今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)… 今成 留之助(いまなり とめのすけ、1882年(明治15年)12月26日 - 1965年(昭和40年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 新潟県高田市(現在の上越市)出身。税務属となった後、日露戦争に従軍。後、1907年(明治40年)に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、甲府地方裁判所・甲府区裁判所判事、新潟地方裁判所判事を務めた。その後新潟市で弁護士を開業し、新潟市会議員、同参事会員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、公職追放となった。
岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12… 岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12月22日 - 1960年(昭和35年)4月28日)は、かつての仙台市長である。 公選による終戦後初めての仙台市長として、同市の戦災復興に尽力した。 宮城県名取郡秋保村(現在の仙台市太白区西部)長袋字町に生まれ、宮城師範学校を経て日本大学法律学科に進学した。 大学卒業後は教育者となり、丸森小学校(宮城県丸森町)訓導、岩出山小学校(同・岩出山町)校長、宮城県桃生郡視学(教育行政官)を経て、1916年(大正5年)には宮城県県視学に就任した。 1919年(大正8年)からは行政職に転じ、横浜市役所、東京市社会局保護課長、同福利課長、同監査課長、同下谷区長、同大森区長、同電気局電灯部長を歴任した。
高橋 義次(たかはし よしつぐ、1882年(明治15年)8月… 高橋 義次(たかはし よしつぐ、1882年(明治15年)8月23日 - 1969年(昭和44年)2月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡畑岡村(現在の栗原市)出身。1904年(明治37年)に宮城県師範学校を卒業した後、5年間小学校訓導を務めていたが、日本大学英法科に入学し、1915年(大正4年)に卒業した。1917年(大正6年)に弁護士試験に合格して事務所を開き、東京弁護士会常議員、日本弁護士協会理事を務めた。また芝区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員に選出された。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄)により東京地方裁判所で懲役4ヵ月・追徴金1500円の判決を受けたが、翌年の控訴審で無罪判決を受けた。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月… 弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1957年〈昭和32年〉12月16日)は、朝鮮総督府官僚。位階は正四位。勲等は勳三等。 岡山県赤磐郡豊田村(現在の赤磐市)出身。弓削新平の孫。1900年(明治33年)、日本法律学校(現在の日本大学)法科を卒業。1904年(明治37年)に高等文官試験に合格。専売局属、千葉県属、同警視、鹿児島県事務官、朝鮮総督府書記官、同学務課長、同宗教課長、同鉄道部長を歴任した。 退官後は復興建築助成株式会社取締役・支配人、中央朝鮮協会理事、中央協和会理事、東京府協和会理事を務めた。終戦後は千葉県農地委員となった。
篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月2… 篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月29日 - 1930年(昭和5年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県南佐久郡岸野村(現在の佐久市)出身。篠原代吉の三男。小諸義塾を卒業し、日本大学法科で学んだ。大阪毎日新聞・東京日日新聞各記者となった。 清浦内閣で鈴木喜三郎司法大臣の秘書官を務めた後、1925年(大正14年)の衆議院補欠選挙に当選。その後の第17回・第18回総選挙でも再選された。その間、田中義一内閣で鈴木喜三郎内務大臣の秘書官に就任した。 他に日本大学評議員、国本社評議員を務めた。また日本大学推薦校友であった。
神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月… 神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月3日 - 1957年(昭和32年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 石川県珠洲郡正院村字川尻(現在の珠洲市)に、樋谷内助右衛門の三男に生まれ、神保康治の養子となった。1902年(明治35年)に石川県師範学校を卒業し、1915年(大正5年)に日本大学法律科を卒業した。1920年(大正9年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補に任ぜられるまでの10数年の間、小学校訓導・校長、金沢市書記などを務めた。1922年(大正11年)、官を辞して金沢市で弁護士事務所を開業。その後石川県会議員、同参事会員、金沢市会議員を歴任した。
陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 19… 陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 1951年)は、中華民国の政治家・弁護士。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。 日本留学経験を持ち、日本大学法科を卒業している。帰国後は参議院議員に選出され、政治討論会副会長にもなっている。また、北京政府の大総統府顧問もつとめた。1920年(民国9年)から3年間、蘇州電気公司董事長となっている。その後は上海で弁護士を開業する。律師(弁護士)公会会長、上海各路商会連合会会長、納税華人理事会理事、蘇州電気廠総弁をつとめた。 日中戦争(抗日戦争)勃発後に蘇州が日本軍により陥落すると、陳則民は蘇州地方自治委員会会長となった。1938年(民国27年)3月、中華民国維新政府に参加し、教育部部長に任じられた。
川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)… 川崎 克(かわさき かつ、本名:かわさき こく(漢字は同じ)、1880年(明治13年)12月28日 - 1949年(昭和24年)2月3日)は、日本の政治家。長男に実業家の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫、川崎秀人は曾孫にあたる。 三重県伊賀上野(現・伊賀市)出身。生家は油屋である。1898年(明治31年)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36年)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。
太田 為吉(おおた ためきち、1880年(明治13年)11月… 太田 為吉(おおた ためきち、1880年(明治13年)11月12日 - 1956年(昭和31年)11月30日)は、日本の外交官。駐スペイン公使、駐ソビエト連邦大使。位階および勲等は正三位・勲一等。「大田」と表記される場合がある。 鳥取県気高郡青谷村(現在の鳥取市)出身。1901年(明治34年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。1903年(明治36年)に高等文官試験に合格し、1907年(明治40年)に外交官及領事官試験に合格した。領事官補として香港に勤務し、関東都督府事務官、ニューヨーク領事官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、メキシコ公使館二等書記官、サンフランシスコ総領事、オタワ総領事、中華民国公使館参事官を歴任した。
鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月… 鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月13日 – 1961年(昭和36年)5月28日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後、法律事務所で経験を積み、小倉市で弁護士を開業した。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選。1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)1… 木尾 虎之助(このお とらのすけ、1879年(明治12年)11月18日 – 1956年(昭和31年)12月23日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(憲政会)。 鹿児島県薩摩郡入来村(入来町を経て現薩摩川内市)で、木尾善十郎の息子として生まれた。三州義塾、鹿児島県第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1902年(明治35年)日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。東洋大学講師、警視庁警察官消防官練習所講師を経て、1907年(明治40年)に東京市に弁護士事務所を開いた。翌年、朝鮮半島に渡り、漢城府(のち京城府)に弁護士事務所を開き、朝鮮鉱業新報社社長などを務めた。
栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年… 栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年)3月25日 - 1954年(昭和29年)5月5日)は、明治から昭和前期の雑誌編集者、政治家、刀匠。衆議院議員。号・昭秀、晃南。 栃木県安蘇郡閑馬村(新合村、田沼町を経て現佐野市 閑馬町)で、大百姓・栗原喜蔵の二男として生まれる。田中正造から薫陶を受けた。1891年(明治24年)正造に伴われて上京。青山学院中学部で学び、在学中の1896年(明治29年)12月、津田仙を足尾銅山に案内したり、東京で演説会を開催するなど足尾鉱毒事件の解決に尽力した。その後、早稲田大学、日本大学で学んだ。 1917年(大正6年)中外新論社の経営に参画して社長に就任し、『中外新論』を刊行。
大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治… 大西 正幹(おおにし まさみ / まさもと、1879年(明治12年)3月2日 - 1951年(昭和26年)6月17日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 高知県幡多郡伊豆田村(現在の土佐清水市)出身。1900年(明治33年)、高知県師範学校を卒業し、小学校教員となった。1906年(明治39年)、日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となるが辞して、花井卓蔵に師事して弁護士を開業。後に高知弁護士会副会長、同会長に選出された。また高知市会議員、同議長、高知県会議員、同議長に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月… 川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月28日)は、日本の衆議院議員(無所属→政友本党→立憲政友会)、日本大学学長(1933年就任)。 神奈川県鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)出身。日本大学を卒業後、オハイオ州立大学で学び、修士号を取得。さらにイェール大学大学院で学んで、法学博士の称号を得た。帰国後、日本大学の幹事、講師、学監、理事、教授、学長を歴任した。 また清浦内閣で小松謙次郎鉄道大臣の秘書官を務めた。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回の当選回数を数えた。その他、川口製糸株式会社社長、瀬谷銀行取締役、日華学会評議員なども務めた。
花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月2… 花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月24日 - 1938年(昭和13年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)出身。1899年(明治32年)、沖縄師範学校を卒業して、郷里の大川尋常小学校の訓導となった。1903年(明治36年)に上京して、東京市小石川第一尋常小学校訓導となり、そのかたわら日本大学高等師範科に通った。1906年(明治39年)、日本大学高等師範科を卒業し、東京府豊多摩郡千駄谷尋常高等小学校校長に就任した。その後も夜間通学を続けて、1907年(明治40年)に日本大学法科専門部を卒業した。同年、会計検査院属に任官された。
大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9… 大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9月1日 - 1950年(昭和25年)2月8日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。平沼騏一郎、黒田英雄とともに津山出身の「出世三羽ガラス」と称された。 岡山県東南条郡上之町(津山東町、苫田郡津山町を経て現津山市上之町)で、浄土真宗本願寺派浄圓寺・大山達聞、竹の二男として生まれる。兄が夭死したため寺の跡取りとなるが、それを嫌って上京し、苦学して日本法律学校(現日本大学)で学んだ。1903年(明治36年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1904年(明治37年)日本法律学校を卒業し、大蔵省に入省し専売局に配属され、大蔵書記兼専売局属、煙草専売局事務官、函館煙草販売所長を歴任し、在省2年で退官した。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
宮沢 清作(みやざわ せいさく、1878年(明治11年)4月… 宮沢 清作(みやざわ せいさく、1878年(明治11年)4月21日 - 1939年(昭和14年)3月14日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、判事。 宮城県宮城郡多賀城村(現在の多賀城市)に、宮沢清右衛門の五男として生まれる。1904年に日本大学を卒業し、判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、盛岡地方裁判所、宇都宮地方裁判所、栃木区裁判所、仙台区裁判所、仙台地方裁判所で判事を歴任した。やがて退官して弁護士となり、仙台弁護士会副会長を務めた。 県会議員を経て、1931年の衆議院補欠選挙に当選。以後、第18回・第19回総選挙で当選し、1937年にも補欠当選した。
岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月… 岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月23日 - 1930年〈昭和5年〉9月19日)は、衆議院議員(立憲政友会)、宇治山田市(現在の伊勢市)市長。 岡山県和気郡山田村(現在の和気町)出身。1902年(明治35年)に日本大学を、1904年(明治37年)に法政大学を卒業した。法政大学卒業の前年に判検事登用試験に合格し、司法官試補、東京地方裁判所検事、陸軍法官部理事、関東都督府理事、第11師団法官部長、大阪府警視、群馬県警察部長、佐賀県内務部長、三重県内務部長を歴任した。1921年(大正10年)、宇治山田市長に就任し、1924年(大正13年)まで在任した。退任後は、弁護士業務に従事した。
加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 194… 加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 1944年3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、後の生津村出身。1901年、日本法律学校(現・日本大学)卒、同専攻科で学ぶ。日露戦争に従軍して、陸軍歩兵中尉となる。帰郷後は営農する。岐阜県参事会員、本巣郡農会長、岐阜県山林会評議員、地方森林会議員、郡林業協会副会長、県農会議員となる。治水事業に取り組んだ。1919年9月から連続3回13年に渡って、本巣郡選出の岐阜県会議員に当選した。また、1927年12月1日から1928年12月4日まで第37代同議長を務めた。また、これと前後して1920年8月から連続6回24年生津村会議員を務めた。
横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉… 横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉11月15日 - 1931年〈昭和6年〉5月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(東京府第一区選出、当選5回)。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(のち東城町、現在の庄原市)出身。横山市松の長男。1900年に日本法律学校(のち日本大学法律科)を卒業。 1902年に判検事登用試験・弁護士試験に合格、司法官試補に任じ山口地方裁判所及び同区裁判所詰を命ぜられた。翌年に官を辞し、広島に弁護士事務所を開設したが東京に転じ、訴訟事務に従事する。1926年には東京弁護士会会長に就任している。 1914年、東京市会議員に当選。さらに1917年の第13回衆議院議員総選挙に当選し、国政に進出した。
梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月… 梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月10日 - 1955年〈昭和30年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県深津郡中津原村(深安郡中津原村、御幸村字中津原を経て現福山市御幸町中津原)出身。1905年(明治38年)日本大学法律科卒。鞆町議、沼隈郡議、広島県議、同参事会員、広島県水産組合副組合長、讃岐電気軌道(株)取締役となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において広島13区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1955年死去。
今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月… 今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月9日 - 1925年(大正14年)4月25日)は、日本の内務官僚。 山形県米沢市福田町にて今村知義の三男として生まれる。今村家は米沢藩の御扶持方(中士階級)の家柄である。同姓の今村信次郎は縁戚にあたる。1903年(明治36年)、日本大学本科卒業。1904年(明治37年)、大蔵属となり、1907年(明治40年)に高等文官試験に合格した。1908年(明治41年)、北海道庁警視となり、札幌警察署長、大分県事務官、同警察部長、山梨県警察部長、長崎県警察部長、栃木県内務部長を歴任した。 1921年(大正10年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月2… 鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月28日 - 1937年〈昭和12年〉10月18日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。神奈川県平塚市長。 平塚で質屋を営む鈴木春蔵の長男として生まれる。平塚小学校、東京大成学館を経て、東京法律専門学校を卒業後に帰郷した。日露戦争開戦の年に中郡役所書記となり、ついで1918年(大正7年)から同14年まで神奈川県庁地方課勤務となる。 1925年(大正14年)9月、平塚町助役、1927年(昭和2年)3月に同町長代理を経て、1929年(昭和4年)6月、22代町長に就任した。1932年(昭和7年)4月に平塚市が市制施行すると市長代理を経て、同年8月に初代市長に就任し、翌年病気により退任した。
図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治1… 図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治10年)7月15日 - 1954年(昭和29年)10月15日)は、日本の衆議院議員。福岡県八幡市長。農商務官僚。 宮崎県臼杵郡北浦村(現在の延岡市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。関東州民政署属を経て、1906年(明治39年)に農商務省山林属となった。同年、林務官となり、以後熊本大林区署経理課長、広島大林区署庶務課長、山林事務官、高知大林区署林務課長、熊本大林区署林務課長、青森大林区署林務課長、東京大林区署林務課長を歴任した。1920年(大正9年)に退官した後も農商務省嘱託を務めた。
永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日… 永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日 - 1923年(大正12年)11月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、弁理士。 広島県甲奴郡階見村(現在の神石郡神石高原町)に永屋要平の二男として生まれる。広島県師範学校を卒業後、日本大学で法学を学び、1910年(明治43年)に卒業した。卒業後は東京で弁護士となり、花井卓蔵弁護士の補助を務めたこともある。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。 その他、日本人造絹糸株式会社監査役を務めた。
鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日… 鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日 - 1933年(昭和8年)11月3日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事。旧姓・河野。 大分県速見郡、後の山香町(現杵築市)出身。河野伝次郎の三男として生まれ、1906年、鯉沼かねの養子となる。 高等小学校を卒業後、苦学して日本大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年5月、内務省に入省し福島県属となる。 以後、島根県事務官、島根県警察部長、長野県警察部長、三重県警察部長、青森県内務部長、三重県内務部長などを経て、1927年5月、神奈川県書記官・警察部長に就任。 1928年2月、秋田県知事に就任。
栗原 廣太(くりはら ひろた、1877年(明治10年) - … 栗原 廣太(くりはら ひろた、1877年(明治10年) - 1955年(昭和30年))は戦前日本の官僚。 宮内省、南満洲鉄道東亜経済調査局、東京市に勤務した。 鳥取県の士族の家に生まれ、栗原茂吉と養子縁組して、家督を相続した。 1898年(明治31年)に日本法律学校(日本大学の前身)を卒業した。 1901年(明治34年)に高等文官試験に合格し、翌年宮内省に採用される。 1907年(明治40年)、大臣官房調査課長となる。 1914年(大正3年)、昭憲皇太后大喪後に退職した。 1920年(大正9年)から南満洲鉄道嘱託となる。 1923年(大正12年)から東亜経済調査局主事となる。 1934年(昭和9年)から東京市嘱託に転じた。
禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)… 禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)12月12日 - 1927年(昭和2年)5月13日)は、明治から昭和初期の教育者・弁護士・政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 鹿児島県大島郡赤尾木村(龍郷村を経て現龍郷町)で、禱朝衡、みよ の長男として生まれた。沖縄師範学校を卒業し、1898年(明治31年)、沖縄県国頭小学校校長となり、1905年(明治38年)には東京市東陽小学校校長に就任した。その後、日本大学に入り、1909年(明治42年)に卒業した。同年、司法官試補となったが、翌年に退官し、東京で弁護士を開業した。 帰郷して1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(鹿児島県第8区、立憲政友会公認)で当選。
山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4… 山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4月12日 - 昭和43年〈1968年〉6月22日)は、日本の司法・内務官僚、法学者、哲学者。ライプツィヒ大学法学博士、日本大学法学博士。日本大学第3代総長・初代総裁。貴族院議員。 明治9年(1876年)4月12日、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)の農家(中農)小坂鶴吉の二男に生まれる。生後すぐ母方の山岡家に籍だけ入った。湊村尋常高等小学校を卒業後、農業の手伝いや製糸工場で働くかたわら、小学校時代の先生に漢学の教えを受けた。 明治29年(1896年)に上京し、東京簿記専修学校に入学。翌明治30年(1897年)、日本法律学校(後の日本大学)入学。
工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 … 工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 - 1953年6月16日)は、大正・昭和期の日本の政治家。行政管理庁長官(第3代)。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 青森市出身。日本大学法学部を卒業後、二六新報、日本新聞にて記者を務める。日露戦争では従軍記者を務め、日露戦争後は日比谷焼打事件に連座したこともある。 その後ロンドン大学に学び、日大歯科医専講師などを経て青森に帰郷し、普選運動を展開する。1924年の第15回衆議院議員総選挙に憲政会から立候補し、青年団体などの支持を集め初当選する。以後通算当選7回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1931年の第2次若槻内閣で文部参与官、1938年の第1次近衛内閣にて厚生政務次官を歴任する。
春島 東四郎(はるしま とうしろう、1875年(明治8年)1… 春島 東四郎(はるしま とうしろう、1875年(明治8年)1月22日 - 1937年(昭和12年)10月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 鹿児島県阿多郡阿多村(現在の南さつま市)に鮫島東右衛門の二男として生まれる。1899年(明治32年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。著述出版業に従事した後、司法官試補を経て、1905年(明治38年)から弁護士を開業した。また『痛快新聞』『西南新聞』『鹿児島毎日新聞』『鹿児島日日新聞』の社長兼主筆を務めた。1913年(大正2年)より鹿児島市会議員に選ばれ、鹿児島県会議員にも選ばれた。その他に大正貯金株式会社社長、合資会社薩摩銀行頭取などを務めた。
志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日… 志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 岩手県胆沢郡西根村(現在の金ケ崎町)出身。日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1901年(明治34年)に高等文官試験と判検事登用試験に合格し、盛岡地方裁判所に司法官試補・検事代理として勤務した。しかし間もなく退官して弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で鉄道参与官を、齋藤内閣で逓信政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。
林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918… 林 永太(はやし ながた、1873年5月21日 - 1918年4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県出身。1895年、日本法律学校卒。末武南村会議員、都濃郡会議員、山口県会議員、同参事会員、同副議長を務め、周防銀行、記念肥料(株)各取締役、周陽銀行頭取、柳井瓦斯(株)監査役となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において山口県郡部から無所属で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選した。1918年に死去した。
加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4… 加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4月19日 - 1939年(昭和14年)12月3日)は、日本の逓信官僚、銀行家、政治家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁、貴族院議員。旧姓・川村。 愛知県出身。川村浩の三男として生まれ、加藤厚寛の養子となる。1897年(明治30年)7月、私立日本法律学校(現日本大学)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年(明治31年)2月、逓信省に入り通信書記として電務局に配属された。 1898年11月、福島郵便電信局長に就任。以後、岡山郵便電信局長、長崎郵便電信局監理課長、通信事務官、金沢郵便電信局監理課長、大阪郵便電信局監理課長、宇都宮郵便電信局長、一等郵便局長などを歴任。
大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月… 大道寺 慶男(だいどうじ よしお、1872年(明治5年)5月 - 1962年(昭和37年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。1897年(明治30年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補・検事代理を務めた。のち岐阜市に弁護士事務所を開業し、岐阜弁護士会長に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月… 八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月8日) - 大正5年(1916年)1月13日)は、日本の衆議院議員(中央倶楽部)、弁護士。家紋は丸に杏葉紋。 愛媛県伊予郡北伊予村(現在の松前町)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。翌年、静岡県浜松市に事務所を開き、1900年(明治33年)に東京市に移した。その後、東京市会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。 その他、藤枝競馬倶楽部理事を務めた。 大正5年1月13日没。戒名は泰雲院通義可海大居士。墓所は本所(墨田区)立川の新義真言宗・弥勒寺旧子院墓地。
生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7… 生駒 親忠(いこま ちかただ、1871年9月1日(明治4年7月17日) - 1939年(昭和14年)12月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・池田、旧名・政謙。 元岡山藩主・池田慶政の長男として生まれる。1886年(明治19年)3月、先代生駒親承の死跡を継承し、同月19日、男爵を襲爵、同月26日、親忠と改名した。1916年(大正5年)2月26日に隠居し、同年3月23日に分家した。 学習院を経て、日本法律学校(現・日本大学)を修了。育英事業に関わり、日本大学評議員を務めた。 1897年(明治30年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1904年(明治37年)7月9日まで1期在任し、さらに、1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に再選され、1916年(大正5年)2月27日に辞職するまで通算2期在任した。
利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月… 利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月 - 1934年(昭和9年)12月24日)は、日本の実業家。京王電気軌道社長。京成電気軌道常務取締役。渡良瀬水電取締役。 大分県大分郡稙田村(現・大分市)出身。利光綾太郎の二男。日本大学を経て1893年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。1899年、米国に航し、南加州大学に入り、国際公法を専攻した。 1907年、帰国。東京市役所に奉職し、勧業課主事を務めたが1910年、これを辞し京王電気会社の創立に尽瘁し、その社長に推された。 日本大学推薦校友である。 兄・吉郎方より分かれて一家を創立した。 宗教は真宗。趣味は俳句、小鳥、囲碁。東京府在籍で、住所は東京市四谷区坂町、千葉県東葛飾郡市川町字真間。
山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(187… 山崎 伝之助(やまざき でんのすけ、明治4年6月8日(1871年7月25日) - 昭和16年(1941年)2月7日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 和歌山県有田郡糸我村(現在の有田市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。帰郷後、南海公論社、ついで和歌山日日新聞社を創設し、社長に就任した。1915年(大正4年)からは和歌山県会議員を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙でも再選された。
楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931… 楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931年)は広島県出身の実業家。北海道の室蘭を拠点に事業を起こし、北海道鉱業鉄道や後のナラサキ産業を創業した。 広島県平民、楢崎九郎と妻リンの長男として1871年(明治4年5月5日)に同県芦品郡駅家村大字中島で生まれる。生家は庄屋を務める傍ら農業を営んでおり、1880年(明治13年)に区町村会法が制定されると父は村長に推選された。平太郎はその後上京し、菊池武夫の事務所で働きながら日本法律学校で学ぶ。1894年(明治27年)7月に同校を卒業。一時期は郷里で教職に就いていたが、1898年(明治31年)に北海道へ渡ると北海道炭礦鉄道に入社して室蘭売炭所で働いた。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。
長田 桃蔵(おさだ とうぞう、1870年9月8日(明治3年8… 長田 桃蔵(おさだ とうぞう、1870年9月8日(明治3年8月13日)- 1943年(昭和18年)7月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、淀町長、京都競馬倶楽部理事、大林組副支配人。旧姓・梅村。 丹後国与謝郡宮津(現京都府宮津市)で旧宮津藩儒家梅村踈影の三男として生まれ、梅村が助教をしていた天橋義塾で学ぶ。1891年(明治24年)11月、長田忠恕の養子(娘婿)となる。 日本法律学校で学び、1894年(明治27年)同校を卒業。淀町長、秋田物産社長、六甲土地取締役、北鮮産業取締役、奈良電気鉄道専務のほか、国有財産調査委員、京都競馬倶楽部理事長などを務める。 京都府農会長、帝国農会議員、京都府畜産組合総合会会長等を経て、1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙で京都府郡部より衆議院議員に当選。
渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(18… 渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(1870年4月20日) - 昭和25年(1950年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。東京市の各区長や、仙台市長などを歴任した。 教育行政への造詣が深かったことから、仙台市長時代には「教育市長」、また町村合併や産業振興などから、「仙台中興の祖」とも呼ばれた。 宮城県黒川郡大松沢村(現・大郷町)生まれ。渋谷吉三郎の長男。 宮城師範学校(現在の宮城教育大学)を卒業後、宮城県内で教員を務めたのち上京、1906年に日本大学(法科)を卒業した。大学卒業後は文部省に入省、普通学務局第一課長、東京市教育課長職を経て、小石川区(現在の文京区)、麹町区(現在の千代田区)、京橋区(現在の中央区)の、それぞれ区長を歴任した。
深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。
山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(18… 山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(1869年4月27日) - 昭和13年(1938年)9月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、宇和島市長。 宇和島藩士村松喜久造の二男として生まれ、翌年に同藩士山村正の養子となった。1895年(明治28年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格。翌年に宇和島市で弁護士事務所を開業した。 1906年(明治39年)、衆議院補欠選挙に当選。1920年(大正9年)から翌年まで宇和島町長を務めた。宇和島に市制が施行されると市会議員となり、議長に選出された。1922年(大正11年)から宇和島市長を務めた。その間、宇和島運輸株式会社取締役・宇和島鉄道株式会社取締役・南予時事新報社長などを兼ねた。
佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈186… 佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈1869年1月27日〉 - 昭和5年〈1930年〉1月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 美濃国可児郡伏見村(岐阜県御嵩町から可児市)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。弁護士試験に合格し、1894年(明治27年)から開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後、4回の当選回数を数えた。 その他、神中鉄道株式会社・東北起業株式会社取締役や日本大学理事を務めた。
吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 … 吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 - 没年不明)は、日本の実業家。札幌毎日新聞社社長。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は曽孫。 吉田亀次郎の長男として千葉県山武郡豊成村に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続し、1921年(大正10年)前名・辰蔵を重貞に改名する。 日本法律学校(現・日本大学)を卒業後、1902年(明治35年)「北政日報」を札幌に創刊し、続いて1916年(大正5年)3月、旬刊「北海時報」を同地に創刊。1925年(大正14年)2月28日には「北海時報」を「北海道毎日新聞」と改め、日刊とした。 1934年(昭和9年)10月16日、株式会社に組織を改め、1936年(昭和11年)11月、再び吉田の個人経営となった。