井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3… 井上 義夫(いのうえ よしお、1896年〈明治29年〉9月3日 - 1956年〈昭和31年〉6月7日)は、日本の政治家、岡山県津山市長(1期)。 岡山県東南条郡林田村(のち苫田郡林田村→津山東町、現・津山市)生まれ。旧制岡山県立津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)卒。林田村役場に入り、収入役となり、1923年の津山東町発足後は、同町助役となる。1929年、合併により、津山市役所勤務。同市収入役、助役を経て、1955年、津山市長に当選。 市長に就任した年は岡山県は農業県から工業県への転換や町村行財政近代化による町村合併(昭和の大合併)の推進など激しい変動期に当たった。これらは国内市場の拡大や後進地域の経済振興といった高度経済成長政策に見合うものだった。
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8… 福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長。位階は正四位。 農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務する。 1923年11月、帝都復興院属に転じ、以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任した。
蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 198… 蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 1988年7月6日)は、日本の社会学者。 岡山県後月郡西江原村(現井原市西江原町)出身。興譲館中学校、第六高等学校を経て、1920年東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修卒。文部省嘱託を経て、1935年九州帝国大学教授、1947年「分科社会学」で東京大学文学博士。1948年大阪大学教授、1960年定年退官、名誉教授、関西学院大学教授、1967年追手門学院大学教授。教育社会学から出発して、後に社会学理論の研究に進み、日本思想や東洋思想をふまえた独自の理論体系を構築した。
長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5… 長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5月21日 - 1977年〈昭和52年〉2月10日)は、昭和時代の政治家。実業家。山口県徳山市長。 1912年(明治45年)3月、岡山商業学校卒業。1940年(昭和15年)4月、東亜窯業会社技師長を経て、1942年(昭和17年)11月に小野田耐火工業社長を務めたのち、1947年(昭和22年)4月に徳山市の初代公選市長に当選した。 幹線道路の幅を36メートルに広げるなど当時としては桁外れな土地区画整理事業により猛烈な反対運動が生じたが、戦災復興およびのちの徳山市の発展の基礎固めとなる施策であった。ほか、公共的建物の統合配置による官公街の形成や公園緑地の適正配置による都市の美観を図ることを目指した。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明… 金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明治29年)3月12日 - 1944年(昭和19年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 岡山県和気郡備前町出身。貧しい農家に生まれる。貧農の家に育った金光は非常に勉強好きな少年で近所の人から”二宮金次郎”と呼ばれていた。学校の成績はとびぬけていたが、家が貧しいので高等小学校卒業後に上級学校へは進めなかった。 20歳のとき、金光は徴兵検査を受け、現役兵として、1916年(大正5年)12月、野砲兵第10連隊に入隊した。勉強家であった金光はそこで伍長、軍曹と進級し、少尉候補者の試験を受け合格し、1926年(大正15年)12月に陸軍士官学校に入学。
田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月1… 田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月10日 - 1976年〈昭和51年〉2月1日)は、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)出身の日本の書家。本名は英市。 それまで細字に限られていた仮名(かな)の表現範囲を広め現代仮名書壇の基礎を築いた。 1896年(明治29年)2月10日、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)に生まれる。1922年(大正11年)、大阪貿易語学校を卒業。1924年(大正13年)、28歳で川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で古筆を習得した。この時期、相沢春洋、田中親美らと親交を持った。 1931年(昭和6年)、第2回泰東書道院書道展にて特選を受賞、この後3回連続の特選となる。
加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 197… 加藤 猛夫(かとう たけお、1896年1月31日 - 1976年1月21日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 岡山県倉敷市出身。別名・東知。1922年東京帝国大学文学部英文科卒。1949年「十七世紀英国社会思想の史的考察」で法政大学文学博士。1924年日本大学教授、東洋大学教授、法政大学教授、1951年お茶の水女子大学教授、1955年大阪大学文学部教授、1959年定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授、南山大学教授。
金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月… 金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 - 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の名門である金重家に生まれ、備前の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。 江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。また、漂泊の日本画家の杉本白象は、自らを「金重陶陽の従兄にあたる」と、昭和42年にパトロンに送った作品に付けた手紙に記している。
小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、… 小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、日本の発明家。 岡山県上道郡西大寺町(現・岡山市東区)出身。1914年(大正3年)に岡山県立工業学校機械科を優等で卒業した。その後、三菱造船株式会社神戸造船所に入り、1920年(大正9年)に技師となった。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞している。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2… 守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2日 - 1943年(昭和18年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。 岡山県出身。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 19… 小出 廉二(こいで れんじ、1895年10月11日 - 1994年12月14日)は、日本の法学者で、教育者。明治大学法学部の部長を務めた後、明治大学学長を勤めた。岡山県新見市出身。 生誕地は新見市中心部より約4km北に離れた地で、幼少期は中心部にある小学校まで毎日徒歩で通学したという。また農閑期に演じられる備中神楽を愛好し、自身も演じるに至った。 旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、縁戚の者の家に下宿して通学した。中学卒業後は旧制第一高等学校に進学した。一高進学の理由について、小出自身は小学校OBで進学した先輩からの影響と語っているほか、教え子の一人は小出の入学前に一高校長を務めていた新渡戸稲造への憧れがあったと記している。
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 … 額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 医師・額田篤太の三男として生れる。岡山一中、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第54連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 歩兵第40連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、陸軍歩兵学校教官などを歴任。1936年(昭和11年)12月、陸軍省人事局課員となり、人事局補任課長、独立歩兵第11連隊長、陸士生徒隊長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進した。
木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年… 木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年(明治28年)9月1日 - 1969年(昭和44年)11月26日)は、昭和時代の彫刻家。烏城彫(うじょうぼり)の創始者で、昭和天皇に作品を2度献上したほか、身体障害者の自立更生事業としてその製作指導に当たった。 岡山県下道郡久代村大字山口(現・総社市久代)に生まれる。久代尋常高等小学校卒業後、両親を手伝い農業に従事する一方で華道・茶道および尺八を稽古していた。1912年(大正8年)に調律師として働き始めるが、趣味の華道や茶道で使用する道具を彫り作るうちに木彫に傾倒して彫刻家に転職し、1927年(昭和2年)には自分の作品に岡山城の別称である「烏城」を付けて「烏城彫」と命名して宗家を称し、1940年(昭和15年)に烏城彫研究所を岡山市丸亀町に開所する。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月2… 池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月22日 - 1920年〈大正9年〉1月18日)は、日本の華族(侯爵)。旧岡山藩池田家第14代当主。 父は池田詮政。母は久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王。26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため、弟の政鈞(後に宣政と改名)が家督を相続した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1… 生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1964年〈昭和39年〉12月2日)は、活動弁士、俳優である。本名は生駒 悦(読み不明)。東京浅草を中心に高い人気を得た。 1895年(明治28年)4月1日、岡山県 真島郡落合村大字垂水(現在の同県真庭市落合垂水)で運送業を営む、若狭屋生駒宗平の長男・悦として生まれる。 1912年(明治45年)、旧制・岡山県立商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業、役場につとめるが、退職して上京し、早稲田大学に入学した。やがて中退、伊井蓉峰門下から日活(1912年設立)の「活動写真弁士養成所」で弁士の技術を学んだ。 1916年(大正5年)、満21歳のころ、浅草の帝国館で公開されたユニバーサル映画の一連のブルーバード映画作品が大ヒットし、生駒の解説の功とされた。
多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日… 多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日 - 1951年(昭和26年)7月14日)は、日本の歯科医師であり教育者である。東京女子歯科医学専門学校(現:神奈川歯科大学)教授。岡山県津山市出身。 1895年(明治28年)に岡山県勝田郡勝加茂村(現:津山市)の多胡又次郎の三男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)に同校を卒業し、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)へ進学。1919年(大正8年)東京歯科医専を卒業し、24歳で直ちに同校の助手となる。 東京歯科医専の助手として勤務していたが、1921年(大正10年)12月に離職して、渡米する。
山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2… 山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2日 - 1965年〈昭和40年〉5月13日)は、大日本帝国陸軍の法務高等官二等であり法務少将である。二・二六事件、ノモンハン事件の裁判官。岡山県倉敷市出身。 1895年(明治28年)に岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市)に生れる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を1913年(大正2年)に卒業し、1915年(大正4年)旧制第六高等学校へ進学。同期には、東京帝国大学教授になる宇野弘蔵、関西大学教授になる高木益郎などがいた。1918年(大正7年)同校を卒業し、同年、郷里の同期である高木益郎と共に、京都帝国大学法学部へ進学する。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961… 小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961年)は、日本の洋画家。岡山県倉敷市出身。酒仙と呼ばれるほどの酒好きとして知られ、岡山県内の飲み屋において喜一郎が飲み中に描いた色紙が飾られている店も少なくない。 1895年、倉敷市の酒屋・久平の息子として、久平ら両親が高知県滞在中に生まれる。幼い頃より画家を目指し沙美高等小学校卒業後、東京の美術大学へ行く金を貯める為、1916年に上京。巣鴨の郵便局で配達員として働く傍ら、絵の勉強に勤しんだ。当時この界隈は「池袋モンパルナス」の名の通り画家の卵がたむろしていた場所で、中でも喜一郎は三岸好太郎と交流を深めており、一緒に住んでいたこともある。
平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1… 平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1973年12月7日)は、歌人。 岡山県吉野郡讃甘村(現・美作市)出身。旧姓・井波。若山牧水に師事。日本ペンクラブ会員で再建当初から尽力した。「創作」復刊後から選者として活躍、関西で「みなかみ会」「三土会」を主宰。歌集「象刻集」「留年」など12冊。1957年日本歌人クラブ推薦歌集(第3回)「象刻集」。大阪市・道頓堀の法善寺横丁に、織田作之助文学碑と並んで歌碑がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27… 原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27年)11月24日 - 1975年(昭和50年)12月17日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院副議長。本名は彪之助。 岡山県小田郡金浦村(現・笠岡市)に生まれる。岡山一中、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。その後は文部省嘱託、鉄道省鉄道講習所講師、明治大学講師を経て、1928年法政大学教授に就任。政治学・政治史を講じていた。 学生時代より社会主義に共鳴し、1924年安部磯雄らと社会主義研究団体「日本フェビアン協会」を結成する。以後安部に付き従い、1932年安部を委員長とする社会大衆党が結成されると原も入党し中央執行委員になる。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。
片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月… 片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、日本の大正・昭和前期における小説家。「鉄平」と表記されることもある。 岡山県苫田郡芳野村(現・鏡野町)に生まれる。 津山中学の同級生に矢野峰人、中山巍らがいる。中学校卒業後、第六高等学校受験に失敗、自殺を企てた。上京し、慶應義塾大学仏文科に進学したが、出席日数が不足したため中退、一時帰郷。様々な職を転々としながら小説を書き始め、各雑誌・出版社に投稿を行う。1921年『舌』などを書いて文壇に出る。山陽新報、大阪朝日新聞社、大阪時事新報の記者を務める。 1924年(大正13年)、横光利一や川端康成らと文学雑誌「文芸時代」を創刊し、創作活動のみならず評論活動や翻訳活動にも手を付けた。
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 … 花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。奉天特務機関員として柳条湖事件(満洲事変)に関与したとされ、太平洋戦争では第55師団長としてビルマ戦線で作戦を指揮した。人物・指揮ぶりの評価は一様ではなく、統率の強硬さを問題視する見解と、作戦指揮を評価する見解が併存している。 岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉1… 大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉10月6日 - 1987年〈昭和62年〉10月16日)は日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、A級戦犯松井石根の補佐弁護人。第二次世界大戦後に法務庁(現:法務省)の初代人権擁護局局長を務めた。日弁連副会長、国際法曹協会会長などを歴任。岡山県笠岡市出身。 1893年(明治26年)岡山県浅口郡大島村(現:笠岡市)に生まれる。1907年、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期には、京大医学部名誉教授となる井上硬や、キリスト教伝導師の松田壽比古がいた。同校を卒業し、1912年(大正元年)第六高等学校文科甲類に進学、その後、1914年(大正3年)に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学へ進学した。
東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25… 東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1967年〈昭和42年〉10月11日)は石川県出身の飛行家。1930年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を敢行した。 石川県羽咋郡南大海村字中沼(かほく市中沼)で東長松・八重夫妻の二男として生まれる。母の実家がある一ノ宮村へ移住。伯父・義学が住職を務める西教寺に預けられ、従兄の義圓と共に育った。1908年(明治41年)春に羽咋高等小学校を卒業。同年8月、満14歳で一ノ宮村役場の給仕として働き始めたが、翌1909年に事業家を夢見て朝鮮半島の馬山浦新同洞へと渡る。そこで学問の必要性を感じた善作は2年ほどで日本に戻り、1912年(大正元年)京都中学校の4年に編入。
久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月… 久留間 鮫造(くるま さめぞう、1893年(明治26年)9月24日 - 1982年(昭和57年)10月20日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授・法政大学大原社会問題研究所所長。専攻はマルクス経済学であり、『マルクス経済学レキシコン』の編者として有名。立教大学名誉教授の久留間健は彼の子である。 岡山県岡山市に紙問屋の長男として生まれる。家業を継いで欲しいという親の願いに反し、岡山県立岡山中学校、第六高等学校から東京帝国大学法科大学経済学科に入学、1か月後に政治学科に転科。病気による1年の休学をはさんで卒業。ゼミには参加していない。 1918年、住友銀行に入行するが、自分のやりたい仕事ではないと感じ(久留間は学問をしたい、また世の中のためになること、国家のためになることをしたいと考えていた)、また米騒動における労働者階級の力に衝撃を受け、銀行にはいられないと、3か月余りで退行。
土師 清二(はじ せいじ、1893年〈明治26年〉9月14日… 土師 清二(はじ せいじ、1893年〈明治26年〉9月14日 - 1977年〈昭和52年〉2月4日)は、日本の小説家。本名・赤松静太(あかまつ せいた)。代表作は『砂絵呪縛(すなえしばり)』。 岡山県邑久郡国府村(現在の瀬戸内市)生まれ。独学ののち職業を転々とし、大阪朝日新聞社に勤務。1922年『旬刊朝日』(のちの『週刊朝日』)創刊を提案し、編集に当たるが、1923年「水野十郎左衛門」を連載、以後時代小説作家として活躍、長谷川伸の新鷹会に協力し新進作家の育成に当たった。 1938年(昭和13年)9月、作家によるペン部隊が結成されて大陸に渡り始めると、土師も海軍に従軍願いを提出。同年10月までに他の大衆作家や映画監督とともに従軍が認められた。
滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24… 中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24日 - 1978年(昭和53年)5月19日)は、岡山県出身の日本の洋画家。 1893年(明治26年)8月24日、第8代岡山市長中山寛の四男として岡山県岡山市に生まれる。 1900年(明治33年)4月、岡山師範学校附属小学校入学。在学中、中堀愛作に啓発されて水彩画を描くようになる。 1900年(明治33年)、附属小学校を卒業し岡山県立津山中学校(旧制中学校)に進学。同級生に金田廉、矢野峰人、片岡鉄兵が居た。中学在学中に水彩画から油絵に移行。 1907年(明治40年)、奈良県で開かれた大下藤次郎の水彩画夏期講習会に最年少参加者として参加。翌1908年(明治41年)にも鎌倉で開かれた大下藤次郎水彩画夏期講習会へ参加している。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
大賀 悳二(おおが とくじ、1893年7月1日-1964年2… 大賀 悳二(おおが とくじ、1893年7月1日-1964年2月24日)は、日本の工学者。専門は機械工学。特に、蒸気タービンの研究や伝熱工学理論で知られた。位階は正三位。室蘭工業大学元学長。北海道大学名誉教授。日本学術会議会員。岡山県出身。「大賀徳二」とも表記される。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1918年東京帝国大学工科大学機械工学科卒業。浅野造船所に入社。1922年文部省在外研究員としてアメリカやヨーロッパを留学。1925年北海道帝国大学工学部教授(原動機第一講座担当)。1952年北海道大学工学部長・同大学院工学研究科長。1956年北海道大学停年退官。
国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2… 国府 清山(こくふ せいざん、明治26年(1893年)6月2日 - 昭和11年(1936年)8月3日)は、日本画家。 1893年、「北国府屋」の多三郎・千与の長男として岡山県総社南本町で生まれた。本名は宗一。 絵を描くのが好きだった宗一は、申義小学校(現、総社小学校)を卒業後、服部村深町(現、総社市深町)の中島雲哉の許へ入門し、南画の画法を学んだ。25歳の時に雲哉のすすめにより名古屋に出て矢吹璋雲の弟子となり、璋泉と号して8年にわたって修業する。 大正3年(1914年)に帰郷して、天童と号し画業に励んだ。大正6年(1917年)正恵と結婚、やがて清山と改号した。 大正末年頃、清山は松尾華作翁と語らい、近郷の同好者数十名を集めて「杉風社」を結成し、近くの宝満寺を借りて作画の指導にあたった。
藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1… 藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1990年1月15日)は、岡山県生まれの書家。「和漢書道史」「書源(新書道字典)」の編纂者。青龍寺の「空海記念碑」を揮毫。本名は茂(しげる)、鶴来は号。 岡山県玉野市に生まれる。岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)で大原桂南に学び、丹羽海鶴、鈴木翠軒、加藤飯山に師事。比田井天来、松田南溟に益を受ける。 岡山第一中学校の教員を経て、香川師範学校教諭となる。戦後香川大学教育学部教授となり後進の育成につとめる。書道の歴史解説書「和漢書道史」、名跡筆法の字典「書源(新書道字典)」を編纂。中国陝西省西安市青龍寺の「空海記念碑」を揮毫する。 1986年文部大臣より「地域文化功労者」として表彰される。
宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月… 宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月14日 - 1974年(昭和49年)2月27日)は、大正から昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。屏東市尹、高雄市尹。北海道函館市長。 岡山県久米郡吉岡村(現在の美咲町)出身。1914年(大正3年)から兵庫県で巡査、巡査部長、警部を歴任。1924年(大正13年)に台湾に渡り、警務局勤務、文教局属、新竹市助役、豊原郡守を歴任。1936年(昭和11年)、屏東市尹に就任し、翌年に高雄市尹に転じた。 退官後、台湾製糖株式会社企画部長、同総務部長、高雄州会議員、屏東商業会議所会頭などを務めた。 戦後は函館市助役を経て、坂本森一の急逝をうけて1947年(昭和22年)に市長に選出された。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月… 中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月25日 - 昭和33年(1958年)11月13日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。帝国キネマ創立期の大監督であり、独立後は奈良に撮影所を開き、牧野省三、直木三十五、実川延松、阪東妻三郎、志波西果らと共闘し、自社製作のほか、同撮影所を「貸しスタジオ」として経営した。本名中川 四平(なかがわ しへい)。 1892年(明治25年)11月25日、岡山県川上郡東成羽村(現在の高梁市成羽町)に生まれる。戦国時代の武将・中川清秀の子孫であり、父・増治郎は川上郡落合村の村長、川上郡の郡長を歴任した。旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を1910年に卒業、旧制第六高等学校に進学、在学中に同校「北寮」の寮歌を作詞した。
土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月… 土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月6日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。旧姓・八木。 岡山県西西条郡西苫田村上河原(現津山市上河原)出身。八木喜次郎の五男として生まれ、津山市一宮、叔父・土居弥之助の養子となる。津山中学校 、第六高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山口県属となる。 以後、山口県警視、1923年(大正12年)4月奈良県理事官、愛知県理事官、1927年(昭和2年)2月に欧米出張を命ぜられ1929年(昭和4年)1月に帰朝し、山口県学務部長、内務省社会局事務官、同書記官、岐阜県書記官・警察部長、青森県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、福岡県書記官・経済部長、大阪府経済部長兼大阪府工業奨励館長などを歴任。