松永 信雄(まつなが のぶお、1923年(大正12年)1月1… 松永 信雄(まつなが のぶお、1923年(大正12年)1月16日 - 2011年(平成23年)12月1日、満88歳没)は、日本の外交官、外務省官僚。位階は正三位。外務事務次官、駐アメリカ合衆国大使を歴任。 1965年(昭和40年)6月22日日韓基本条約交渉の際には条約課長として交渉の実担当となり、論点の一つだった韓国の対日請求権について「日韓請求権並びに経済協力協定によって韓国の日本に対する一切の財産及び請求権問題に対する外交的保護権は放棄されている」とした内容で締結に導いた。
影井 梅夫(かげい うめお、1920年3月9日 - 2003… 影井 梅夫(かげい うめお、1920年3月9日 - 2003年7月4日)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省国際連合局長、駐イタリア特命全権大使、NTT特別参与などを歴任した。 鳥取県気高郡湖山村出身。武蔵高等学校尋常科、同校高等科文科甲組を経て、1941年高等試験外交科合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 終戦連絡中央事務局連絡官を経て、1947年外交官補、叙二級。在マニラ日本政府在外事務所一等書記官、日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定及び経済開発借款協定につき交渉し且つ署名する全権委員随員を経て、1956年在フィリピン日本国大使館一等書記官。
太田 新生(おおた あらお、1920年 - 2015年)は、… 太田 新生(おおた あらお、1920年 - 2015年)は、日本の外交官。ヒューストン総領事や、駐リビア特命全権大使を務めた。 兵庫県姫路市出身。1939年成蹊高等学校文科甲類卒業。1943年高等試験行政科試験合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒業。 太平洋戦争中は大日本帝国海軍で通信関係の仕事に従事していたが、南方への赴任の前に日本の降伏となり難を逃れた。海軍時代にのちに妹の夫となった縫田清二と友人となる。 1948年外務事務官任官、叙二級、北海道連絡調整地方事務局連絡調整官。1964年外務省経済局書記官。1965年外務省移住局移住振興課長。同年外務省中南米・移住局移住課長。1966年外務省中南米・移住局総務課長。
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉… 力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉2月9日)は、日本の外交官。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)出身。旧大洲藩士・力石八十綱の三男・力石敏三郎(海軍中佐)の次男として母マツ(海軍主計中将池辺安雄の妹)との間に横須賀市汐入で生を受ける。 敏三郎は力石雄一郎の弟にあたる。幼少期は海軍士官だった父の赴任先である朝鮮鎮海にも帯同している(妹 スミ子の出生地)。 父が本土に戻った後、一時期母マツの実家でもある熊本で暮らし熊本市立春日尋常小学校卒業~中学校入学となるが、その後横浜(神奈川区台町とも)に移り住み神奈川県立第一中学校に転校。 その後旧制第一高等学校を経て1940年(昭和15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月1… 藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月16日 - 2006年(平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官、外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。 鹿児島県出身。川辺郡知覧町(南九州市)生まれ、揖宿郡山川町(指宿市へ合併)出身。馬場家に生まれ、伯父の藤崎家の養子となる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1933年(昭和8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文学科卒業。旧制高校の教師になろうと考えていたが就職口がなく、東京帝国大学法学部政治学科に再入学して学び1937年(昭和12年)外務省へ入省。
上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1… 上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1995年3月1日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代駐シンガポール特命全権大使や、外務省経済協力局長、駐ドイツ連邦共和国特命全権大使、日独協会会長などを歴任した。 東京生まれ。1934年東京高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年高等試験外交科合格、外務書記生、ドイツ在勤。1939年外交官補。 1951年外務省管理局在外邦人課長。同年外務省欧米局渡航課長。1952年外務省アジア局第五課長。1957年在ドイツ日本国大使館参事官。1959年外務省情報文化局報道課長。 1961年外務省欧亜局外務参事官。1964年在シンガポール日本国総領事館総領事。
黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月1… 黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月16日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の外交官、通産官僚。外務書記官、大東亜省電信課長、香港占領地外事部長、公正取引委員会総務部長、通産省通商局長、外務省経済局長、駐デンマーク公使・大使、駐インドネシア大使、外務審査官、外務次官を務めた。 1907年広島県生まれ。広島国泰寺高校から東京帝国大学を経て、第39回文官高等試験外交科合格後、1930年に外務省に入省。1942年に外務書記官(在米大使館外務書記生)を務めた後、大東亜省電信課長を経て、日本占領下の香港で外事部長を務め 、日本の降伏まで務めた。帰国後は、終戦連絡中央事務局経済部長、公正取引委員会総務部長、通商産業省の通商局長(通商監)、外務省の経済局長、駐英公使(1954年より)、駐デンマーク公使・大使、インドネシア大使などを歴任。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12… 寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12月21日 - 1951年(昭和26年)8月21日)は、日本の外交官、元・宮内省御用掛。 1900年、貿易商・寺崎三郎(福岡藩出身)の二男として神奈川県に生まれた。兄は、外交官・寺崎太郎。暁星中学より旧制一高を経て東京帝大法学部を中退し、1927年に外務省入省。ブラウン大学に公務留学。1931年、ワシントンD.C.の日本大使館在勤中に米国人グエンドレン・ハロルド(Gwen Harold, 1908-1990)と出会い結婚。 その後、上海(勤務時に娘マリコが出生)、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンの日本大使館に赴任。
西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 19… 西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 1980年11月12日)は、日本の外交官。 佐賀県出身。佐賀中学、五高を経て1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業後外務省入省、在中華民国日本国大使館外交官補。入省同期や前後期に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、伊東隆治(自治政務次官、衆議院議員)などがいる。 在フランス日本国大使館書記官を経て、1937年条約局三課長、1940年条約局一課長、1944年(昭和19年)ハノイ総領事。終戦(敗戦)後の1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)の条約局長時にサンフランシスコ平和条約、旧日米安保条約締結の事務にあたる。
加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1… 加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。 外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一(としかず)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。 東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進む。東京帝大在学中の1920年に高等文官試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、鹿島守之助など。 1935年に欧亜局第一課長、1938年に在アメリカ合衆国日本国大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開戦後の1942年にイタリア公使となった。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)… 市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)9月2日 - 1946年(昭和21年)4月1日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 静岡県の市河彦三の子として生まれる。市河家は沼津の大地主で豪商。静岡県立沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。フィンランド公使館一等書記官、外務書記官・文化事業部第三課長、同第二課長を歴任。1940年(昭和15年)12月、駐イラン公使に就任した。 1946年4月1日、第22回衆議院議員総選挙に立候補した森田豊寿の応援演説中に、我入道公会堂において脳溢血のため死去した。 沼津中学時代の後輩芹沢光治良の『人間の運命』に登場する主人公森次郎の親友・石田のモデルであるとも言われる。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日… 新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日 - 1971年〈昭和46年〉3月14日)は、昭和時代の日本の外交官、弁理士。第二次世界大戦中に、マニラ総領事や外務省通商局長を務めた。新納 克巳とも。 鹿児島県鹿児島市出身。谷村敏成の三男に生まれ、新納家の養子になる。旧制京都一中(現京都府立洛北高等学校)を経て、1916年(大正5年)第三高等学校二甲卒業。1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒業。1921年(大正10年)4月、鉄道省雇となり、同年11月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、外務省嘱託となり臨時平和条約事務局に勤務。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務事務官に任官。
大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – … 大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – 1975年12月14日)は、昭和期の外交官・政治家。衆議院議員(3期)。カンボジア大使。
吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - … 吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - 1978年4月2日)は、日本の外交官。
岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1… 岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1967年11月23日)は、日本の外交官。 駐オランダ大使、日蘭協会会長。
大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年… 大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年〉2月15日 - 1966年〈昭和41年〉11月4日)は、日本の外交官。駐ラトビア公使。 岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)出身。盛岡中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に高等試験外交科に合格した。外交官補としてベルギーに、ついで領事官補としてハルビン、天津に勤務した。さらにドイツ大使館三等書記官、オーストリア公使館三等書記官、オランダ公使館二等書記官、ベルギー公使館一等書記官、満州国大使館一等書記官、青島総領事を歴任。1938年(昭和13年)、駐ラトビア公使に任命され、駐リトアニア公使・駐エストニア公使も兼ねた。
井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)… 井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)8月30日 - 1969年(昭和44年)11月13日)は、日本の外交官。駐ハンガリー公使。海軍司政長官。 井上喜代松の二男。神奈川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外交官補、領事官補、イギリス大使館三等書記官、外務事務官・亜細亜局第三課勤務、廈門領事・台湾総督府事務官、ポーランド領事、シドニー総領事、外務書記官・商工書記官・通商局第一課長、ドイツ大使館参事官、外務省欧亜局長を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ハンガリー公使に就任した。その後、外務省職員訓練所長を経て、1942年(昭和17年)から1944年10月まで海軍司政長官・ボルネオ民政部長官を務めた。
沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日… 沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日 - 1976年7月4日)は、日本の外交官。
堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1… 堀田 正昭(ほった まさあき、1883年(明治16年)7月1日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使、駐スイス公使、駐イタリア大使。 検事・法学者堀田正忠の長男として東京府に生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。外交官補としてフランス、中華民国に勤務した。公使館三等書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長などを歴任し、その間に中国・ドイツ・イタリアに勤務した。1926年(大正15年)、外務省欧米局長に就任。1931年(昭和6年)、駐チェコスロバキア公使となり、1934年(昭和9年)に駐スイス公使に転じた。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 196… 松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。
藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年1… 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年11月6日 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた。
川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身の日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 父は諏訪村初代村長の芳澤襄良。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。