河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - … 河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - 1990年9月8日)は、昭和時代日本の詩人、作詞家。香川県出身。 1912年(明治45年)5月2日、弁護士・河西善太郎の長男として高松市に生まれる。旧制高松中学校を経て東洋大学在学時に東都大詩人連盟等を結成。機関紙「大学詩派」を主宰する他、新東京演劇映画協会文芸部長として多数の脚本を手がけた。その後大学を中退し、同郷の先輩である菊池寛を訪ね「文藝春秋社」への入社を希望するも「詩で飯は食えない」と断られる。1934年(昭和9年)四国民報社に入社。1937年(昭和12年)に東京朝日新聞が主催した「亜欧連絡記録大飛行応援歌」に応募した「行けよ「神風」空遠く」が応募総数約四万五千編の中から一等入選で採用された。
花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 199… 花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 1992年10月31日)は、日本の詩人、作家。別名・土岐愛作。 岐阜県大垣市生まれ。東洋大学東洋文学科卒。岐阜県土岐市で小学校教師を務め、詩集を刊行する。1939年「首途」でサンデー毎日大衆文芸選外佳作、直木賞候補。「美しき首途」として映画化される。ほか『雑草夫人』も1940年映画化。宝文館に入社し、『令女界』『若草』を編集。長谷川伸、土師清二に師事し、新鷹会会員。戦後は花村の名で子供読物、歴史小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950… 金海松(キム・ヘソン、김해송、1910年12月 - 1950年)は、日本統治時代の平安南道价川市出身の作曲家および歌手。本名の金松奎としても知られる。作曲家としての代表曲『連絡船は旅立つ』(연락선은 떠난다)は、日本では菅原都々子が『連絡船の唄』としてカバーしたもので知られる。その時の名義は金山松夫。東洋大学卒。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 19… 近藤 恒次(こんどう つねじ、1910年8月22日 - 1978年8月16日)は、愛知県豊橋市中柴町出身の教育者・郷土史家。文学博士(東洋大学、1972年)。 1910年に豊橋市中柴町に生まれた。建具商である近藤宇一の長男であり、生家は大手通りから諏訪神社に曲がる角にあった。松山尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)、愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。教員志望だったため、1928年(昭和3年)には東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学し、1931年(昭和6年)に卒業した。 1934年(昭和9年)に花田尋常小学校(現・豊橋市立花田小学校)代用教員となったのが教職の始まりである。豊橋市立商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)、豊橋市立工業学校(現・愛知県立豊橋工業高等学校)、愛知県立時習館高等学校の教員を務め、1971年(昭和46年)に時習館高校で定年を迎えた。
今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997… 今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997年10月13日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。本名は、今村義雄。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東洋大学専門部東洋文学科修了、1933年法政大学文学部哲学科中退。簡易保険局勤務を経て、日本文学報国会事務局長を務めた。戦後、鎌倉文庫勤務を経て、文芸美術国民健康保険組合発足から運営に従事し常務理事を務めた。1975年藍綬褒章受章。
国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年… 国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年)4月21日 - 1989年(平成元年)11月1日)は、日本文学研究者・歌人。立命館大学名誉教授。 福岡県山門郡大和町(現柳川市)生まれ。1931年第七高等学校中退。1936年東洋大学文学部国文科卒、同年7月九州帝国大学法文学部中退、立命館大学専門学部講師、1940年教授、1945年立命館大学予科教授、1947年4月立命館大学法文学部教授、5月退職、6月杉森女子学園講師、1950年福岡県立伝習館高等学校講師、1951年教諭、1953年立命館大学図書館副館長、1955年立命館大学専任講師、1957年教授、1961年 東洋大学文学博士。1966年から1968年まで立命館大学図書館長、1976年定年退任、名誉教授、園田学園女子大学教授。
川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月… 川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月31日 - 1989年(平成元年)12月18日)は、昭和期の僧侶、政治家。参議院議員、浄土真宗本願寺派・正念寺住職。 広島県山県郡出身。龍谷大学予科を経て、1937年(昭和12年)東洋大学文学部を卒業した。その後、中国に8年間留学した。 1953年(昭和28年)浄土真宗本願寺派宗会議員に就任し1989年まで9期在任。1960年(昭和35年)同派総務に就任し2回任じられた。1976年(昭和51年)池田勇人大蔵大臣秘書官となる。1978年(昭和53年)日本仏教連合会国際部長、1982年(昭和57年)浄土真宗本願寺派布教研究所所長に就任。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙で全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
竹谷 長二郎(たけたに ちょうじろう、1910年3月16日 … 竹谷 長二郎(たけたに ちょうじろう、1910年3月16日 - 2012年2月28日)は、日本の漢文学者。 東京出身。1931年東洋大学専門部倫理学東洋文学専攻卒。書道を吉田苞竹に、漢詩を仁賀保香城に学ぶ。旧制中学勤務をへて、東京都立日比谷高等学校漢文・国語教師を務めた。1970年退職。江戸時代の文人画家を研究した。
吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 20… 吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 2003年1月9日)は、日本の国文学者、書誌学者、出版人、古典籍蒐集家。東洋大学名誉教授。 学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文『和泉式部日記の基礎研究』)。日本古典文学の叢書「古典文庫」を個人事業として編纂・発行したことなどで知られる。 1909年(明治42年)4月12日、静岡県静岡市に生まれる。1930年(昭和5年)4月東洋大学文学部国文学科入学、1933年(昭和8年)7月卒業。並行して東京外国語学校支那語専修科(夜間)で中国語を学ぶ。吉田は恩師として藤村作と久松潜一の名を挙げている。 会社勤務、小学校代用教員を経て、1939年(昭和14年)4月、静岡県立浜松商業学校・同工業学校嘱託(中国語担当)。
岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 199… 岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 1992年3月26日)は、日本の神学者。上智大学名誉教授。 長崎県西彼杵郡(現・長崎市)生まれ。1936年東洋大学卒業。1961年パリ大学哲学博士。1953年南山大学仏文科講師、1956年上智大学講師、1961年助教授、1966年上智大学教授に就任、1980年定年により名誉教授となる。また、1979年聖カタリナ女子短期大学教授、1980年学長となった。 1978年フランス学術文化勲章オフィシエ章、1981年勲四等旭日小綬章受章。 1992年3月26日、肝臓癌のため死去。
平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究… 平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究家。秋田県秋田市生まれ。小学校卒業後、鎌倉、東京に住む。1927年旧制鎌倉中学(現:鎌倉学園)卒。1931年東洋大学支那哲学科卒。株式会社第二精工舎嘱託。戦前からの時計収集家であり、戦後は『精工舎史話』などの社史をまとめる傍ら、1951年に発足した日本時計倶楽部の中心メンバーとして『時計文化』『日本時計倶楽部通信』などのガリ版刷機関誌を発行。時計に関する著書も多い。
永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 198… 永田 義直(ながた よしなお、1908年4月5日 - 1983年4月18日)は、日本の国文学者、民俗学者、翻訳家。 神奈川県横浜市生まれ。1931年東洋大学卒。兵庫県の公立高校の教員、校長を経て文筆家。古典文学、日本神話、民俗学、芸能などについて執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月1… 橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月10日 - 没年不明)は、日本の教育者・政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(1期)。 新潟県出身。出生名は市橋喜一。佐渡トキ保護会会長で「トキ博士」の異名を持つ佐藤春雄は実弟。 1931年(昭和6年)に東洋大学文学部を卒業し、陸軍科学研究所に勤務した。橋本家に婿入りし、劇場の橋本座の経営者も務めた。相川町立相川高等女学校や組合立佐渡高等女学校で教諭を務めた。 1949年(昭和24年)2月には両津町加茂村組合立両津高等学校(現・新潟県立佐渡中等教育学校)の校長事務取扱を命じられ、同年6月には両津高校が新校地に移転した。 1950年(昭和25年)に両津町議会議員に当選すると、1952年(昭和27年)には議員選出の両津町教育長に就任し、両津高校の県立移管に尽力した。
秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 198… 秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 1985年3月17日)は、日本演劇学者。永井荷風研究で著名である。 東京府東京市深川区生まれ。1930年東洋大学支那哲学文学科卒業。同大学在学中の1929年に江戸時代から明治時代にかけての文学や演劇、風俗の資料収集し『軟文学研究』を刊行。1937年に『東都明治演劇史』を刊行後、応召。陸軍少佐として従軍し、中国および南方を転戦する。戦時中、特にニューギニアでの体験談をまとめた『ニューギニアの戦い: 秋庭太郎遺稿』が秋庭の死後、鈴木元明監修によって発刊されており、奇跡的な生還だったとのこと。戦後復員し、1946年から日本大学図書館に勤務、館長を務めた。
山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月2… 山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月25日 - 1996年〈平成8年〉5月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。妻は、児童文学作家で翻訳家の山本藤枝。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 福井県遠敷郡松永村門前(現小浜市)で、山本文雄の長男として生まれる。旧制小浜中学校卒業。中学時代より詩作を始め、1926年(大正15年)東洋大学専門学部倫理学東洋文学科に入学、1929年(昭和4年)に卒業した。在学中に乾直恵、白井一二らと『白山詩人』同人となり赤松月船、勝承夫、大村主計と詩を発表し、処女詩集『仙人と人間との間』を創刊し活躍した。 1932年(昭和7年)三省堂編集部に勤めながら文学活動を続け、1935年(昭和10年)には同人誌『星座』に参加、同誌に連載した『国木田独歩ノート』で全国同人誌クラブ賞受賞。
大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16… 大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16日 – 昭和55年(1980年)8月21日)は日本の映画俳優。常用漢字では「大日方 伝」と表記する。 福岡県小倉市堺町の地元の料理家で指月館という敷地が一丁四方ある裕福な名家に生まれたが、父の時代には家は衰えていたという。少年時代からよく喧嘩をしていて顎に傷が残った。中学校卒業後に家族で東京府に移り、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)を卒業後、しばらく園芸好きの兄の農園を手伝ったが東洋大学社会科へ進む。 昭和5年(1930年)、大学卒業後に日活の専属俳優として『至誠の輝き』で銀幕デビュー。デビュー後に日活で数作に出演した後、松竹(松竹蒲田撮影所)へ移籍し同社の専属俳優となる。
牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は… 牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は、現在の長野県茅野市出身の日本語学者。教育者。専門は方言学。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)から東洋大学に進み、橋本進吉、小林好日らに学ぶ。 1930年に卒業・帰郷し、西筑摩郡福島小学校(福島町)、諏訪郡永明小学校、永明高等家政女学校(現:長野県茅野高等学校)に勤務する。 教職の傍ら文法を中心に方言の分布調査を進め、1952年「語法上より見たる東西方言の境界線について」(『国語学』12輯)を発表。引き続き、『東洋大学文学論藻』などに論文を発表し、東西方言の解明に尽くした。
久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月… 久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月13日 - 1998年10月23日)は、日本の児童文学作家。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立松山商業学校卒業後、窪田空穂が主宰する短歌雑誌『国民文学』の同人となる。上京して東洋大学専門部東洋文科に進学。太宰治、檀一雄と出会い、同人誌「青い花」に参加。中退後、川端康成の紹介で創元社編集部の手伝いを経て、1939年に児童図書出版社の教養社へ入社したのを機に児童文学創作を志す。1942年に評論「童話の本質」を発表。1946年に日本児童文学者協会設立と同時に会員となる。 『ビルの山ねこ』で小学館文学賞、『赤い舟の帆』で日本児童文学者協会賞をそれぞれ受賞。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年… 坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年11月9日)は、昭和期の日本の歌人。本名、坪野久作。妻の山田あきも歌人。 石川県羽咋郡志賀町出身。東洋大学文学部支那哲学科を卒業後、「アララギ」に入会し島木赤彦に師事。赤彦没後は小泉苳三主宰の「ポトナム」同人となる。後世のプロレタリア歌人としてのイメージが強いが、赤彦を最大の師として尊敬し、「アララギ」への帰属意識は終生持っていた。 1928年、新興歌人連盟に参加するが、五島茂との間に方向性の違いが生じ、1ヶ月で渡辺順三、浅野順一、伊澤信平、大塚金之助、浦野敬らとともに脱退、無産者歌人連盟を結成。1929年、東京ガスの人夫として働くも労働組合運動に参加したことから解雇される。
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 199… 藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 1998年11月2日)は、歌舞伎研究者。 岐阜県恵那郡上村(現・恵那市)出身。東洋大学文学部卒。1961年「近松の世話悲劇の研究」で東洋大学文学博士。金城学院大学教授、中京大学教授、御園座図書館長を務めた。
本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 19… 本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 1962年8月5日)は、日本の鍼灸師であり、また経絡治療家である。柳谷素霊、井上恵理の弟子。バネ式鍉鍼考案者のひとり。 1904年(明治37年)9月18日、山形県東村山郡に生まれる。山形県立農学校を卒業後、2年ほど家業の農業に従事した後に上京して東洋大学文学部哲学科に入学。 卒業後、巣鴨にてパン屋「ホンマベーカリー」を開業した後に電気治療に携わるようになる。 1939年に柳谷素霊の紹介で井上恵理に弟子入りを懇願。一度断られるものの、鍼灸の研究をともに進むことを誓い、弟子入りを許される。以後毎日井上恵理の治療を見学しに行き、1943年9月に独立開業。
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月… 木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ[独自研究?]。 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。
米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月… 米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月1日 - 1994年〈平成6年〉10月22日)は、日本の書道家。元群馬大学教授。群馬県沼田市(旧利根郡白沢村)生まれ。白沢村名誉村民。 1904年(明治37年)、群馬県利根郡白沢村平出(現・沼田市白沢町平出)に生まれる。父は正眼寺住職・米倉謙龍。幼名・文二。 旧制沼田中学(現・群馬県立沼田高等学校)を経て東洋大学倫理学東洋文学科卒。長野原小学校や川場小学校への勤務を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)教諭となる。1940年(昭和15年)群馬師範学校兼女子師範学校教諭となり、1949年(昭和24年)より群馬大学助教授。 書道は鈴木翠軒に師事。
藤森 睿(ふじもり さとる、1903年 〈明治36年〉12月… 藤森 睿(ふじもり さとる、1903年 〈明治36年〉12月8日 - 1984年〈昭和59年〉8月30日)は日本の政治家。青森県弘前市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 青森県弘前市出身。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、東洋大学倫理学東洋文学科卒。卒業後は青森県立青森高等女学校(現・青森県立青森高等学校)、青森県女子師範学校(現・弘前大学)、青森県立五所川原高等女学校(現・青森県立五所川原高等学校)の各教諭となり、五所川原高等女学校、青森高等女学校の各校長となる。1946年に青森県庁に入り、県視学官、教育、人事の各課長、民生部長を歴任し、1954年、弘前高校校長となり、教育現場に復帰した。
松本 賢一(まつもと けんいち、1903年(明治36年)11… 松本 賢一(まつもと けんいち、1903年(明治36年)11月26日 - 1990年(平成2年)11月26日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、広島県呉市長。 広島県で松本勝太郎の三男として生まれる。東洋大学印度哲学科を卒業し、1932年(昭和7年)からベルリン大学に留学し哲学歴史地理を研究した。 農場経営を行い、呉市信用組合長を務め、1950年(昭和25年)三津窯業社長となる。1954年(昭和29年)4月、呉市長に就任。2期在任し、台風災害からの復旧、呉市民大学講座の開設、近隣町村との合併、呉豊栄高等学校(現呉市立呉高等学校)の新設、呉少年合唱団の創設などに尽力した。1961年(昭和36年)10月に市長を辞職した。
小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8… 小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8月30日 - 1990年〈平成2年〉1月23日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(第10代、3期)。元は旧制鹿児島二中教諭を長く務めた教育者。 鹿児島県姶良郡蒲生村(後の蒲生町、姶良市の一部)生まれ。1922年3月鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)卒業。1926年3月東洋大学国文科卒業。鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)、鹿児島和洋裁縫女学校(現鹿児島城西高等学校)勤務を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)で国語・漢文の教諭を1927年8月31日から約20年間務める。1947年4月重富村立重富中学校初代校長に就任。
小野 十三郎(おの とおざぶろう、本名は小野 藤三郎〈とうざ… 小野 十三郎(おの とおざぶろう、本名は小野 藤三郎〈とうざぶろう〉、男性、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1996年〈平成8年〉10月8日)は、日本の詩人。関西詩人協会所属。 詩誌「赤と黒」に参加。アナーキズム傾向の強い第1詩集『半分開いた窓』(1926年)を刊行した。また、日本の伝統叙情論を否定する詩論で、論壇に衝撃を与えた。代表作に『大阪』(1939年)、『異郷』(1966年)など。 大阪府大阪市南区の裕福な家庭に生まれる。天王寺中学校卒業後、1921年に上京し、東洋大学専門学部文化学科に入学するも、わずか8ヵ月ほどで中退。親からの仕送りを受けながら詩作を続けた。 1923年、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らの詩誌『赤と黒』に参加し、アナーキズム詩運動に入る。
前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 19… 前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 1990年7月15日)は、昭和期の歌人。妻の前川緑、長男の前川佐重郎も歌人。五味康祐夫人千鶴子は妻の妹。 奈良県南葛城郡忍海村(現葛城市忍海)の素封家の長男として生まれる。父は佐兵衛、母は久菊。祖父佐重良は一族の長老として分家にも采配を振るっていた。 小学校六年で初めて短歌を作り、14歳で奈良の儒者越智黄華の漢学塾に学ぶ。1921年、下淵農林学校卒業。同年竹柏会「心の花」入会、佐佐木信綱に師事する。1922年に上京して東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。木下利玄、石槫茂(後の五島茂)ら「心の花」の精鋭が集まる「曙会」にも参加し、「心の花」の新鋭として注目を浴び始める。
三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日… 三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日 - 1971年〈昭和46年〉9月16日)は、日本の言語学者。数学教師。筆名に、加茂 一政(かも いっせい)。従来の主語概念を否定して、「何々は」と「何々が」との機能差を明確にした「主語廃止論(主語否定論)」などで知られる。数学史家の三上義夫は大叔父にあたる。 広島県高田郡甲立村大字上甲立(現・安芸高田市)出身。1960年に『構文の研究』で文学博士(東洋大学、1960年)。『象は鼻が長い』などの日本語研究で知られている。三上自身が創立期に参加していた奥田靖雄・鈴木重幸らの言語学研究会での評価のほか、世界的な評価もあり1970年にはハーバード大学に招かれて講義を行ったことがある。
磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1… 磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1997年4月5日)は、日本の都市社会学研究者。
岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 199… 岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 1996年3月7日)は、歌人、大東出版社代表。 広島県江田島海軍兵学校官舎に生まれる。1922年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒業。1924年東洋大学倫理教育部入学。1925年10月大東出版社創立者、浄閑寺第24世岩野真雄と結婚。同11月仏教学者・高楠順次郎に師事する。1930年1月與謝野寛・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となる。1942年9月與謝野晶子のあとを受け、文化学院にて短歌を指導。『明星』の後継誌『浅間嶺』を主宰。1948年1月法学者であり仏教研究者であった小野清一郎の聖典講座に参加。1968年夫の岩野真雄が死去、大東出版社の代表となる。
長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月1… 長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月17日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の詩人、作詞家。9歳で得度したが、詩人として仏教と向き合う道を選び多くの仏教詩を遺した。静岡県出身。 1902年(明治35年)、静岡県清水市、真宗大谷派の寺院に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。東洋大学中退。1925年(大正14年)、「詩洋」の同人となる。1926年(大正15年)、三省堂勤務。1929年(昭和4年)、第1詩集「青魚集」を刊行。のちに北園克衛らを知り、モダニズムに近づく。1936年(昭和11年)、雑誌「科学ペン」(三省堂)の編集・発行を担当。戦後「現代詩研究」を創刊、主宰した。
田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年… 田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年〈明治35年〉12月3日 - 1989年〈平成元年〉3月26日)は、日本の映画史家、映画評論家、編集者。本名:松倉 寿一(まつくら ひさいち)。代表作は『日本映画発達史』。 1902年(明治35年)12月3日、群馬県新田郡生品村(のち新田郡新田町、現:太田市新田地区)で出生。 大正初年に上京し、東京市神田区(現:東京都千代田区)の旧制中学校に通う。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現:中央区日本橋)の糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂(シネフィル)で、映画雑誌によく投稿していた。
国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年… 国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年)9月7日 – 1974年(昭和49年)10月29日)は、昭和期の詩人、農民運動家、政治家。参議院議員、栃木県那須郡親園村長。 栃木県那須郡親園村(現大田原市親園)出身。1924年(大正13年)東洋大学文化学科を卒業した。その後、上智大学哲学科を中退。 1925年(大正14年)本所キリスト教産業青年会内産業学院主事に就任。この頃、白鳥省吾に師事し、『日本詩人』、『地上楽園』、『詩神』、『北方詩人』などに農民詩を発表した。1934年(昭和9年)親園村長に就任し1期在任した。また、農民青年運動を指導し全国農村青年連盟委員長となった。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して次点であったが、膳桂之助が公職追放で当選を辞退したため当選者となり(補欠、任期3年)、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976… 笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976年11月20日)は、日本の作家。 佐賀県唐津市生まれ。唐津中学中退後、1921年荏原中学を卒業し、1924年頃、東洋大学中退。唐津日日新聞社を経て、1925年に春秋社に入社、中里介山『大菩薩峠』の刊行(角川文庫版の巻末解説も担当)や、八住利雄を担当する。1931年、時事新報社入社、文芸部・社会部に在籍した後1934年退社、文芸主任だった。1936年、週刊朝日に「海舟と按摩」を発表し作家デビュー。1939年、海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊し、1941年「会津士魂」で第1回野間文芸奨励賞を受賞する。戦後は中里介山についての書籍を出版するなどした。
勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 … 勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。 旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。 また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船・岡村二一・岡本潤・角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]。
小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12… 小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12日 - 1975年(昭和50年)6月22日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、岡山県久米郡加美町長。農林畑一筋に活動し「地下足袋の小枝」と呼ばれた。 岡山県久米郡打穴村(中央町を経て現美咲町)の農家に生まれる。打穴尋常高等小学校を卒業。その後、東洋大学経済学部で学んだ。農業のかたわら中国民報(現山陽新聞)通信員となる。打穴村役場書記に就任し、同助役を務めた。1936年(昭和11年)岡山県会議員補欠選挙で当選し、3期在任した。その後、加美町長を務めた。 国民協同党岡山県支部長となり、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から出馬して初当選。
岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4… 岡村 二一(おかむら にいち、1901年(明治34年)7月4日 - 1978年(昭和53年)7月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。東京タイムズ社初代社長。財団法人新聞通信調査会理事長。 長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)生まれ。下伊那教員養成所を修了し飯田小学校の教員となる。 1923年(大正12年)に上京し、東洋大学専門部文科を卒業。1926年萬朝報、1927年新聞連合社勤務を経て、1935年同盟通信社に入社。社会部長、編集局次長を歴任し、1941年には松岡洋右外務大臣のドイツ・イタリア・ソビエト連邦訪問に随行した。 1942年(昭和17年)、特殊法人「日本新聞會」が設立されると専務理事となり、1945年3月、持分合同にあたった日本新聞公社の専任理事に就任した。
与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日… 与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日 - 1965年2月25日)は、宮古民政府及び琉球政府の政治家。1956年4月から1958年3月まで立法院議長を務めた。沖縄県宮古郡下地村(現宮古島市)出身。 明治34年(1901年)5月19日生まれ。昭和4年(1929年)に東洋大学専門部倫理科を卒業し、地元の沖縄県立宮古中学校(現沖縄県立宮古高等学校)の教諭となり、教職に就いた。 沖縄戦後は、宮古民政府の副知事に就任した。1952年の第1回立法院議員総選挙に当選し立法院議員となった。 そして、比嘉秀平とともに新党結成に奔走し、「琉球民主党(後の沖縄自由民主党)」を立ち上げた。 行政主席の比嘉秀平の下で行政副主席を務めた後、立法院議長に選ばれた。
野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年… 野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年12月23日)は、日本の詩人である。 千葉県千葉市出身、父は東大医学部で森鷗外と同期であった野川二郎である。隆の出生後まもなく、父が岐阜県大垣市で医院を開業したため、大垣市で育つ。大垣中学に学び、卒業後は東洋大学に入学するも中退、横浜税関に勤めながら、詩作をはじめる。この当時は、モダニズム詩人として活躍し、1924年には、北園克衛らとともに詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を創刊、ダダイスム的な活動をしている。この雑誌には、稲垣足穂や村山知義も寄稿していた。稲垣は、文学に物理学を持ち込んだ先駆者として、野川のことを回想している。
塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年… 塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年8月1日)は、社会福祉家。 島根県生まれ。幼名・僧哲。東洋大学社会福祉学科卒。1923年、関東大震災の時、日比谷公園で被災した子供らの相談に当たる。卒業後、知的障害者施設藤倉学園の研修生となる。のち本所のスラム街へセツラーとして入り、東京市社会局勤務。戦後東京都民生局調査室に勤務し、東京都新宿生活館初代館長。老人福祉事業に取りくみ、老人クラブの結成などに関わる。1956年定年、東洋大学社会学部教授、佛教大学教授、東北福祉大学教授。
早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1… 早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1900年2月25日 - 1984年4月15日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(12期)を歴任した。 愛知県小牧市出身。享栄商業学校卒業。1929年、瀬戸市会議員となる。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に愛知県第1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から民主党公認で立候補し再選。 1954年、保全経済会の顧問に就任していたため、保全経済会事件に関して、衆議院議員の平野力三、東洋大学教授の松本信次とともに証人喚問される。 1955年、第2次鳩山一郎内閣郵政政務次官。1960年、自民党愛知県連の初代会長に就任。
方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 … 方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 – 1931年7月23日)は、近代朝鮮の小説家である。本貫は温陽方氏。現在のソウル特別市出身。雅号小波。 善隣商業学校卒業後、東学に入信し、孫秉煕の女婿となる。普成専門学校(高麗大学校)に通い、三・一運動では謄写版の「独立新聞」を配布し逮捕される。釈放後は日本に行き、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。1923年、朝鮮で最初の児童文化団体であるセクトン会を組織して、子供運動を積極的に展開した。1923年、朝鮮では初めて純粋児童雑誌である『オリニ』を創刊して活動した。 児童のための様々な社会活動を行い、民族啓蒙や児童文学においても先駆的な業績を残した。
髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 19… 髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。 神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校)などの中学校・高等学校の教諭を歴任。 大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳、常見千香夫らを育てた。 1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。
秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の… 秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の美術評論家・数寄者。骨董収集鑑定家・文筆家・随筆家でも著名である。号は「珍堂」。 明治31年(1898年)福井県三国の浄土真宗・本流院に生まれる。中学卒業後、得度して律師、釈円明と改名。上京して大正11年(1922年)東洋大学倫理科を卒業。福岡県中学修猷館、芝中学などで国語教師を務めるかたわら美術雑誌「茶わん」を発行。昭和5年(1930年)北大路魯山人の知遇を得て高級料亭・星岡茶寮の支配人となる。昭和12年(1937年)独立して東京目黒に驪山荘を経営。昭和18年(1943年)伊東温泉に疎開、昭和19年(1944年)驪山荘を閉じる。「陶和会」「落穂会」主宰。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
李 時穆(イ・シモク、朝鮮語: 이시목、1896年または18… 李 時穆(イ・シモク、朝鮮語: 이시목、1896年または1897年 - 1980年5月23日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 慶南宜寧出身。東洋大学哲学科卒。漢城日報論説委員、大韓硬質陶器社長、国民会支部長、無所属の第2代国会議員(のち自由党に入党)、国会財経農林委員、郷里宜寧の共匪襲擊事件の調査報告者を務めた。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
金 凡父または金 凡夫(キム・ボンブ、朝鮮語: 김범부、18… 金 凡父または金 凡夫(キム・ボンブ、朝鮮語: 김범부、1896年または1897年 - 1966年12月10日)は、大韓民国の漢学者、哲学者(仏教哲学・東洋哲学)、政治家、陸軍軍人。第2代韓国国会議員。 本貫は善山金氏。本名は金 鼎卨(キム・ジョンソル、김정설)。小説家・金東里は16歳年下の弟である。著書は『花郎外史』『風流精神』などがある。 慶尚北道慶州出身。金桂史から漢学を学んだ後、東洋大学哲学科卒(中退という情報もある)、東京外国語大学・東京帝国大学・京都帝国大学政治科聴講。帰国後は仏教中央学林で講義をしたが、病気により釜山に移住した。1934年、崔凡述の手配で多率寺(朝鮮語版)で日本の天台宗の僧侶と教授40余人に清談派の玄理思想を講義した。