伊牟田 均(いむた ひとし、1948年2月27日 - )は、… 伊牟田 均(いむた ひとし、1948年2月27日 - )は、日本の実業家。城山観光社長、会長を歴任。 1948年鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島高等学校卒業。1970年に鹿児島大学法文学部経済学科を卒業し、野村證券に入社。1987年よりノムラ・ニューヨークに副社長として赴任。1988年本社国際金融部長。1990年ノムラ・シンガポール取締役社長。1993年日本合同ファイナンス(現・ジャフコ)取締役、1997年同アメリカ・ベンチャーズ会長、2001年日本合同ファイナンス専務取締役。2003年野村・中国投資副社長兼オークラガーデンホテル上海副理事長、北京発展大廈有限公司常務理事。2008年、城山観光ホテルを運営する私的整理後の城山観光株式会社に代表取締役副社長として入る。
杉原 一正(すぎはら かずまさ、1948年 - )は、日本の… 杉原 一正(すぎはら かずまさ、1948年 - )は、日本の歯科医師、歯学者。元鹿児島大学歯学部長。鹿児島大学大学院医歯学総合研究科先進治療科学専攻顎顔面機能再建学講座・顎顔面疾患制御学分野教授。 1973年九州大学歯学部卒業、1977年鹿児島大学医学研究科修了。鹿児島大学 医学博士 論文の題は 「リボフラビン欠乏ラットの口腔粘膜病変に関する生化学的ならびに電子顕微鏡学的研究」。 以後同大学医学部助手、歯学部助手、講師、助教授を経て1997年より教授に就任。 この項目は、歯学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:歯学/Portal:医学と医療)。
岡本 公三(おかもと こうぞう、1947年12月7日 - )… 岡本 公三(おかもと こうぞう、1947年12月7日 - )は、日本の新左翼党派・共産主義者同盟赤軍派のテロリスト。テルアビブ空港乱射事件の実行犯の一人。 一般には日本赤軍メンバーとされるが、正確には日本赤軍成立前のメンバーで、イスラエルからの釈放後にレバノンに亡命し、日本警察からは国際手配中。なおよど号グループの岡本武は実兄。 熊本県葦北郡芦北町で、小学校校長の子として生まれる。熊本マリスト学園高等学校卒業。 長兄と次兄の岡本武と同じ進学先である京都大学を二度受験したが失敗し、1968年、鹿児島大学農学部に入学。1971年、鹿児島大学にやってきた若松孝二・足立正生監督の映画『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』に共鳴し、上映運動を展開する「赤バス隊」に参加。
紙屋 正和(かみや まさかず、1947年8月28日 - 20… 紙屋 正和(かみや まさかず、1947年8月28日 - 2018年5月13日)は、日本の東洋史学者。専門は中国古代史、特に漢代の地方行政制度や郡県制の研究で知られる。福岡大学名誉教授、博士(文学)。 鹿児島県出身。1970年に鹿児島大学法文学部文学科を卒業。九州大学大学院文学研究科修士課程(東洋史学専攻)を修了し、文学修士の学位を取得。1974年10月1日、九州大学文学部東洋史学研究室の助手に就く。1976年から福岡大学人文学部講師、1979年から福岡大学人文学部助教授、1985年から福岡大学人文学部教授を務めた(所属は文化学科、後に歴史学科)。2008年、論文「漢時代における郡県制の展開」で九州大学より博士(文学)の学位を取得。
面高 俊宏(おもだか としひろ、1947年7月4日 - )は… 面高 俊宏(おもだか としひろ、1947年7月4日 - )は、日本の天文学者。理学博士。鹿児島大学名誉教授。専門は電波天文学(宇宙電波天文学)で、鹿児島県内の電波望遠鏡の誘致、運用をおこなった。 鹿児島県鹿児島市荒田出身。子どもの頃のガガーリンへの憧れ(小学6年生の時の夢は宇宙飛行士だった)から、宇宙研究の道に進んだ。 1966年3月に鹿児島県立甲南高等学校を卒業。名古屋大学理学部物理学科を経て、1975年に名古屋大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程を修了。1979年杏林大学助手、講師。1983年鹿児島大学教養部助教授に着任。1990年鹿児島大学教養部教授に昇任。鹿児島市錦江湾公園への電波望遠鏡の誘致や1997年教養部廃止・理学部改組時の理学部宇宙コース開設に尽力。
池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月… 池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月21日 - )は日本の医師、医学者。専門は周産期医学。宮崎大学名誉教授で、2015年10月から同大学学長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1964年長崎県立長崎東高等学校卒業。1970年鹿児島大学医学部を卒業。1972年鹿児島市立病院に産婦人科医員として勤務。その後南カリフォルニア大学産婦人科とカリフォルニア大学アーバイン校産婦人科に留学する。1982年に医学博士号を取得(日本大学)。1990年に鹿児島市立病院産婦人科部長となる。1991年宮崎医科大学産婦人科教授。2003年宮崎医科大学の宮崎大学への統合に伴い宮崎大学医学部附属病院副病院長。
河野 修一郎(こうの しゅういちろう、1945年8月20日 … 河野 修一郎(こうの しゅういちろう、1945年8月20日 - )は、日本の小説家。 長崎県生まれ。鹿児島県立鶴丸高等学校、鹿児島大学工学部卒業。20年間化学会社に勤務。1971年「探照燈」(『植樹祭』所収)で文学界新人賞受賞。退社後文筆業となり、小説、化学物質汚染などについて著作を発表する。
前田 芳實(まえだ よしざね、1945年1月30日 - )は… 前田 芳實(まえだ よしざね、1945年1月30日 - )は、日本の農学者、畜産学者。鹿児島大学第12代学長・名誉教授。農学博士。日本の畜産学における遺伝子や蛋白質制御についての研究が業績として挙げられ、地元鹿児島の肉用牛の研究やトカラ馬の調査などもおこなった。 鹿児島県立甲南高等学校を1963年3月に卒業し、在学中は生物部で部活動をおこなっていた。同年4月、鹿児島大学農学部に新設の畜産学科へ1期生として入学し、自主研究会も立ち上げ学業に取り組む。1967年3月、同学科を卒業。1969年3月、鹿児島大学大学院農学研究科(畜産学)を修了し農学修士。1969年3月鹿児島大学農学部助手となり、1981年10月助教授に就任。
皆村 武一(みなむら たけいち、1945年 - )は、日本の… 皆村 武一(みなむら たけいち、1945年 - )は、日本の経済学者、鹿児島大学名誉教授、経済学博士。 沖永良部島、鹿児島県大島郡和泊町皆川出身。1963年鹿児島県立沖永良部高等学校卒業し、鹿児島大学に入学。1968年鹿児島大学文理学部卒業。1973年九州大学大学院経済学研究科博士課程単位取得後退学。経済学修士。1988年「イタリアの戦後改革 戦後経済序説」で経済学博士。鹿児島大学法文学部助教授を経て、教授。2010年定年退任、名誉教授となる。専門分野は国際経済システム、経済発展論。
仮屋 基美(かりや もとみ、別表記:假屋 基美、1945年ま… 仮屋 基美(かりや もとみ、別表記:假屋 基美、1945年または1946年 - )は、日本の地方公務員。鹿児島県出納長、同県副知事、同県信用保証協会長を歴任。瑞宝中綬章受章。 1969年 (昭和44年) 鹿児島大学法文学部卒業。鹿児島県庁入庁、2000年 (平成12年) 土木部次長、2003年9月 環境生活部長、2005年4月 同職を西山芳久と交代し和田正道の後任として出納長、2006年4月 脇田稔の後任として副知事、2009年3月 山田裕章を後任として副知事を辞職。 県庁退職後 鹿児島県信用保証協会会長、2013年3月 山田を後任として同職を退任。 2016年11月 秋の叙勲で地方自治功労により瑞宝中綬章受章
嶌 洪(しま ひろし、1944年2月9日 - )は、日本の生… 嶌 洪(しま ひろし、1944年2月9日 - )は、日本の生物学者。九州大学名誉教授。農学博士(九州大学、1981年)。専門は系統分類学。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1966年に鹿児島大学農学部を卒業後、1968年九州大学大学院農学研究科修士課程修了、1970年同博士課程中退。同年に九州大学教養学部助手となり、1981年同助教授、1989年同教授を経て、1994年大学院比較社会文化研究科教授、1999年大学院比較社会文化研究科長。同大学において教職員組合委員長、書記長などを歴任する一方、学会活動にも精力的に取り組み、2005年、2006年には日本昆虫学会長を務めた。 その後、九州大学総合研究博物館長などを務め退官、九州大学名誉教授となる。
吉田 浩己(よしだ ひろき、1944年1月18日 - )は、… 吉田 浩己(よしだ ひろき、1944年1月18日 - )は、日本の医学者、病理学者。鹿児島大学第11代学長・名誉教授。医学博士。専門は乳癌病理学、毒性病理学。 福岡県久留米市生まれ。1969年に鹿児島大学医学部医学科を卒業。1971年から1973年の間、シカゴ大学ベン・メイ癌研究所に留学。1974年、鹿児島大学大学院医学研究科単位修得し、愛媛大学医学部助手に就く。「新生児期男性ホルモンの雌性ラット性腺分化に与える影響についての研究」の論文により、1976年2月17日に医学博士の学位を鹿児島大学から授与される。愛媛大学医学部助教授を経て、1983年9月、鹿児島大学医学部教授に就任。鹿児島大学教授の間、医学部附属動物実験施設長(1991年4月就任)、医学部医学科長(2000年10月就任)、医学部長(2003年2月就任)、医歯学総合研究科長(20003年4月就任)などを歴任。
小川 全夫(おがわ たけお、1943年7月31日 - )は、… 小川 全夫(おがわ たけお、1943年7月31日 - )は、日本の社会福祉学者、山口大学・九州大学名誉教授。 台北市生まれ、兵庫県出身。鹿児島大学文理学部卒業、九州大学大学院文学研究科社会学科修士課程修了、1996年「地域の高齢化と福祉 高齢者のコミュニティ状況」で久留米大学文学博士。宮崎大学教育学部講師、助教授、山口大学人文学部助教授、教授をへて、名誉教授、1998年九州大学文学研究科教授となる。2006年定年退官、名誉教授、山口県立大学教授、2010年熊本学園大学教授を務め、2014年退職。2025年、瑞宝中綬章受章。
脇田 稔 (わきた みのる、1943年 - ) は、日本の地… 脇田 稔 (わきた みのる、1943年 - ) は、日本の地方公務員。鹿児島県教育長、同副知事を歴任し、鹿児島県立図書館館長も務めた。瑞宝中綬章受章。 鹿児島県立甲南高等学校、鹿児島大学文理学部卒業。1966年 (昭和41年) 鹿児島県庁に入庁し、東京事務所長、1996年 (平成8年) 10月 松本浩二の後任として農政部長、2000年4月 徳田穰の後任として鹿児島県教育委員会教育長、2002年6月 高田守國の辞意から空席だった副知事に就任、2006年3月 仮屋基美を後任に副知事辞職、同年4月 国立大学法人鹿児島大学監事、2008年3月 同職を任期満了退任。その後、鹿児島県立図書館館長を務めた。
中村 征一(なかむら せいいち、1942年(昭和17年)8月… 中村 征一(なかむら せいいち、1942年(昭和17年)8月1日 - )は、日本の政治家。元福岡県筑後市長(2期)。 1965年(昭和40年)3月、鹿児島大学農学部卒業。同年4月、福岡県庁に入庁。2001年(平成13年)12月、筑後市の助役に就任。2007年(平成19年)4月、同市の副市長に就任。2009年(平成21年)10月、副市長を辞職。 2009年(平成21年)11月15日執行の筑後市長選挙に無所属で出馬。前筑後市議の弥吉治一郎を破り、初当選。同年12月3日、市長に就任。 2013年(平成25年)、無投票で再選。 76ある行政区を廃止し、11の小学校区コミュニティ協議会に再編する構想を打ち立てたところ、区長会と市議会のあいだで「高齢の市長の行政能力では限界がある」という共通認識が生まれた。
萬田 正治(まんだ まさはる、1942年4月23日 - )は… 萬田 正治(まんだ まさはる、1942年4月23日 - )は、日本の農学者、専門は畜産学。鹿児島大学名誉教授。日本での持続可能な農業を研究提言するなかで、自らも萬田農園を開設し、合鴨農法による無農薬米の生産方法を確立・全国に普及させるなどの実績を持つ実践者でもある。放送大学客員教授、鹿屋体育大学理事、鹿児島大学経営協議会委員、鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授、等を兼任。 鹿児島大学農学部卒、東北大学大学院終了、酪農学園大学講師
水溜 栄一(みずたまり えいいち、1942年 - )は、日本… 水溜 栄一(みずたまり えいいち、1942年 - )は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。鹿児島県出身。 1961年に鹿児島県立甲南高等学校を卒業。1965年に鹿児島大学文理学部を卒業し、同年に南日本新聞社に入社した。2003年に専務に就任し、2006年12月には社長に昇格し、2008年12月までに務めた。
北村 憲雄(きたむら のりお、1941年9月25日 - )は… 北村 憲雄(きたむら のりお、1941年9月25日 - )は、日本の実業家。福岡県出身。イタリアトヨタ社長CEOなどを経て、初代郵便事業会長兼CEOを務めた。 福岡県立東筑高等学校を経て、1967年に鹿児島大学法文学部経済学科を卒業し、トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)に入社。トヨタ自動車のイタリアでの事業の立役者として知られ、1996年にはイタリアトヨタ社長CEOに就任。2002年にスペイントヨタ会長兼務。2005年にイタリアトヨタ会長。 2006年には日本郵政取締役となり、2007年から郵便事業会長兼CEOを務め、経営効率化を進めた。2009年には郵便事業会長となったがCEOから外れたため、「責任ある立場で、郵便事業の大胆な改革ができなくなった」として、2010年に郵便事業顧問に退いた。
瀬戸上 健二郎(せとうえ けんじろう、1941年3月 - )… 瀬戸上 健二郎(せとうえ けんじろう、1941年3月 - )は、日本の医師(外科)。鹿児島県肝属郡東串良町出身。志布志高等学校、鹿児島大学医学部出身。 1941年、鹿児島県出身。志布志高等学校、鹿児島大学医学部卒業。 1972年から国立療養所南九州病院で外科医長を務め、1978年、下甑島の下甑村大字手打(現在の薩摩川内市下甑町手打)にある下甑村手打診療所に所長として赴任し、2017年3月まで38年間、離島医療に尽力 専門は胸部外科であり肺ガン等の離手術も手打診療所で成し遂げ、専門外の内科、産婦人科、獣医も幅広い分野の医療を施すことが出来る。他村の診療所との「診診連携」、インターネットを活用した医療連携等々、離島、僻地医療にも携わっている。
瀬戸口 嘉昭(せとぐち よしあき、1940年(昭和15年)1… 瀬戸口 嘉昭(せとぐち よしあき、1940年(昭和15年)11月13日 - )は、日本の政治家。元鹿児島県枕崎市長(1期)。 鹿児島県立枕崎高等学校を経て、鹿児島大学文理学部卒。鹿児島県教育次長、鹿児島県高校長協会理事長、県高野連会長、加世田市(現・南さつま市)教育長、鹿児島県立鶴丸高等学校校長などを経て、2006年の枕崎市長選挙に立候補し、現職の神園征を破って当選した。4年後の2010年の市長選挙で再選を目指したが、再び立候補した神園に敗れた。2014年の市長選挙でも再立候補したが、現職の神園に敗れた。
惠良 宏(えら ひろむ、昭和15年(1940年)3月-)は、… 惠良 宏(えら ひろむ、昭和15年(1940年)3月-)は、日本の歴史学者。皇學館大学名誉教授。専門は日本中世史、特に中世在地領主制・御家人制を中心に研究。
大藏 律子(おおくら りつこ、旧姓・中釜(なかがま)、193… 大藏 律子(おおくら りつこ、旧姓・中釜(なかがま)、1939年4月19日 - )は、日本の政治家、市民活動家。元神奈川県平塚市長(2期)、元平塚市議会議員(4期)。 鹿児島県川辺郡万世町小湊(現・南さつま市加世田小湊)に生まる。万世町立小湊小学校、加世田市立小湊中学校(加世田市立万世中学校に統合され現・南さつま市立万世中学校)、鹿児島県立加世田高等学校を経て、1958年鹿児島大学文理学部理学科(現・理学部)に入学し、2年次秋に化学科の専門課程へ進む。1962年、鹿児島大学文理学部を卒業して栗田工業に入社し、横浜市にある中央総合研究所に勤務。入社翌年の春頃から労働組合活動にかかわる。結婚退職後、1967年(昭和42年)3月に平塚市に転居。
小野 武年(おの たけとし、1938年6月3日 - 2022… 小野 武年(おの たけとし、1938年6月3日 - 2022年12月15日)は、日本の医学者・生理学者。富山医科薬科大学名誉教授・元学長。位階は従三位。 英領マレー半島ケランタン州コタバル市生まれ。1964年鹿児島大学医学部卒業。1969年金沢大学大学院医学研究科修了、「摂食中枢の抑制機構について」で医学博士。同年金沢大学医学部生理学助手。1973年助教授。1977年富山医科薬科大学医学部生理学教授。2004年富山医科薬科大学学長。同名誉教授、富山大学大学院医学薬学研究部・特任教授。1984年セッシェノフ賞受賞、1994年中日文化賞受賞。2015年11月瑞宝中綬章受章。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。
福永 耕二(ふくなが こうじ、1938年1月4日 - 198… 福永 耕二(ふくなが こうじ、1938年1月4日 - 1980年12月4日)は、日本の俳人。鹿児島県出身。 川辺町生まれ。ラ・サール高等学校在学中より「馬酔木」に投句。1956年、鹿児島大学入学、俳誌「ざぼん」に参加、編集を手がける。1960年、同大学文理学部国文科を卒業、純心女子高等学校に教師として奉職。1965年、能村登四郎の推薦により上京、登四郎の勤める千葉県の私立市川高等学校に勤務する。1969年、「馬酔木」同人。1970年、登四郎の「沖」創刊に参加。同年「馬酔木」編集長。1972年、馬酔木賞、沖賞受賞。代表句に「新宿ははるかなる墓碑鳥渡る」などがあり、青春性、叙情性を湛えた句風であった。
上村 和也(かみむら かずや、1937年(昭和12年)-)は… 上村 和也(かみむら かずや、1937年(昭和12年)-)は、日本の比較文学者・英文学者。外国人による日本文化論を研究・翻訳。鹿児島大学名誉教授、湘潭大学名誉教授、佐賀大学元教授。 鹿児島県出身(生まれは満洲国の奉天)。言語学者上村孝二鹿児島大学名誉教授の長男。父・孝二の鹿児島県師範学校赴任にともない4歳で鹿児島市へ移る。鹿児島県立甲南高等学校、九州大学卒業。1961年(昭和36年)九州大学大学院文学研究科修士課程修了。鹿児島県立短期大学助教授を経て、鹿児島大学教授となり1996年(平成8年)度まで比較文学と英文学を教えた。鹿児島大学退官後は佐賀大学文化教育学部教授も務めた。 訳書にパーシヴァル・ローエル『神々への道』(平岡厚と共訳)、サー・フィリップ・シドニー『アストロフェルとステラ 付 サーティン・ソネッツ』(大塚定徳ほか共訳)があるほか、クルト・ジンガー(英語版)の翻訳も学術誌で発表。
大下 静之(おおしも しずゆき、1936年7月29日 - )… 大下 静之(おおしも しずゆき、1936年7月29日 - )は、日本の経営者。フマキラー社長を務めた。熊本県出身。社長を務めた大下高明の義理の従弟に当たる。 1960年に鹿児島大学農学部農学科を卒業し、同年3月に大下回春堂(現在のフマキラー)に入社。 1980年2月に取締役に就任し、1983年2月に常務を経て、1985年2月には大下高明の後任として社長に就任。1991年2月に体調不良により、後任に大下高明の長男である大下俊明に譲り、自身は社長を退任。
小宮路 敏(こみやじ さとし、1936年(昭和11年)1月8… 小宮路 敏(こみやじ さとし、1936年(昭和11年)1月8日 - 2018年(平成30年)11月14日)は、昭和・平成時代に活動した日本の教育者、作曲家。玉川学園小学部教諭、玉川大学講師(通信教育課程で音楽を担当)。元文部科学省認定小学校音楽教科書編集委員。名前は「こみやじ びん」と音読みで呼ばれることが多かった。 関東州大連市生まれ、内地引き揚げ後は鹿児島県に住む。現在の鹿児島大学教育学部附属中学校から鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、鹿児島大学教育学部音楽科で学ぶ。鹿児島大学卒業後、鹿児島県揖宿郡開聞町(現・指宿市)の開聞中学校で音楽教師を4年間勤めた後、玉川学園創設者小原國芳に導かれ、1962年(昭和37年)東京都町田市にある玉川学園に赴任。
広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - … 広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - 2024年1月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。鹿児島県鹿児島市出身。 1958年に鹿児島大学文学部国文学科を卒業し、南日本新聞社に入社。1990年2月に取締役に就任し、1991年12月に常務、1993年12月に専務を経て、1995年12月から1999年12月までに社長を務めた。 2024年1月3日、特発性間質性肺炎のために死去。88歳没。
藤善 眞澄(ふじよし ますみ、1934年(昭和9年)9月-2… 藤善 眞澄(ふじよし ますみ、1934年(昭和9年)9月-2012年(平成24年)2月8日)は、日本の東洋史・仏教史学者。関西大学名誉教授。 1934年、鹿児島県鹿児島郡東桜島村大字湯之(現在の鹿児島市東桜島町)で生まれた。生家は浄土真宗本願寺派の光善寺であった。1953年、鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業し、鹿児島大学東洋史学科に入学。同大学を卒業後、京都大学大学院に進学した。研究テーマは隋唐時代の末法思想であった。また、京都大学では森鹿三の指導により、中国歴史地理学についても研究することになった。1964年、京都大学大学院文学研究科博士課程を単位取得後退学。 卒業後は、関西大学教授に就いた。1993年、学位論文『南山大師道宣傳の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。
田中 弘允(たなか ひろみつ、1934年7月1日 - 202… 田中 弘允(たなか ひろみつ、1934年7月1日 - 2025年2月6日)は、日本の医学者、内科学者。鹿児島大学第9代学長・名誉教授。医学博士。心筋症、心疾患など循環器学分野を特に研究した。 鹿児島県名瀬市(奄美市)と鹿児島県熊毛郡中種子町輪野尾出身。1953年、鹿児島県中種子高等学校(現鹿児島県立種子島中央高等学校)を卒業。鹿児島県立大学で学び、1958年までに鹿児島県立大学が国立の鹿児島大学に統合移管されたため、鹿児島大学医学部医学科を1959年に卒業。1960年、聖路加国際病院でのインターンを終え、鹿児島大学医学部第一内科に入局。鹿児島大学大学院医学研究科博士課程を修了し、「アドレナリン静注による犬の条件反応性不整脉についての研究」により、1966年3月26日に医学博士の学位を取得。
児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家… 児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家。鹿児島県を中心に活動。 鹿児島県鹿児島市出身。1950年に鹿児島県立甲南高等学校へ入学し、美術部に所属。同年秋に鹿児島県甲南高校美術部と鹿児島玉龍高等学校美術部で鹿児島県高校美術展を旗揚げし、2年後の第3回展で児浦は最高賞を受賞。1953年、鹿児島県甲南高校を卒業。美大進学を親に反対されて鹿児島大学農学部に進学し、農業化学を専攻。1957年に鹿児島大学を卒業し、一度は化学教師になったが、夢を捨てきれず28歳のときに決心して絵画へ転向。教壇に立ちながら武蔵野美術短期大学の公開講座(通信教育)を受けて美術教員の資格を得た。 鹿屋市立百引中学校、鹿児島県立串木野高等学校、鹿児島県立鹿児島南高等学校で美術教諭を務める。
大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7… 大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7日)は、日本の洋画家。独立美術協会会員、鹿児島市立美術館館長、鹿児島大学名誉教授。同大教授のほか、鹿児島県美術協会会長、南日本美術展審査員を務め、地元の美術振興と後進の育成に貢献。 鹿児島県鹿児島市出身。1954年鹿児島県立甲南高等学校卒業。高校では鮫島梓が指導する美術部に所属。高校2年生で南日本美術展に初入選。 1958年鹿児島大学教育学部美術科卒業。1959年の第14回南日本美術展で「花の碑」が県知事賞(最高賞)を受賞。初の鹿児島県海外美術派遣留学生となり翌年渡仏しパリ留学。審査委員長海老原喜之助の紹介状を持って藤田嗣治のもとを訪ね、時代の潮流でなやむ姿を目の当たりにして、巨匠がこうなのだから自分は自分なりの絵を描くしかないと感じる。
松下 志朗(まつした しろう、1933年7月1日 - 201… 松下 志朗(まつした しろう、1933年7月1日 - 2017年)は、日本の日本史学者。 鹿児島県囎唹郡志布志町(現・志布志市)で生まれ、4歳で鹿児島市に転居し、戦争疎開で末吉町(現・曽於市)に移る。鹿児島県立末吉高等学校(現・鹿児島県立曽於高等学校)から熊本大学法文学部法学科に進学するが、2年で鹿児島大学文理学部の史学に編入。鹿児島大学卒業後、鹿児島県立川辺高等学校や鹿児島県立大島高等学校で日本史を教え、大島高校教諭時代に『名瀬市史』の編纂に関わった際に、編纂委員の原口虎雄から研究者の道を勧められる。1967年九州大学大学院文学研究科中退。1985年「幕藩制社会と石高制」で経済学博士。福岡大学助教授を経て、1971年九大経済学部助教授、1986年教授となる。
前園 主計(まえその しゅけい、1932年5月2日 - 20… 前園 主計(まえその しゅけい、1932年5月2日 - 2022年6月19日)は、日本の図書館情報学者。 鹿児島県指宿市生まれ、同市東方木の下出身。旧制鹿児島県立指宿中学校に入り学制改革を経て、1951年3月に鹿児島県立指宿高等学校卒業。鹿児島県立大学工学部(後の鹿児島大学工学部)電気工学科に入学したが、結核のため療養。慶應義塾大学文学部図書館学科に入りなおして1956年3月に卒業。1956年4月に日本生産性本部生産性研究所入所。1960年~1961年、米国コロンビア大学経営管理大学院留学。日本生産性本部図書室長を経て、1975年青山学院女子短期大学教授、図書館長。2002年定年退職、名誉教授、山梨英和大学教授・図書館長。
迫田 太(さこだ ふとし、1932年3月12日 - 2025… 迫田 太(さこだ ふとし、1932年3月12日 - 2025年10月28日)は、日本のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社顧問。同社元副社長・大阪本社代表。関西プレスクラブ名誉会員。福岡県または鹿児島市出身。2017年現在、兵庫県神戸市在住。 学制改革により新制高等学校となった鹿児島県立甲南高等学校を1期生として卒業。 1954年、鹿児島大学農学部農芸化学科卒業。同年4月に毎日新聞社に入社。1985年5月、大阪本社編集局長。1986年5月、本社販売局長。1987年6月、取締役西部本社代表。1991年6月、常務取締役大阪本社代表。以後、専務取締役大阪本社代表を経て、副社長大阪本社代表に就任。2000年6月に退任し、相談役となる。
今給黎 久(いまきいれ ひさし、1932年(昭和7年)2月2… 今給黎 久(いまきいれ ひさし、1932年(昭和7年)2月24日 - 2013年(平成25年)7月19日)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。新聞記者。鹿児島県枕崎市長。 枕崎市出身。鹿児島県立枕崎高等学校を経て、1956年(昭和31年)鹿児島大学文理学部を卒業し、サンケイ新聞大阪本社に入社。東京本社経済部次長、サンケイ商業新聞社報道部長、サンケイリビング新聞社編成局長などを歴任した。 1990年(平成2年)1月、枕崎市長に当選し、2002年(平成14年)1月まで3期務めた。
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21… 稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日 - 2022年〈令和4年〉8月24日)は、日本の実業家、技術者。京セラや第二電電(現・KDDI)の創業者であり、京セラ社長・名誉会長を歴任した他、後年には経営破綻した日本航空の会長に就任し、同社の経営再建を担った(後に日本航空名誉会長)。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長。 妻の朝子は、禹長春の四女である。 1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。
山下 佐英(やました すけひで、1931年10月28日 -)… 山下 佐英(やました すけひで、1931年10月28日 -)は、日本の医師、歯科医師、歯学者、鹿児島大学名誉教授、鹿児島医療技術専門学校学長、元鹿児島大学歯学部附属病院長。医学博士。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市)出身。1949年旧制鹿児島県立伊集院中学校卒業、1950年新制鹿児島県立伊集院高等学校卒業。1957年鹿児島大学医学部卒業。日本赤十字社中央病院インターン、鹿児島大学副手を経て、1960年鹿児島大学医学部助手、1962年鹿児島大学医学部講師、1964年鹿児島大学医学部助教授。1967年大阪大学歯学部に編入学。1970年に大阪大学歯学部を卒業し、鹿児島大学医学部助教授に復職。1977年、鹿児島大学歯学部教授に就任。
朝倉 哲彦(あさくら てつひこ、1931年8月2日 - 20… 朝倉 哲彦(あさくら てつひこ、1931年8月2日 - 2014年9月14日)は、日本の脳神経外科医、医学者。 鹿児島県出身。1948年鹿児島県立鹿屋中学校4年修了、1955年鹿児島医科大学学士試験合格、1956年医師国家試験合格、国立東京第一病院外科研究員として勤務、1959年鹿児島大学医学部研究員(神経精神科)、1961年助教授、1969年東京女子医科大学講師、1971年助教授、1975年鹿児島大学医学部教授に戻り、1985-1989年附属病院長、1997年定年退官、名誉教授、医療法人猪鹿倉会パールランド病院名誉院長、和風会加世田病院顧問、脳神経疾患研究所付属てんかん研究所所長、2002年慈風会厚地記念放射線医学研究所所長、2005年和風会加世田病院理事長・院長、2012年慈風会厚地脳神経外科・放射線科クリニック院長。
久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 201… 久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 2016年12月26日)は、日本の宇宙航空エンジニアであり、日本の宇宙開発の草分け的存在である。 1930年(昭和5年)5月に中国遼寧省瀋陽市に生まれる。戦後鹿児島県日置郡伊集院町(現・日置市)に引き上げ、旧制第七高等学校、鹿児島大学文理学部物理学科を卒業後、1953年(昭和28年)運輸省運輸技術研究所航空部に入所。航空機の風洞実験などを学ぶ。1955年(昭和30年)新三菱重工(現・三菱重工業)名古屋航空機製作所に入社。技術部の空力研究課、電子技術課、飛翔体基礎設計課などで、航空機に関する実験、設計などを行い、国産旅客機YS-11の開発にも携わった。
金澤 昭夫(かなざわ あきお、1930年4月19日 - 20… 金澤 昭夫(かなざわ あきお、1930年4月19日 - 2009年2月14日)は、日本の水産学者。専門は水産化学、水族栄養化学。鹿児島大学名誉教授、日本水産学会名誉会員、学位農学博士。 鹿児島県鹿児島市出身。1951年(昭和26年)3月旧制鹿児島水産専門学校(鹿児島大学水産学部の前身)水産製造科卒業。1952年(昭和27年)6月新制鹿児島大学水産学部助手に着任。論文「海藻のビタミンB群に関する研究」により、1962年(昭和37年)3月31日九州大学から農学博士の学位を授与される。1964年(昭和39年)5月、「藻類の成長を促進し品質を向上せしめる方法、海苔の養殖剤の製造法」に対して昭和39年度全国発明表彰発明協会会長賞を授与される。
上山 和人(かみやま かずと、1929年11月25日 - 2… 上山 和人(かみやま かずと、1929年11月25日 - 2010年8月13日)は、日本の政治家、元参議院議員(社会民主党)。 鹿児島県薩摩郡川内町(のちの川内市、現薩摩川内市)出身。1954年鹿児島大学教育学部卒。 鹿児島県高教組委員長を経て、1986年の第14回参議院議員通常選挙で鹿児島県選挙区から日本社会党公認で立候補するが落選。1992年の第16回参議院議員通常選挙で再出馬し当選。1998年の第18回参議院議員通常選挙では無所属で立候補したが落選した。 2010年8月13日、肺炎のため死去。
阿蘇 瑞枝(あそ みずえ、1929年4月24日 - 2016… 阿蘇 瑞枝(あそ みずえ、1929年4月24日 - 2016年5月21日)は、日本の国文学者、万葉学者。 鹿児島県出身。日本統治時代の朝鮮の全州で生まれ、終戦後に鹿児島県に引き揚げ。鹿児島県立串木野高等学校を経て、鹿児島大学文理学部文学科卒業。国語教師を経て東京大学大学院に入学し、同博士課程修了。1972年「柿本人麻呂の研究」で文学博士の学位を取得。山梨英和短期大学教授、共立女子大学文芸学部教授を経て、1991年日本女子大学文学部教授、1998年昭和女子大学特任教授。
下野 敏見(しもの としみ、1929年(昭和4年)4月4日 … 下野 敏見(しもの としみ、1929年(昭和4年)4月4日 - 2022年3月10日)は、日本の民俗学者、文学博士。鹿児島大学教授、鹿児島純心女子大学教授を歴任。南日本地方の民俗研究の第一人者であり、日本民俗学会の権威ともいわれる。 鹿児島県川辺郡知覧町(現在の南九州市)出身。鹿児島県立川辺高等学校、鹿児島大学文理学部社会学科卒業。大学卒業後は県内各地の高等学校の教諭を経て、鹿児島大学法文学部教授、鹿児島純心女子大学教授を務める。高校教員時代から夏休みのたびに屋久島を訪ね、古老の話者を探して昔話を聞き続けた。その後もフィールドワークを信条に県内外を歩き続け、民俗学の研究に情熱を注いでおり、南九州から沖縄県に至る地域で、長年にわたって民俗調査を行なっている。
山下 欣一(やました きんいち、1929年(昭和4年)2月5… 山下 欣一(やました きんいち、1929年(昭和4年)2月5日 - 2021年(令和3年))は、日本の民俗学者、文化人類学者。奄美の民俗学、ユタ研究の第一人者であった。文学博士、鹿児島国際大学名誉教授。 鹿児島県奄美大島の名瀬町(現・奄美市)に生まれる。名瀬国民学校から旧制鹿児島県立大島中学校に進学。県の土木技師であった父の本土転任にともない、旧制鹿児島県立加治木中学校に転校。旧制加治木中を四年修了して鹿児島農林専門学校獣医畜産科に入学、卒業。一度、新制中学校の英語教師となった後、早稲田大学法学部に編入学するが、母の病気等の事情により中退して鹿児島へ戻り、県立高等学校(英語教師)や県教育庁にて勤務。
田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故… 田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故人)は日本の建築学者、建築家。専門は設計計画、建築計画。鹿児島大学助教授、第一工業大学教授を歴任。 鹿児島県南さつま市の旧日置郡金峰町出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校、旧一中49回生)を経て、鹿児島県立工業専門学校(鹿児島大学工学部の前身)建築科を1949年卒業(第2回卒業生)。鹿児島工専助教授の東洋一(後に東京都立大学教授)の推薦により、1951年~1955年に東京大学工学部建築学科丹下健三研究室で、研究生として建築計画・都市計画を専攻。丹下のもとで、成城の丹下邸や旧東京都庁の設計に携わる。1955年芦原義信研究所勤務。
渡辺幸博(わたなべ ゆきひろ、1928年2月19日- )は、… 渡辺幸博(わたなべ ゆきひろ、1928年2月19日- )は、日本の哲学者、関西大学名誉教授。 熊本県阿蘇郡生まれ。1952年鹿児島大学農学部獣医専攻科卒業、大阪府家畜健康衛生所勤務。1963年関西大学大学院文学研究家哲学専攻博士課程満期退学。1967年関西大学文学部講師、助教授、教授、1998年定年、名誉教授。 1993年「サルトルとポスト構造主義」で関西大学文学博士。
赤崎 義則(あかさき よしのり、あかざき よしのり、1927… 赤崎 義則(あかさき よしのり、あかざき よしのり、1927年(昭和2年)9月11日 - 2019年(平成31年)4月12日)は、日本の政治家。鹿児島市長(第19代、5期)。鹿児島市助役(第24代)。位階は従四位。 鹿児島県日置郡東市来村(後に東市来町、日置市)出身。東市来町の小学校から、旧制鹿児島県立伊集院中学校(現鹿児島県立伊集院高等学校)を経て、陸軍予科士官学校在籍中に敗戦により学校解散となり復員。1948年3月鹿児島農林専門学校農学科(現鹿児島大学農学部)卒業。1949年2月鹿児島市役所に入職。市役所では農林部経営課長(1965年11月)、農林部指導課長、財政部管財課長(1969年9月)、総務局行政部職員課長(1973年7月)、総務局行政部長(1975年7月)、総務局長(1977年7月)を経て、1984年3月助役に就任した。
田島 政人(たじま まさと、1927年(昭和2年) - 19… 田島 政人(たじま まさと、1927年(昭和2年) - 1996年(平成8年)9月16日)は、日本の教育者。アキシマクジラの化石の発見者、昭島市文化財保護審議会長。 1927年(昭和2年)、鹿児島県大口市に生まれる。1948年(昭和23年)に鹿児島青年師範学校を卒業し、県内で4年間ほど教員生活を送る。1953年(昭和28年)に法政大学文学部国文学科の三年次に編入学し、1955年(昭和30年)に同大学を卒業する。卒業後、青梅市・昭島市で小学校の教員として勤務する。1961年(昭和36年)に昭島市の多摩川の河原でクジラの骨格化石を発見し、その復元に携わる。また、1968年(昭和43年)に多摩川で食虫植物タヌキモの大群生を発見、その研究保護に取り組んだ。
橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2… 橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2013年6月7日)は、日本の医学者、生理学者。専門は神経生理学、電気生理学。鹿児島大学名誉教授、医学博士。 鹿児島県鹿児島市の谷山地区出身。4人兄弟の次男。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1944年に旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科を卒業。1948年九州大学医学部を卒業。1953年から2年間、アメリカのロチェスター大学に留学。帰国後、九州大学医学部助教授(生理学教室第一講座所属)。論文「日本産トノサマガエルならびにヒキガエルの血液におけるK及びCaの含有量の季節的変動について」により、1956年8月九州大学から医学博士の学位を授与される。