高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 20… 高田 久成(たかだ ひさなり、1920年1月19日 - 2007年10月7日)は、日本の実業家、馬主。台湾出身。 名馬テンポイント等の馬主として知られ、京都馬主協会の役員を務めた。元中外炉工業株式会社取締役。 日本中央競馬会(JRA)の馬主としても知られた。勝負服の柄は桃、黄銭形散、白袖で、冠名は特に用いなかった。 所有馬は大半が地元である関西の小川佐助、戸山為夫、鹿戸幸治、鹿戸明厩舎に所属していたが、プリテイキャストのように関東の石栗龍雄厩舎に所属した馬もいた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
足立 慶次郎(あだち けいじろう、1919年8月5日 - 2… 足立 慶次郎(あだち けいじろう、1919年8月5日 - 2009年7月15日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。 大阪府出身。1942年に大阪商科大学を卒業し、同年に田辺製薬に入社。1963年6月に取締役に就任し、1978年5月に常務、1979年3月に専務を経て、1985年7月に副社長に就任し、1986年9月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1995年6月に相談役に就任。 1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2009年7月15日に脳内出血のために死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中道 健太郎(なかみち けんたろう、1919年6月19日 -… 中道 健太郎(なかみち けんたろう、1919年6月19日 - 2013年4月17日)は、日本の経営者。カルピス食品工業(現在のアサヒ飲料)社長を務めた。 大阪府箕面市出身。1940年に大阪商科大学高商部を卒業。ピルマン製造で取締役を務め、1945年にカルピス食品工業に転じ、取締役、常務、専務を経て、1975年2月に社長に就任。1981年3月に相談役に就任。 2013年4月17日老衰のために死去。93歳没。
角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没… 角谷 三四郎(すみや さんしろう、1919年5月3日 - 没年不明)は、日本の経営者。中山製鋼所社長を務めた。 大阪府出身。1940年に大阪商科大学を卒業し、同年に中山製鋼所に入社。1941年3月から1946年7月までに兵役に従事し、終戦時には関東軍中尉となり、後にシベリア収容所で収容された。1964年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1983年3月には社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1997年6月から相談役を務めた。 1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年… 上田 俊二(うえだ しゅんじ、1918年12月21日- 没年不明 )は、日本の経営者。ニチメン社長、会長を務めた。 大阪府出身。1942年に大阪商科大学を卒業し、同年に日本綿花に入社。1963年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1974年5月に副社長に就任し、1977年4月に社長に昇格し、1985年4月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年3月にパキスタンからシタラ・イ・パキスタンを受章。1990年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 … 大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 - 2006年1月20日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 京都府京都市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に蝶理に入社。1948年に取締役に就任し、1958年に常務、1964年に専務を経て、1969年3月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1975年5月から相談役を務めた。1983年6月には家政学園理事長に就任。 2006年1月20日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
吉村 茂夫(よしむら しげお、1918年5月10日 - 20… 吉村 茂夫(よしむら しげお、1918年5月10日 - 2009年12月9日)は、日本の実業家。南海電気鉄道(南海電鉄)元社長・会長。 和歌山県岩出市出身。大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業後の1942年に南海鉄道へ入社。常務取締役、専務取締役を経て、1985年に南海電鉄代表取締役社長に就任し、1992年に代表取締役会長を歴任。 社長時代の1988年4月、南海ホークスのオーナーだった川勝傳の死去に伴い、後任としてオーナーを務めた。前任者の川勝時代から大阪スタヂアムを含めた「難波再開発」(後の「なんばパークス」)案が浮上した時から川勝は「ワシの目が黒いうちは球団は売らん!!」と表面上は強い姿勢を見せていたが(ただし青木一三は、川勝が秘密裏に売却先の候補として来島どっくやダイエーと接触していたことを自著で証言している)、南海ホークスは年間10億円の赤字だった。
森山 克己(もりやま かつみ、1917年3月21日 - 20… 森山 克己(もりやま かつみ、1917年3月21日 - 2006年6月7日)は、日本の経営者。大和紡績社長を務めた。 島根県出身。1940年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和紡績に入社した。1971年6月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1975年7月に専務を経て、1980年7月に社長に就任。1984年7月に会長、1985年7月に相談役を経て、1997年12月には名誉顧問に就任。 2006年6月7日心不全のために死去。89歳没。
広田 慎吾(ひろた しんご、1917年(大正6年)3月6日 … 広田 慎吾(ひろた しんご、1917年(大正6年)3月6日 - 2014年(平成26年)1月17日)は日本の実業家、元東洋製缶社長・会長、東洋鋼鈑・東洋ガラス・東洋機械販売各取締役。 大阪府出身。趣味はゴルフ。 1937年(昭和12年)、大阪商科大学高等商学部卒業、東洋製缶入社。営業部長等を歴任し、1962年(昭和37年)同社取締役。1964年(昭和39年)同社常務取締役、1971年(昭和46年)同社専務取締役、1976年(昭和51年)同社代表取締役副社長。 1984年(昭和59年)藍綬褒章受章。 2014年1月17日、肺炎のため死去、96歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
小野 順造(おの じゅんぞう、1916年9月26日 - 19… 小野 順造(おの じゅんぞう、1916年9月26日 - 1989年6月28日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 取締役、常務、専務を経て、1968年6月に副社長に就任し、1977年2月には社長に昇格。1986年2月から会長を務めた。 1989年6月28日肺炎のために死去。72歳没。
池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 20… 池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 2000年4月22日 )は、日本の経営者。大和銀行頭取を務めた。 大阪府大阪市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年5月に副頭取に就任し、1977年4月に頭取に就任。1984年6月に取締役相談役に就任し、1986年6月に相談役を経て、1998年4月から顧問を務めた。 大阪銀行協会会長、朝日放送監査役、西日本旅客鉄道非常勤取締役を歴任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2000年4月22日肺炎により、大阪市の病院で死去。
田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3… 田川 孝治(たがわ こうじ、1915年 <大正4年> 8月3日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。鳥取銀行頭取を務めた。 大阪府出身。1939年に大阪商科大学を卒業し、同年に三和銀行に入行した。1971年11月にオリエント・リース副社長を経て、1973年5月に鳥取銀行副頭取に就任し、1980年6月には頭取に昇格した。1987年6月には取締役相談役に就任。1988年6月には今橋興業会長に就任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26… 安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26日 - 1981年 <昭和56年> 4月22日)は、日本の経営者。大阪ガス社長を務めた。位階は従三位。 京都府八幡市出身。1937年に大阪商科大学を卒業。阪神電気鉄道での勤務を経て、1945年に大阪ガスに転じ、1963年8月に取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、1974年9月に社長に就任した。 日本ガス協会副会長、関西経済連合会常任理事、大阪商工会議所副頭取も務めた。 1974年10月に藍綬褒章を受章した。 1981年4月22日、脳内出血のために死去。66歳没。死没日付をもって従七位から従三位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
福本 栄治(ふくもと えいじ、1914年2月15日 - 20… 福本 栄治(ふくもと えいじ、1914年2月15日 - 2001年3月30日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 奈良県出身。1934年に大阪商科大学を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1969年5月に取締役に就任し、1972年5月に常務、1975年2月に専務を経て、1978年4月に社長に就任。1988年7月に会長に就任し、1990年6月には名誉会長に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2001年3月30日胸部大動脈瘤破裂のために死去。87歳没。
小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 199… 丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 1992年1月11日)は、日本の実業家。松下電工名誉会長、松下電器産業監査役、PHP研究所副所長、松下政経塾副塾長、産業構造審議会委員。大阪府堺市出身。 1932年に大阪商科大学高商部を卒業と同時に松下電器製作所へ入社。1939年に常務取締役に就任。1945年に系列会社の松下航空工業に移籍し専務取締役となる。1947年1月、松下幸之助が公職追放され、35歳の若さで松下電工代表取締役社長に就任、幸之助の経営哲学の忠実な実践者として同社を売上高1兆円の大企業に育てる。1977年2月に同社の代表取締役会長を経て、1989年2月に名誉会長に退く。 1992年1月11日午前10時49分に急性肝炎のため、大阪府守口市の病院で死亡。
安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 1… 安本 和夫(やすもと かすお、1910年 <明治43年> 11月7日 - 1989年 <平成元年> 7月7日)は、日本の経営者。トーメン社長、会長を務めた。山口県出身。位階は従四位。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年6月に専務を経て、1969年11月に副社長に就任し、1971年6月には社長に昇格。1977年6月から1978年6月までに会長を務めた。 1972年4月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年7月7日肺炎のために死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 19… 高石 千之(たかいし ちゆき、1910年3月29日 - 1994年10月5日)は、日本の経営者。近鉄百貨店社長を務めた。和歌山県出身。 1930年に大阪商科大学高等商業部を卒業し、同年に大和鉄道に入社し、1936年6月に大阪電気軌道(のちの近畿日本鉄道)に転じる。1965年5月に取締役に就任し、1968年11月に常務、1971年5月に専務、1972年4月に近鉄百貨店専務、1974年6月に副社長を経て、1978年5月に社長に就任。1985年5月に会長に就任。 1994年10月5日心不全のために死去。84歳没。
安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 199… 安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 1990年8月14日)は、日本の経営者。東京都出身。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入社。1962年11月に取締役に就任し、1963年6月には日本酸素常務、1968年12月に専務を経て、1974年12月に社長に就任。1978年2月に取締役相談役を経て、1980年9月には相談役に就任。 1990年8月14日脳梗塞のために死去。81歳没。
平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1… 平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。長野県出身。 1934年に大阪商科大学を卒業し、大倉高等商業学校で講師を務め、大日本油脂での勤務を経て、1940年10月に田辺製薬に入社し、同時に監査役にも就任。 1948年1月に取締役、1955年9月に代表取締役、1956年6月に専務を経て、1963年8月には社長に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1979年3月4日肺炎のために死去。69歳没。
瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月3… 瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月31日 - 1991年(平成3年)9月10日)は日本の実業家。野村證券元社長・会長。 奈良県出身。成器商業を経て、1929年に大阪高等商業学校・大阪商科大学高等商業部(現大阪市立大学)を卒業後、野村證券に入社。早くから営業担当者として頭角を現した。戦後は、1946年に取締役、1948年に常務取締役、1952年に専務取締役となり、さらに1956年に副社長、1959年に社長となった。 社長就任後、1965年には調査部を独立させて、野村総合研究所を設立した。1968年に会長に退き、取締役相談役を経て、1986年12月には最高顧問となった。会長時代に、右翼の児玉誉士夫との関係ができ、児玉の頭文字を冠した口座(K口座)がつくられた。
上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 19… 上田 慶治(うえだ けいじ、1904年11月20日 - 1979年2月13日 )は、日本の経営者。南都銀行頭取を務めた。 奈良県出身。1926年に大阪高等商業学校を卒業し、のちに吉野銀行(現在の南都銀行)に入行。1958年に常任監査役に就任し、1962年に取締役、1965年3月に常務、1971年5月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任。 1979年2月13日急性心不全のために在任時に死去。74歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5… 奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖といわれる。 1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市)に生まれる。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた。 1923年(大正12年)大阪高等商業学校(現:大阪市立大学)卒業。1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には第3代社長に就任した。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
稲次 國利(いなつぎ くにとし、1901年11月19日 - … 稲次 國利(いなつぎ くにとし、1901年11月19日 - 1971年1月27日)は、日本の経営者。兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)出身。 1924年に大阪市立高等商業学校本科を卒業し、同年に南海鉄道に入社。1947年3月に近畿日本鉄道と南海電気鉄道の各取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年11月に専務を経て、1959年6月に副社長に就任し、1966年10月には社長に昇格。1968年4月に南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故における責任を取る形で社長を辞任。1966年10月には南海ホークスオーナーに就任。 1971年1月27日、大動脈瘤破裂のために死去。69歳没。
野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月2… 野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月29日 - 1971年(昭和46年)8月11日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長を務めた。 1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、日本碍子入社。大阪営業所長を経て、1941年取締役に昇格。1944年常務取締役。1953年専務取締役。1956年取締役副社長。1959年昭和法人会会長。同年吉本熊夫社長の急逝を受け、後任社長に就任。電力会社依存の収益構造からの脱却を進めた。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1962年日東石膏取締役。1966年地方制度調査会委員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 … 牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 - 1958年〈昭和33年〉8月20日)は、日本の実業家。牛尾合資会社代表社員。中国合同電気、山陽商事各社長。神戸銀行副頭取。姫路商工会議所会頭。神戸経済同友会元代表幹事。兵庫県輸出工業協会長。 兵庫県姫路市出身。飾磨郡豊沢村・梅吉の長男。1920年、大阪高等商業学校卒業。1923年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。東京で大学講師をしていたが、1934年に父・梅吉が他界し、帰郷して事業を引き継ぐことになった。1934年、家督を相続した。株式公債売買業を営む。中国合同電気に入社。 広沢製作所会長、大日本産業報国会理事、神戸銀行副頭取、鳥取電燈副社長、日本電球、但馬瓦斯、山陽瓦斯、山陽製紐、北海電気興業、日本商品、日本編物、ナニワ電球工業、牛尾興業、山陽商事各社長などを務め、神戸経済同友会の立上げも行った。
平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - … 平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - 1989年11月12日)は、日本の実業家。朝日放送元社長。 大阪府大阪市出身。1919年に大阪高等商業学校を卒業。朝日新聞大阪本社で社会部長、編集局次長などを歴任し、1951年に3月朝日放送に移り、専務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1968年6月から1971年5月までに社長を、1979年6月から1983年6月までに会長をそれぞれ務めた。1964年に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章した。また、大阪日伊協会会長を務めるなど日本とイタリアの親善交流に尽力し、その功績により、1974年にイタリア政府から勲二等イタリア政府功労章を受章した。
菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日… 菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日 - 1946年〈昭和21年〉6月28日)は、日本の実業家。 日本レイヨン第2代社長。日本レイヨン初代社長菊池恭三の四男であり、妻は貴族院議員下郷久成の二女。 大阪府菊池恭三四男。1895年に市立大阪商業学校(現大阪公立大学)卒業後、アメリカ合衆国にて遊学した。丸川商事社長、杉村倉庫取締役、尾三電力取締役、日本レイヨン取締役、日本レイヨン常務を歴任し、1938年から父の後任として日本レイヨン社長を務めた。また、南海鉄道監査役、スフ製造工業組合監事、日本化学繊維研究所監事なども兼任した。
筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月… 筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月21日 - 1968年 <昭和43年> 1月11日)は、日本の経営者。日本ペイント社長、会長を務めた。位階は従四位。 宮城県出身。1916年に大阪高等商業学校を卒業し、1918年に日本ペイントに入社。1943年に監査役に就任し、取締役、専務を経て、1947年2月から1965年6月までに社長を務めた。1956年に大阪商業学園理事長にも就任。 1955年に紺綬褒章を受章し、1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1968年1月11日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1… 駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1969年10月22日)は、日本の実業家。政商。大正時代から昭和時代にかけて活動した。 1894年に奈良県に生まれる。1915年に大阪高商(現大阪市立大学)を卒業後、三井物産に入社。綿花を取り扱う綿花部に配属される。1919年に棉花部が東洋棉花として独立した際に移り、海外で棉花の買い付けに従事した。1931年に昭和棉花常務、1945年には江商の社長に就任した。第二次世界大戦後は政財界に面識を広げ、関西財界のみならず全国区の論客としても知られるようになり、通商産業省顧問、大阪商工会議所副会頭、日本綿花協会理事長、経団連常任理事、日本貿易振興会理事長などを歴任した。
2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治… 2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治24年〉4月4日 - 1973年〈昭和48年〉6月4日)は、大正から昭和にかけての日本の実業家である。大阪の証券会社竹原証券の社長や関西土地社長、不動化学工業(現・フドー化学)社長などを務めた。友三郎の名は養父・初代友三郎から継いだもので、襲名前は竹原 義一を名乗った。 2代竹原友三郎は、1891年(明治24年)4月4日、太田聿郎の長男として生まれた。出身地は大阪府高槻市、初名は義一。のちに伯父にあたる大阪市で両替商・株式仲買業を営む初代竹原友三郎の養子となる。また岸和田の富豪寺田甚与茂の次女・秀(1894年生)を妻とした。学業は1913年(大正2年)に大阪高等商業学校を卒業した。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治2… 飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治22年〉5月 - 1962年[要出典])は、日本の実業家。西宮酒造取締役。前名・卓三。 兵庫県西宮市出身。先代壽作の長男。1912年、大阪高等商業学校卒業。西宮酒造会社員となる。1930年、家督を相続し、前名・卓三を改め襲名する。 著書に『酒都遊観記』がある。趣味は和歌、俳句、絵画。宗教は真宗。住所は兵庫県西宮市松原町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明… 野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1954年(昭和29年)2月14日)は、日本の実業家。野村銀行頭取や、同行会長、野村生命取締役、大阪ガス監査役等を歴任した。 大阪府で初代野村徳七の四男として生まれる。二代野村徳七は兄。1908年大阪高等商業学校(現大阪公立大学)卒業。1909年から6年間イギリスに留学した。1917年に家業が株式会社化され野村商店が設立されると監査役に就任した。 1918年に大阪野村銀行が設立されると頭取に就任し、昭和金融恐慌や昭和恐慌下でも順調に業容を拡大させた。1925年大阪瓦斯監査役。1934年野村生命取締役。1943年野村銀行会長。
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月1… 岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月11日 - 1977年(昭和52年)1月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。 山口県で岡村米吉の六男として生まれる。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり、1929年(昭和4年)に分家した。 1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた。 1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 -… 長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 - 1972年12月13日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に長瀬商店(のちの長瀬産業)。1917年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1943年に社長に就任し、1968年5月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章。 1972年12月13日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉… 大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉5月 - 没年不明)は、日本の実業家、福井県多額納税者。大和田家3代目。大和田銀行専務取締役。族籍は福井県平民。 福井県敦賀郡敦賀町(現敦賀市)出身。大和田荘七の長男。大阪高等商業学校卒業。大和田銀行に入り専務取締役として業務に専念する。また大和田貯蓄銀行、大和田炭鉱、東洋硫化工業各取締役、敦賀築港倉庫監査役をつとめる。 大和田勇の養弟。大和田金之助の養甥である。 銀行会社の重役で、県下の金融界に重きをなした。 割合に世情に明るく、何かにつけて知見豊富であった。 住所は福井県敦賀市蓬莱、同市松島、敦賀郡松原村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年… 2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年(明治12年)4月1日 - 1965年(昭和40年)10月25日)は、日本の商人(米穀商)、実業家、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 滋賀県・阿部市蔵の長男。1898年、大阪高等商業学校を卒業。慶應義塾大学に学ぶ。先代・彦太郎の養子となり、1904年、家督を相続し、前名・龍蔵を改め襲名する。米国に2年留学し、帰途欧州各国を巡歴して英国に至り、5年滞在して研学に費やす。 米穀商を営み、会社の重役である。角一山林土地会長、大阪阿部代表社員、内外綿、豊国火災保険、日本生命保険、大阪商船、住友信託各取締役、東洋紡績、大阪製麻、角一ゴム各監査役などをつとめる。
下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)… 第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。 1878年(明治11年)8月7日、初代野村徳七の長男として生まれる。幼名は野村信之助。野村元五郎は弟。 1892年(明治25年)大阪市立商業学校(大阪高等商業学校の前身校。後の大阪商科大学、大阪市立大学、現在は大阪公立大学)に入学。予科在学中1895年(明治28年)に肺炎になり休学。本科への進学は断念し家業に専念する。 八千代商店(後の八千代証券)での見習いを経て、野村商店を引き継ぎ、両替から公債や株式を扱うようになり1907年(明治40年)、初代徳七の隠居に伴い信之助が徳七を襲名し弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
大谷 恭助(おおたに きょうすけ、1878年〈明治11年〉2… 大谷 恭助(おおたに きょうすけ、1878年〈明治11年〉2月 - 没年不明)は、日本の実業家。南北綿業社長。内海紡績常務取締役。東洋綿花取締役。上海紡織取締役。中央紡織監査役。族籍は大阪府平民。俳優の大谷亮介は孫、高畑裕太は曽孫。 大阪府人・大谷嘉兵衛の長男。1898年、大阪高等商業学校を卒業する。1911年、父退隠の後を承け家督を相続する。 東洋綿花、上海紡織、内海紡績、中央紡織、南北綿業各会社重役を歴任する。 住所は大阪市東区高麗橋3丁目、兵庫県武庫郡住吉村字観音林。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年… 佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年〈明治11年〉1月 - 1936年〈昭和11年〉3月2日)は、日本の実業家。海市商会社長。族籍は山口県士族。 山口県人・海井荒助の二男。先代ヒデの養子となり、1894年に家督を相続する。大阪高等商業学校を卒業。朝鮮の貿易商に就職の口があって渡鮮する。店務を帯びてたびたび大阪へ出張する所から、悪友に誘い誘われ酒色に耽溺し、滞鮮4年間は放蕩堕落の淵に沈淪し、主家へも迷惑をかけるに至る。 久原家に入り、欧州大戦中久原鉱業会社支店長としてロンドンに在勤し、帰朝後久原商事会社常務取締役に転じ、1921年にこれを辞する。1936年3月2日永眠。行年60才。
大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月… 大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月 - 1954年(昭和29年)10月)は、日本の実業家、政治家。 初代大泊町町長、樺太銀行専務取締役。 石川県江沼郡瀬越村(現在の加賀市大聖寺瀬越町)出身。1877年(明治10年)10月本谷惣次郞の四男として生まれる。 1897年(明治30年)大阪高等商業学校を卒業した後北海道に渡り、小樽の板谷商船に入社する。数年後適齢と共に陸軍に入隊し、満期後も再役して陸軍二等主計となる。 1906年(明治39年)に樺太へ渡島して商界に従事する。米穀雑貨酒造業を営み豊原に支店を構える。1911年(明治44年)に小樽に本店を設ける。 樺太銀行専務取締役に就任。
喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11… 喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11日 - 1932年(昭和7年)1月31日)は、日本の実業家。日本綿花(現双日)社長や、鈴政式織機社長を務めた。 奈良県南葛城郡葛城村(現御所市)字鳥井戸で、金剛山下の酒屋喜多長七郎の三男として生まれる。1894年に市立大阪商業学校(現大阪市立大学)を卒業し、成瀬隆蔵校長の紹介で日本綿花(現双日)に入社。田中市兵衛の知遇を得て、ムンバイ支店長、本店支配人、常務取締役を経て、1917年から社長を務め、東洋棉花(現豊田通商)の児玉一造と仕手で争いを繰り広げた。1919年には第一次世界大戦のパリ講和会議全権大使隨員を務め勲三等に叙された。1920年鈴政式織機(現エンシュウ)社長。