊、朝鮮除虫菊、箕島倉庫運送、関西金鳥販売、東京金鳥販売各社長、南海水力電気、松下電工、信太山ゴルフ各取締役、岸和田煉瓦綿業、日本レイヨン、白浜温泉土地倶楽部、南海鉄道、満州製紙、大阪ゴルフ、上山殖産各監査役などを務めた。
山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27… 山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27日 - 1970年8月18日)は、日本の政治家・実業家。鹿児島県松山町議会議長(2期)、松山町議会議員(4期)、松山遺族会会長、松山町商工会会長などを歴任した。 1889年〈明治22年〉、和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市)に生まれる。 1913年〈大正2年〉、23歳の時に医師を志して家を出て、親類を頼って人吉へ移った。1917年〈大正6年〉、製材所で勤めていた茂は、親類の杭木商・古久保安次郎の手引きで松山へ移った。翌1918年〈大正7年〉、28歳の時に水力利用の製材所を興し、以後製材業を続け、1940年〈昭和15年〉、囎唹郡製材統合株式会社副社長・郡内伐出組合長・県坑木組合囎唹支部長・県平木組合長に就任した。
澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889… 澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889年(明治22年)5月17日 - 1949年(昭和24年)4月15日)は日本の声楽家、音楽教育者、合唱指揮者、作曲家。日本の洋楽界のパイオニアとして重要な役割を果たした。 和歌山県有田市出身。1912年(明治45年)東京音楽学校声楽科卒。アウグスト・ユンケル、ハンカ・ペツォルトに師事。同年の卒業生には、声楽:中島かね・梁田貞、ピアノ:中山晋平・服部駟郎次、ヴァイオリン:多基永などがいる。 テノール歌手として、日本で最初の四重唱団「澤崎クヮルテット」名義の演奏記録もある(ソプラノ:武岡鶴代、アルト:柳兼子、テノール:澤崎、バス:矢田部勁吉)。
伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 19… 伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 1948年11月23日)は日本の書家。本名は宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 和歌山県和歌山市に生まれる。 1891年(明治24年)、2歳で漢学者南海鐵山に入門し、1892年(明治25年)、3歳で元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという。 1894年(明治27年)、5歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与される。 1895年(明治28年)2月13日、5歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった。
北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - … 北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - 1945年2月13日)は、下川凹天、幸内純一と並び称せられる「日本初のアニメーション作家」のひとりである。水彩画家、雑誌編集者、そして同時代の若い画家たちを支援した人物でもあった。日本水彩画会大阪支部代表、日本洋画協会を設立し美術雑誌を発刊、展覧会開催を行った。美術の世界を離れたあと、アニメの世界に転向、北山映画製作所を設立した。 1888年(明治21年)3月3日、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現在の同県和歌山市住吉町)に生まれる。父・清兵衛(1841年 - 1892年)、母・かつ乃(1854年 - 1937年)の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、1903年(明治36年)4月12日、家督を相続する。
木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5… 木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5日 - 1969年(昭和44年)10月26日)は、日本陸軍の軍人。陸士20期、陸大29期(優等)。栄典は従三位勲一等。最終階級は陸軍中将。 旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。 1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。
千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月1… 千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月15日 - 1965年(昭和40年))は日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍少佐。西本組(後の三井建設、現三井住友建設)社長。 和歌山県那賀郡粉河町(現紀の川市)出身。1905年(明治38年)海軍兵学校入学、1908年(明治41年)卒業(36期)。結婚後に西本組に入社して本店勤務、京城支店長。 1933年(昭和8年)12月27日、朝鮮土木談合事件において京城地方法院から詐欺で懲役1年の実刑判決。1936年(昭和11年)2月17日、京城高等法院は上告棄却、確定。これにより後備役海軍少佐を失官、正六位を失位、勲四等及び大正三四年従軍記章/大正三年乃至九年戦役従軍記章戦捷記章、大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された。
玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 -… 玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 - 1961年4月7日)は、日本の政治家、実業家。玉置綿布社長。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1886年8月11日、和歌山県名草郡内海村(内海町を経て現海南市)で吉田万右衛門の三男として生まれる。和歌山中学校修業。1902年に渡米し、1909年まで南カリフォルニア大学で政治経済学を学んだ。 帰国後、玉置きくのの養子となり、玉置綿布工業社を創立し、事業を拡大して1919年には株式会社組織に改組して社長となる。和歌山県織物同業組合長、和歌山県織物工業組合理事長、日本綿織物工業組合連合会理事を務めて業界の発展に貢献する傍ら、南海瓦斯興業株式会社監査役、内海紡績株式会社常務取締役、玉置綿布染工株式会社社長、昭南工業株式会社社長を兼ねて地元の実業界にも貢献した。
鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2… 鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2月15日 - 1960年(昭和35年)3月14日)は、日本の官僚、政治家。第8代和歌山市長。 1886年(明治19年)2月15日、岡崎定治郎の次男として和歌山県西牟婁郡宇津木村(のち白浜町宇津木)で生まれ、後に西牟婁郡万呂村大字下万呂(現:田辺市下万呂)の鈴木まさゑと結婚して改姓。和歌山県立田辺中学校卒業後、1911年(明治44年)4月に西牟婁郡書記となり、1918年(大正7年)には和歌山県属に昇進したが、在任中の手腕が認められて内務属となり中央官界で活躍。 1926年(大正15年)10月、京都市の課長に就任し、累進して中京区長となって5年間務めた後、1938年(昭和13年)に和歌山市助役に迎えられた。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月1… 平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月16日 - 1975年(昭和50年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 和歌山県出身。平田健司の四男として生れる。和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍砲兵少尉に任官し野砲兵第4連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍砲工学校高等科(第17期)を卒業。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1917年(大正6年)8月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第4連隊中隊長に就任。以後、陸士教官、舞鶴要塞参謀、第1師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官、野砲兵第1連隊大隊長、同連隊付、東京湾要塞参謀、第1師団参謀などを務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第20連隊長に就任した。
有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日… 有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日 - 1951年(昭和26年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。神野介寿の二男として生れ、有馬良橘の養子となる。東京府立第一中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍大学校(乙種)、海軍砲術学校高等科を卒業。「安芸」「摂津」の各分隊長、練習艦隊・第2艦隊の各参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、佐世保鎮守府参謀、ロシア駐在、兼ロシア大使館付武官補佐官、軍令部兼参謀(ペテルブルク、ストックホルム、オデッサ、パリ各駐在)、第2戦隊参謀、「春日」副長、横須賀鎮守府付、皇族(伏見宮博恭王)付武官、軍令部参謀(第3班第6課長)、「木曾」「古鷹」の各艦長、舞鶴要港部参謀長、ソ連大使館付武官などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)1… 須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)12月13日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は明治から大正期の作曲家。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)谷王子出身。和歌山中学卒業の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)甲種師範科入学。途中2年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員を務めたのち、復学し、明治44年に卒業した。翌年、竹久夢二作詞の『宵待草』のモデルとなった長谷川カタ(賢)と結婚し、東京市十思小学校で訓導をつとめた。 音楽教諭として、鹿児島師範学校、旧制鹿児島一中、京都師範学校、同女子師範、桃山高女、滋賀女子師範、大津高女 彦根高等女学校に赴任。戦中は一時、中島飛行機半田製作所に勤務し、戦後、半田高等女学校(のち半田高校)で音楽を教えた。