橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1… 中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月… 松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月3日 - 1966年〈昭和41年〉2月18日)は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 大分県速見郡、のちの北由布村(由布院村、由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で、北由布村長を務めた松原達の長男として生まれ、親類で漢学塾を営む松原孫作の養子となる。1902年(明治35年)大分県師範学校を卒業した。 玖珠郡戸畑小学校勤務、同郡野上尋常高等小学校長を務め、1907年(明治40年)旅順尋常高等小学校訓導、同第二尋常高等小学校長を歴任。南満州教育会の創立に参画し常任理事に就任。1915年(大正4年)広島高等師範学校教育学科研修生となる。
小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日… 小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、本社課長を務めた。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた。
首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月… 首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年(明治12年)11月30日 - 1934年(昭和9年)10月21日)は、日本の銀行家。台湾銀行理事、大分合同銀行頭取、名古屋銀行副頭取、南満洲鉄道理事等を歴任した。 大分県大野郡小富士村に生まれる。父の生男は大分県会議員だった。 旧制大分県立大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1903年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、横浜正金銀行に入行した。ボンベイ支店長、上海支店長、大阪支店長、本社副総支配人を経て、1923年台湾銀行の理事に就任した。 井上準之助の要請で1927年から大分銀行が二十三銀行と合併して誕生した郷里の大分合同銀行で初代頭取を務め、出光佐三と面会し、審査部の意向に反し融資拡大を決定するなどした。
久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月2… 久保 三郎(くぼ さぶろう、1879年(明治12年)11月23日 - 1934年(昭和9年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。元千葉市長。 大分県宇佐郡豊川村(現:宇佐市)で生まれた。大分県立中津尋常中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年7月、早稲田大学法律科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。以後警保局に勤務し、千葉県長生郡長、同海上郡長、同印旛郡長、同千葉郡長、同香取郡長などを歴任。1924年8月、第2代千葉市長に就任し、1928年8月まで在任した。
村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)… 村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)8月14日 - 1963年(昭和38年)10月21日)は、日本の実業家、政治家。西日本鉄道社長、貴族院勅選議員。 大分県下毛郡中津諸町(現中津市諸町)で、旧中津藩藩医・教育者、村上田長の四男として生まれた。大分中学中津分校(のち中津中学、現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年、早稲田大学政治経済科を卒業した。 大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し記者となる。1908年、三越呉服店に転じ、広告部、通信販売部で勤務した。1912年、和田豊治の勧誘で九州水力電気に入社し、同社取締役、常務を歴任。1930年、九州水力の九州電気軌道(九軌)買収に伴い、九軌専務に就任。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月1… 安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月14日 - 1950年〈昭和25年〉)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 大分県宇佐郡若林村(津房村、安心院町を経て、現宇佐市)出身。安倍寛吾の四男。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1928年(昭和3年)3月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第8連隊長、1930年(昭和5年)8月に近衛師団兵器部長を経て、1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 退役後は軍需会社顧問を歴任した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月… 清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月11日 – 1944年(昭和19年)12月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 大分県宇佐郡四日市町(現在の宇佐市)出身。1897年(明治30年)から欧米各国に留学して法学・経済学を学び、サンフランシスコで「日米新聞」の記者となった。1910年(明治43年)に帰国した後は「東京朝日新聞」記者を経て、南満州鉄道株式会社総裁秘書を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。原内閣・高橋内閣で山本達雄農商務大臣の秘書官を務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から4回連続当選。その間、阿部内閣で大蔵政務次官に就任した。
池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3… 池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県下毛郡大幡村の村長池永為策の三男として生まれる。兄は隆二で、父の跡を継ぐ。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月1… 金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月13日 - 1955年〈昭和30年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣(第16代)、厚生大臣(第7代)。衆議院議員(9期)。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。 経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。 大分県宇佐郡高家村(現:宇佐市)生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1910年(明治43年)に太陽生命保険に転じて支配人となり、1913年(大正2年)に独立して大正生命保険(現:プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)の社長となる。
森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1… 森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1950年(昭和25年)12月21日)は、明治から昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県議会議員、大分県大野郡上井田村長を務めた。 大分県大野郡下野村(上井田村大字下野、朝地村、朝地町を経て、現在の豊後大野市朝地町下野)で、大地主、酒造業・森鵜吉の長男として生まれた。1898年(明治31年)大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業した。1905年(明治38年)3月、家督を相続し、農業、酒造業を営む。 有限責任信用販売購買組合を設立し組合長に就任し、上井田村農会長も務めて18年間在任した。1914年(大正3年)大野郡畜産組合長となり30年間在任し、豊後牛の改良などに尽力した。
松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 … 松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和40年(1965年)2月25日)は、大分県宇佐郡四日市村(現在の宇佐市四日市 (宇佐市))出身の漢学者。如石と号する。 早稲田中学校、豊山中学校教諭、国士舘専門学校、早稲田大学、大東文化学院(大東文化大学の母胎)、東洋文化研究所、東京藝術大学に教鞭を執る。無窮會理事(終戦後)、東洋文化學會評議員・幹事、東洋文化研究所講師・所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 -… 小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 - 1952年(昭和27年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大分市長、別府市長。弁護士。 大分県大分郡、のちの阿南村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で医者の家に生まれる。大分中学校を経て、1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士を開業し、後に大分弁護士会長を務めた。大分市会議員、同参事会員、大分県会議員、同参事会員、同議長に選出された。1935年(昭和10年)、別府市長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回でも再選された。その間、1938年(昭和13年)に大分市長に選出された。
南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 … 南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。
久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - … 久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、日本の児童文学者。 大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身。童謡『夕やけ小やけ』の作詞者でもあり、中野忠八や忠八の弟で久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。運動の一環として訪れたアンデルセンの生地などでアンデルセンの復権を訴え、心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれた。出身地の玖珠町では、「くるしま童話名作選」をモチーフとしたクッキーが販売されている。 村上水軍の末裔である来島通総の子孫で、森藩9代の藩主・久留島通容の孫でもある。父・久留島通寛(みちひろ)(森藩10代藩主・久留島通明の弟)、母・恵喜の長男として森町に生まれた。
久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉… 久恒 久太郎(ひさつね きゅうたろう、1874年〈明治7年〉2月3日 - 没年不詳)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家。 1874年、父の久衞と母のテフ子の長男として生まれる。宮永小学校を卒業し、片端中等科(学制改革により卒業時は高等小学校)に進学。1894年(明治27年)、叔父の久恒彌十郎が村長であった豊田村役場の書記に就いた。1902年(明治35年)10月に下宮永の区長に就き、1910年(明治43年)まで務めた。 父の久衞は、旧幕時代には中津藩の硝煙製造を担っていたが、廃藩置県を受けてこれをやめて、線香の製造をはじめた。しかし利益が上がらなかったため、精米製粉業をはじめ、中津町内において米の小売業を営んでいる。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年… 上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年3月16日)は、日本の経営者。阪神電気鉄道の開業時に技術者として鉄道の敷設を行い、のちに阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)社長を務めた。 大分県下毛郡中津町(現・中津市)出身。大分中学校卒業後、山陽鉄道に就職し、豊州鉄道に転職。同社は九州鉄道と合併し、そのまま建設部主任として留まる。1903年(明治36年)、阪神電気鉄道に移り三崎省三の部下として阪神間に電気鉄道を敷設。翌1904年(明治37年)に阪神電鉄が開通すると阪鶴鉄道に技師長として招かれ、福知山事務所で路線延長に従事する。同線の国有化によって国有鉄道たる鉄道作業局の技師となり、引き続き福知山建設事務所で線路の測量や設計に携わった。
向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6… 向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1946年(昭和21年)8月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 大分県下毛郡津民村(現在の中津市)出身で、幼時に長崎に移住した。愛媛県周桑郡長、警視庁警視・新宿警察署長、長崎県対馬島司、京都市助役などを歴任した。 1920年(大正9年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その間、田中義一内閣で逓信参与官を務めた。
中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5… 中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5年6月16日)- 1938年(昭和13年)1月18日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県日田郡、のちの三芳村(現日田市下井手町)で、中野伍兵衛の二男として生まれる。漢学を修めた。 1899年(明治32年)福岡県久留米市京町で久留米製材所を設立し材木商を営む。のちに東京で合資会社中野材木店(京橋木挽町)を開店した。その他、久留米材木同業組合長、九州材木連合協会長、日田実業銀行取締役、九州材木専務取締役、久留米商業会議所特別議員、同顧問なども務めた。 政界では、久留米市会議員、同参事会員に在任。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(大分県第5区、無所属)で当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年… 釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。 大分県北海部郡海添村内畑(現臼杵市)に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。 明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明… 三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明治3年5月28日)- 1930年(昭和5年)1月31日)は、明治後期から昭和初期の水産技術者、漁業家、政治家。衆議院議員。 豊後国大野郡、のちの大分県大野郡赤嶺村(三重村、三重町を経て現豊後大野市三重町赤嶺)で、三浦喬三の長男として生まれる。1891年(明治24年)法律を学ぶため上京したが、村田保と面会すると日本の水産業振興の重要性を説かれ、水産伝習所(のち東京水産大学、現東京海洋大学)に入学した。1894年(明治27年)水産伝習所を卒業。北海道に渡り水産業の視察、研修を行う。 1896年(明治29年)に帰郷し、大分県庁に入庁して大分県技手、同県水産試験場長、同水産試験業技師、大分県技師、勧業課長などを歴任し、水産業、特に遠洋漁業の振興に尽力した。
久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年… 久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年(昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 豊前中津藩領下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年(明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。
衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4… 衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4月9日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家。大分県農工銀行頭取等を歴任した。 1870年(明治3年)、大分県速見郡北由布村(現・由布市)に溝口家の四男として誕生。1891年(明治24年)に衞藤家に養子に入る。1913年(大正2年)、大分県農工銀行に入り、1922年(大正11年)に常務取締役、1926年(大正15年)には頭取を歴任した。また、佐伯土地、大分証券、豊後土地、大分電気工業の取締役も兼任している。さらに、公職としては、大分県農事講習所長、大分市会議員、大分県会議員を務めた。 この間、1925年(大正14年)に大湯線(現在の久大本線)の湯平駅 - 北由布駅(現在の由布院駅)間が開通したが、その際に由布院盆地内を大きくカーブして北由布駅を通る現ルートの実現に力を尽くし、後の由布院発展の礎となった。
中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本… 中根 中(なかね なか、1870年 - 1954年)は、日本人の黒人運動指導者、または日本の対米諜報員。黒龍会の会員でもあった。第二次世界大戦以前のアメリカで主に活動した。アメリカ当局には、サトカタまたはサトハタ・タカハシ(Satohata Takahashi)などという名前でマークされていた。 現在の大分県杵築市に生まれる。関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会も除名された。日本の妻の他に愛人もいたといわれる。大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪する。 1932年に白人に比して差別され不利な立場にある有色人種を糾合する組織として東方世界平和運動(英語版)がシカゴで結成されると中根もこれに加わり、翌1933年にデトロイトへ移り黒人街で活動を始める。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) … 佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年))は、明治期の鉄道実業家。 豊前国(現・大分県)中津生まれ。藩校進脩館、中津市学校を経たのち慶應義塾を経て郷里中津に帰る。山陽鉄道、豊州鉄道を経たのち日本紡績会社社長となる。その後南海鉄道(現・南海電気鉄道)に転じ副支配人となる。のちに欧米を視察し南海鉄道に改良を加える。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年… 高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉10月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 豊後国大分郡西庄内村(現由布市庄内町)生まれ。1890年(明治22年)に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)で高級旅館泉孫を経営する高橋孫三郎の養子となる。浜脇町会議員を務めた。 1906年(明治39年)から7年間、別府町助役を務めた。同年、別府町会議員に当選した。その後、1909年(明治42年)、1912年(明治45年)、1916年(大正5年)、1920年(大正9年)に再選した。1919年(大正8年)9月25日には速見郡選出の大分県会議員に当選。1924年(大正13年)の別府市会議員選挙でも当選している。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- … 平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- 1937年(昭和12年)2月25日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村(駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ。1891年(明治24年)下毛郡城井村(耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり、1899年(明治32年)家督を相続した。 家業の農業を営む。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9… 河合 操(かわい みさお、1864年10月26日〈元治元年9月26日〉- 1941年〈昭和16年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年(明治12年)11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年(明治28年)8月から1897年(明治30年)2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。 日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年1… 和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。 従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。 豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。 はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に寄食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。
磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延… 磯辺 弥一郎(いそべ やいちろう、1861年3月17日(万延2年2月7日) - 1931年(昭和6年)4月23日)は、国民英学会の創立者。磯部彌一郎とも。 熊本藩士磯辺謙叟の二男として豊後国大分郡鶴崎村(現・大分市鶴崎)に生まれる。漢学塾を経て1875年(明治8年)上京し鳴門塾へ入学したのち慶應義塾に学ぶ。一度ほかの私立学校に転じたのち、1877年(明治10年)慶應義塾に復学し、翌年応募した懸賞作文『酒と博打いずれがその害大なるや』で賞を受ける。 福沢諭吉の民権主義に感化され、1880年(明治13年)に退学して北海道の開拓会社「函館開拓社」へ入社、岩内社に移ったのち、同社の閉鎖に伴い岩内小学校の教員となる。
吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年… 吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日)は、日本の洋画家、教育者。 豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩の御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都の田村宗立が主宰する明治画学館に入門。 1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品。 中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年… 小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年7月18日) - 大正5年(1916年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)、弁護士。 豊前国宇佐郡長洲村(現在の大分県宇佐市)出身。法学を学び、1886年(明治19年)に代言人試験に合格し、山口県で開業した。1893年(明治26年)、弁護士法が施行され、代言人が弁護士と改められるとともに、山口弁護士会会長に選出された。1895年(明治28年)には李鴻章狙撃犯の小山豊太郎の弁護を担当した。 それより先、1887年(明治20年)に山口県内の革新派で防長同士会を組織し、幹事となった。