川内 八洲男(かわうち やすお、1945年11月27日 - … 川内 八洲男(かわうち やすお、1945年11月27日 - 2014年7月2日)は、佐賀県藤津郡出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 佐賀県立鹿島高等学校では、1962年秋季九州大会県予選準決勝に進むが、佐賀商に敗退。翌1963年夏も県予選準々決勝で龍谷高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 1964年に近鉄バファローズへ入団。 1965年のジュニアオールスターに選出された。 1967年には中継ぎとして一軍に定着、初勝利を挙げた。 1968年は39試合に登板、8月20日には初先発で西鉄ライオンズに完封勝利、同年は4勝を記録した。 1970年オフに伊藤竜彦とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。 1971年には、4月から先発陣の一角として起用され、43試合に登板、自己最多勝利となる7勝を記録。
横田 順彌(よこた じゅんや、1945年11月11日(戸籍上… 横田 順彌(よこた じゅんや、1945年11月11日(戸籍上は12月1日) - 2019年1月4日)は、日本の著作家(SF作家)・明治文化史研究家。愛称は「ヨコジュン」。横田 順弥と表記されることもある。真木 じゅん名義による著書もある。 佐賀県に生まれ、東京都目黒区緑が丘に育つ。父が58歳、母が42歳のときに誕生した末っ子で、自らが戦中に母の胎内にいたことから「戦中腹派」などと称していたこともある[要出典] 法政大学第二高等学校を経て法政大学法学部に進み、在学中は落語研究会で活躍した。[要出典] 中日ドラゴンズのファンとしても知られる。 小学5年生の時に貸本屋で『第二の太陽へ』(ミルトン・レッサー著)を借りて感動したことがきっかけとなり、SFにのめり込んでいく。
佐賀ノ海 輝一(さがのうみ てるかず、1945年10月20日… 佐賀ノ海 輝一(さがのうみ てるかず、1945年10月20日 - 1999年10月3日)は、佐賀県佐賀郡諸富町(現在の佐賀市)出身で、近鉄バファローズ所属の元プロ野球選手(投手)、井筒部屋(後に君ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。本名は土師 一男(はじ かずお)。大相撲時代は身長185cm、体重107kg、得意手は左四つ、寄り、上手投げ。最高位は西十両11枚目(1972年7月場所)。土師一夫の四股名でも関取在位がある。 佐賀県立佐賀工業高等学校を経て1964年に近鉄バファローズに入団。2年間在籍するも一軍登板なく退団した。 退団後すぐに力士に転向し、大相撲の井筒部屋に入門して1965年11月場所で初土俵を踏んだ。
坂田 道孝(さかた みちたか、1945年10月2日 - 20… 坂田 道孝(さかた みちたか、1945年10月2日 - 2000年1月7日)は日本のスポーツ科学者。元佐賀大学教育学部教授。鳥栖フューチャーズの誘致とサガン鳥栖の設立に奔走したことで知られる。佐賀県佐賀市出身。
佐々木 精一郎(ささき せいいちろう、1945年9月2日 -… 佐々木 精一郎(ささき せいいちろう、1945年9月2日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。 1960年代後半から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーで、1968年メキシコシティーオリンピックに男子マラソン日本代表として出場した。佐賀県鳥栖市出身。 佐々木とマラソンの出会いは佐賀県の鳥栖市立田代中学校時代。「1年か2年の時(本人談)」に校内マラソン大会で10位に入り、市内の中学駅伝大会の代表選手になったことがきっかけだった。当時同校には陸上部がなく、バレー部顧問の教諭の指導を受けた。 高校は佐賀県立鳥栖工業高等学校に進学。陸上部に入り、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)、国体で上位入賞する他、2年・3年時に全国高等学校駅伝競走大会に出場。
山田 パンダ(やまだ パンダ、1945年〈昭和20年〉5月1… 山田 パンダ(やまだ パンダ、1945年〈昭和20年〉5月13日 - )は、フォークシンガー、元かぐや姫メンバーである。本名は山田嗣人(やまだ つぐと)、別名に山田つぐと。 佐賀県神埼郡千代田町大字崎村字黒津(現:神埼市)生まれ。のち福岡に移り、大牟田市立橘中学校を卒業、久留米大学附設高等学校(学力不振で中退)、福岡県立嘉穂高等学校で学ぶ。高校卒業後、八幡大学法経学部に進学後中退し、明治大学工学部に再入学し卒業。 明大在学中は放送研究会に属し、日本テレビでアルバイトに明け暮れ、この頃福留功男と知り合う。シュリークスから第二次かぐや姫に参加。ボーカルとウッドベース(コントラバス)を担当。作詞・作曲の代表曲は「僕の胸でおやすみ」「けれど生きている」(かぐや姫)。
成田 アキラ(なりた あきら、1945年4月9日 - )は日… 成田 アキラ(なりた あきら、1945年4月9日 - )は日本の漫画家。佐賀県唐津市生まれ。東京都在住。既婚。 都立小石川高校卒業。明治大学工学部電気工学科卒業。日本艶主党党首。 佐賀県唐津市生まれ。中学1年生までを唐津で過ごす。1958年、両親が子供を大学へ行かせるために家族で上京。東京に転居。都立小石川高校、明治大学卒。明治大学で電気工学科へ進学したのは「この世は何で出来上がってるのか」を知りたくて、「この世は電気ででき上ってるんじゃないか」と考え、入学した。叔父でもある漫画家ムロタニ・ツネ象の下で漫画修行をする。26歳でデビュー作「チポー星のやつら」が園山俊二の目にとまり、それがきっかけで漫画サンデーで「フリフリダムダム」を2年間連載するが、性器を模ったキャラクターを主人公とするなど、あまりに内容が「前衛的」「飛んでる」という理由で打ち切りとなる。
村井 國夫(むらい くにお、1944年〈昭和19年〉9月20… 村井 國夫(むらい くにお、1944年〈昭和19年〉9月20日 - )は、日本の俳優、声優。旧芸名、村井 国夫。 中国・天津市生まれ、佐賀県佐賀市出身。トム・プロジェクト所属。妻は女優の音無美紀子。2012年1月に村井国夫から村井國夫に改名(表記を旧字体に変更)した。 現在の所属事務所はトム・プロジェクト(それまではキューブに所属していた)。 父の仕事の関係で第二次世界大戦中に中国・天津市に生まれる。終戦後、母に背負われて日本に引き揚げ、母の実家がある佐賀県で5人兄弟の末っ子として甘やかされて育つ。 佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)卒業。高校では引っ込み思案を案じた女剣劇好きの母の勧めで演劇部に入部して、本格的に役者を目指していた演劇部の1年先輩・辻萬長のもとで演劇の基礎を学び、初舞台の評判がよく褒められたことで芝居漬けの生活を送って、高校卒業後には劇団俳優座養成所に入所した辻を追って上京する。
村井 國夫(むらい くにお、1944年9月20日 - )は、… 村井 國夫(むらい くにお、1944年9月20日 - )は、日本の俳優、声優。生まれは中国の天津市。佐賀県佐賀市出身。所属事務所は2014年8月よりキューブ。2012年1月より、それまでの村井国夫から村井國夫に改名(表記を旧字体に変更)した。
城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は… 城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は、佐賀県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは投手。 鳥栖工業高校では、1年生の時、エースとして1960年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、西九州大会決勝に進出するが、鹿島高の宮崎昭二投手に完封を喫する。1962年夏にも西九州大会準決勝まで進むが、大崎高に敗退し、甲子園出場はならなかった。卒業後、1963年に広島カープへ入団。 重い速球と切れの良いシュートを主な武器とし、1年目から一軍で投げた。だが、好投しても打線の援護に恵まれない不運に多く見舞われた事もあって、本来の力を出し切れなかった。1967年に一軍初勝利、10月には大洋ホエールズを相手に初完封を記録するが、その後は低迷。
藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )… 藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )は、日本のプロ野球選手、審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 佐賀県出身。佐賀県立伊万里高等学校卒業後、1963年に投手として広島カープに入団も、肩を痛め一軍出場はなし。引退後、晃商事を経て1969年パ・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は24(1977年初採用から。指導員に転じた2002年以降もつけていたが専任となった2003年から返上し以降空き番。)。1978年、34歳にして日本シリーズ初出場を果たすと、以降1978年から1988年まで11年連続日本シリーズ出場と、シリーズの常連審判となった。1998年から2001年まで審判部長を務め、通算3242試合出場、オールスター7回出場(1976年、1977年、1981年、1985年、1989年、1997年、1998年。
楠ノ海 正治(くすのうみ まさはる、1944年3月13日 -… 楠ノ海 正治(くすのうみ まさはる、1944年3月13日 - )は、佐賀県佐賀市出身で二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は中村 正治(なかむら まさはる)。現役時代は身長173cm・体重75kg。最高位東十両16枚目。得意技は右四つ、上手投げ。 1959年7月場所初土俵。序ノ口を1場所で通過後に序二段中位〜下位で1年程停滞したり、初めて幕下に昇進した1961年11月場所で7戦全敗を喫したりしたが、以降は好成績を修め続け順調に番付を上げて、1965年5月場所に21歳で十両昇進。しかし場所前に左膝の関節を捻挫したために当場所及び翌場所を全休。以降は番付を幕下下位に落とし成績は振るわず、1966年5月場所に22歳の若さで廃業した。
野中 光男(のなか みつお、1944年(昭和19年) - )… 野中 光男(のなか みつお、1944年(昭和19年) - )は、佐賀県出身の元陸上自衛官。福岡県立修猷館高等学校・防衛大学校を卒業(第12期・同期に初代統合幕僚長先崎一)。1佐までの職種は野戦特科。現在は埼玉県在住。
久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は… 久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元騎手。引退後に実業家に転身し、出版社の社長に就任。中央競馬の馬主資格も取得した。 騎手時代は追い込みを得意とし、ファンの多い騎手であった。旧姓は古賀。 少年の頃に両親が離婚したことに伴って福岡県福岡市に移住し、芸妓置屋を経営していた叔母の元に身を寄せた。 義叔父が馬主として競走馬を所有しており、義叔父と付き合いのあった京都・上田武司調教師から騎手になることを勧められ、中学卒業後に京都・久保道雄厩舎に騎手見習いとして入門。馬事公苑騎手養成長期課程に第8期生として入所し、同期生には清水出美・鹿戸明・久保田秀次郎・安田伊佐夫・大崎昭一・笹倉武久などがいる。
長嶺 豊(ながみね ゆたか、1943年11月5日 - 202… 長嶺 豊(ながみね ゆたか、1943年11月5日 - 2022年7月7日)は、佐賀県杵島郡若木村(現・武雄市)出身の元競艇選手。 弟の長嶺保も元ボートレーサー。 小学校5年の時に大阪府大阪市へ移り、中学時代は野球に熱中したが、身長が思うように伸びず、進学をあきらめ競艇選手になる道を選んだ。長嶺によると「裏街道に行ってもおかしくなかった」というほど荒んだ日々を送った時期もあったが、住之江で競艇のレースを観戦したのがきっかけで一念発起したという。大阪府モーターボート競走会補助員を経て、選手養成所の入所試験に2度目の受験で合格。1963年11月に競艇選手としてデビューし、ガッツあふれるプレーで「浪速のドン」と呼ばれる 。
岩崎 吉郎(いわざき よしろう、1943年11月3日 - )… 岩崎 吉郎(いわざき よしろう、1943年11月3日 - )は、日本佐賀県出身の歴史家。 1943年、佐賀県唐津市にて生誕。 主に古代を研究している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )… 宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )は、佐賀県鹿島市出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿島高校では2年次の1960年に投手として夏の甲子園に出場し、熊本商、平安高、明石高を降して勝ち進む。準決勝ではこの大会に優勝した法政二高と対戦するが、同じ2年生エースの柴田勲らに抑えられ完封負けするが、佐賀県勢初のベスト4入りの原動力となった。同年の熊本国体にも出場するが、1回戦で秋田商の今川敬三(早大-秋田商監督)に完封を喫する。3年次の1961年夏には西九州大会準決勝に進出するが、海星高のエース池辺巌を崩せず惜敗、夏の選手権への連続出場はならなかった。 卒業後の1962年に東映フライヤーズへ入団し、1年目の同年から一軍に上がる。
秀島 敏行(ひでしま としゆき、1942年〈昭和17年〉7月… 秀島 敏行(ひでしま としゆき、1942年〈昭和17年〉7月4日 - )は、日本の政治家。元佐賀県佐賀市長(第1・2・3・4代)。 佐賀県佐賀市本庄町生まれ。佐賀県立佐賀高等学校(現佐賀西高等学校)、熊本大学法文学部(現法学部)法学科卒業。1966年(昭和41年)、佐賀市役所に入庁。佐賀市民生部保険年金課長や環境課長、民生部次長、消防長、水道局長を経て、2003年(平成15年)より佐賀広域シルバー人材センター事務局長。翌2004年(平成16年)より、常務理事を兼任。 2005年(平成17年)10月、佐賀市・佐賀郡諸富町・大和町・富士町・神埼郡三瀬村の合併に伴う新・佐賀市の発足に伴う佐賀市長選挙に無所属で立候補。
大麒麟 將能(だいきりん たかよし、1942年6月20日 -… 大麒麟 將能(だいきりん たかよし、1942年6月20日 - 2010年8月4日) は、佐賀県佐賀郡東川副村(のち諸富町、現・佐賀市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は堤 隆能(つつみ たかよし)。最高位は東大関。現役時代の体格は181cm、140kg。得意手は右四つ、寄り、吊り、うっちゃり。 1942年6月20日、整骨院を経営していた父・善治と母・かつの3男として生まれる。出生時で3600gという大柄な体格で、東川副小6年の時には健康優良児に選出されている。 諸富中学では柔道の選手として活躍。また生徒会長を務めるなど人望もあり、体力のみならず学力にも秀で、将来は防衛大学校を目指していたといわれ、後に理論、頭脳明晰として知られる人物の片鱗を見せていた。
岩永 浩美(いわなが ひろみ、男性、1942年6月17日 -… 岩永 浩美(いわなが ひろみ、男性、1942年6月17日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属。参議院議員(3期)、参議院農林水産委員会委員長、農林水産副大臣(第1次安倍改造内閣、福田康夫内閣)、佐賀県議会議員(6期)などを歴任。 佐賀県西松浦郡西有田町(現有田町)出身。佐賀県立伊万里高校を経て1964年中央大学商学部中退。1967年衆議院議員第一秘書となる。1975年、佐賀県議会議員当選。以後連続6期20年務める。1995年には佐賀県議会議長に就任。 1995年11月、参議院議員補欠選挙に自由民主党公認で佐賀県選挙区より立候補し初当選、以後連続3期15年務める。 2005年8月8日の郵政国会では、郵政民営化法案に反対票を投じた。
永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は… 永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
三井 誠(みつい まこと、1942年1月4日 -)は、日本の… 三井 誠(みつい まこと、1942年1月4日 -)は、日本の法学者。同志社大学客員教授。神戸大学名誉教授。専門は刑事訴訟法。法学博士(東京大学、1969年、学位論文「起訴便宜主義」)。佐賀県佐賀市出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
矢川 元基(やがわ げんき、1942年 - )は、日本の工学… 矢川 元基(やがわ げんき、1942年 - )は、日本の工学者。工学博士。佐賀県鹿島市出身。 計算力学ならびに原子力構造工学の研究者。工学博士(東京大学、論文タイトルは『構造物の応力集中に関する研究:有限領域を有する円筒殻の応力集中を中心として』)。東京大学大学院教授、東洋大学教授、原子力安全研究協会理事長、日本学術会議会員、日本応用数理学会、日本シミュレーション学会会長、IACM(国際計算力学連合)会長、韓国成均館大学校ワールドクラスユニヴァーシティ教授等を歴任。 1995年、当時の科学技術庁に設置された計算科学技術推進会議の座長として、我が国初のスーパーコンピュータ開発国家プロジェクト「地球シミュレータ」計画をまとめた。
南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )… 南里 宏(なんり ひろし、男性、1941年2月12日 - )は、日本の武道家・空手家(七段)。佐賀県小城市出身。佐賀県立佐賀工業高等学校出身。NPO法人全世界空手道連盟新極真会の東京東支部支部長。 空中のブロックを粉砕するなど試割りの第一人者。 昭和16年(1941年) 東京に生まれ、少年時代を九州で過ごす。高校時はボクシング部に所属。その後上京。 昭和46年(1971年)、30歳の時に極真会館入門。極真会館本部道場師範代と合宿時の隊長を長きに渡り務める。 昭和53年(1978年)、37歳の時で初めて全日本空手道選手権大会に出場を果たす。その時の様子は、真樹日佐夫著『極真空手27人の侍たち』“第18話中年で全日本に挑んだ情熱…南里 宏参段”に詳しい。
牟田 秀敏(むた ひでとし、1941年2月2日 - 2021… 牟田 秀敏(むた ひでとし、1941年2月2日 - 2021年3月12日)は、日本の政治家。第5代佐賀県鳥栖市長(2期8年)。 佐賀県出身。1941年(昭和16年)、満州と朝鮮の国境付近で誕生し、終戦後日本に引き揚げ。佐賀県立三養基高等学校卒業。参議院議員秘書 を経て佐賀県議会議員を4期、自民党佐賀県連総務会長(1990年 - 1991年)、政調会長(1991年 - 1993年)を務める。1999年(平成11年)3月から鳥栖市長を2期8年務める。市の行財政改革をはじめ、鳥栖流通業務団地整備事業、九州新幹線鹿児島ルートの建設、新鳥栖駅周辺整備事業をすすめた。 2007年(平成19年)の市長選で橋本康志に敗れる。
荒波 秀義(あらなみ ひでよし、1940年11月16日 - … 荒波 秀義(あらなみ ひでよし、1940年11月16日 - 2010年9月2日)は、佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡島(※現役当時、現・唐津市)出身で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は牧山 通雄(まきやま みちお)。得意手は左四つ、吊り、突っ張りなど。最高位は西前頭4枚目(1965年3月場所)。現役時代の体格は184cm、106kg。 同じ東松浦郡鎮西町出身で、小結まで昇進した松浦潟達也(本名・牧山強臣、錦島部屋→立田山部屋)とは、血縁関係にあった。 カトリック教徒でもあった。 日本相撲協会から離れ、その後、故郷に程近い長崎県で造船業に従事していた。造船会社を辞めてからは福岡市に移り住み、相撲料理店「ちゃんこ荒波」を経営したが、2004年頃に閉店したという。
白水 宏典(しらみず こうすけ、1940年8月28日 - )… 白水 宏典(しらみず こうすけ、1940年8月28日 - )は、日本の技術者、実業家。トヨタ自動車取締役副社長や、ダイハツ工業代表取締役会長を務めた。 佐賀県鳥栖市出身。福岡県立明善高等学校を経て、1963年九州大学工学部造船科卒業。同年トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。田原工場第2製造部長を経て、1992年湯野川孝夫らとともに取締役に昇格。1997年常務取締役。2000年専務取締役。2001年取締役副社長。 2005年からダイハツ工業代表取締役会長を務め、系列の解体や軽自動車専用ラインの整備などを進めて、軽自動車販売台数で30年以上トップの座にあったスズキを抜き業界トップとした。トヨタ自動車の意向でグループ定年の68歳を超えても続投していたが、2011年相談役技監に退いた。
10代式守錦太夫(じゅうだい しきもりきんだゆう、1940年… 10代式守錦太夫(じゅうだい しきもりきんだゆう、1940年8月6日 - 2007年2月10日)は大相撲の元三役格行司。二所ノ関部屋所属。佐賀県出身。本名:中島忠雄。 1957年11月場所に木村忠雄の名で初土俵。序ノ口格で14代木村玉光 (のちの25代木村庄之助) の付け人になった。 若手時代は行司としての評価は芳しくなく、1958年5月場所では序ノ口格から見習いへの格下げ、翌7月場所で序ノ口格に戻るも木村弘行(のち幕下格)に抜かれ(1959年7月場所で抜き返す)、幕下格時代の1974年1月場所に黒星(差し違え)数の関係で木村孔一(のちの三役格・木村一童)に抜かれ(1975年3月場所に抜き返す)、十両格に昇進するまで初土俵から22年掛かった。
三井 徹(みつい とおる、1940年3月31日 - 2023… 三井 徹(みつい とおる、1940年3月31日 - 2023年2月19日)は、日本の音楽学者、英文学者。金沢大学名誉教授。 佐賀県佐賀市生まれ。福井県小浜市育ち。1964年、九州大学大学院文学研究科修了。1967年、インディアナ大学大学院民俗学研究科博士課程中退。1964年から愛知大学勤務、1969年、金沢大学講師、助教授、教授。2005年、定年退官、名誉教授。 本来の専門は英文学だが、のちに日本のアカデミズムにおけるポピュラー音楽研究の第一人者となった。国際ポピュラー音楽学会会長(1993年 - 1997年)、日本ポピュラー音楽学会会長などを歴任。ケンブリッジ大学出版局発行の「ポピュラー・ミュージック」国際顧問編集者もつとめた。
中野 尚弘(なかの なおひろ、旧姓:池田、1940年1月17… 中野 尚弘(なかの なおひろ、旧姓:池田、1940年1月17日 - 2021年1月3日)は、元オリンピックバレーボール選手、バレーボール日本男子代表監督。中野蒲鉾店(長崎県の企業)代表取締役社長。 佐賀県鹿島市出身。福岡大学卒業後、八幡製鐵に入社。 バレーボール日本男子代表選手として1964年東京オリンピックに出場、銅メダルを獲得し、1968年メキシコシティーオリンピックでは選手兼任コーチとして登録されて出場、銀メダルを獲得した。 指導者としては、日本が金メダルを獲得した1972年のミュンヘンオリンピックでは松平康隆監督の下で日本男子代表コーチを、1984年のロサンゼルスオリンピックでは代表監督、1992年バルセロナオリンピックでは総監督をそれぞれ務めた。
荒川 文夫(あらかわ ふみお、1940年1月1日 - )は… 荒川 文夫(あらかわ ふみお、1940年1月1日 - )は、現在の佐賀県武雄市出身で二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名同じ。176cm、94kg。最高位は東十両8枚目。得意技は左四つ、寄り。 1956年5月場所初土俵、1964年3月場所十両昇進。しかし十両中位の壁を破れず、1966年9月場所を以て廃業した。 2024年8月20日に放送された『開運!なんでも鑑定団』(テレ東)のコーナー「出張!なんでも鑑定団」(岡山県矢掛町)に、依頼人の大伯父(依頼人の祖母が荒川の妹)として観客席で出演。それによると引退後は佐賀でちゃんこ鍋料理店を2014年頃に畳むまで経営していたという。その際、同期で後に横綱となった大鵬とは仲が良く、荒川の引退の時に大鵬から餞別として贈られた、大鵬が大関時代に使っていた化粧廻しの一つが出品された。
江島 恵教(えじま やすのり、1939年(昭和14年)8月2… 江島 恵教(えじま やすのり、1939年(昭和14年)8月28日 - 1999年(平成11年)5月22日)は、日本の仏教学者。 佐賀県唐津市生まれ。1958年佐賀県立鹿島高等学校卒、1962年東京大学文学部印度哲学梵文学科卒、1966年同大学院博士課程中退、東京大学東洋文化研究所助手、1972-1974年ドイツ・ゲッティンゲン大学で在外研修、1974年助手を退官、1975年「Bhavavivekaを中心とする中観学派の研究 空性論証の論理をめぐって」で東大文学博士。1978年長岡技術科学大学助教授、1982年東大文学部助教授、1987年教授。定年前に病没。没後従四位勲三等瑞宝章受勲。
古賀 常次郎(こが つねじろう、1939年〈昭和14年〉5月… 古賀 常次郎(こが つねじろう、1939年〈昭和14年〉5月18日 - 2026年〈令和8年〉3月4日)は佐賀県の実業家、篤志家、発明家。古賀商事代表取締役。更生保護活動への取り組み、旭日双光章など数々の受章・受賞で知られる。佐賀県佐賀市出身。
蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )… 蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。佐賀県出身。4校を甲子園大会に導いている。 佐賀県佐賀市(旧川上村)の生まれ。上京後、東京都立田園調布高等学校に進学。早稲田大学では野球部で三塁コーチを務めた。卒業後は河合楽器硬式野球部に所属したが、教員試験合格後、1964年に佐賀県立佐賀商業高等学校の監督に就任。翌年に第47回全国高等学校野球選手権大会出場に導いたが、スパルタ指導が問題視され辞任。その後、千葉県に移り、千葉県立東金商業高等学校では甲子園に導けなかったが、千葉県立千葉商業高等学校では1970年の第42回選抜高等学校野球大会に導いている。1974年に千葉県立印旛高等学校に移り3度の甲子園出場を果たす。
若林 茂熙(わかばやし しげき、1939年2月21日 - )… 若林 茂熙(わかばやし しげき、1939年2月21日 - )は国画会会員の画家。佐賀県佐賀市出身。父は画家若林景光、弟は画家若林夏生。
安東 巖(あんどう いわお、1939年〈昭和14年〉 - )… 安東 巖(あんどう いわお、1939年〈昭和14年〉 - )は、日本の社会運動家。宗教家。元生長の家本部講師。 佐賀県鳥栖市出身。高校2年の時に肺動脈弁狭空症を発症。以後7年間、寝たきりの生活を送るが、生長の家の教えである「人間神の子。本来、病なし」に触れて信仰生活に入った結果、回復。25歳の時に復学し卒業。 1966年、長崎大学に入学し椛島有三と共に長崎大学学生協議会を結成。同協議会は後に大分大学などと共に全国学生自治体連絡協議会と発展する。大学を卒業後は生長の家で専従職員を経て政治局政治部長・本部講師などを歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、… 権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手・内野手、右投右打)・コーチ・監督・野球解説者・野球評論家。 現役時代は中日ドラゴンズでプレーし、全盛期は短いながら1961年から1962年にかけて2年連続で30勝以上を記録してセントラル・リーグの最多勝利投手となるなど、エース投手として活躍、新人年の1961年にはセ・リーグの投手三冠(最多勝・最優秀防御率・最多奪三振)を達成、沢村賞と同リーグの新人王を同時受賞した。投手としての通算成績は5年間で210登板、1136投球回、82勝60敗、667奪三振、防御率2.69。引退後は中日や近鉄バファローズ、福岡ダイエーホークス、横浜ベイスターズでコーチを、また1998年から2000年には横浜の監督を務め、横浜監督就任1年目の1998年にはチームを38年ぶりのセ・リーグ優勝と日本シリーズ優勝に導いた。
福井 宏(ふくい ひろし、1938年4月12日 - )は、プ… 福井 宏(ふくい ひろし、1938年4月12日 - )は、プロ野球審判員で、元セントラル・リーグ審判副部長。審判員袖番号は24(1988年初採用から1997年退職まで、台湾出向→審判指導員時代もつけていたが退職と同時に返上(引退はしていない)。24は1999年以降嶋田哲也がつけている)。佐賀県伊万里市出身。 佐賀県立伊万里商業高等学校を卒業、親和銀行勤務を経て、1962年に一般公募にてセ・リーグ審判部に入局(1968年には審判員交流制度により1年間パ・リーグ審判部に在籍)、1990年から副部長をつとめ、1994年まで日本プロ野球で活躍した後、翌1995年には台湾にわたり、1996年からは審判指導員を務めた。
緒方 克陽(おがた かつよう、1938年2月5日 - )は、… 緒方 克陽(おがた かつよう、1938年2月5日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(3期)。 佐賀県鳥栖市出身。鳥栖工業高校卒業後、国鉄に入社。国鉄労働組合に参加し、佐賀県評議長を経て、1986年の第38回衆議院議員総選挙で八木昇の後継者として佐賀県全県区から日本社会党公認で立候補し、初当選。同党の県本部などで構成する「玄海原発設置反対佐賀県民会議」の議長を務めていた事から、佐賀県電力総連との政策協定作りなどが難航した。 1995年には村山改造内閣で運輸政務次官に就任。1996年の総選挙で佐賀県第1区から社会民主党公認で立候補するが落選。2000年の衆議院総選挙でも同区から立候補し、前回を約3,000票上回る30,018票を得たが再び落選した。
30代 木村 庄之助(さんじゅうだい きむら しょうのすけ、… 30代 木村 庄之助(さんじゅうだい きむら しょうのすけ、本名は鵜池 保介(ういけ やすすけ)、1938年2月1日 - )は、大相撲の立行司の一人。木村庄之助としての在位期間は2001年11月〜2003年1月。佐賀県神埼郡神埼町(現・神埼市)出身。出羽海部屋所属。 1955年3月場所、後に「泉の親方」と呼ばれた名行司22代木村庄之助に入門。兄弟子に28代木村庄之助が、同期生には31代庄之助、32代庄之助、33代庄之助がおり、32代庄之助は同部屋で同期である。翌5月、木村保之助(初代)の名で初土俵。保之助を11年名乗って1966年9月師匠の前名である3代木村林之助を襲名、翌11月に十両格に昇格。
熊本 典道(くまもと のりみち、1937年〈昭和12年〉10… 熊本 典道(くまもと のりみち、1937年〈昭和12年〉10月30日 - 2020年〈令和2年〉11月11日)は、日本の裁判官、弁護士。袴田事件第1審の担当判事(左陪席)として無罪の心証を形成しつつも裁判長・右陪席の説得に失敗し死刑判決を下したが、後年良心の呵責から合議の秘密を破って被告人(袴田巌)の無実を訴えた人物として知られる。 1937年(昭和12年)佐賀県東松浦郡打上村(後の鎮西町、現:唐津市)に生まれる。父母ともに小学校教員をつとめる家庭の長男として厳格な教育を受ける。 1953年(昭和28年)に鎮西町立打上中学校(現:唐津市立海青中学校)卒業、佐賀県立唐津高等学校(在学中に分離により佐賀県立唐津東高等学校となる)入学。
中里 隆(なかざと たかし、1937年 - )は、陶芸家。 … 中里 隆(なかざと たかし、1937年 - )は、陶芸家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - … 打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - 2003年3月3日)は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手。 常磐高校から1956年に西鉄ライオンズへ入団。 1958年シーズン終了後トレードで中日ドラゴンズへ移籍。 1962年に近鉄バファローズへ移籍し、同年引退。 西鉄時代はバッティングピッチャーやブルペンキャッチャーとしての仕事が多く、出場機会はほぼなかった。1958年に西鉄が日本シリーズ三連覇を果たした際には、これまでの貢献を考慮して三原監督から金一封が送られた。
牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- … 牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- )は佐賀県佐賀市出身の実業家。サッカーJ2サガン鳥栖を運営するサガンドリームスの元代表取締役社長。
山下 惣一(やました そういち、1936年5月25日 - 2… 山下 惣一(やました そういち、1936年5月25日 - 2022年7月10日)は、日本の農民、小説家。農業をテーマにした作品の小説・ルポを執筆した。 佐賀県唐津市出身。唐津市立湊中学校卒。86歳没。 中学校の卒業後に家業の農業を継いだ。30歳過ぎで作家となった。 2006年、毎日国際交流賞を受賞。 2021年2月、執筆活動から引退。 2022年7月10日、肺がんのため死去。86歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 -… 原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉5月29日)は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身のアマチュア野球監督・社会人野球選手。東海大学硬式野球部名誉総監督。 長男は元プロ野球選手・監督の原辰徳。孫(長女の長男)はプロ野球選手の菅野智之。 佐賀県立鳥栖工業高校卒業、立命館大学中退。社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。1965年に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。 その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者:総長松前重義の招きで1966年12月9日に大牟田を発ち、翌10日に神奈川県着。
津村 準二(つむら じゅんじ、1936年2月5日 - )は、… 津村 準二(つむら じゅんじ、1936年2月5日 - )は、日本の経営者。佐賀県佐賀市川副町早津江出身。 佐賀郡早津江出身。中川副国民学校から龍谷中学校を経て佐賀県立佐賀高等学校に進む。プロ野球選手の田中久寿男が小学校時代の同級生に、小説家の岩橋邦枝が高校時代の1年先輩に居た。1958年に東京大学法学部を卒業し、所属していたボート部の先輩に勧められ同年に東洋紡績に入社。1980年9月に取締役に就任し、1997年6月には専務に就任した。1999年6月に社長に昇格した。2005年6月に会長に就任し、2010年6月から相談役を務めた。
梅田 正己(うめだ まさき、1936年(昭和11年) - )… 梅田 正己(うめだ まさき、1936年(昭和11年) - )は、日本の著作家・書籍編集者・市民活動家。 高文研の代表、顧問を務める。 佐賀県唐津市生まれ。 1972年(昭和47年)、高文研を設立し、高文研の代表や顧問を務める。1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて、国家秘密法に反対する出版人の会事務局を勤める。1986年(昭和61年)以降、横浜事件・再審裁判を支援する会事務局を担当している。日本ジャーナリスト会議出版部会代表。マスコミ九条の会の呼びかけ人のひとり。 下記は、Amazonの著者紹介(1)、Amazonの著者紹介(2)に掲載されている情報を参照している。 一橋大学社会学部を卒業し、1959年(昭和34年):三省堂に入社する。
川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12… 川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12月2日 - 2019年(平成31年)3月5日)は、日本の実業家。ニッポン放送元社長。佐賀県佐賀市出身。 佐賀市水ケ江にあるロングサン薬局の長男として産まれる。 佐賀大附属中、佐賀高校を経て、1959年に東京大学教育学部を卒業し、同年にニッポン放送に入社。 1979年に取締役に就任し、1983年に常務、1985年に専務、1989年6月に副社長を経て、1992年6月に社長に就任し、1999年6月会長に退いた。 1992年から1999年までに日本民間放送連盟の理事を務め、2001年と2002年に東京国際映画祭のゼネラルプロデューサーも務めた。
小城ノ花 正昭(おぎのはな まさあき、1935年11月29日… 小城ノ花 正昭(おぎのはな まさあき、1935年11月29日 - 2006年12月16日)は、佐賀県小城郡三日月村(現・同県小城市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は本村 正昭(もとむら まさあき)→小岩井 正昭(こいわい -)。最高位は西関脇(1962年11月場所、1963年1月場所、同年3月場所)。現役時代の体格は174cm、124kg。得意手は左四つ、寄り、下手投げ。 小城中学校を卒業後は、実家の佐賀新聞販売店を手伝っていた。 父が大の相撲好きだった事もあり、以前よりその勧めで度々、地元の村相撲に参加していたが、そこで飲食店を営んでいた元十両・佐賀ノ山の目に留まり、角界入りを打診される。