広島 了輔(ひろしま りょうすけ、1922年(大正11年)1… 広島 了輔(ひろしま りょうすけ、1922年(大正11年)11月6日 - 没年不明)は、日本の税理士、計理士、司法書士、政治家。広島税理士事務所所長。元境港市議会議員。第61代鳥取県議会副議長。 父は元境港市議会議員の広島馨。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。 立命館大学法学部中退。 1944年(昭和19年)から1950年(昭和25年)まで、組合立境高等家政女学校、組合立境女子商業学校→鳥取県立境高等女学校→鳥取県立境第二高校→鳥取県立境高等学校に勤務。 1950年、税務代理士となる。 1958年(昭和33年)、境港市議会議員に当選。 1967年(昭和42年)、鳥取県議会議員に当選。 元鳥取県米子市長森田隆朝によると「小学生時代の広島了輔氏はガキ大将だった。
江夏 弘(えなつ ひろし、1922年(大正11年)9月12日… 江夏 弘(えなつ ひろし、1922年(大正11年)9月12日 - 2019年(令和元年)8月4日)は、日本の理論物理学者。立命館大学名誉教授。学位は理学博士。専門は素粒子論。 場の量子論において、相対論的ハミルトン形式に貢献した。 江夏は、場の量子論の相対論的なハミルトン形式における交換関係 の下で、場の量子論の従来の非相対論的なそれと等価であることを発見した。ここで、 である。ここで、ϵ(x){\displaystyle \epsilon (x)}は 0<x{\displaystyle 0<x} に対して ϵ(x)=1{\displaystyle \epsilon (x)=1} となり、x<0{\displaystyle x<0} に対して ϵ(x)=−1{\displaystyle \epsilon (x)=-1} となるような或る階段函数である。
加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)… 加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)9月 - 2020年(令和2年)7月30日 )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。 京都府京都市出身。父は、商船の船長をして不在がちであったため、専ら母の影響を受けて育つ。1934年(昭和9年)4月、京都市立第二商業学校に入学。同校卒業後、1939年(昭和14年)4月、立命館大学法学部に入学。1942年(昭和17年)徴兵検査甲種合格。大東亜戦争の戦況拡大に伴い、1943年(昭和18年)9月、同校を繰上げ卒業。 1943年(昭和18年)海軍航空隊へ志願し、10月1日、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊で基礎教程を学ぶ。
近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 20… 近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 2009年5月20日)は、日本の書道家。本名は寿男。 大阪府大阪市生まれ。1945年、立命館大学卒業。炭山南木、津金隺仙(「隺」は鶴の文字から鳥を取った文字)に師事。池大雅に大きな影響を受けた。旧来の書壇のあり方に疑問を呈し、自ら新書派を旗揚げ。寺山修司の詩を作品に仕上げるなどした。 日展理事、四天王寺女子大学教授のほか、新書派協会の会長などを務める。 2009年5月20日、肺炎のため死去。
関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、… 関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、日本の経済統計学者、立命館大学名誉教授。 京都市出身。1947年立命館大学経済学科卒。1992年「寄与度・寄与率の理論と応用」で経済学博士の学位の取得。立命館大学助教授、教授を務めた。1986年定年、名誉教授、京都学園大学教授。
浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987… 浪花 博(なにわ ひろし、1922年2月19日 - 1987年5月3日)は、日本の心理学者。 大阪府生まれ。立命館大学卒、佛教大学助教授、同心理学研究所教授。65歳で在職中に死去した。
多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1… 多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1997年9月18日)は、 日本の空手家であり、日本正剛館空手道士会の創設者。 剛柔流八段位。京都府京都市出身。立命館大学卒業。 1922年大正11年生まれ。中国上海市にて15歳で中国武術を学ぶ。立命館大学空手部にて、宮城長順流祖より直々に剛柔流空手道を伝授される。のち同大学空手部監督を務める。1945年より京都市に日本剛柔流空手道士会を設立。京都市内に数道場を構え、立命館大学空手部直系の本土剛柔流の名門道場として栄える。のち日本正剛館空手道士会と改称。国内支部20数箇所の他に、10大学空手道部(大阪大学・滋賀大学・仏教大学・大阪歯科大学・京都外大・京工繊大・京薬大・山口大学・徳山大学・九州共立大)および海外20支部を指導した。
保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 20… 保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手・監督。
古家 武夫(ふるや たけお、1921年3月9日 - 2014… 古家 武夫(ふるや たけお、1921年3月9日 - 2014年7月14日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(投手)。
三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日… 三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日 - 1975年(昭和50年)9月24日)は、日本の映画監督。代表作は勝新太郎を主演に起用した「座頭市」シリーズや市川雷蔵主演の「剣」三部作(『斬る』『剣』『剣鬼』)に「眠狂四郎」シリーズ、若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』シリーズなど。 神戸の海運業者の父親と、京都の芸妓の母親との間に、妾腹の子として京都市に生まれる。神戸市出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。旧制中学校卒業後、旧制高等学校には進学せず、立命館大学の専門部商学部を卒業。その後、日活京都撮影所に助監督として入社。1942年(昭和17年)に召集され、満州へ配属される。
隅谷 正峯(すみたに まさみね、1921年(大正10年)1月… 隅谷 正峯(すみたに まさみね、1921年(大正10年)1月24日 - 1998年(平成10年)12月12日)は石川県松任市(現在の白山市)出身の日本刀匠。全日本刀匠会元理事長。日本美術刀剣保存協会元理事。本名は隅谷 與一郎(すみたに よいちろう)。 1938年(昭和13年)、金沢一中卒業。1941年(昭和16年)立命館大学理工学部機械工学科卒業と同時に刀匠・桜井正幸に入門。独立後は興国日本刀鍛錬所(広島県尾道市)へ。その後、日本刀鍛錬所傘笠亭(さんりゅうてい)を松任市に開いて多くの作品を手掛けた。昭和40年代には新作刀に与えられる最高賞である「正宗賞」を3度受賞。1989年(平成元年)には伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀(ごしんぽうたち)を制作した。
中島 義信(なかじま よしのぶ、1920年11月1日 - 1… 中島 義信(なかじま よしのぶ、1920年11月1日 - 1967年3月25日)は、日本の元ラグビー選手、元監督。 徳島県立阿波中学校(現在の徳島県立阿波高等学校)を経て立命館大学に進学。同校のラグビー部で活動。同大学を卒業後、近鉄(現在の花園近鉄ライナーズ)に加入。1952年、ラグビー日本代表選手として、オックスフォード大学との間で組まれた2試合のテストマッチに出場し、キャップ2を獲得。 1953年、1952年度の第5回全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)に近鉄が出場できなかったことを受け、監督に就任。そして1953年度の第6回全国社会人大会において、九州電力(現在の九州電力キューデンヴォルテクス)と3-3の引き分けながらも、出場4回目にして悲願の同大会初優勝をもたらした。
野田 只夫(のだ ただお 1920年10月13日 – 200… 野田 只夫(のだ ただお 1920年10月13日 – 2009年5月13日)は、日本の歴史家。 京都府生まれ。1941年に京都府師範学校本科を、1942年に同校専攻科を卒業。その後終戦まで兵役につき、1947年に立命館大学文学部史学科に入学し、1950年に卒業。卒業論文は「酒屋土倉の一考察」。同年、京都学芸大学助手に任じられ、1960年に同大学助教授に昇任。1966年に京都教育大学助教授となり、1975年に同大学教授に昇任。1984年に定年退官し、京都教育大学名誉教授。逝去にあたり、従四位に叙せられ、勲四等瑞宝小綬章を受章する。 専門は日本中世史で、社会経済史、文化史、部落史の研究につとめ、『丹波国山国荘史料』と『丹波国黒田村史料』の編さんを行ったことでも知られる。
中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 199… 中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 1992年5月21日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。 京都市立第一工業学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)、立命館大学から門司鉄道局(現・JR九州硬式野球部)を経て、シーズン途中ながらも1947年に南海ホークスへ入団し、1年目に15勝を挙げ、翌年も開幕から12連勝で、前年御園生崇男が記録したプロ野球記録の13連勝に挑んだ6月25日の対金星スターズ戦では6対2で敗戦投手となり連勝を止めるものの、この年は21勝を挙げる。1951年には14勝して最高勝率のタイトルを獲得し、5年連続二桁勝利も記録した。1955年に現役引退後は、1960年までコーチとなる。
小野 忠熈(おの ただひろ、1920年1月1日 - 2019… 小野 忠熈(おの ただひろ、1920年1月1日 - 2019年4月6日)は、日本の考古地理学者。理学博士。山口大学名誉教授。小野 今(おの こん)の雅号で洋画家としても活動していた。
藤戸 逸郎(ふじと いつろう、1920年 - 没年不明)は、… 藤戸 逸郎(ふじと いつろう、1920年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。
西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - … 西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - 2006年11月13日)は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。旧姓は木村。
3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日… 3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 - 1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。 3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。 父の公職追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など。
瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996… 瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996年6月11日)は、日本の経営者。タキイ種苗社長を務めた。京都府京都市出身。 1942年に立命館大学経済学部を卒業。1947年にタキイ種苗取締役に就任し、1960年に副社長を経て、1970年には社長に昇格。1991年には会長に就任。日本種苗協会会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1996年6月11日肺癌のために死去。76歳没。
宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 196… 宮内 裕(みやうち ひろし、1919年4月29日 - 1968年2月25日)は、日本の法学者(刑事法)。元京都大学教授。東京都出身。 旧制松本高校に在学中にマルクス主義的思想を問題視され退学する。その後、立命館大学の予科に入学し、竹田直平に師事する。竹田は宮内を素晴らしい学生であると他の学者に自慢しており、佐伯千仭や滝川幸辰に見出される。なかでも滝川は宮内を高く評価して直に指導するようになり、平場安治、滝川春雄とともに滝川門下の三羽烏と称されるようになる。 戦後は立命館で刑法講座を担当していたが、師の竹田が教職追放により立命館を去り、また京都大学では佐伯の教職追放などによる教員不足のため刑事法研究者を補充する必要が生じ、滝川門下の平場(刑事訴訟法講座担当)とともに刑事学講座担当として迎えられ京都大学助教授に就任した。
水上 勉(みずかみ つとむ、1919年3月8日 - 2004… 水上 勉(みずかみ つとむ、1919年3月8日 - 2004年9月8日)は、日本の小説家。福井県生まれ。社会派推理小説『飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら宇野浩二に師事、社会派推理小説で好評を博して、次第に純文学的色彩を深め、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した。作品の映像化も多い。日本芸術院会員、文化功労者。位階は正四位。 福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ[要ページ番号]、5人兄弟の次男として育った。
塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 20… 塚田 満江(つかだ みつえ、1918年11月19日 - 2020年5月4日)は、日本の日本近代文学研究者。京都女子大学名誉教授。筆名・黒田しのぶ。 日本領朝鮮(現・北朝鮮)生まれ。立命館大学大学院日本文学専攻修了。朝鮮京城梨花女子高等女学校教諭、帰国後は京都女子大学教授、1989年定年、名誉教授となる。樋口一葉、半井桃水を研究した。
富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1… 富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1983年7月20日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
宇治田 省三(うじた しょうぞう、1917年(大正6年)1月… 宇治田 省三(うじた しょうぞう、1917年(大正6年)1月3日 - 1989年(平成元年)6月11日)は、日本の政治家。和歌山市長。長男は県議会議員で2006年(平成18年)の市長選に立候補して落選した宇治田栄蔵。旧制和歌山県立海草中学校、立命館大学卒業。市長としての長年の功績により、1986年(昭和61年)に和歌山市名誉市民として選ばれ、2003年(平成15年)には偉人顕彰が行われている。空手の師範免許を持っており、「カラテ市長」としても有名であった。 和歌山県海草郡湊村(現在の和歌山市)で宇治田増蔵の次男として生まれる。和歌山県立海草中学校(現:和歌山県立向陽高等学校)を経て立命館大学法文学部経済学科を卒業後、1946年(昭和21年)から拳武館空手道場を経営する。
大森 正男(おおもり まさお、1916年11月15日 - 2… 大森 正男(おおもり まさお、1916年11月15日 - 2002年5月14日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。高知県出身。 1940年に立命館大学専門部を卒業し、同年に淀川製鋼所に入社。1962年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1969年5月に専務を経て、1977年3月に副社長に就任し、同年6月には社長に昇格。1995年6月に会長に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年5月14日呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉… 西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉7月17日 - 1991年〈平成3年〉1月9日、74歳没)は、滋賀プラスチックス創業者・代表取締役。スケベ椅子の開発者として知られる。 子爵・西四辻公堯(貴族院議員)の三男。次兄に冷泉為任がいる。学習院初等科を経て、1940年、立命館大学卒。 1964年から、ソープランド用バスタブで日本一のメーカーである滋賀プラスチックスを経営。雄琴のソープランド49軒のバスタブは全て滋賀プラスチックスの製品であり、日本全国では80パーセントのシェアを持つ。東京都のパレスホテル、ヒルトンホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ、リーガロイヤルホテルなど一流ホテルのスチームバスは全て同社の製品で占められている他、クレムリン宮殿のサウナやアメリカ海軍の第7艦隊の船内サウナも同社の製品である。
長瀬 誠造(ながせ せいぞう、1916年5月1日 - 198… 長瀬 誠造(ながせ せいぞう、1916年5月1日 - 1982年1月6日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 ロンドンで出生し、京都府京都市出身。1938年に長瀬産業監査役に就任し、1943年に立命館大学法学部法文学科を卒業。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務、1951年に専務、1962年に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。 1982年1月6日心不全のために死去。65歳没。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、1916年3月27日 - … 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、1916年3月27日 - 2009年12月6日)は、日本の経営者。西宮酒造(現在の日本盛)社長を務めた。京都府出身。 1916年(大正5年)3月27日、京都府船井郡世木村殿田(現在の南丹市)で生まれた(前名は吉田省三)。 世木村殿田で営まれていた家業(始祖は吉田萬右衛門)は生糸、醤油醸造であったが、兄弟・親族に医者が多く、自らも医学の道を志し、旧制松江高等学校理科乙類に入学した。 しかし、3年時に中退、1941年に立命館大学経済学部に入学し首席で卒業した。時代は太平洋戦争に突入し、省三は中部第三七部隊に入営、陸軍歩兵少尉に任官し、北支派遣軍独立歩兵となった。 終戦後、1948年に灘琺瑯に入社。
谷岡 武雄(たにおか たけお、1916年3月14日 - 20… 谷岡 武雄(たにおか たけお、1916年3月14日 - 2014年6月14日)は、日本の地理学者。立命館大学名誉教授。学校法人立命館名誉役員。学校法人立命館元総長・立命館大学学長。京都府綴喜郡多賀村(現・井手町)生まれ。 京都府師範学校(現・京都教育大学)本科を卒業し、専攻科修了後は小学校の訓導として勤務。その傍ら立命館大学予科に通う。1944年(昭和19年)立命館大学法文学部地理学科卒業。 その後、立命館大学で助教授、教授を歴任し、文学部学部長に就任。1962年(昭和37年)、「近畿における平野の発達に関する地理学的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。立命館退官後は、中部大学に移籍していたが、1984年(昭和59年)の立命館総長選挙に推薦され当選。
林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 19… 林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 1990年5月23日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
足立 政男(あだち まさお、1915年9月7日 - 2001… 足立 政男(あだち まさお、1915年9月7日 - 2001年8月5日)は、経済史・経営学者。 徳島県阿波郡市場町(現・阿波市市場町)出身。立命館大学文学部史学科、経済科卒業。1974年「老舗の家訓と家業経営」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部助教授、教授、1980年定年退任、名誉教授、名古屋経済大学教授。
江口 行男(えぐち ゆきお、1915年4月4日 - 没年不明… 江口 行男(えぐち ゆきお、1915年4月4日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは一塁手、二塁手。
西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月… 西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月18日 - 2013年 <平成25年> 8月1日)は、日本の経営者。京都中央信用金庫理事長を務めた。位階は従四位。 京都府出身。関東軍無線電信教習所、朝鮮平壌日本穀産工業での勤務を経て、1947年1月に京都中央信用金庫に入社し、1949年に立命館大学文学部哲学科を卒業。1950年4月に理事に就任し、1959年に専務を経て、1972年12月に理事長に就任。1989年5月に会長に就任し、1995年5月から2000年5月までに相談役を務めた。1981年に立命館理事長に就任し、1995年11月には名誉会長に就任。 1977年に黄綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1996年4月に勲二等瑞宝章を受章。
清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月… 清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月10日 - 2004年〈平成16年〉8月24日)は、日本の政治家。富山県松倉村長および魚津市長を歴任。位階は従四位。 1915年2月10日、朝鮮半島の鎮海にて、池上家の七人兄弟姉妹の6番目の子供として生を受ける。1928年3月に鎮海尋常高等小学校卒業、1933年3月に釜山公立中学校卒業。1936年3月15日に立命館大学専門部文科を卒業。 1936年9月4日、富山県下新川郡松倉村北山の旅館業『仁右衛門家』を営む清河家(母方の実家)の清河さきと養子縁組をし、美智子と結婚。同年12月16日から1940年6月30日まで富山県中新川郡早月加積尋常高等小学校に代用教員として勤務し、続いて同年6月30日から1941年3月29日まで富山県公立青年学校教諭となり、下新川郡魚津青年学校に勤務。
林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 … 林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。 立命館大学教授・京都大学人文科学研究所教授・京都国立博物館長などを歴任。中世史の研究において大きな足跡を残した。 1914年(大正3年)、石川県金沢市に生まれた。父は茶商を営んでいた四代林屋新兵衛で、四男であったことから生後1年足らずのうちに新兵衛の次兄林屋次三郎の養子となり、生家を離れて東京に移った。 1924年、中華民国・北京に一家で渡航・居留。2年後の1926年、中学校入学準備のため単身帰国した。慶應義塾幼稚舎に入学し1927年に慶應義塾普通部に進学。翌1928年京都に移住し、京都府立京都第一中学校第2学年に編入学した。
市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 19… 市原 正雄(いちはら まさお、1913年11月7日 - 1977年)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 1913年(大正2年)11月7日、京都府南桑田郡篠村(現在の京都府亀岡市篠町)に生まれる。亀岡尋常小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)卒業後、京都府立亀岡農学校(現在の京都府立亀岡高等学校)に進学。1931年(昭和6年)、立命館大学専門部2部法学部に入学。 農学校時代から陸上競技を行っていたが、大学専門部入学後に本格的に400mハードルを始める。日本学生対校選手権、日本陸上競技選手権大会、明治神宮体育大会など各種大会で400mハードル種目に出場。また、京都学生駅伝にも出場して活躍した。 1934年(昭和9年)5月16日、初の国際大会出場となる極東選手権大会(マニラ)で400mハードルを走り、3位ながらも 当時の日本学生記録(55秒1)をマークした。
和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月2… 和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月16日)は、日本近代文学研究者、歌人。 京都府京都市生まれ。立命館大学法文学部国文学科卒。立命館中学校教諭、立命館大学予科教授、1949年(昭和24年)立命館大学助教授、1956年(昭和31年)同大学教授。1976年「近代文学創成期の研究 リアリズムの生成」で立命館大文学博士。1979年退任、名誉教授、大谷女子大学教授。1983年退職。1985年、勲三等瑞宝章受章。1999年、肝臓癌のため死去。 歌誌『ポトナム』同人。筆名・周三。小泉苳三に師事。門下に上田博など。
河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17… 河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17日または1914年4月24日 - 1991年8月13日)は、大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 第8代国会議員の金柄潤(朝鮮語版)は妻の弟である。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡(現・浦項市)出身。立命館大学法文学部卒。大学在学中に東亜連盟事件により3年間服役した。その後は浦項女子中学校教員、同志商業中・高等学校設立校長、同志財団理事長、浦項水産大学学長、東海時報社創立社長、慶尚南道教育委員会副議長、浦項市教育委員・教育会会長、自由党浦項市党委員長・中央委員、第3代国会国防部原綿事件調査報告者、第4代国会国防委員長・台風災害対策特別委員会委員長、浦項実業専門学校校長を務めた。
道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 200… 道上 伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本の柔道家である。講道館七段、フランス柔道連盟九段。 愛媛県八幡浜市出身。1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(のちの県立八幡浜高校)入学を機に柔道を始める。1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。 1929年、武徳会二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。
堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月2… 堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月26日 - 昭和54年(1979年)6月8日)は、日本の柔道家、政治家。元鳥取県議会副議長。元県柔道連盟米子支部顧問。 堀安家は松江城主堀尾吉晴の末裔である。 鳥取県米子市出身。堀安憲の長男。立命館大学卒業。 昭和30年(1955年)から約10年間にわたって県公安委員長。昭和42年(1967年)県議初当選以来、連続三期当選。昭和52年(1977年)7月~昭和54年(1979年)4月県議会副議長。 代々堀安家は制剛流俰を伝える家であり、堀安成文は制剛流15代目であった。 大学在中柔道主将、卒業後講道館で柔道を錬磨し五段を授けらる。邸内に礎道館を設立、広く柔道の普及興隆に尽力。
青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年… 青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年〉 - 1945年11月1日〈昭和20年〉)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。 1930年に立命館大学野球部に所属。1932年から1933年頃、旧関西六大学リーグ戦での快速球は京都の野球界を風靡しており、京都商業学校時代の沢村栄治から目標とされる程の存在だった。また、島秀之助も戦前で最も印象に残った選手の一人として、青柴憲一の名を挙げている。大学時代のチームメイトに後藤正・村川幸信(社会人野球の明電舎でもバッテリーを組んだ)がいる。 立命館大学を中退して、渡辺商店や東洋ベアリングでプレー。1934年のベーブ・ルース率いる全米選抜チーム来日時には、11月8日の湯の川球場(北海道函館市)での試合に全日本選抜チームの投手として先発。
後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937… 後藤 正(ごとう ただし、1912年8月13日 - 1937年7月28日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(一塁手)。 神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港高等学校)在学中に甲子園に2回出場(春2回〔1929年、1930年〕)。チームの2連覇に一塁手として貢献。自身も1929年春の大会で、打撃賞と塁打賞を受賞した。第一神港商卒業後は慶應義塾大学に進むも中退し、立命館大学に転校して卒業。立命館大学時代のチームメイトに青柴憲一(後に巨人)、村川幸信(後に大東京)がいる。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。堅実な打撃と守備で、草創期の名古屋軍を支えた。4番高橋吉雄の後の5番打者を打つことが多かった。
宮崎 辰雄(みやざき たつお、1911年〈明治44年〉9月3… 宮崎 辰雄(みやざき たつお、1911年〈明治44年〉9月3日 - 2000年〈平成12年〉2月22日)は、日本の政治家。位階は正四位。勲等は勲一等。 神戸市長(第13代)、神戸市山岳連盟会長などを歴任した。 旧制神戸三中(現:兵庫県立長田高等学校)を経て、旧制姫路高校に入学するも、河本敏夫退学問題に端を発する全校ストライキに参加し放学処分となる。その後1936年(昭和11年)立命館大学専門部法学科卒業。大学卒業後は神戸市役所入庁。神戸市助役を経て、1969年(昭和44年)から神戸市長を5期20年務めた他、財団法人神戸都市問題研究所の創設者・理事長としても活動した。市長初当選時は自由民主党・日本社会党・公明党・民社党を与党としていたが、1973年の市長選では自民党が支持を撤回、替わって日本共産党が推薦に加わる。
鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1… 鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1日 - 1973年7月1日)は、日本の中国語学者・中国文学者。元天理大学教授。 愛知県八名郡石巻村(現豊橋市嵩山町)の農家の二男として生まれる。1927年、県から学資補助を受けながら愛知県岡崎師範学校(現愛知教育大学)本科一部に進学。1932年、豊橋市内の学校に奉職するも、1935年、県に頼んで南満洲鉄道株式会社奉天教育研究所に出向。ここで中国語と出会い、中国語を専攻する。1939年に一時帰国し、結婚。1940年、新京(現長春市)の新京商業学校で教鞭を執る。1942年、帰国して天理外国語学校(現天理大学)教授となる。そのかたわら、立命館大学法学部に在籍し、1944年に卒業した。
村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年… 村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年不明)は、香川県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 高松中学(現・香川県立高松高等学校)在学中には、梶原英夫(のち東大野球部でプレー。1943年に戦病死)とバッテリーを組んでいたが、野球に熱中する余り、学業が疎かになり落第。仕方なく高松中を中退し、大谷中学校(京都府)の4年生に編入。ここで、当時一塁手だった青柴憲一(のち東京巨人軍に在籍)と出会い、青柴を投手に転向させ、たちまち名バッテリーとして京都府下では評判になった(甲子園出場は果たせなかった)。 1931年に青柴と共に、前年(1930年)に旧関西六大学野球連盟に加盟したばかりの立命館大学野球部に所属。
川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1… 川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1944年)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。妻は宝塚歌劇団18期生の秦都美子。
野原 覚(野原 覺、のはら かく、1910年11月12日 -… 野原 覚(野原 覺、のはら かく、1910年11月12日 - 1999年4月6日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(4期)。 長崎県出身。1938年(昭和13年)、立命館大学専門部法律科卒業。 大阪府にて教職に就き、大阪教職員組合執行委員長、大阪府労組連合協議会議長、日本教職員組合近畿地区協議会委員長などを歴任。 1953年の第26回衆議院議員総選挙において、左派社会党より旧大阪府第1区から立候補し初当選、以後当選4回。社会党左派に属し、党中央委員、遊説部長、国会対策副委員長、書記長などを経て、大阪府連合第一地区協議長、日本農民組合大阪府連顧問、党本部近畿圏整備副委員長に就任したほか、議院運営委員会理事、公職選挙法に関する調査特別委員会理事等も務めた。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
木全 竹雄(きまた たけお、1910年5月14日 - 没年不… 木全 竹雄(きまた たけお、1910年5月14日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(ポジションは外野手)。
武藤 守一(むとう しゅいち、1910年5月11日 - 19… 武藤 守一(むとう しゅいち、1910年5月11日 - 1970年9月30日)は日本の経済学者。学校法人立命館総長。立命館大学学長。 岐阜県生まれ。1936年(昭和11年)3月、立命館大学法経学部経済学科を卒業後、研究生として立命館に残る。主として金融経済論、経済政策論、経済理論を中心に研究。1941年(昭和16年)に立命館大学講師、1942年(昭和17年)に同大学助教授、1943年(昭和18年)に同大学教授に就任した。その後、同大学院経済学研究科長、経済学部長、教学部長、図書館長などを歴任。1969年(昭和44年)には立命館総長事務取扱に就任。翌1970年(昭和45年)2月1日行われた総長選挙を経て戦後長らく総長の地位にいた末川博の後を受け立命館総長となった。