柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3… 柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3月1月 - 1981年(昭和56年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、大分県北海部郡佐賀関町長。 大分県北海部郡佐賀関町(現大分市)で、海産物問屋「かしわや」に生まれる。1909年(明治42年)臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を卒業。1913年(大正2年)第七高等学校造士館に進学し、1916年(大正5年)中学校以上の在学生の親睦と町発展のための「摘星郷友会」を立上げ会長に就任した。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 卒業後、朝日信託 (株) に入社し、昭和恐慌を迎えて帰郷した。1930年(昭和5年)に佐賀関町助役に就任し、1930年(昭和6年)同町長となり4期在任した。
八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)… 八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)1月23日 - 1980年(昭和55年)8月29日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、初代大分県旧杵築市長。 大分県速見郡八坂村大字日野(現杵築市)で、大分県会議長を務めた八坂三治の長男として生まれる。早稲田大学政治経済科で学んだが、中国大陸に心惹かれ中退して満州に渡った。1927年(昭和2年)政治家を目ざして帰郷。 1933年(昭和8年)八坂村会議員に選出された。別府自動車社長に就任し、1939年(昭和14年)大分県会議員となる。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大分県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、その後、民主党に所属し衆議院議員に1期在任した。
衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月… 衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月27日 - 1964年(昭和39年)12月21日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 大分県宇佐郡竜王村野山(深見村、安心院町を経て現宇佐市)で生まれる。小学校を卒業。若年で中国に渡り、その後、沖縄、京阪神を遍歴した。福岡県田川郡川崎村(現川崎町)で炭鉱夫として働く。昭和の初めに川崎町で東豊炭鉱を経営。以後、田川商工会議所副会頭、大進鉱業代表取締役、耶彦新聞名誉社長、衛藤商事社長、衛藤鉱業社長、文珠岳炭礦社長(佐世保市)、東豊商事社長などを務めた。戦後の復興と朝鮮特需で1951年(昭和26年)には長者番付1位となった。 政界では川崎町会議員を務めた。
木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 198… 木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 1980年6月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1942年 - 1945年、1952年 - 1955年)、元大分市長(官選)(1945年 - 1947年)、元大分県知事(1955年 - 1971年)。大分県知事としては、官選も含めると第41 - 44代、公選のみでは第3 - 6代にあたる。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。旧制宇佐中学校(現宇佐高校)、旧制第五高等学校を経て、1918年に東京帝国大学法科を卒業。三井物産、兵役、英語教師(旧制大分中学校(現大分上野丘高校))、イギリス・ドイツ留学を経て、1926年に弁護士となる。 太平洋戦争下の1942年に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選。
原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日… 原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日 - 1978年(昭和53年)7月13日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡緒方村長。 大分県大野郡牧口村雨堤(清川村雨堤を経て現豊後大野市)で生まれる。成人後、同郡緒方村大字井上(緒方町を経て現:豊後大野市)の原尻家の養子となる。大分師範学校専攻科を卒業し郡内で代用教員となる。その後、上京して東京物理学校(現東京理科大学)高等師範科で学んだが、1925年(大正14年)中退して近衛騎兵連隊に入隊。除隊後に帰郷し、農業を営む。 1931年(昭和6年)緒方村収入役に就任。1929年(昭和14年)緒方村長となる。
堀 綱四郎(ほり つなしろう、1894年(明治27年)1月1… 堀 綱四郎(ほり つなしろう、1894年(明治27年)1月1日 - 詳細不詳 )は、日本の政治家である。古河鉱業の足尾銅山に勤め、社会運動を行い、愛国団体に所属した後、栃木県会議員に当選し政治家となる。その後、栃木県上都賀郡足尾町長(現:日光市)を3期務めた。大分県大分市出身。 1894年(明治27年)大分県大分市の士族である堀潜造の次男として出生する。その後、家族で岡山県へ移住し、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。1911年(明治44年)に同校を卒業し、1913年(大正2年)旧制第六高等学校へ進学する。しかし、1年で同校を退学し帝国大学への進学をやめ、1914年(大正3年)私立の明治大学予科へ進学し、翌年、明治大学法学部へ入学する。
秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12… 秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12月21日 - 1949年(昭和24年)4月23日)は、日本の陸軍軍人。内閣綜合計画局長官。最終階級は陸軍中将。 大分県で、村長・秋永澄蔵の三男として生まれる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第23連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、同年12月、野砲兵第23連隊中隊長に就任。野戦重砲兵第3連隊中隊長、陸軍省整備局付勤務、整備局課員を経て、1927年(昭和2年)4月から1930年(昭和5年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。
岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 19… 岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 1975年5月25日)は、日本の政治家。大分県議会議長・自由民主党大分県支部連合会長などを歴任した。 1893年11月19日、大分県北海部郡青江村にて、岩崎宝十郎の次男として誕生する。臼杵中学校に通うも、病気のため中退する。その後、20歳で憲政会の青年会津久見分会長となる。大正期には箕浦勝人を支持し、普通選挙運動に加わった。1924年5月には、衆院選における羽田彦四郎の選挙結果を巡って乱闘事件を起こし、検挙される。しかし、この「大分三区事件」により、対立候補であり、羽田を制して当選した木下謙次郎の得票に無効票があることがわかり、選挙結果は覆った。
三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月… 三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍少将。兄は弘前第8師団長を務めた陸軍中将 三好一(陸士8期)である。 1893年(明治26年)11月15日、大分県竹田市に生まれる。旧制大分県立宇佐中学校から海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第99位、卒業時成績順位は96名中第41位。 海軍水雷学校高等科学生、海軍潜水学校甲種学生を修了した、水雷科(潜水艦)を専門とする士官である。 戦艦「陸奥」艦長に着任した3か月後の1943年(昭和18年)6月8日、柱島泊地における「陸奥」の爆沈事故により殉職し、同日付で海軍少将に進級した。
一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月… 一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1974年(昭和49年)3月15日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県下毛郡小楠村一ツ松(中津町を経て現中津市)で、一松嘉蔵の二男として生まれ、1936年(昭和11年)に分家した。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、特待生として東京高等商業学校に入学し、1916年(大正5年)に卒業した。 同郷の先輩磯村豊太郎の知遇を得て1916年に久原鉱業(現JX金属)に入社し、その後、久原商事(久原財閥)に転じた。英語に堪能で貿易業務を担当しニューヨーク支店長を務めた。帰国後、日本鉱業(現ジャパンエナジー)運輸部長に就任し、以後、久原財閥からの派遣で、日本汽船、樺太汽船、中山製鋼所などの取締役を兼務した。
一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月… 一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。 日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。 日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代2位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。 太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。
江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26… 江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26年)4月25日 – 1974年(昭和49年)5月20日)は、大正から昭和期の水産技術者、政治家。参議院議員。 大分県宇佐郡、現在の宇佐市で生まれる。1916年(大正5年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)本科養殖科を卒業した。 1918年(大正7年)大分県水産技手に就任。以後、水産試験場技手、台湾総督府技手、滋賀県技手、地方農林技師・佐賀県水産課長兼水産試験場長・水産製品検査所長、愛媛県水産課長、山口県水産課長、下関漁港事務所長事務取扱などを歴任した。その後、山口県健民対策審議会専門委員、同水産業会長、同漁業組合連合会長、山口漁村振興協議会長、福石商会会長、天山商事社長などを務め、山口県の水産業界の振興に尽力した。
安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年… 安藤 狂四郎(あんどう きょうしろう、1893年〈明治26年〉3月8日 - 1982年〈昭和57年〉2月14日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。 大分県大分郡松岡村出身。地主・安藤勝市の四男として生まれる。大分中学、第五高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入り、新潟県属として内務部学務課に配属された。 1919年4月、新潟県警部・警察部警務課長に就任。以後、内務省衛生局保険課勤務、鹿児島県出水郡長、栃木県内務部農商課長、同庶務課長兼地方課長、東京府内務部庶務課長、岩手県書記官・警察部長、内務書記官・警保局高等課長、東京府書記官・学務部長、静岡県書記官・内務部長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月… 山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月6月 - 1987年(昭和62年)6月17日)は、大正から昭和期の山林地主、実業家、政治家。衆議院議員、大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民。 大分県宇佐郡麻生村大字山口(四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した。
福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 -… 福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 … 佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1953年〈昭和28年〉3月9日)は、日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。 豊後杵築藩の侍医を勤めた佐野家に生まれる。 第七高等学校造士館を経て東京帝国大学法学部を卒業後は大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加した。日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。
丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1… 丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1977年(昭和52年))は、大分県臼杵市出身の昆虫学者、農学博士、ゴルフ場設計者。 丸毛信勝は、1892年(明治25年)、大分県臼杵市の臼杵藩士、町奉行の家柄に生まれ、旧制杵築中学校を卒業し、東京帝国大学農学部に入学、昆虫学の三宅恒方に学んだ。 丸毛は蝶の研究で権威といわれ、日本昆虫図鑑を作成し、1921年(大正10年)、29歳で農学博士になった。その後、ドイツに留学し、帰国後、1964年(昭和39年)、釧路女子短期大学の学長を務めた。 ある時、芝の害虫調査の依頼があった、旧制杵築中学校の海軍中尉・吉良俊一(後・海軍中将)からである。丸毛は芝調査をするため、イギリスやアメリカのゴルフ場を視察し調べた。
麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日… 麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日 - 1940年〈昭和15年〉9月6日)は、大正・昭和期の政治家・労働運動家。戦前の無産政党・社会大衆党の党首を務めた。 大分県玖珠郡東飯田村(現:九重町)生まれ。旧制大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、1913年第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学に熱中し、これがロシア革命に関心を寄せる契機となった。また女性関係も派手であったといわれている。 東大卒業後の1917年、東京日日新聞(現:毎日新聞)に入社(後に退社)。翌1918年には東日紙上に「ピーターからレーニンまで」を連載しロシア革命を支持した。
古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月… 古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月15日 - 1982年(昭和57年)3月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。太平洋戦争において第一潜水戦隊司令官として、キスカ島撤退作戦などを戦った。 古宇田は大分県出身で海兵41期生である。海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、118名中53番で海軍兵学校を卒業した。初級士官時代に第一次世界大戦に出征し、遣米枝隊(森山慶三郎司令官)に属して北米の通商保護に従事した。 大尉進級とともに海軍水雷学校高等科へ入校。海兵同期からはともに潜水艦部隊の司令官として太平洋戦争を戦う山崎重暉、原田覚(前掲写真古宇田の後ろ)も入校し、首席はルンガ沖夜戦を戦った田中頼三であった。
吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11… 吉岡 安直(よしおか やすなお、明治23年(1890年)11月1日 - 昭和22年(1947年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 農業・川内清作の五男として大分県に生れ、佐賀県の貿易商・吉岡又吉の養子となる。中津中学校、第五高等学校中退、士官候補生を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。陸士生徒隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長となる。 1927年(昭和2年)2月、参謀本部付勤務(庶務課)となり、参謀本部員、支那駐屯軍参謀、歩兵第45連隊大隊長、第8師団参謀などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀となり、翌年8月、歩兵中佐に昇進。
吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9… 吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9日 - 1947年(昭和22年)4月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1889年9月9日、大分県に生まれる。1909年3月、杵築中学を卒業。9月、海兵40期に入学。同期には山口多聞、宇垣纏、大西瀧治郎、千田貞敏らがいる。1912年7月、海兵40期を卒業し、少尉候補生になる。1913年(大正2年)12月、少尉任官。 1916年12月1日、航空術学生に任命。1921年(大正10年)8月6日、センピル教育団の講習に参加した。1922年11月10日、航空母艦「鳳翔」航空長兼分隊長に任命。1923年(大正12年)3月16日、「鳳翔」で行われた一〇式艦上戦闘機の発着艦テストに成功。
宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)… 宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)5月1日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡八坂村(現杵築市)で、酒造業の家に生まれる。大分県農学校(のち大分県立三重農業高等学校となり閉校)を卒業。 速見郡朝日村(現別府市)の兄が経営していた酒店を引き継ぐ。油屋熊八、梅田凡平らと別府宣伝協会を結成して全国に別府を宣伝した。豊洋水産取締役会長、鬼山地獄社長なども務めた。 1924年(大正13年)別府市会議員に選出され同議長にも就任。1943年(昭和18年)全国市会議長会(現全国市議会議長会)会長に就任。1935年(昭和10年)大分県会議員となり1期在任した。
平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2… 堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2日 - 1963年(昭和38年)12月27日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 大日本武徳会武術教員養成所卒業。著書『大日本剣道史』は剣道史研究の名著として知られる。また、吉川英治の小説で宮本武蔵が注目される以前に『宮本吉岡決闘之地』の石碑を私費で建立した。 大分県別府に生まれる。父・堀政太郎は江戸時代には楊心流柔術の師範であったが、維新後は駄菓子屋を営んでいた。1894年(明治27年)、熊本県阿蘇郡小国村に移住し、12歳から父より剣術を学ぶ。1903年(明治36年)、旧中津藩士・丸山伝八より神一刀流剣術を学ぶ。 1905年(明治38年)、父と死別。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日… 江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日 - 1946年(昭和21年)12月29日)は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。 大分県西国東郡香々地町(現豊後高田市)に旧家江口家の三女として生まれる。1901年(明治34年)、大分県大分郡大分町(現大分市)の大分県立大分高等女学校で学ぶ。 1906年(明治39年)に弁護士と結婚して大分町に在住する。しかし、1915年(大正4年)に離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。1916年(大正5年)に千葉県南葛飾郡小岩村の借家で白秋と同棲を始める。1918年(大正7年)には白秋と入籍するも、1920年(大正9年)に離婚。 離婚後は大分に戻り、別府市の伊藤家別荘に逗留していた柳原白蓮を訪ねて身を寄せた後、西国巡礼に向かい、その帰途に大分市松岡の浄雲寺や木上の少林寺を訪れた。
藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 19… 吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 1987年5月1日)は、日本の洋画家。吉田博の妻であり、夫婦ともに洋画家である。 洋画家である吉田嘉三郎と、その妻の吉田るい(英語版)の三女。小学生の頃に上京し、11歳で小山正太郎の画塾不同舎に入門。当時はまだ義兄であった吉田博とともに1903年にアメリカへ渡り、ともに展覧会を開いたことでアメリカ各地で高評価を得た。1907年に文展に入選している。帰国後は、文展や太平洋画会、日本初の女性による洋画団体「朱葉会」などで活躍し、朱葉会では名誉会長を務めた。戦後には油彩画や木版画なども描き、花を題材とした作品などを生み出した。2002年、府中市美術館で「吉田ふじを展」が開催され、翌年には福岡市美術館でも同じ展覧会名の展覧会が開かれた。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉… 岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉6月10日 - 1937年〈昭和12年〉2月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 大分県大分市出身。大分中学校より海軍兵学校第37期入校。入校成績順位は180名中第17位、卒業成績順位は179名中第3位。 妻は山屋他人海軍大将の長女ハツ。長女・春子は中村亀三郎海軍中将の長男・元夫の妻。 岩下は軍令部第1部在勤中に次期新型艦建造に関して、中村良三や中澤佑、富岡定俊などと共に、高速戦艦型ではなく巡洋戦艦型を主張したが、大艦巨砲主義に支配された首脳部に受け入れられず、少数意見として否定された。しかし太平洋戦争における戦闘の推移を概観すれば、巡洋戦艦ならば重巡洋艦や航空母艦との洋上機動作戦行動が可能であったことから、結果的には岩下側の主張が正しかった事になる。
大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11… 大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11月10日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。宮崎県延岡市長。 大分県大分郡竹中村(現・大分市竹中)出身。1909年(明治42年)10月、裁判所書記試験及第。1911年(明治44年)3月、大分県属となる。 1920年(大正9年)7月に宮崎県属に転じ、1923年(大正12年)3月に同県宮崎郡長、1924年(大正13年)8月に同県児湯郡長を経て、1926年(大正15年)7月、地方事務官に任官する。同年10月より大分市助役を3期務め、1937年(昭和12年)4月、延岡市助役に転じ、同年9月に同市市長に就任した。
後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8… 後藤 是山(ごとう ぜざん、本名: 祐太郎、1886年6月8日 - 1986年6月4日)は、日本の文化人。熊本市名誉市民。
首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4… 首藤 今四郎(すとう いましろう、1886年〈明治19年〉4月 - 1970年〈昭和45年〉4月7日)は、日本の政治家。大分県日田市長。 大分県大分郡戸次町(現在の大分市)生まれ。1907年(明治40年)、大分県巡査となった。1914年(大正3年)、文官普通試験に合格し、大分県警部となった。1915年(大正4年)、日田警察署長となった。その後、臼杵、四日市(現・宇佐署)、別府の各署長を歴任した。1924年(大正13年)、宇佐郡長となる。1928年(昭和3年)10月3日、日田郡日田町長に就任。1935年(昭和10年)、大分県会議員となる。1936年(昭和11年)10月2日に町長を退任した。県議在任中の1940年(昭和15年)日田市が発足、翌1941年(昭和16年)3月18日に初代日田市長に就任した。
日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日… 日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日 - 1938年〈昭和13年〉9月28日)は、日本および満州国の軍人。陸軍騎兵大尉で予備役編入後、満洲国軍に参加して日系軍官最初の部隊長となり少将、死後中将特進。 大分県別府市出身。本籍は速見郡南由布村。6人兄弟の末っ子で、中学卒業後に現役志願し、騎兵上等兵として日露戦争に従軍。曹長だった1910年11月、陸軍騎兵実施学校を優等卒業し、銀時計を下賜される。 1917年(大正6年)10月26日、准尉候補者1期生として陸軍士官学校を卒業し、シベリア出兵に参加。少尉任官後も騎兵第12連隊に所属したが、1922年より軍馬補充部に出向し、北海道の川上支部や宮崎県の高鍋支部部員として各地で軍馬の供給・育成に取り組んだ。
大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - … 大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - 1964年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大分県佐伯市出身。アメリカに渡り、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学、コロンビア大学大学院で学ぶ。帰国後万朝報の記者となり、主筆となる。その後、陸海軍の嘱託講師を経て、関東軍、支那派遣軍、北支派遣軍の各司令部の嘱託となる。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の大分1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補して当選する。翼政会政調陸軍委員となった。戦後、推薦議員のため、公職追放となり、追放解除後も立候補することはなかった。1964年(昭和39年)死去。
舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月2… 舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月20日 - 1974年(昭和49年)10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 大分県出身。農業・舞多十郎の息子として生まれる。竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第47連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第47連隊中隊長に就任。 以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、イギリス出張などを経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し陸大教官に就任。 1933年(昭和8年)3月、歩兵第9連隊長に就任し、第1師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し第1師団司令部付となる。
麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 … 麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 - 1949年(昭和24年)8月1日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 醸造業・麻生観八の長男として、大分県玖珠郡、のちの東飯田村(現九重町)で生まれる。県立大分中学校に学んだが病のため中退した。1921年(大正10年)玖珠実業銀行相談役となり、のち同行頭取に就任した。1935年(昭和10年)大分県選挙粛正委員となり、ついで同農地委員、同酒造組合連合評議員、九州水力電気、大分人造羊毛各監査役、森水力電気相談役などを歴任した。 1939年(昭和14年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22… 豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 1885年(明治18年)5月22日、大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由来する。旧制大分県立杵築中学校を経て、1904年(明治35年)12月17日、海軍兵学校第33期に180名中第107位の成績で入校。同期には、「両豊田」の片割れの豊田貞次郎がいるが、和歌山県出身の貞次郎とはこれが初面識であった。1905年(明治38年)11月28日、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵学校を卒業。
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ… 野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 フンドーキン醤油の創業家に生まれた。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。
辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月1… 辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月12日 - 1925年(大正14年)5月30日)は、日本の女性医師。大分県における女性医師の先駆者の一人。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町)に、医師の高木盛胤の三女として生まれる。16歳の時、宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身で大分市で歯科医を開業していた辛島汎と結婚した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - … 松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。1929年に世界で初めて「地球の磁場逆転現象」説を提唱したことで知られ、258万~77万年前の逆磁極期は「松山逆磁極期」と名付けられている。 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている。
佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月2… 佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。群山府尹。平壌府尹。 佐藤健造の四男として、大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)に生まれる。1903年(明治36年)陸軍士官候補生に合格し、歩兵第47連隊に入隊する。陸軍二等計手に進んだのち、1909年(明治42年)1月、陸軍判任文官試験に合格し、1911年(明治44年)5月、朝鮮総督府道書記に就任する。1919年(大正8年)4月、退官し東洋拓殖に入社。1921年(大正10年)4月、再び任官し、同年10月に忠清北道税務課長に就任した。 ついで平壌府内務課長、大邱府内務課長、統営郡守を経て、1931年(昭和6年)4月30日、群山府尹に就任した。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日… 後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。
都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964… 都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964年1月20日)は、日本の神学者、牧師、明治学院院長。 都留音平の息子として大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)に生まれる。長崎市のアメリカ・オランダ改革派教会系のミッションスクールの東山学院で学び、一致長崎教会で瀬川浅から洗礼を受ける。 明治学院高等部、神学部で学び井深梶之助、熊野雄七らの影響を受け、1907年に卒業する。スコットランドのオーボルン神学校に留学し、旧約学を学ぶ。1911年に帰国し、明治学院で旧約学を教えた。1913年、按手礼を受けて牧師になる。 1921年から4年間明治学院高等部長を兼任する。関東大震災の時に2名の朝鮮人学生をかくまう。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年… 衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年2月16日)は、日本の宣教師。アメリカの日系人教会でも牧師を務めた。日本人マフィアのモンタナ・ジョーこと衛藤健の実父でもある。 大分県竹田に生まれる。大分師範学校卒業後、1903年(明治36年)徴兵検査に合格し、第12師団に所属。1904年(明治37年)の日露戦争の際には遼陽会戦に参加。歩兵連隊の司令部で戦闘報告書を書く任務に就く。 関西学院の創立にも関わり、体操の教師を務めた。1917年(大正6年)に日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、彼らを救済するためにストックトンで教会を開く。
朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月2… 朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月21日 - 1971年〈昭和46年〉8月10日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、竹田市名誉市民。 大分県直入郡、のちの豊岡村(竹田町、豊岡村(第二次)を経て現:竹田市)で、公吏朝倉親為の五男として生まれる。1900年(明治33年)大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)を卒業。第五高等学校法科を経て、1907年(明治40年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 富士瓦斯紡績(現:富士紡ホールディングス)に入社。同社常務取締役、静岡県方面委員、朝鮮産業経済調査委員、満州紡績取締役、第二富士電力取締役、大井川鉄道取締役、富士電力取締役、日産自動車専務取締役、明和紡績社長、明治紡績社長、日本自動車配給社長、日本機械輸出振興取締役などを務めた。