斎賀 秀夫(齋賀 秀夫、さいが ひでお、1925年1月3日 … 斎賀 秀夫(齋賀 秀夫、さいが ひでお、1925年1月3日 - 2022年7月30日)は、日本の国語学者。位階は正五位。 大妻女子大学名誉教授、国立国語研究所名誉所員。 香川県生まれ。東京文理科大学国語国文科卒業。1948年国立国語研究所創立当初からの所員、大妻女子大学教授、1996年定年、名誉教授。東京成徳大学教授。文化庁国語審議会委員。 2022年7月30日、老衰のため死去。97歳没。死没日付をもって正五位に叙される。
川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年… 川畑 博(かわばた ひろし、1924年11月23日 - 没年不明)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)。 志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)へ入団する。入団年の1942年シーズンには、登板・先発登板・完投など巨人軍における球団最年少記録を数多く記録した。もともと捕手だったが、戦時中で人不足のため投手も兼任していた。巨人軍では1944年のシーズンに4番打者としての先発出場もあった。 1945年に軍に徴兵され、レイテ島戦線で戦った後、1946年に復員し、四国鉄道局、丸亀南海興業でプレーした後に1949年に大映スターズから球界へ復帰したが、戦争で肩を痛めたこともあり思うような成績を残せずに同年限りで現役を引退した。
横井 芳弘(よこい よしひろ、1924年11月18日 - 2… 横井 芳弘(よこい よしひろ、1924年11月18日 - 2007年7月12日)は、日本の法学者。労働法学者。学位は、法学博士。中央大学名誉教授。元日本労働法学会代表理事。香川県高松市出身、京城で育つ。 この他に、日本労働法学会代表理事(1982年~1984年)、早稲田大学法学部・神奈川大学法学部・一橋大学法学部・法政大学法学部の非常勤講師も務めた。 労働法全般を研究領域としていたが、特に労働協約、団結権論、争議行為を研究。 当時、中央大学には労働法の研究者がいなかった為、学外指導教授として吾妻光俊(一橋大学名誉教授)の薫陶を受けた。 『法学新報』101巻9号、1995年 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
阿部 貞市(あべ ていいち、1923年12月7日 - 201… 阿部 貞市(あべ ていいち、1923年12月7日 - 2016年10月21日)は、日本の実業家。元大気社社長。
稲垣 定雄(いながき さだお、1923年4月18日 - )は… 稲垣 定雄(いながき さだお、1923年4月18日 - )は、香川県出身の元プロ野球選手。
蓮井 良憲(はすい よしのり、1923年(大正12年)2月5… 蓮井 良憲(はすい よしのり、1923年(大正12年)2月5日 - 2019年(令和元年)9月26日[要出典])は、日本の法学者。専門は商法。九州大学教授、福岡大学教授を歴任。香川県出身。 九州地方鉱業協議会委員、福岡県水洗炭業審議会委員、福岡県消費生活審議会会長等を歴任。
三好 主(みよし ちから、1923年1月3日 - )は巨人に… 三好 主(みよし ちから、1923年1月3日 - )は巨人に在籍した元プロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。
藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 200… 藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 2007年12月23日)は、香川県出身のプロ野球選手(外野手)。
琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日… 琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日 - 1974年7月14日 )は、香川県観音寺市出身で二所ノ関部屋所属の大相撲力士。身長177cm、体重120kg。得意手は右四つ、寄り、とったり。最高位は東小結。現役引退後は佐渡ヶ嶽部屋を興し、横綱琴櫻たちを育てた。
小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5… 小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5日 - 1981年(昭和56年)11月8日)は、日本の実業家である。丸大食品の創業者として知られた。 香川県高松市に小森保とその妻のかずえの間に長男として生まれる。今宮第五尋常高等小学校卒業後、証券会社であった不破商店に勤務した。後に水産物加工業務に携わり、1954年(昭和29年)には大阪市内で魚肉ハム及びソーセージの工場の創設、経営に携わった。小森はその工場名を「丸大食品」と称し、1958年(昭和33年)に株式会社化された。 1961年(昭和36年)には、同社で製造されたハムやソーセージにおける独自の小売店への販売システムを導入し、パートタイム労働者への育成に貢献した。
西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日… 西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日 - 2001年8月23日)は、日本の陸上競技選手。 香川県丸亀市広島町出身。丸亀商業学校(現:丸亀城西高校)、中央大学卒。 1951年、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会十種競技で金メダルを獲得(記録:6324点)。1954年、フィリピンのマニラで開催された第2回アジア競技大会では銀メダルを獲得した(記録:5429点)。 日本陸上競技選手権大会では1950年から1953年まで四連覇を達成。 その後、母校の中央大学陸上競技部監督に就任し、東京箱根間往復大学駅伝競走で8回優勝した。 2001年8月23日、急性心不全のため死去。
白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 201… 白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 2015年4月19日)は、日本の裁判官、弁護士。元高松高等裁判所長官。元四天王寺大学学長。 香川県三豊郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1947年(昭和22年)高等文官試験司法科合格。1949年(昭和24年)高松地方裁判所判事補。1959年(昭和34年)大阪地方裁判所判事に任官。1974年(昭和49年)徳島地方裁判所・家庭裁判所所長、1976年(昭和51年)大阪高等裁判所総括判事、1978年(昭和53年)京都家庭裁判所所長、1980年(昭和55年)大阪家庭裁判所所長を歴任。 1977年(昭和52年)7月20日、大阪高等裁判所総括判事時に「固定資産価格決定取消等及び固定資産審査決定取消請求控訴事件」では、固定資産課税標準価格についての審査の申出に対してされた固定資産評価審査委員会の審査決定の取消しを求める訴えを、既に係属中の右価格について市長の決定の取消しを求める訴えに併合して提起したときは、前者の訴えの出訴期間の遵守につき、行政事件訴訟法20条を類推適用すべきであるとした。
村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジ… 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県香川郡直島町生まれ。京都三高から、東京大学法学部政治学科卒業。 二代目・週刊新潮編集長の野平健一は旧三高時代の同級生。仏文学者の河盛好蔵は、京都三高の同じフランス文学のクラスの先輩だった。 終戦3年目の1948年に読売新聞社に入社し、社会部記者となる。 1953年 中東特派員で英国エリザベス女王の戴冠式を取材。1954年3月には第五福竜丸事件のスクープ報道に関わり、放射性降下物について「死の灰」という造語で伝えた。同年1月に、辻本芳雄(社会部次長)のもとで原子物理学に関する解説連載記事「ついに太陽をとらえた」に関わっていたことが早い初動につながったという。
村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正1… 村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正10年)12月31日 - 2003年(平成15年))は、日本のオルガニスト。ピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校器楽科卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校器楽科(現:東京芸術大学音楽学部)を卒業し、オルガンを真篠俊雄、井原秀子に師事する。 大学を卒業後は徳島女子大学音楽学部で講師となり、その後、徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 またこれまでに香川音楽協会、全四国大学音楽学会に所属し、香川県教育委員会音楽指導主事などを歴任した。 2003年(平成15年)、死去。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
神風 正一(かみかぜ しょういち、1921年10月19日 -… 神風 正一(かみかぜ しょういち、1921年10月19日 - 1990年5月15日)は、香川県大川郡三本松町(のちの東かがわ市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。相撲解説者。本名は赤沢 正一(あかざわ しょういち)。最高位は東関脇。身長179cm、体重98kg。得意手は左四つ、上手投げ、外掛け。 小学校時代は朝日新聞社の健康優良児に選ばれたという経歴をもち、運動神経抜群にして頭脳明晰、噂を聞きつけた横綱玉錦の熱心な勧誘に折れて1937年(昭和12年)5月場所に初土俵を踏む。福住(のちの玉乃海)と同期だった。入門に当たって玉錦には「勉強がしたければ大学だって行かせてやる」とも言われていたが、その玉錦の死後流石に大学は諦めた。
堯天 義久(ぎょうてん よしひさ、1921年5月24日 - … 堯天 義久(ぎょうてん よしひさ、1921年5月24日 - 2013年1月20日)は、日本の建築学者。専門は建築構造学。第8代神戸大学学長、第3代大学入試センター所長を務めた。 香川県観音寺市出身。1939年、愛媛県立三島中学校(現・愛媛県立三島高等学校)卒業。1941年、徳島高等工業学校(現・徳島大学工学部)機械工学科卒業。 1942年に東京工業大学(のちの東京科学大学)附属高等工業教員養成所建築学科に入学。1944年に卒業し、同年9月に神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)に着任する。 1947年、神戸工業専門学校教授。1951年、神戸大学助教授。1959年、東京工業大学工学博士。 神戸大学教授を経て、1981年から1985年まで神戸大学学長を務め、神戸大学名誉教授の称号を受けた。
稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 20… 稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 2006年5月20日)は、日本の法学者(憲法)・弁護士。岡山大学名誉教授。 香川県高松市出身。第六高等学校卒、1947年東京帝国大学法学部政治学科卒、香川大学経済学部助教授、岡山大学法学部助教授、教授を務め、1987年定年退官、名誉教授となり、高岡法科大学法学部教授を務めた。弁護士。
松田 毅一(まつだ きいち、1921年(大正10年)5月1日… 松田 毅一(まつだ きいち、1921年(大正10年)5月1日 - 1997年(平成9年)5月18日)は、日本の歴史学者。専門は、戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。京都外国語大学名誉教授。香川県高松市出身、大阪市育ち。 ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。 清泉女子大学教授時代に、非常勤講師として横浜国立大学でスペイン語の講義をおこない、沢木耕太郎も授業を受けている。
田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年… 田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年4月12日)は、日本の洋画家。春陽会会員。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学芸術科卒業。 1937年(昭和12年)三豊中学4年生の時に美術部を創る。1939年(昭和14年)東京美術学校油絵科に入学、小林万吾が保証人であった。その後、海老原喜之助に出会い日本大学芸術科に転校を薦められて入学した。在学中、独立美術協会展などに出展する。 兵役に就き復員後、第15回独立美術展に出品する。1947年(昭和22年)自由美術協会展に出品、同年4月に上京して以後出展を続けた。1950年(昭和25年)春陽会の出展して研究賞を受賞。
大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1… 大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、日本のバレーボール指導者、政治家。参議院議員(1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。 ニチボー貝塚監督時代は、自ら育て上げた東洋の魔女を率いて、辞任までに175連勝を記録。1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権でソ連を破り優勝。国民的英雄として迎えられる。1964年東京オリンピックでは全日本女子を監督として金メダルに導く。「回転レシーブ」などを考案、その過酷な練習で「鬼の大松」ともいわれた。情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられた。
小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県… 小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県出身のプロ野球選手(投手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)を経て、1940年にイーグルスに入団。後に南海でプレーした三村正は1年先輩に当たる。翌1941年まで在籍したが、出場したのは1940年6月18日の巨人戦(後楽園球場。中河美芳、長谷川重一の後を継いで3番手で登板。2/3回を投げて1安打5四球2三振、失点3、自責点3で降板)と同年8月7日の阪急戦(満州リーグ戦開催中で、新京の児玉公園球場で行われた。玉腰忠義の後を継いで2番手で7回から登板。2回を投げて3安打2四球、失点1、自責点1の成績だった)の2試合のみだった。 1941年シーズン終了後に退団し、その後は北京の華北綿産でプレーしていたが、のち応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
福田 信之(ふくだ のぶゆき、1920年〈大正9年〉10月3… 福田 信之(ふくだ のぶゆき、1920年〈大正9年〉10月3日 - 1994年〈平成6年〉11月27日)は、日本の物理学者。理学博士 東京教育大学教授、筑波大学副学長・学長を歴任。世界平和教授アカデミー元会員、日韓トンネル研究会元顧問。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。高松中学校(現・香川県立高松高等学校)、第一高等学校(現・東京大学)、北海道帝国大学理学部を卒業後、理化学研究所に入所。仁科芳雄博士のもとでニ号研究 (原子爆弾開発研究) に携わった。この研究で福田は六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当した。 世界的水準の「筑波研究学園都市」を建設し、そこに東京教育大学を移転させて核になる総合大学にしようという計画があった。
三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明… 三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明)は香川県出身のプロ野球選手(捕手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)卒業。後にイーグルスでプレーした小野寺洋は1年後輩に当たる。1939年より全京城でプレー。当時の全京城は強豪として知られ、三村の在籍時に2回(1940年、1942年)優勝。三村も正捕手として大きく貢献した。都市対抗野球でバッテリーを組んだ投手に、野村清がいる。 終戦後の1948年、南海に入団。しかし28歳での高齢の入団だったことや、正捕手・筒井敬三が活躍したこともあり、僅か10試合の出場(スタメンに名を連ねた事は一度もなかった)にとどまり、同年末に1年間のプロ野球生活をもって、引退した。
楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 200… 楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 2000年10月9日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ。
香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991… 香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991年5月13日)は、日本の児童文学作家、教育評論家。 香川県高松市中新町出身。旧制高松中学から日本大学(芸術科)に進むも中退し、香川県師範学校を卒業。 終戦まで北支と満洲で軍隊生活を送る。戦後、高松市内の小・中学校で教鞭をとった。1951年に上京。川越市立富士見中学校を振り出しに、1960年志木市立志木中学校の校長となり、1980年新座市立新座中学校の校長を最後に退職した。 その間作家として活動、1967年「セトロの海」で野間児童文芸賞、1980年「高空10000mのかなたで」で小学館文学賞受賞。 「中学生文学」を創刊し、編集長を務めて文学教育にも取り組んだ。
樋笠 一夫(ひがさ かずお、1920年3月20日 - 200… 樋笠 一夫(ひがさ かずお、1920年3月20日 - 2007年6月17日)は、香川県坂出市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日… 豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日 - 1944年〈昭和19年〉8月5日)は、日本の海軍軍人、戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、丙飛7期卒業。 第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり 、カウラ事件(日本兵脱走事件)の中心的人物でもある。 香川県三豊郡勝間村(三豊市高瀬町)出身。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳・加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。
二宮 文造(にのみや ぶんぞう、1920年〈大正9年〉1月1… 二宮 文造(にのみや ぶんぞう、1920年〈大正9年〉1月1日 - 2006年〈平成18年〉1月27日)は、日本の政治家。香川県高松市出身。東北帝国大学法文学部中退。参議院議員(4期)。 香川県高松市錦町に生まれた。1941年(昭和16年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1944年(昭和19年)東北帝国大学法文学部を中退した。同年、朝日新聞東京本社に入社し、前橋支局勤務、札幌支局勤務を経て政治経済部記者となり、1951年(昭和26年)に退社した。 1959年(昭和34年)高松市議会議員に当選。1962年(昭和37年)7月1日、第6回参議院議員通常選挙で全国区から無所属で立候補し、初当選する(以降、連続4期在任)。
野田 弘(のだ ひろむ、1919年9月10日 - 1997年… 野田 弘(のだ ひろむ、1919年9月10日 - 1997年1月10日)は、昭和時代日本の教育者。作詞家としての別名義に小川 楠一(おがわ くすいち)がある。 1919年(大正8年)、香川県三豊郡上高野村(現在の三豊市豊中町上高野)に生まれる。1939年(昭和14年)に香川県師範学校本科二部を卒業、県内各地で小学校教員を務めた。教員としては国語の指導に力を入れ、学習指導に関する著書を多数執筆している。 丸亀市立城北小学校の校長職に在った1953年(昭和28年)に香川県が実施した「香川県民歌」歌詞の一般公募で応募作が入選し、翌1954年(昭和29年)1月に制定される(「小川楠一」名義)。1960年代には、文部省の派遣で当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄へ出向した。
脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ … 脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ 1997年(平成9年)12月12日)は、日本の政治家。1971年から1995年までの6期24年にわたり高松市長を務めた。日本社会党県副委員長、全国革新市長会会長などを歴任。高松市名誉市民。 高松市出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て中央大学法学部を卒業。戦後は帰郷し、同郷の成田知巳(後の日本社会党委員長)の秘書を16年間務める。 前市長・三宅徳三郎の1期限りでの引退表明を受け行われた1971年の高松市長選挙に、社会党と共産党の推薦を受け立候補。自身としては3回目の挑戦であったが、当時全国各地で革新自治体が誕生していたことや、保守陣営が分裂したことも手伝い初当選。
五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 201… 五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 2014年9月4日)は浪曲師。日本浪曲協会元会長。本名は岩野 久米一(いわの くめいち)。最初の妻で曲師は、初代京山小圓嬢の娘・五月雅子。2007年、長年相三味線を務めた加藤(五月)歌恵(林伯猿の娘)と再婚した。 香川県大川郡志度町(現・さぬき市)出身。香川県立志度中学校(後の香川県立志度高等学校)卒業。その後に大阪で行われた浪曲大会で初代京山小円嬢に激励され1936年に初代広沢駒蔵に弟子入り。6ヵ月後、大阪松島の広沢館で初舞台。芸名を広沢 駒月とする。1940年5月1日、タイヘイレコードの吹き込みのときに、会社では広沢駒月では古いからと改名することとなり、会社の発案で5月1日に吹き込むのだからと五月一朗と改名した。
内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003… 内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003年3月15日)は、日本の化学者。理学博士。専門は分析化学。特に微量陰イオンの定量法の研究で知られる。元東京工業大学理工学部分析化学教室教授。日本大学名誉教授。 香川県出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京文理科大学(現在の筑波大学)卒業。1992年、勲四等旭日小綬章を受章。2003年3月15日、急性心筋梗塞のため83歳で死去。
大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16… 大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の洋画家。風景を幻想的に描く作風で知られた。 大森朔衞 (おおもりさくえ) 1919年香川県小豆島、高松市で育つ。幼少期より絵に親しみ、石井柏亭が審査員の中国四国少年水彩画展で金賞受賞。12歳で画家になる決意をする。13歳の夏休みの早暁、屋島で五剣山の日の出を描く藤島武二に遭遇。14歳で大原美術館を訪問した。 親は画家になることを反対したが、17歳で上京、日本美術学校に入学。親の援助がないため、学費や生活費を稼ぎながらでは続かず中退する。1940年の独立展をはじめとして、次々と団体展に入選する。
24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、… 24代 式守 伊之助(にじゅうよんだい しきもり いのすけ、1919年(大正8年)4月15日 - 2013年(平成25年)2月1日)は、大相撲の立行司。式守伊之助としての在位期間は1977年11月~1984年3月。朝日山部屋所属。香川県大川郡志度町(現さぬき市)出身。本名は尾崎信雄。 父親は高砂部屋の元三段目力士。 23代木村庄之助(2代木村正直)の弟子。1935年1月場所に初代木村正義の名で初土俵。兵役で一時相撲界を離れたが、1947年6月場所に十両格最下位で復帰した。その後、木村正信時代の1961年11月場所、三役格行司に昇進。翌1962年1月場所、3代木村正直を襲名。立行司24代式守伊之助を襲名するまで16年間(96場所)も三役格行司を務めた。
沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6… 沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6月15日)は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(捕手)・プロ野球審判員。 香川県立坂出商業学校を卒業後、社会人の朝鮮竜山鉄道局でプレー。1937年に阪急軍に入団するが、その年限りで退団した。 太平洋戦争ではレイテ島の戦いに参加。捕虜収容所で、アメリカ軍の通訳にバッキー・ハリスがいるのに気づいて声をかけると、捕虜の雰囲気が一挙に好転、ハリスも再会を大変喜んだという逸話がある。 阪急軍退団後はプロ野球界との関わりを絶っていたが、1955年にパシフィック・リーグの東京審判部に入部し、プロ野球審判として再出発。以降、1988年に引退するまで一筋の道を往く。
中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 20… 中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 2012年3月30日)は、日本の前衛いけばな作家。華道家、芸術家。代表作に「花坊主」「魔の山」などがある。香川県出身。 敗戦直後の日本で勃興し、数年間の隆盛ののちに収束した「前衛いけ花」の活動家として知られる。この頃には中川のほかに勅使河原蒼風、小原豊雲、中山文甫らが同様の活動をしていた。この極めてアーティスティックな花の表現運動は「流派」という大きな流れを頂点とするいけ花界ヒエラルキーをどのように維持してゆくかに執着する動きにはあわず、「古典のみなおし」という建前によって後退、収束を余儀なくされた。中川は「流派」に属さず「流派」を持たないことで、唯一「前衛いけ花」作家でありつづける事を貫いた。
島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003… 島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003年3月22日)は、日本の小説家。本名 岸上薫(きしうえ かおる)。 香川県観音寺市出身。旧制香川県立三豊中学校、東京高等農林学校獣医学科卒業。 1940年(昭和15年)東京高等農林学校卒業後、満洲国立大陸科学院獣疫研究所に勤務。1943年(昭和18年) 東京高等農林専門学校(現 東京農工大学)助教授に就任。 1947年(昭和22年)6月、ハンセン病を発病し、国立療養所大島青松園に入所。1948年(昭和23年)6月、国立療養所星塚敬愛園へ転園。1958年(昭和33年)より、同人雑誌『火山地帯』を主宰。1990年(平成2年)6月、エイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。
桑島 甫(くわじま はじめ、1918年5月9日 - 1944… 桑島 甫(くわじま はじめ、1918年5月9日 - 1944年)は、香川県出身のプロ野球選手(三塁手)。
香西 照雄(こうざい てるお、1917年10月30日 - 1… 香西 照雄(こうざい てるお、1917年10月30日 - 1987年6月24日)は、日本の俳人。 香川県木田郡庵治村(現高松市)に生まれる。旧制高松中学、旧制姫路高校を経て、1941年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。ラバウルから復員後、1946年に高松で高校教諭となる。俳句ははじめ竹下しづの女に師事。のち東大俳句会で中村草田男を知り終生の師とする。1946年、中村草田男の「萬緑」創刊に参加。1955年、成蹊高等学校にうつり草田男の同僚となる。また大学部の講師も兼任した。1960年、第8回現代俳句協会賞受賞。「萬緑」の誌風のもと季語の象徴性に着目、思想性や社会性のある句を作った。「萬緑」では編集を補佐し、草田男の死去後は選者も務めている。
筒井 修(つつい おさむ、1917年10月12日 - 199… 筒井 修(つつい おさむ、1917年10月12日 - 1990年11月3日)は、香川県善通寺市生まれのプロ野球選手・プロ野球審判員。
田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 20… 田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 2005年3月23日)は、日本の実業家。元三菱自動車工業会長。元三菱重工業副社長。 長兄は、元阪神電気鉄道社長の田中隆造 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 1940年(昭和15年)京都帝国大学卒業後、三菱重工業に入社し、長崎兵器製作所に配属。1941年(昭和16年)陸軍に入隊。前橋予備士官学校を経て満州に配備。1944年(昭和19年)陸軍除隊後、三菱重工業長崎に復帰。 1946年(昭和21年)三菱重工業長崎造船所に異動。1969年(昭和44年)同社横浜造船所に異動。
三野 剛嗣(大正6年(1917年)3月 - ?)とは、日本の… 三野 剛嗣(大正6年(1917年)3月 - ?)とは、日本の柔術家。 大正6年(1917年)3月生まれ。実父は漢学者の三野二山。 昭和4年4月(1929年)に高松中学(現・香川県立高松高等学校)入学と同時に柔道を始める。在学中の昭和8年(1933年)に大阪の浜寺で開催された全国中等学校柔道選手権大会(四帝大主催・大毎後援)に副将として出場し優勝した。 高中卒業後、慶應義塾大学経済学部に進学。その間も柴真揚流柔術の修練を重ねた。慶応義塾大学卒業後、大正14年満州牡丹江関東軍自動車第二連隊に幹部候補生で入隊し大正17年に陸軍中尉に任官、大正9年召集解除となった。 終戦後の昭和21年(1946年)3月に自宅に修盟館道場を開き、柴真揚流と柔道の指導を行った。
小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年… 小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年7月20日[要出典])は、日本の映画監督、テレビディレクター。岡山県川上郡吹屋町(後の高梁市成羽町吹屋)出身。 1935年に香川県立高松商業学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学。在学中、自作の脚本が映画監督の白井戦太郎に認められ、彼に師事するために1938年に大学を中退。大都映画に助監督として入社する。 1940年に東宝映画へ移籍して編集技師になるも、1947年に[要検証 – ノート]再び助監督となり、山本薩夫に師事する。 1955年からは東映京都撮影所で活動。1958年にテレビディレクターに、そして1960年に映画監督になる。
清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 201… 清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 2012年8月17日)は日本の俳優。 香川県高松市出身。1939年に新国劇に入団。解散後は数々の舞台や時代劇などに出演。2005年には日本演劇協会演劇功労者賞を受賞した。 2012年8月17日に肝不全のため死去。
近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月… 近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月20日 - 没年不詳)は、日本の作曲家。元徳島大学学芸学部教授。東京音楽学校卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業。作曲を下総皖一と田中規矩士に師事した 。 徳島大学学芸学部で教授を務める傍ら、徳島県内の小中学校で数多くの学校歌を手掛け、とりわけ保科千代次が作詞を務めることが多かった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 20… 大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、日本の実業家。日本ハム創業者で元社長。香川県大川郡津田町津田(現・さぬき市)出身。 1934年、家の没落で旧制高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)を中退した。叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年に日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。その後戦災による工場焼失、1951年に株式組織とし「徳島ハム株式会社」の設立を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に日本ハムに商号を変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。この頃、取材に訪れた業界紙「日本加工食品新聞」の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って交流する。
遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日… 遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日 - 1975年(昭和50年)3月8日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800mリレーで金メダル、1936年ベルリンオリンピックの800mリレーで金メダル、100m自由形で銀メダルを獲得した。 香川県仲多度郡多度津町の出身。旧制多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)から日本大学に進学、日大1年次の17歳で出場した1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで宮崎康二、横山隆志、豊田久吉とチームを組んで金メダルを獲得する。この800mリレーの優勝を讃えられ、遊佐は宮崎、横山、豊田と共に1932年度の朝日賞体育部門(現・朝日スポーツ賞)を受賞した。
岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月2… 岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月25日 - 1982年(昭和57年)7月16日)は日本の陸上選手、スキー指導者、スキー選手、政治家。 日本初の常設スキー学校開設者であり、全日本スキー連盟(SAJ)公認スキー学校の起案者。勲五等瑞宝章(現・瑞宝双光章)受勲。 岡澤(旧姓・香川)惣吉の二男。兄に喬。妹に千賀子、友子。妻は冨美。子に伸夫、由美子。 北海道網走郡美幌村(現・美幌町)に生をうける。 学生時代は陸上選手として活躍する。1927年(昭和2年)、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)に進学、陸上競技にうちこみ、ハードルでは常に上位の成績をおさめている。新潟商業学校4年の時、香川県の父の実家に預けられ、父の母校でもある香川県立高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)4年に編入する。
徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - … 徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - 2001年12月5日)は、歴史小説家。元毎日新聞編集局参与。本名は德永眞一。地域的には主に近江を舞台に、時代的には戦国時代および幕末を舞台に、歴史上の人物を描写した作品を発表し続けた。 香川県綾歌郡飯山町(現在の丸亀市)に生まれる。旧制高松中学校(現、香川県立高松高等学校)を卒業。 1940年に毎日新聞社入社。毎日新聞社鳥取支局長、大津支局長、学生新聞編集部長などの職を歴任した。学生新聞編集部に在籍中に連載した「少年三国志」が東映から映画化された。 1964年(昭和39年)に吉川英治賞を受賞。1969年(昭和44年)に55歳で退職。1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)までの4年をびわ湖放送局で常務の職にあった。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。