神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年… 岡田 實(おかだ みのる、1904年3月7日 - 1997年6月15日)は、日本の冶金学者。位階は正三位。 プラズマ研究や超高電圧電子顕微鏡の開発で大きな業績を残した。また、大阪大学総長を務めている。 香川県仲多度郡多度津町出身。1930年に東北帝国大学(現・東北大学)金属工学科を卒業後、大阪帝国大学(現・大阪大学)工学部に赴任した。同学部で助教授、教授などを務め、1966年には総長に就任した。この間、溶接工学研究所の設立などに貢献し、1945年から1949年並びに1954年から1955年まで溶接学会会長、研究面では1963年に島津製作所との共同研究で500kVの高電圧電子顕微鏡を開発した。さらに日立製作所と共同で3000kVの電子顕微鏡を作製し、1971年に大阪大学超高電圧電顕センターに設置された。
三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 19… 三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 1966年1月9日)は、香川県高松市出身の男子テニス選手。大阪高等商業学校(現大阪市立大学)卒業。 1934年のウィンブルドン混合ダブルス部門でドロシー・ラウンド(イギリス)とペアを組んで優勝し、日本人初のグランドスラム優勝者になった選手。また現在でもウィンブルドン男子・ウィンブルドン混合・4大大会男子混合の最後の日本人優勝者である。 英語文献では“Ryuki Miki”(リュウキ・ミキ)という表記で掲載されることも多い。海外の同僚選手たちからは「ミッキー」と呼ばれることも多かった。 通信省官吏・三木喜次郎の子として高松市に生まれる。祖父の三木伊平は最後の讃岐松平藩主松平頼聡に仕えた土族で、三木家は明治維新により武士から官吏に転じた典型的な家系で、家は裕福だった。
和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月… 和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月10日 - 1971年 <昭和46年> 5月29日)は、日本の実業家。共和水産社長。境港商工会議所副会頭。境港水産振興協会長。位階は正六位。 香川県大川郡津田町(現・さぬき市)出身。1920年、日本水産に入り朝鮮に勤務。1937年、朝鮮日水を設立、取締役。1940年、朝鮮慶北迎日郡九龍浦学校組合議員。 1941年、九龍浦漁業組合特別議員。1942年、九龍浦邑初代邑会議員。1945年、引き揚げる。1947年、朝鮮日水を共和水産に改称、常務。1952年、社長に就任、同年に境町商業会議所議員、同年に鳥取県西部海区漁業調整委員会長。1953年、鳥取県巾着組合副組合長。
石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 … 石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。 1924年(大正13年)第一回選抜高校野球大会において、母校である高松商業の監督を務め優勝に導く。(大同特殊鋼 創業100周年特設サイト 選抜発祥の地) 1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。
樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月… 樋端 久利雄(といばな くりお、1903年(明治36年)8月1日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。海兵51期首席、海大甲種33期首席。海軍甲事件で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍大佐。 1903年(明治36年)8月1日、香川県白鳥本町(現在の東かがわ市)で農業を営む父・樋端荒吉と母・モトの六人兄弟の第五子、三男として生れる。大川中学校を経て、1920年(大正9年)8月26日、海軍兵学校第51期入校。同期に小園安名、山本祐二、大井篤らがいる。樋端は兵学校の前後数クラスで群を抜いた秀才であり、将来を嘱望されていた。しかし、人柄は一見鋭さを感じさせないもので、思考に集中しているときは口元が締まらずぼんやりしているように見え、特に体力的に恵まれていたわけではなかった。
山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 19… 山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年7月10日 - 1977年8月27日)は、日本の男子マラソン選手。香川県坂出町(現・坂出市)出身。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンで4位に入り、日本人として同種目で初めて入賞した。 1903年、坂出の塩田業者の家に末っ子として生まれる。子どもの頃から塩田での作業に従事していた。当時の塩田では広い浜辺を走り回る作業が多く、従事する人々は自然に足腰が鍛えられた。その中から極東選手権競技大会や「日本オリンピック大会」に出場した森井安平、浜田嘉平らが輩出され、「塩田マラソン」とも呼ばれるようになる。 1920年アントワープオリンピックで、近隣の宇多津出身の大浦留市が5000メートルと10000メートルの代表として出場し、帰郷の際に坂出の青年により「オリンピック歓迎マラソン大会」が実施されたことで、塩田勤務者を含めた地元民の間にマラソンや陸上競技への関心が高まることになった。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月2… 上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月20日 - 1987年(昭和62年)5月5日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 香川県高松市出身。1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、三和銀行の前身である三十四銀行に入行。取締役、常務、専務を経て、1957年11月から副頭取を務め、1960年5月から頭取に就任し、1971年9月までに務めた。 その一方で、1966年から1977年までに関西経済連合会副会長を務め、南海電気鉄道、江崎グリコ、関西電力の各取締役、毎日新聞社相談役、関西テレビ放送監査役などを歴任した。1973年に勲二等旭日重光章を受章した。 1987年5月5日脳卒中により兵庫県芦屋市内の自宅で死去。
梶 和三郎(かじ わさぶろう、1903年 - 1983年11… 梶 和三郎(かじ わさぶろう、1903年 - 1983年11月6日)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第3代校長。 香川県三豊郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)出身。 旧制香川県立三豊中学校に進学後、恩師から数学教師になることを諭されて東京高等師範学校数学科に進学。同高等師範学校を卒業後、1926年(大正15年)旧制愛媛県立大洲中学校に数学科教諭として赴任。1927年(昭和2年)旧制神奈川県立湘南中学校に転任。1938年(昭和13年)から1941年(昭和16年)まで旧制群馬県立太田中学校教頭を務める。その後、兵庫県立福崎高等学校、兵庫県立洲本高等学校、兵庫県立姫路東高等学校、兵庫県立星陵高等学校の校長を歴任。
猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年… 猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年〉12月14日 - 1993年〈平成5年〉5月17日)は、昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。 「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。 丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。また、猪熊の死後、丸亀コミュニティバスにいのくまバスが登場した。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。
石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 19… 石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 1984年6月4日)は、日本の地理学者。旧姓では三野 与吉(みの よきち)。東京教育大学名誉教授。日本地理学会会長(1964年 - 1965年)。理学博士(東京大学)。 地形学・水文学などを研究しつつ、地理学・地理教育のあり方を論じた指導的自然地理学者である。地形学など自然地理学の分野に多くの研究者を輩出し、東京教育大学では地形営力論を中心とした学風が作られ、「三野スクール」と呼ばれていた。 香川県三豊郡桑山村(現・三豊市)の三野家に農家として生まれる。3歳のとき、同郡常磐村(現・観音寺市)に一家転住した後、常磐村尋常小学校(現・観音寺市立常磐小学校)と、辻村高等小学校(現・三豊市立辻小学校)を卒業する。
前川 孫二郎(まえかわ まごじろう、1902年2月6日 - … 前川 孫二郎(まえかわ まごじろう、1902年2月6日 - 1971年2月2日 )は、日本の医学者。博士(医学)。京都大学名誉教授。 香川県三豊郡比地二村(現:三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学医学部卒業。 専門は、理論心電図学、循環器学、免疫およびアレルギー学、神経病学。 1926年(大正15年)京都帝国大学医学部卒業後、1931年(昭和6年)学位修得(医学博士)。 1932年(昭和7年)同大学医学部講師、1936年(昭和11年)同大学医学部助教授を経て、1946年(昭和21年)京都大学医学部第三内科学講座教授に就任。 日本独特の神経疾患「スモン病」について最初に問題提起をした先駆者である。
森 諦圓(もり たいえん、1901年5月27日 - 1990… 森 諦圓(もり たいえん、1901年5月27日 - 1990年7月30日)は、日本の僧侶、教育者。真言宗御室派管長。総本山仁和寺第41世門跡。本名(出家するまでの名)森調四郎。 香川県三豊郡比地二村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、真言宗京都大学(現・種智院大学)卒業。 貧しい大工の家に生まれ、8歳の時「米のメシが食べたい、学問がしたい」という動機で仏門に入った。覚城院での厳しい修行を経て、三豊中学、真言宗京都大学を卒業する。卒業論文は、『児童の宗教教育の理論と実践』。大学卒業後、覚城院第57世住職となる。戦時中は、陸軍第十一師団付従軍布教師として上海ウーマンに敵前上陸を共に行動した。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
志度 藤雄(しど ふじお、1901年 - 1986年)は、日… 志度 藤雄(しど ふじお、1901年 - 1986年)は、日本のフランス料理人。吉田茂が首相を務めていた際に官邸料理人の任に就き「吉田茂の料理番」、「日本のフレンチの草分け」、「フレンチの先駆者」、「ムッシュ志度」とも称される。 香川県大川郡三本松町(大内町を経て、現在の東かがわ市)で植田右衛門・かつ夫妻の間の8人兄弟の末っ子に生まれる。生後間もなく、志度繁太郎・まさ夫妻の三男として養子となる。 三本松尋常高等小学校を卒業後、義理の叔父が経営する神戸市の西洋料理屋「精養軒」へ住み込みで働く。4年以上勤めた後、先輩や友人の勧めでいくつか働き先を移り歩いた後、1921年に京都市の「萬葉軒」に就職する。
原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16… 原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 香川県出身。高松中学校を経て、1921年(大正10年)7月、海軍兵学校(49期)を卒業。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、駆逐艦「秋風」「吹雪」「韓崎」の各水雷長、水雷学校教官などを経て、1933年(昭和8年)11月、海軍少佐に進級。駆逐艦「夕凪」「長月」「綾波」艦長などを歴任し、太平洋戦争を駆逐艦「天津風」艦長として迎えた。 第二十七駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月に海軍大佐となった。水雷学校教官、兼川棚警備隊司令を歴任し、1944年(昭和19年)12月に第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦「矢矧」艦長に就任。
秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日… 秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日 - 1971年8月23日)は、日本のドイツ文学者。専門は、E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の翻訳、ヘルマン・ヘッセの研究。 香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。 東京帝国大学在学中、同ドイツ文学専攻の手塚富雄等と第8次、第9次「新思潮」に参加。1926年(大正15年)旧制福岡高等学校にドイツ語教師として赴任。1936年(昭和11年)10月、同高等学校の同僚の浦瀬白雨・大塚幸男等と文芸同人誌「九州文壇」を創刊。1937年(昭和12年)8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊。
額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 198… 額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の著名な剣道家および居合道家である。その段位称号は剣道範士八段、居合道範士九段に達している。 額田長は1900年、香川県高松市の銀行家の家庭に生まれた。1914年(大正3年)、県立高松中学校に入学し、体育祭の剣道行事で突如10人を勝ち抜き、これが剣道を始めるきっかけとなる。同校剣道部の師範であった植田平太郎(天真正伝神道流)に師事し、その才能を開花させた。 1918年(大正7年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)への入学を目指し上京するが、受験には失敗した。この時、九段坂で高野佐三郎(中西派一刀流)が主宰する道場「明信館」を見つけ、そこに入門した。
請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 19… 請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 1960年3月24日)は、日本の実業家。元香川相互銀行社長。男子テニス選手。 香川県三豊郡紀伊村(現 観音寺市木之郷町)出身。旧制香川県立三豊中学校(現 香川県立観音寺第一高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。 1924年(大正13年)早稲田大学卒業後、明治生命保険本社に入社。1年後に帰郷、1928年(昭和3年)七宝無尽株式会社監査役に就任。翌年の1929年(昭和4年)7月、同社社長に昇任。また、大阪市の日本科学研究所所長、紀州田辺市の日本木材株式会社社長を兼任する。 1939年(昭和14年)10月、香川県会議員に当選し、県政に尽力する。
三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)… 三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)4月10日)は、日本の外科医、政治家。医学博士。 高松市長(在任1期)。 香川県三豊郡荘内村(現 三豊市詫間町)出身。地主の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校、旧制第四高等学校を経て、九州帝国大学医学部卒業。 三豊中学時代から第四高等学校、九州帝国大学と野球選手で通し、投手や一塁手で活躍、その間柔道、剣道、テニス、乗馬、弓術も行った。 1926年(大正15年)3月、九州帝国大学医学部卒業後、外科医局に4年間在局、三宅速教授、赤岩八郎教授の指導を受ける。1930年(昭和5年)5月、岩手医学専門学校教授ならびに青森県立病院外科部長に就任。
浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - … 浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - 1974年4月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前の明治神宮競技大会や全日本選士権大会で選手として活躍し、後には大阪府警察名誉師範や大阪柔道連盟会長等を務めるなど大阪柔道界の重鎮として知られた。 現在の香川県坂出市に出生し、幼少時代は地元香川に伝わる無相流の柔術を学んだ。坂出商業時代に吉本官次より柔道の手解きを受け、卒業後は上京して明治大学法科専門部へ進学、後には大阪外国語学校支那語科(二部)にも通った。この間、明治大学で三船久蔵に師事したほか講道館および大日本武徳会で永岡秀一・佐村嘉一郎両範士の指導を仰ぎ、1917年9月付で講道館入門。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月… 大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年(明治31年)12月4日 - 1995年(平成7年)1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。農業・大平万太良の二男として生まれる。旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第22連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第22連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、中国駐在(南京、香港)を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月… 音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月15日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の漆芸家である。本名:芳雄。本姓は木村。 香川県高松市の生まれ。石井磬堂の門下となり、「讃岐彫」と呼ばれる木彫や彫漆を学んだ。その後独立し、玉楮象谷の作風を研究した後にこの作風を模して作成した漆器を多く作成する。その後は東京に移住し、1942年(昭和17年)に開催された第5回文展にて音丸の作品が出品された。 後に自身の作風は現代風を取り入れた玉手箱等、彫漆の作風に新しく取り入れたものにより、1955年(昭和30年)に「彫漆」分野として人間国宝(重要無形文化財)に認定された。その後は多くの門下を輩出し、1982年(昭和57年)に門下の育成によって「公益信託音丸漆芸奨励基金」の創設に携わった。
磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 -… 磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 - 1990年8月10日 )は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。法学博士。[要出典]大阪大学名誉教授。 香川県三野郡下高瀬村(現:三豊市三野町)出身。香川県立三豊中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業。 京都帝国大学では、佐々木惣一に憲法学および行政法学の指導を受ける。以後、佐々木惣一と研究を共にする。佐々木惣一の著書『日本国憲法論 改訂版』(有斐閣、1952年)および『日本國行政一般法論』(有斐閣、1952年)のはしがきでは、佐々木は磯崎に対して執筆の支援および長年の貢献について感謝を記している。 また、1945年(昭和20年)11月に佐々木惣一が内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、箱根の奈良屋旅館で大石義雄と共に憲法改正草案「佐々木憲法草案」の作成を行っている。
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。
壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 19… 中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 1980年10月26日)は、日本の国文学者、歌人。中河与一の妻。旧姓は林。 香川県坂出市生まれ。実家は紙問屋林卯吉。香川県立丸亀高等女学校を経て津田英学塾卒。在学中の1920年に中河与一と結婚をする。女性文芸誌『ごぎやう』を創刊し、後に短歌誌『をだまき』と改め主宰となる。門下に高瀬一誌、蒔田さくら子らがいる。共立女子大学教授を務め、共立女子学園歌の作詞も手がけている。 妹の林寿枝子は、初代メイ牛山に師事した美容家で、雑誌で美容指南や対談などもした。
久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1… 久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1980年4月29日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1953年)。一橋大学名誉教授。山口弘一の弟子。 香川県木田郡十河村(現高松市)生まれ。1916年旧制香川県立高松中学校(現香川県立高松高等学校)卒業、1919年旧制山口高等商業学校(現山口大学経済学部)卒業。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業。論争を機に交流のあった江川英文との縁で、1953年東京大学より法学博士の学位を取得。 大学院の指導学生に秌場準一(一橋大学名誉教授)、海老澤美廣(元名古屋高等裁判所判事、元青山学院大学教授)。 1923年4月関西学院大学高等商業学部教授、1938年東京商科大学附属商学専門部教授兼東京商科大学講師、1940年東京商科大学教授兼任、1949年東京商科大学教授、1951年一橋大学法学部教授、1955年から1957年まで一橋大学法学部長及び評議員。
西本 計三(にしもと けいぞう、1896年(明治29年)7月… 西本 計三(にしもと けいぞう、1896年(明治29年)7月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 香川県綾歌郡宇多津町出身。第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。朝鮮銀行に入行したが、1922年(大正11年)朝鮮総督府に転じた。朝鮮総督府属、財務局事務官、慶尚北道地方課長、内務局事務官、専売局事業課長、殖産局水産課長、同商工課長を歴任。1939年(昭和14年)、平安北道知事に就任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は朝鮮鉱業振興株式会社理事、朝鮮黒鉛開発株式会社代表、朝鮮燐鉱株式会社取締役、日本蛍石統制株式会社取締役を務めた。
菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 19… 菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 1972年4月24日)は、日本の英文学者、翻訳家。 高松市出身。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部英文科卒業。國學院大學教授を務め、戦後になって古代文学、歴史研究に重きを置く方向付けに尽力する。また代々木ゼミナールの校長を務めた。子息菊池映二はフランス文学者で明治大学教授を務めた(1929-2002)。 日本の文芸、特に室町時代の謡曲文学、仕舞に造詣が深く、笛もよくした。スコット『アイヴァンホー』訳は、文庫上巻刊行後の1965年に入院し、退院後も執筆を続けたが、下巻の原稿を残して没し、菊池が國學院に迎えた高見穎治が校訂し刊行された。
松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 19… 松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本の実業家。元三越社長。 香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。 両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した。 1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。
広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月… 広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月7日 - 1986年2月18日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道拓殖銀行頭取を務めた。香川県出身。 高松中學校、第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学政治科を卒業し、同年に大蔵省に入省。札幌税務署長時代の1939年に、ニッカウヰスキーの品質証明を担当した。1942年、神戸税関長を最後に退官。 1945年に北海道拓殖銀行副頭取に就任し、1947年4月には頭取に昇格。1962年3月に会長に就任し、1973年11月には相談役に就任。頭取就任後に債権整備法に基づき不良債権を切り捨てるための9割減資を強行し、さらにその半年後には100倍強の増資をするという「荒療治」を行い、戦後の拓銀の飛躍を築いた。
鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月2… 鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月29日 - 1947年(昭和22年)3月3日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。 香川県高松市古馬場町で「伏石屋」鈴木幾次郎の長男として生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第三高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。東京の高田商会に勤務した。 1925年(大正14年)に帰郷し、高松市会議員に当選。その後、市会議長(1934年(昭和9年)3月から1938年(昭和13年)3月まで)、四国水力電気高松出張所長を務めた。 1942年(昭和17年)第21回衆議院議員総選挙において、翼賛政治体制協議会推薦で香川1区から立候補したが落選。
横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月1… 横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。基隆市尹、高雄市長。 横山文吉の長男として香川県三豊郡詫間村(現三豊市詫間町)に生まれる。1910年(明治43年)4月、通信伝習所を卒業後、1911年(明治44年)3月、詫間郵便局に奉職。1915年(大正4年)9月、台湾に渡り、台南郵便局通信手を経て、1922年(大正11年)12月に台湾総督府属、総督官房秘書課勤務を発令される。 1930年(昭和5年)台北高等商業学校書記兼文教局学務課勤務を経て、1934年(昭和9年)5月に交通局副参事鉄道部庶務課勤務に転じ、1935年(昭和10年)10月に地方理事官に進み、台南市助役に就任。
斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976… 斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976年5月1日)は、日本の児童劇作家・画家。 香川県那珂郡丸亀町(現丸亀市)出身。1916年香川県師範学校卒、京都高等工芸学校卒。1920年小原国芳の招きで成城小学校の教師となり、学校劇運動、自由画教育運動を指導。1933年退職。1934-1947年児童劇団テアトロ・ピッコロで劇作、演出。1948年児童劇作家協会を設立、委員長となる(のち日本児童演劇協会)。1955年「斎田喬児童劇選集」で芸能選奨文部大臣賞受賞。児童文学の挿画も描いた。演劇教育研究所理事長、児童演劇協会名誉会長。
田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 194… 田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 1945年10月15日)は日本の洋画家。
矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日… 矢野 英雄(やの ひでお、1894年〈明治27年〉11月1日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。サイパンで戦死、特進により最終階級は海軍中将。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。矢野英寛の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校(第8回)を経て、1912年(大正元年)9月9日海軍兵学校第43期に成績順位100名中第58位で入校。秋山門造(最終階級中将)は三豊中学、海軍兵学校ともに矢野の一学年先輩であった。 1915年(大正4年)12月16日96名中第12位の成績で卒業。少尉候補生として1等巡洋艦「磐手」乗組、練習艦隊近海航海に出発した。1916年(大正5年)4月3日帰着。
田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1… 田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1985年7月21日)は、日本の弁護士・法学者。専門は私法学。大阪経済大学元理事長、同名誉教授。 1894年(明治27年)香川県三野郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)に生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1915年(大正4年)京都帝国大学法律科入学、1918年(大正7年)に卒業し司法官試補となる。1920年(大正9年)大阪地方裁判所判事に任官。1922年(大正11年)学界に転じ大分高等商業学校教授に就任、法律学を担当。翌1923年(大正12年)よりイギリス・ドイツに留学する。1929年(昭和4年)彦根高等商業学校に転任し民法、商法などを講じた。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980… 秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980年6月7日)は、日本の哲学者。専門は道元の禅の研究。元滋賀大学学長事務取扱。滋賀大学名誉教授。 1893年(明治26年)香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)に秋山清七(柞田村第6代村長・1906-1918年在任)の長男として生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学哲学科卒業。1920年(大正9年)旧制滋賀県立八幡商業学校教諭。1923年(大正12年)彦根高等商業学校開校に合わせ着任、1924年(大正13年)教授就任。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)までドイツに留学する。
三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970… 三上秀吉(みかみ ひできち、1893年6月1日 - 1970年10月2日)は、日本の作家。和歌山県生まれ。旧姓・龍田、結婚して三上姓となる。香川県立高松中学校卒。『婦人之友』編集長ののち志賀直哉に師事。娘の三上慶子も作家で、戦時中熊本県球磨郡に家族で疎開、1951年慶子とともに西日本新聞文化賞を受賞。
高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日… 高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日 - 1986年(昭和61年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。県会議員・高橋彜太郎の二男として生まれる。高松中学校(香川県立高松高等学校)卒、小学校代用教員を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業。1920年(大正9年)10月から1922年(大正11年)5月までシベリア出兵に従軍。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長に就任した。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18… 片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第6回)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。 同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、参謀本部に配属された。 1926年(大正15年)9月、朝鮮軍司令部付としてポグラニチナヤ特務機関長に就任。その後、参謀本部員、陸大専攻学生、陸大教官、陸士付、三笠宮附武官、陸軍騎兵学校教官、騎兵第27連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進。
秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12… 秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。 中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。 旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。
高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 19… 高谷 道男(たかや みちお、1891年10月12日 - 1994年3月21日)は、日本の経済学者。内村鑑三の弟子でジェームス・カーティス・ヘボンの研究家でもある。 1922年にシカゴ大学を卒業後、関東学院、明治学院の教授を経て、桜美林大学経済学部創立に尽力する。後に同大学経済学部長を務める。 1981年キリスト教功労者の表彰を受ける。 1891年(明治24年)香川県那珂郡丸亀町(現・丸亀市)の呉服町の家に生まれた。小学校の高学年の時に家の商売は借財と火災でたちまち傾き没落したが、家族親戚は高谷には勉学の見込みがあるとみて学問をさせようと努めた。東京高等商業学校(現一橋大学)に合格し育英会の奨学金と親戚の援助などで進学した。
竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月1… 竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1961年〈昭和36年〉11月15日)は、日本の劇作家、小説家。本名は敏太郎。 1891年(明治24年)7月15日、香川県仲多度郡多度津町本町の資産家に生れる。香川県丸亀尋常中学校に入る頃までは家庭も安定していたが、4年生の頃、父が事業に失敗し、一家は大阪へ移り住む。 敏彦は働いて家計を助けなければならず、石炭人夫、人力車夫、沖仲仕、風呂屋の釜焚きなど、様々な肉体労働に従事した。この頃、重労働のために失明寸前になるという出来事もあった。そんな生活の中で仕事や将来への不安に襲われ、悩みぬいた挙句上京し、早稲田大学に入学。按摩などに従事して苦学した。
岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 19… 岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 1970年10月1日 )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父。 香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。