池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年1… 池 清(いけ きよし、1895年6月10日 - 1952年10月17日)は、朝鮮総督府官僚。徳山市(現・周南市)市長。 山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)出身。1917年、逓信官吏練習所卒。朝鮮総督府逓信局に勤務する。1925年に高等試験行政科に合格した後、朝鮮総督府逓信局副事務官、京城貯金管理所主計課長、朝鮮総督府逓信事務官、逓信局庶務課長、高等海員審判所理事官、新義州税関長などを経て、朝鮮総督府農林局林政課長兼土地改良課長から平壌府尹に勤務し、終戦を迎えた。日本に引揚げた後の1947年、徳山市助役に就任した。 1951年の徳山市長選挙に立候補。池は「市政の刷新」「健全財政化」「産業の振興と工場誘致」「学校の建設と充実」などを公約に激しい選挙戦を制して当選、市長に就任した。
三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 198… 三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は、日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広。 1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する。また、祖父の勧めから江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ。1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した。
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月… 中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。宇部興産株式会社(現:UBE株式会社)会長、経済団体連合会常任理事、日本経営者団体連盟常任理事、経済企画庁経済審議会専門委員、産業機械統制会理事技術部長。 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12… 赤松 克麿(あかまつ かつまろ、1894年(明治27年)12月4日 - 1955年(昭和30年)12月13日)は、大正・昭和時代の社会主義運動家で、その後左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた。衆議院議員。
青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月2… 青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月21日 - 1982年(昭和57年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。岩国中学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1919年(大正8年)5月、操縦術を修了し、同年12月、航空第2大隊付となる。航空第3大隊付を経て航空第3大隊中隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵大尉となる。以後、明野陸軍飛行学校教官、陸軍航空本部員、第2飛行集団司令部員、同参謀、飛行第33戦隊長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に昇進した。
安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日… 安倍 源基(あべ げんき、1894年〈明治27年〉2月14日 - 1989年〈平成元年〉10月6日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。山口県出身。 1894年(明治27年)、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男。 山口県立山口中学校、山口県立徳山中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。 1920年、東京帝国大学法学部法律学科卒業、内務省入省(警保局配属)。 1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党スパイ査問事件を通じて「赤狩り安倍」の名 が付いた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。
重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月… 重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日)は、日本の政治家、実業家。 参議院議長(第8-10代)、参議院副議長(第4代)、運輸大臣(第24代)を歴任。 山口県岩国市出身。1912年(明治45年)3月、東京高等工業学校附属工業補習学校(現東工大附属高専攻科)を卒業して兄重宗芳水が創業した明電舎に入社、1938年(昭和13年)社長。1946年(昭和21年)8月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。同郷の岸信介、佐藤栄作兄弟に懇請される形で1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選する。
河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 19… 河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 1979年1月4日)は、日本の法学者、裁判官。
石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1… 石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1日 - 1964年(昭和39年)12月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称不規弾。
山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年)… 山名 正太郎(やまな しょうたろう、1894年(明治27年) - 1992年)は、日本の新聞記者。文筆家。 山口県山口市生まれ。学歴不詳。1919年大阪朝日新聞社入社、名古屋支局長、大阪社会部長、日本海新聞社役員兼編集局長、都新聞事業部長、大阪府嘱託(青少年問題協議会)、朝日新聞客員。
伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 19… 伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 1976年10月1日)は、日本の蚕糸学者。上田繊維専門学校の校長、信州大学の学長を務めた。農学博士。山口県岩国市出身。 絹のタンパク質の物理化学的研究で知られ、絹糸を構成するフィブロインおよびセリシンについて、そのアミノ酸組成を解明し、「農芸化学会誌」に発表した。
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3… 児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日 - 1960年5月23日)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年… 山根 キク(やまね きく、1893年6月1日 - 1965年4月23日)は、日本の考古学、歴史学の女性ジャーナリスト、社会活動家、政治家。「竹内文書」から強く影響を受けており、キリストやモーセの墓が日本にあると主張した。本名は山根 菊子(やまね きくこ)。 山根は「竹内文書」から強く影響を受けており、キリスト教に関してエキセントリックな個人的見解を発表した。キリストは処刑されておらず、死んだのは弟で、キリストは日本に来て、日本の女性と結婚し娘をもうけたと主張した。そして山野を歩き回っては、キリストの墓やモーセの墓を「発見」し、キリスト教を日本化しようとした。山根は『光りは東方より』で、「キリストの遺言状」を知っていると述べ、石川県押水町の通称・三ツ子塚という古墳をモーゼの墓であると主張した。
斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月… 西元 坂一(にしもと さかいち、1893年(明治26年)3月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県大島郡和田村(東和町を経て現周防大島町)に生まれる。1915年(大正4年)8月、府殖産局林業講習を修了後、同局営林所に奉職し、1919年(大正8年)8月、嘉義庁林務手に転じ、澎湖庁技手となった。ついで高雄州技手を経て、1925年(大正14年)1月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任し、のち台中州豊原郡守に転じた。
岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12… 岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12月18日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の英語学者・辞書編纂者。東京外国語大学名誉教授。 1892年、山口県都濃郡富田村(現:周南市)で生まれた。1910年、山口県立徳山中学校(現:山口県立徳山高等学校)を卒業。東京外国語学校に進学し、1913年に卒業。 卒業後は東京府立第四中学校教諭となったが、再び東京帝国大学に入学し、1922年に卒業。 1922年、東京外国語学校(のちの東京外国語大学)教授に就いた。1932年刊行の岡倉由三郎編『新英和大辞典(初版)』(研究社)の改訂にあたり、中心となって作業に当たった。続いて1941年刊行の『簡約英和辞典』(研究社)を編纂。
藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)1… 藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)11月1日 - 1969年(昭和44年)10月29日)は、日本の弁護士、裁判官。公安調査庁初代長官。 山口県下関市出身。藤井啓一の長男。豊浦中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所判事となり、裁判長として河上肇の治安維持法違反事件では実刑を、血盟団事件では温情判決を、帝人事件では全員無罪を言い渡した。その後大審院判事。戦後は弁護士を経て、1952年、公安調査庁の初代長官となる(~1962年)。1969年10月29日死去、76歳。
中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月… 中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月23日 - 1965年(昭和40年)9月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。中島と表記する事例がある。 山口県玖珂郡川越村(周東町を経て現岩国市周東町)で、中嶋佐吉の長男として生まれる。小学校を卒業した。 下関唐戸乾物商業組合理事、日満大豆製粉工業取締役社長、中嶋重石鉱業取締役社長、日満食品工業取締役社長、仁田鉱山取締役などを務めた。 政界では、下関市会議員に選出され、同副議長も務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で山口県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、民主党山口県支部長などを務めた。
久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9… 久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9月20日 - 1965年(昭和40年)7月31日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・山本。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)で山本家に生まれ、久芳安之進の養子となる。1912年(明治45年)山口県師範学校を卒業した。 その後、山口県視学、公立国民学校訓導、同校長、萩市青年団長、萩市女子青年団長、山口県青年学校教育会理事長、日本体育会山口県支部評議員、日本教育会山口県支部国民学校教育部会長、光市島田農業協同組合長などを務めた。山口市内の小学校で教員として勤務していた大正時代後期には、山口県阿武郡を拠点とする教育実践グループ「更新会」に所属し、機関紙「更新」においてエッセイを寄稿するなど活動に参画していた。
栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 194… 栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 1945年7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。山口中学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。 1927年(昭和2年)3月、新潟中学校配属将校となり、歩兵第16連隊中隊長、歩兵第15旅団副官などを経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍少佐に昇進し陸軍歩兵学校副官となる。同校教官、第3師団参謀、第5独立守備隊参謀などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍大佐に進み豊橋陸軍予備士官学校歩兵生徒隊長に就任。1941年(昭和16年)3月、歩兵第220連隊長となり日中戦争、太平洋戦争に出征。
鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 19… 鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 1969年1月28日)は、日本の伝記作家、小説家。作家評伝家。 山口県岩国市生まれ。神戸中央神学校卒業。1915年宇野千代らと回覧雑誌を作る。 トルストイ、プルードンに影響を受け、農民文芸会の機関誌『農民』を拠点に、無政府主義的重農主義を展開。また賀川豊彦に師事しキリスト教、親鸞などに傾倒した。 明治期作家評伝も書き、新島襄の著作の編集も行う。 戦後は一般向け実用書なども執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月2… 田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。 山口県山口市嘉川(旧嘉川村)の本間家の三男に生まれる。 旧制山口中学校を卒業。1913年(大正2年)12月海軍兵学校41期卒。生粋の駆逐艦乗りで、水雷屋としてキャリアを重ねた。 第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務に従事している。 第一次世界大戦後の1920年11月、山口県の田中家へ入籍し姓が田中となる。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月15日、五藤存知少将の後任として第二水雷戦隊司令官となる。そのまま日米開戦を迎え、南方作戦・蘭印作戦に従事。
中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 19… 中原 義正(なかはら よしまさ、1892年4月3日 - 1944年2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。日本海軍の著名な南進論者であった。 山口県美祢郡美東町太田出身。農業・中原吉蔵の三男として生れる。萩市の医師、平和主義者、宮原進の叔父にあたる。山口中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1920年12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、「第1潜水艦」長兼水雷学校教官、第1潜水戦隊参謀、練習艦隊参謀、「第37潜水艦」長心得などを歴任し、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業した。 「呂号第六十四潜水艦」長、アメリカ駐在、軍令部第1班第1課参謀、軍令部出仕(第1班)、ジュネーヴ出張、海軍省人事局第1課局員、軍令部第1部員、「名取」艦長、開戦時の御前会議に出席をした。
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月3… 野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月30日 - 1993年〈平成5年〉11月14日)は、日本の政治家、共産主義者。衆議院議員(3期)、参議院議員(4期)。コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記、議長、名誉議長などを務めたが、大粛清時代に同志の山本懸蔵らをNKVDに讒言密告して死刑に追いやっていたことが最晩年になって発覚し、日本共産党から除名された。初名は小野 参弎(おの さんぞう)。中国では岡野 進や林 哲とも称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。 山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。
宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1… 宮城 タマヨ(みやぎ タマヨ、1892年〈明治25年〉2月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月19日)は、日本の社会事業家、政治家。参議院議員。旧姓・植田。 山口県吉敷郡山口町(現山口市)で、植田久之丞の二女として生まれる。1914年3月、奈良女子高等師範学校博物家事部を卒業し、母校の助教諭となる。 1920年から1923年まで大原社会問題研究所で児童保護問題などを研究。1922年、旧少年法が制定されたことに伴い、同年、文部省・司法省嘱託としてアメリカ合衆国に渡り少年保護事業などを研究した。帰国後、東京少年審判所で日本初の婦人保護司に就任した。1927年、大審院検事・宮城長五郎と結婚したが、1942年に死別した。
羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 19… 羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 1980年7月12日)は、日本の経営者。太平鉱業社長。位階は正四位。 山口県萩市出身。1917年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に三菱合資会社鉱山部に入社。1918年4月に三菱鉱業に転じ、1946年11月に取締役に就任し、1950年4月に太平鉱業(のちの三菱金属鉱業)社長に就任。1956年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年7月12日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日… 津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村(現山口市)に生まれる。1909年(明治42年)3月、山口県立農業学校農科を卒業し、1910年(明治43年)3月、山口県農事試験場研究科を修了する。同年4月、宮野村農会技手兼書記を拝命し、11月、現役志願兵として入隊する。1915年(大正4年)2月、台湾総督府巡査となり、1918年(大正7年)府施行の普通文官試験に合格。嘉義庁警務課勤務、嘉義庁庶務課勤務、台南州斗六郡勤務、新化郡、曽文郡、嘉義郡各庶務課長、台南州地方課地方係長、同州文書課長を経て、1940年(昭和15年)3月、台南市助役に就任し、1941年(昭和16年)6月、台北州文山郡守に就任した。
山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正… 山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正鄕、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 山口県出身。山口県立徳山高等学校を経て1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を席次5番で卒業。伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、そして山県本人も含めたこの期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。 遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年… 林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年6月27日)は、日本の政治家。正五位勲四等、衆議院議員。 1890年(明治23年)8月1日、山口県にて、明治政府の地価調査事業に際し賀見畑村地主総代人として官命を果たした先代・福蔵の長男として生まれる。 2歳の時に福蔵の破産と、福蔵の弟である清輔一家の屯田兵家族としての移住に伴い父母に伴われて北海道上川郡当麻村(現 当麻町)に移住。1907年(明治40年)、17歳の時に日給45銭の同村役場臨時雇となり、後昇任して、1919年(大正8年)に28歳にして同村の村長となった。その後8年にわたり村長を務め、役場職員の時代を含めると20年にわたり村政に携わったこととなる。
亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1… 亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。山口県下関市出身。[要出典]鏑木清方門下。[要出典]本名五郎。[要出典] 帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。 度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月… 金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月25日 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。神職百済忠敬の二男として生れ、金沢家に養子に入った。山口中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。1918年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。「山城」分隊長、「樫」乗組、砲術学校教官などを経て、1923年10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。 その後、「比叡」副砲長、「浅間」砲術長、「多摩」砲術長、軍令部参謀を歴任し、1927年12月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介大臣に仕えた。
佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月2… 佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日 - 1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人、歴史家。海兵36期首席・海大18期首席。最終階級は海軍中将。 男3兄弟の長男で弟二人が内閣総理大臣(岸信介・佐藤栄作)を務めるという特異な家族構成である。さらに大甥(岸の孫)には第90・96・97・98代内閣総理大臣の安倍晋三がいる。 佐藤の遺品は、郷里である山口県熊毛郡田布施町の田布施町郷土館(外部リンク)に収蔵・展示されている。 山口県熊毛郡田布施町に、父・佐藤秀助、母・茂世の長男として生まれた。 東京府立第四中学校を経て、海軍兵学校36期(同期には南雲忠一がいる)に入校した。
木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 19… 木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 1964年4月22日)は、日本の牧師。学校法人関西学院理事長を歴任した。 1889年、山口県宇部市に生まれる。1908年、日本メソヂスト下関教会で高橋泰平牧師より受洗。関西学院神学部を卒業後、エモリー大学神学部、同大学院を修了。1926年、受按。呉、京城、大阪東部(現:東梅田教会)各教会の伝道・牧会に従事した後、大阪東部伝道局巡回教師となる。西宮教会(現:西宮公同教会)の牧師在任中、ランバス女学院神学部、聖和女子学院神学部、関西学院神学部の講師を務めた。1960年6月から1964年4月まで、関西学院理事長を務めた。
生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1… 生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1976年5月3日)は、日本の歌人、小説家。本名・調介。雑誌に初めて短歌欄を設けた人物である。 山口県豊浦郡長府町(現在の下関市)の田嶋家に生まれる。13歳で京都の叔父の養子となり、生田姓となる。早稲田大学英文科に入学。 1909年、博文館の社員となり、『講談雑誌』を出版した。この雑誌は、日本で初めて雑誌に短歌欄を設けたものだった。1916年、歌集『長旅』を刊行。 1924年には歌誌『吾妹(わぎも)』を創刊する。『聖火燃ゆ』などの小説や批評も発表した。 1976年5月3日没。行年88歳。戒名は皐月院芙氿泉光蝶歌聖禅居士。墓所は青山霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1… 豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1月5日 - 1979年(昭和54年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「豊島」と表記される場合がある。 山口県出身。農業・豊嶋鶴松の二男として生れる。防府中学校卒業を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第42連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業。 以後、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、陸軍省軍務局課員、フィリピン出張、欧州出張、歩兵第33連隊大隊長、整備局課員(統制課)、朝鮮軍司令部付などを経て、1934年3月、陸軍大佐に進級し歩兵第23連隊長に就任。
友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1… 友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1952年2月15日)は、日本の宗教家である。神道天行居の創設者として知られる。出生名は九吾。ほかに、天行、黙山、如甕、磐山などの別号も名乗った。 1888年(明治22年)10月9日、山口県吉敷郡井関村佐山(現:山口市)に生まれる。父は裕蔵・母はむめ。次男であった。出生名は九吾。友清家は、出入りの職人や端女がいる程度には生活に余裕があったが、1895年(明治28年)、歓真が8歳のとき父が急死したことにより、家運は転落した。当時の歓真は病弱な文学少年であり、家塚高志は、「幼時より病弱で大切に育てられたことと、父の急死で家計が一時に崩れたということ」が彼のパーソナリティ形成に影響を与えているのではないかと論じている。
古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月2… 古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1942年〈昭和17年〉12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県萩市長。 山口県美祢郡伊佐町伊佐(現・美祢市伊佐町伊佐)出身。学歴は不明。1909年(明治42年)、普通文官試験に合格。1914年(大正3年)6月、山口県属に任じ、1923年(大正12年)8月、岡山県属に転じる。1924年(大正13年)3月、島根県鹿足郡長に就任し、同年7月に地方事務官となり、島根県総務部庶務課長などを経て、1937年(昭和12年)7月24日、萩市長に就任した。1942年(昭和17年)12月29日、心臓麻痺により急逝、享年55歳。
伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月… 伊藤 三樹三(いとう みきぞう、1888年〈明治21年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月29日)は、山口県出身の政治家。衆議院議員、山口県会議長、徳地町長などを務めた。 山口県佐波郡柚野村(現・山口市)生まれ。1907年(明治40年)広島市の修道中学校(現:修道中学校・高等学校)卒業。柚野村長、佐波郡会議長、山口県会議員、山口県会副議長、山口県会議長、徳地町長を歴任した。1942年(昭和17年)4月30日の第21回衆議院議員総選挙に山口県2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、立候補し当選。衆議院議員を一期務めた。 戦後は公職追放となった。
村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971… 村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971年2月7日)は、日本の神学者、牧師、明治学院5代目院長。 村田沰冶の四男として山口県吉敷郡山口に生まれた。1911年6月明治学院神学部を卒業した。その後1912年9月に渡米してオーバン神学校(英語版)で学んだ。1916年に帰国し、大阪同志館神学校教授に就任した。1918年に母校の明治学院に来任し、翌年中学部長となる。しかし、1920年に起きた中学部同盟休校事件の責任をとり部長を辞任し、朝鮮の大邱教会牧師となった。 1925年に明治学院に戻り、神学部で基督教史を担当した。1930年の明治学院神学部廃止後日本神学校教授となり、1933年に同校校長となる。
田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)… 田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)8月21日 – 1952年(昭和27年)1月1日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、山口県会議長、山口県美祢郡大嶺村長、同大嶺町初代町長。 山口県美祢郡大嶺奥分村(大嶺村、大嶺町を経て現美祢市大嶺町奧分)で、素封家・田辺誠民と辰(小沢正路の四女)の長男として生まれる。1909年(明治42年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学)で学んだ。 郵便局長、大嶺酒造取締役社長、大嶺運送社長、秋吉洞自動車社長、有ノ木炭鉱社長、日本石灰工業所取締役社長、貯蔵食糧取締役社長、大嶺無煙炭礦取締役、山口県地方木材 (株) 理事、山口県山林会副会長、山口県耕地協会常務理事などを務めた。
加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6… 加藤 泊治郎(かとう はくじろう、1887年(明治20年)6月8日 - 1951年(昭和26年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓、三隅。 山口県出身。三隅熊五郎の五男として生れ、加藤家の養子となる。山口中学校を経て、明治43年(1910年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し、長崎重砲大隊付となる。大正5年(1916年)8月、兵科を憲兵科に移し憲兵中尉となり、憲兵練習所で学んだ。以後、名古屋憲兵、青島憲兵、豊橋憲兵、浜松憲兵、姫路憲兵、京都憲兵、台湾憲兵隊、牛込憲兵の各分隊長を歴任。昭和5年(1930年)8月、憲兵司令部員となり、さらに中国政府応聘、憲兵司令部第3課長、麹町憲兵分隊長、宇都宮・延吉・奉天の各憲兵隊長、関東憲兵隊司令部総務部長、東京憲兵隊長などを経て、昭和15年(1940年)8月、陸軍少将に進級した。
青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
仲木 貞一(なかぎ ていいち、1886年9月11日 - 19… 仲木 貞一(なかぎ ていいち、1886年9月11日 - 1954年4月28日)は、日本の劇作家、編集者である。 1886年(明治19年)9月11日、仲木之稙の子として、石川県に生まれる。山口県に転じ、旧制・山口県立徳山中学校(現在の山口県立徳山高等学校)を卒業後、上京し、早稲田大学英文科を卒業する。 1910年(明治43年)、24歳のころ、新聞『萬朝報』の懸賞戯曲に応募し、『世の終り』が1等当選した。読売新聞社に入社、同新聞の記者をつとめる傍ら、秋田雨雀らと『劇と詩』を創刊している。その後、芸術座に入るが、1919年(大正8年)には同劇団は島村抱月と松井須磨子の死により解散した。のちに新国劇に参加し、座付作家として『飛行曲』、女優・伊沢蘭奢の当たり役『マダムX』などの戯曲を発表、劇場運営にも関わった。
藤田 左弌郎(ふじた さいちろう、1886年 - 1976年… 藤田 左弌郎(ふじた さいちろう、1886年 - 1976年)は、日本の造園家、バハイ教徒。山口県柳井市出身。 カリフォルニア州オークランドのハイ・スクール在学中、1905年頃バハイ教徒となった。1912年には北アメリカを訪問中のアブドゥル・バハーと出会い、1919年にハイファに招かれ万国正義院の庭園設計造園を始めた。彼はその後、第二次世界大戦中に日本へ帰国した時期を除いて1976年に亡くなるまで、ハイファのバハイ教寺院の造園と庭園の整備維持を続けた。 イスラエルのハイファのバハイ世界センターにおいて、 アブドゥル・バハーやショーギ・エフェンディー、そして後に万国正義院のもとで長らく奉仕活動に携わった。
伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10… 高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10月16日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の海軍軍人、山口市長。最終階級は海軍大佐。 山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)出身。高木権次郎の二男として生まれ、高橋千代造の養子となった。1907年(明治40年)、海軍兵学校を卒業。1908年(昭和41年)、海軍少尉に任官し、1929年(昭和4年)に海軍大佐となった。その間、舞鶴鎮守府副官、大湊要港部副官、海軍軍令部員、菱艦長、海軍水雷学校教官、磐手副長、第7駆逐隊司令、第1駆逐隊司令、第29駆逐隊司令を歴任した。1931年(昭和6年)、予備役。 在郷軍人会山口連合分会副会長を経て、1935年(昭和10年)に山口市長に選出された。
石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 … 石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事、警視総監。 山口県都濃郡徳山村(徳山町、徳山市を経て現周南市)出身。石田清次の長男として生まれる。徳山中学、第五高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年12月、内務省に入り新潟県属となる。その後、新潟県理事官、福岡県視学官、東京府学務課長、青森県警察部長、内務省地方局府県課長、栃木県書記官・警察部長、岡山県書記官・内務部長、警視庁官房主事、警視庁保安部長、京都府内務部長などを歴任。 1929年(昭和4年)7月、宮崎県知事に就任。
田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 19… 田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 1963年11月23日)は、日本の地理学者。 山口県防府市生まれ。1906年山口県師範学校卒、1910年東京高等師範学校地理歴史部卒、鹿児島県女子師範学校教諭、1915年京都帝国大学文科大学史学科地理学卒、大学院をへて1916年同助手、1917年京都府立第三中学校講師、12月満鉄に入社、1923年彦根高等商業学校教授、27 - 29年文部省在外研究員としてドイツ国、米国、英国に滞在。32年文部省視学委員、1943年華北綜合調査研究所研究員、46年引き揚げ、1947年北海道第三師範学校講師、1949年北海道学芸大学教授、1952年大阪学芸大学教授。