中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 19… 中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 1969年4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道旭川市出身。地主・中藤平の長男として生まれる。旭川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第27連隊中隊長となる。 1925年(大正14年)12月、陸士教官に就任し、参謀本部員に転じ、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1931年(昭和6年)8月、陸大教官となり、兼参謀本部員を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級し陸軍省人事局課員に就任。
堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 19… 堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。位階は従三位、勲等は勲一等瑞宝章。 衆議院議員(5期)。最終階級は歩兵少佐、満洲国陸軍少将。父は堀内良平、息子は堀内光雄。孫は堀内光一郎。 山梨県出身。軍人好きであった父・良平の影響を受け、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1925年11月、陸軍大学校(37期)卒。参謀本部ではイギリスを担当する英班に配属されるが、赴任を待てず良平に資金を出してもらい世界一周に出かけた結果、軍人に嫌気がさし帰国と同時に退官を申し出た。石原莞爾などの説得により思いとどまり、陸軍少佐まで進み第9師団参謀を務めた。
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 19… 千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 19… 田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士27期・陸大38期。最終階級は陸軍中将。 輜重兵科出身の陸軍中将14名の一人(輜重兵科から陸軍大将は出ていない)。戦後に67歳で中央大学法学部を卒業している。 愛媛県出身。農業・田坂儀平の長男。西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官、輜重兵第2大隊付。1926年(大正15年)11月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 陸大卒業後は、輜重兵第2大隊中隊長、教育総監部付勤務、陸士教官、留守第9師団参謀、第9師団参謀、陸大教官を経て、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令されて日中戦争に出征、さらに第2軍参謀となった。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。
那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942… 那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942年10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍栃木県。旧黒羽藩士・官吏、那須均の長男として東京で生まれる。京華中学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1923年11月、陸軍大学校(35期)を卒業。 参謀本部付勤務、台湾軍幕僚付、歩兵第19連隊大隊長、上海派遣軍司令部付、鎮海湾要塞参謀、歩兵第78連隊付、関東軍司令部付(満州国軍顧問・第3軍管区付)、歩兵第59連隊長などを歴任。1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第3旅団長を経て、第2歩兵団長としてジャワ島攻略作戦に参加。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 19… 本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 1962年6月28日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18… 片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第6回)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。 同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、参謀本部に配属された。 1926年(大正15年)9月、朝鮮軍司令部付としてポグラニチナヤ特務機関長に就任。その後、参謀本部員、陸大専攻学生、陸大教官、陸士付、三笠宮附武官、陸軍騎兵学校教官、騎兵第27連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進。
酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986… 酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月2… 磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日 - 1979年〈昭和54年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県多野郡万場町生利(現・神流町)出身。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月3… 田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1… 山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 山梨県南都留郡禾生村(現:都留市)出身。現在の都留市四日市場の岩生山保寿院住職の山崎玄洞の二男として生れる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊附となる。 1918年(大正7年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。同連隊の大隊副官、中隊長を務め、1928年(昭和3年)5月、済南事変に出動。
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10… 山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10月8日 - 1944年(昭和19年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。 滋賀県出身。裁判官・秋山正義の息子として生まれる。膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に青木重誠、武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]。1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任。
須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - … 須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月… 甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月20日)は、日本の陸軍軍人。 陸軍憲兵大尉時代にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れ満洲で関東軍の特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の直後に現地で服毒自殺した。 1891年(明治24年)1月26日、宮城県仙台市青葉区北三番丁に米沢藩士で当時宮城県警部だった父・甘粕春吉と、母・志け(旧姓:内藤、仙台藩士内藤与一郎の娘)の長男として生まれた。第四次川中島の戦いでの奮戦で知られる上杉家家臣甘粕景持の子孫で、三菱信託銀行社長を務めた甘粕二郎と陸軍大佐の甘粕三郎は弟。
高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 194… 高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 1944年7月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期、陸大34期。最終階級は陸軍中将。 千葉県山武郡成東町(現・山武市成東)出身。成東中学校、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1922年11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 基隆要塞参謀、歩兵第50連隊大隊長、陸軍工兵学校教官、陸士教官、近衛歩兵第4連隊付、留守第16師団参謀、歩兵第3連隊付、高雄要塞司令官、歩兵第60連隊長などを歴任し、1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第27旅団長、第14歩兵団長、独立混成第17旅団長などを経て、1943年10月、陸軍中将となり第29師団長に親補された。
横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 19… 横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 1961年1月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。村役場収入役・横山麓の長男として生まれる。中学伝習館を経て、1912年5月、陸軍士官学校(24期)を卒業、同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第24連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第24連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、欧州出張、関東軍鉄道線区司令部付、同鉄道線区司令官、関東軍司令部付などを歴任。日中戦争では歩兵第2連隊長として出征し、河北戡定作戦、徐州会戦に参加。1939年3月、陸軍少将に進級。第2野戦鉄道司令官、第1野戦鉄道司令官などを歴任し、1941年10月、陸軍中将となった。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月2… 立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月… 笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。ロシア通の参謀として知られていた。
瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 … 瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 - 昭和29年(1954年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月… 相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月6日 - 1936年〈昭和11年〉7月3日)は、日本の陸軍軍人、剣道家。最終階級は陸軍歩兵中佐。皇道派将校として教育総監真崎甚三郎更迭に憤激し、統制派の軍務局長永田鉄山を殺害した相沢事件の犯人。 1889年(明治22年)9月6日、旧仙台藩士で裁判所書記、公証人となる相沢兵之助とまき子の長男として福島県西白河郡白河町(現白河市)に生まれる(本籍は宮城県仙台市東六番町1番地)。旧制一関中学校(現岩手県立一関第一高等学校)を経て、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を卒業する。陸軍士官学校に入り、1910年(明治43年)5月28日に卒業する(第22期)。
北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月2… 北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。税務署長・北野本次郎の息子として生まれる。彦根中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任し、1933年(昭和8年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士本科生徒隊長となった。
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6… 桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6月27日 - 1985年(昭和60年)7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 判事や弁護士を務めた桜井祥造の二男として名古屋で生れる。本籍は山口県萩市。 愛知第四中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年5月、陸軍士官学校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し奈良の歩兵第53連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年11月、陸軍大学校(第31期)を優等で卒業。 その後、参謀本部員(船舶班)、フランス駐在、参謀本部員、歩兵第41連隊大隊長、参謀本部員(船舶班)、兼陸大教官、歩兵第77連隊長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、第14碇泊場司令官、企画院調査官、第1船舶輸送司令部付などを歴任し、1938年3月1日、陸軍少将に進級。
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1… 豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1月5日 - 1979年(昭和54年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「豊島」と表記される場合がある。 山口県出身。農業・豊嶋鶴松の二男として生れる。防府中学校卒業を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第42連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業。 以後、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、陸軍省軍務局課員、フィリピン出張、欧州出張、歩兵第33連隊大隊長、整備局課員(統制課)、朝鮮軍司令部付などを経て、1934年3月、陸軍大佐に進級し歩兵第23連隊長に就任。
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月… 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月2… 飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる。 1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21… 麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。
水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明… 水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明治21年)9月26日 - 1944年(昭和19年)8月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年(明治44年)5月、同校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年(大正8年)3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵第110連隊長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月1… 安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。 旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。 京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。 1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12… 松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。 以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月… 本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期恩賜・陸大27期恩賜。 太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは連合国にも知られていたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われて戦後銃殺刑に処された。 本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学を経て陸軍士官学校に進んだ。1907年(明治40年)、陸軍士官学校(19期)を恩賜(歩兵科2位)で卒業。1915年(大正4年)には陸軍大学校(27期)を恩賜(3位)で卒業。
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - … 平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。
黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月… 黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月25日 - 1954年(昭和29年)4月30日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。功三級。 太平洋戦争時の第14方面軍司令官。戦後A級戦犯容疑者として逮捕された。 福岡県柳川市の福岡県立中学伝習館を卒業し、1909年、陸軍士官学校卒(21期)。同年12月歩兵少尉、1913年、歩兵中尉となる。1916年、陸軍大学校を卒業(28期)し歩兵第47連隊中隊長となる。1917年から1918年にかけてシベリア出兵に従軍し、大尉となる。1922年、イギリス駐在、1923年、歩兵少佐となり、翌年帰国。 1928年3月、歩兵第57連隊大隊長となり、歩兵中佐となる。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治2… 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治20年〉10月2日 - 1981年〈昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本の旧皇族。旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子。明治39年3月、朝香宮家を創設。妃は明治天皇第8皇女允子内親王。兄に久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した。最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた。第125代天皇明仁の大叔父にあたる。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。 1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。
田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月… 田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位、勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章。 子息には光祐(陸士46期)、俊資(48期)、祐輔(51期)、静雄(53期)がおり、いずれも陸軍少佐(終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄(海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大・海大の軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。 1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。