大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 … 大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 - 1965年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県多賀郡、のちの高鈴村(助川町を経て現日立市)出身。1907年茨城県立水戸農学校(現・茨城県立水戸農業高等学校)卒。高鈴村議、助川町議、茨城県会議員、同農会議員、助川町長となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙において茨城2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せずに引退。終戦後、公職追放となった。 このほか常陸セメント(株)常務取締役、同社長、茨城いすゞ自動車(株)取締役、茨城相互銀行(現・筑波銀行)取締役会長を務めた。
田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月1… 田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月12日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 山口県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福岡県属、同警視、同理事官、千葉県理事官、静岡県事務官、埼玉県書記官・学務部長、新潟県書記官・学務部長、兵庫県書記官・学務部長、神奈川県書記官・学務部長、富山県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長を歴任。1936年(昭和11年)、鹿児島県書記官・総務部長となり、翌年に退官した。 1941年(昭和16年)から横浜市助役を務めた。
渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治… 渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治21年)12月12日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・愛知県。旧尾張藩家老・渡辺半蔵家13代当主、渡辺綱聡の二男として生まれた。1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、司法官試補に任官。以後、千葉地方裁判所兼区裁判所検事、東京地方裁判所兼区裁判所検事を務めた。 父の隠居に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - … 小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - 1981年3月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安達郡本宮町(現・本宮市)出身。生家は本宮町の大地主である。1910年(明治43年)に早稲田大学専門部法律科を卒業した。1914年(大正3年)には小松が建設の中心となり、本宮町に芝居小屋兼公民館の本宮座(後の本宮映画劇場)が建設された。 本宮町会議員、本宮町農会長、福島県会議員、福島県会議長、本宮町長などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島1区(当時)から立候補して当選した。戦後、推薦議員のため公職追放となった。
後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12… 後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12月10日 - 1949年〈昭和24年〉3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県葉栗郡、のちの羽島郡小熊村(現羽島市)出身。1917年(大正6年)、京都帝国大学哲学科卒。私立花園中学校教諭、羽島郡仏教会副会長、岐阜県嘱託講師、妙心寺派宗会副議長、同議長、同派宗務総長、同派教学財団理事長、仏教連合会幹事、雑誌「正法論」主筆、同「表現」主幹、日本ビルマ協会常任理事となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した。1932年(昭和7年)の第18回総選挙で再選。
加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月1… 加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月10日 - 1937年(昭和12年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。 東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。 1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 … 奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 - 1964年(昭和39年)1月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長崎県出身。奈良正英の長男として生まれる。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。士官学校では岡田資陸軍中将と同期であった。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した。 1921年(大正10年)4月、参謀本部付勤務となり、歩兵第46連隊中隊長、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員を務め、1925年(大正14年)9月アメリカ駐在となり米陸軍歩兵学校で学んだ。
野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1… 野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1990年3月14日)は日本の牧師、東京キリスト教短期大学(現、東京基督教大学)の発足のために尽力した。 B・F・バックストン・P・ウィルクス 米田豊・大江邦治・竹田俊造・三谷種吉・堀内文一・武本喜代蔵 笹尾鉄三郎・河辺貞吉・松野菊太郎・御牧碩太郎・秋山由五郎・土肥修平 沢村五郎・柘植不知人・舟喜麟一・佐藤邦之助・鋤柄熊太郎・野畑新兵衛 赤山講話・日本伝道隊・都田恒太郎・有馬聖会 横浜バンド(1872) · 熊本バンド(1876) · 札幌バンド(1876) 静岡バンド(1876) · 弘前バンド(1876) · 阪神バンド(1870) · 松江バンド(1891) ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3… 水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。
堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2… 堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2日 - 1963年(昭和38年)12月27日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 大日本武徳会武術教員養成所卒業。著書『大日本剣道史』は剣道史研究の名著として知られる。また、吉川英治の小説で宮本武蔵が注目される以前に『宮本吉岡決闘之地』の石碑を私費で建立した。 大分県別府に生まれる。父・堀政太郎は江戸時代には楊心流柔術の師範であったが、維新後は駄菓子屋を営んでいた。1894年(明治27年)、熊本県阿蘇郡小国村に移住し、12歳から父より剣術を学ぶ。1903年(明治36年)、旧中津藩士・丸山伝八より神一刀流剣術を学ぶ。 1905年(明治38年)、父と死別。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月… 勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月30日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(大阪府第五区選出、当選6回)。 大阪府三島郡富田町(現高槻市)出身。勝田悌三郎の二男。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。弁護士の業務に従事する。 衆議院議員に6回当選する。立憲民政党、日本進歩党に所属する。1946年4月13日、死去。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11… 菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11月28日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の陸軍軍人。陸士21期。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)11月28日、長崎県南高来郡湯江村甲百九十四番地(現島原市)で小学校教員の父・菅原道胤の息子として生まれる。父の転勤に伴い5歳で上京し、やがて電力会社を興した叔父を頼り福島県に移住した。高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1907年12月、陸軍士官学校に21期生として入校。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校歩兵科を9番の成績で卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊付。1910年に行われた徳川好敏による日本では初となる動力飛行を目撃したことがきっかけで航空に関心を持つようになった。
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月2… 飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる。 1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25… 田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25日 - 1965年(昭和40年)3月9日)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 福岡県御井郡、後の三井郡北野町(現久留米市北野町)で永利伝次郎の二男として生まれ、田中政の養子となった。福岡県立中学明善校、第五高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1917年(大正6年)10月に文官高等試験行政科試験に合格した。内務省に入省し、愛知県属、同南設楽郡長、北海道庁空知支庁長、京都府理事官、奈良県書記官・学務部長、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・警察部長、群馬県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、佐賀県書記官・内務部長、愛媛県内務部長、鹿児島県総務部長、長野県総務部長などを歴任した。
友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月… 友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月24日 - 1966年〈昭和41年〉7月13日)は、日本の政治家、実業家、友田酒造工場主。第46代兵庫県会議長。外交官の弟・友田二郎の孫に憲仁親王妃久子がいる。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。友田俊蔵の長男。1920年、家督を相続した。但馬銀行、甲子銀行各監査役などをつとめた。兵庫県参事会員であった。 兵庫県会議員に推され、1943年12月から1944年12月まで兵庫県会議長を務める。住所は兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉… 河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉11月23日 - 1971年〈昭和46年〉1月4日)は、日本の茶人。号は無窮亭。ほかに偉風堂、春陽軒の号があった。 現在の徳島県徳島市駕篭屋町に生まれる。 1910年(明治43年)、大阪市東区瓦町(現在は中央区内)の繊維商家河瀬氏に婿入りし、家業を盛んにするかたわら古美術に興趣を寄せ、刀剣、刀装具、具足を蒐集し、刀剣の目利きとなる。所蔵刀の中には、のちに国宝・重要文化財指定および重要美術品認定を受けたものが多数ある。 1943年(昭和18年)、兵庫県本山村(現・神戸市東灘区)から奈良市多聞山に移る。奈良では仏教美術や茶道具を蒐集し、その見立てが賞された。
西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11… 西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11月21日 - 1967年〈昭和42年〉7月28日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚。台北市尹、高雄州知事。 高知県、のちの安芸市出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。神奈川県属、同理事官、外務事務官、大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事・関東庁事務官・朝鮮総督府事務官、福州総領事・台湾総督府事務官を歴任した。1929年(昭和4年)、台湾総督府税関長に転じ、台北市尹、高雄州知事を務めた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、台湾合同鳳梨株式会社常任監査役を務めた。戦後は、安芸高等学校東京同窓会長を務めた。
白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11… 白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11月20日 - 1972年(昭和47年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第22期、東京帝国大学機械工学科卒業。1934年(昭和9年)3月に関東軍野戦兵器廠長に就任し、8月に陸軍砲兵大佐に進級した。1936年(昭和11年)に陸軍兵器廠附を経て、1937年(昭和12年)に第1野戦化学実験部長に就任した。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、陸軍砲工学校砲兵科長に就任。7月には陸軍造兵廠小倉工廠長に転じ、1940年(昭和15年)4月に名古屋陸軍造兵廠長となり、12月に陸軍中将に進級。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11… 月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11月17日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 鹿児島県出水郡、のちの出水市で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1936年(昭和11年)8月に独立山砲兵第3連隊長に就任し、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍砲兵大佐に進級した。盧溝橋事件発生後に戦線が拡大する中、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)7月に近衛野砲兵連隊長に転じ、8月に南寧に出動した。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級と同時に第13軍兵器部長に就任し、1942年(昭和17年)10月に長崎要塞司令官に転じた。
石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1… 石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は澤田(さわだ)。 豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる。また、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれる。 愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。 父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。
小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 19… 小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 1973年6月18日)は、日本基督教団牧師、神学者。エキュメニカル運動の指導者。
児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月… 児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月15日 - 1989年(平成元年)12月15日)は、日本の教育者。学校法人明星学苑創立者。 静岡県田方郡中郷村(現・三島市)出身。1911年第四高等学校卒業。1914年東京帝国大学文科大学卒業。1915年同大学大学院修了。 その後、名教中学校教諭 成蹊実務学校教諭、1917年同主事となる。1920年から1925年まで成蹊中学校校長を務める傍ら、1922年に明星実務学校創立に参画し、1923年同理事に就任する。1924年から翌年まで成蹊小学校校長も兼任した。1925年欧米教育視察のため学校法人成蹊学園を退職し、1926年明星実務学校校長となる。
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年… 石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年〉11月10日 - 1968年〈昭和43年〉2月11日)は、日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。石浜、石濱など、複数の漢字表記が見られるが、正式には「石濵」である。 1888年(明治21年)、大阪府で生まれた。堂島で製薬業を営んでいた石濵豊蔵の長男として生まれ、大阪市住吉区墨江二丁目に住んだ。1897年に漢学塾泊園書院(現・ 関西大学)へ10歳で入って、藤沢南岳の下で学んだ。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に進み、中学校では画家の小出楢重、作曲家の信時潔らと同級であった。 1908年、大学は東京へ出て、東京帝国大学文科大学支那文学科に入学。
西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 19… 西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 1982年2月25日)は、日本の実業家。化学磁器・工業用セラミックスメーカーの西村工業(現 ニッカトー)の創業者である。 1888年(明治21年)11月10日、実業家の西村勝三の五男として東京に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、東京高等工業学校応用化学科に進学。校長の手島精一は、勝三とは旧知の間柄であったが、直の進学を見届けるように1907年に死去した。東京高等工業学校では、直は染料化学に強い関心を持つ。1909年に卒業。その頃には品川白煉瓦は業績不振の時期にあり、日本皮革も合併後の主導権争いのさなかにあった。直は、父の事業を世襲として継ぐより自らが関心を持つ染料化学を生かした事業を望み、東京瓦斯に入社した。
大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治2… 大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治21年)11月9日 - 没年不明)は、日本の資産家、家主、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 大阪府・先代伊助の長男。府立市岡中学卒業。1938年に家督を相続し、蒼生治を改め襲名する。貸家業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。紺綬褒章を賜る。趣味は読書、旅行。宗教は真宗。住所は大阪市大正区北泉尾町1丁目。
奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月… 奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月9日 - 1981年(昭和56年)3月24日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、法学者、華族。貴族院男爵議員。 農商務省官僚・奥田義人の長男として生まれる。父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月1日、男爵を襲爵した。 1914年(大正2年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年、三菱造船に入社。1923年(大正12年)検事に任官し、新潟区裁判所、横浜地方裁判所兼区裁判所、浦和地方裁判所兼区裁判所、東京刑事地方裁判所、東京控訴院の各検事を歴任した。 1936年(昭和11年)3月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954… 尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954年9月29日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の俳優、脚本家、映画監督、小説家、ジャーナリスト、演劇演出家。本名は尹 教重。本貫は坡平尹氏。 李氏朝鮮忠清南道公州府出身。大韓帝国国費留学生として早稲田大学に入学したのち、東京高等商業学校(現一橋大学)に移り、同校を卒業した。日韓併合後毎日新報記者となり、のち俳優、映画製作などに携わるようになる。1930年に東亜日報に朝鮮初の大衆小説「大盜傳」を連載し人気を博す。1931年には劇芸術研究会を創立し新劇場運動の先駆者としての役割を果たした。1937年満州国に移住し、歴史小説を執筆。日本の降伏後帰国し、朝鮮映画建設本部本部長兼代表委員長に就任。
栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 … 栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の公吏。東京市蒲田区長。 茨城県出身。1913年(大正2年)中央大学を卒業し、東京市に奉職する。文書課文書係長、本郷区会計課長、同税務課長兼戸籍兵事課長、同庶務課長、日本橋区庶務課長などを経て、1940年(昭和15年)12月、蒲田区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日… 杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日 - 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 愛媛県周桑郡三芳村(現在西条市)出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格して逓信書記官補となり、1916年(大正5年)には朝鮮銀行書記・勝田主計総裁秘書となった。寺内内閣が成立して、勝田が大蔵大臣に就任すると、引き続き秘書官となり、大蔵参事官も兼ねた。1924年(大正13年)に清浦内閣が成立して再び勝田が大蔵大臣となると、杉もまた秘書官となった。 同年、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月… 鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月6日 - 1944年〈昭和19年〉12月27日)は、日本の化学者。日本の女性で初めて薬学博士となった人物である。愛知県碧海郡富士松村字逢見(現・刈谷市)に生まれ、日本女子大学校を卒業後に、母校の化学助手としての研究、日本女子大と東京帝国大学の薬学科での長年の研究を経て、揮発性有機オイルであるペリレンの研究により、薬学博士の学位を取得した。56歳で急逝するまで、教育と研究一筋の生涯を送り続けた。下の名は「秀」「秀留」との表記もある。 愛知県碧海郡富士松村字逢見で誕生した。家は塩問屋であったが、父親は向学心に富み、自身が勉学の機会を得られなかったことから、子供たちの修学に努めた。
宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 196… 宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 1969年2月3日)は日本の漫画家。本名は宍戸 嘉兵衛。 1888年、福島県に生まれる。旧制福島中学校(のちの福島県立福島高等学校)卒業。 1907年、絵の勉強のためアメリカ合衆国のシアトルに渡り、キャノン画塾で洋画を、通信教育で漫画の技術を学んだ。9年間のアメリカ滞在中、毎日のように映画を見たと回想しており、これがのちの漫画制作に活かされたとされる。 1923年に帰国。東京毎夕新聞社に入社し政治漫画を手掛けた。その後、東京日日新聞、やまと新聞にも寄稿。左行というペンネームは、アメリカからの帰国後に見た「左側通行」の立て札から。1926年、村山知義、柳瀬正夢らとともに「日本漫画家連盟」の結成に参画する。
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)… 平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)11月3日- 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省建設局長を最後に退官し、第44代土木学会会長や日本技術士会会長、パシフィックコンサルタンツ社長、ピーエス・コンクリート社長などを歴任。1957年の技術士法制定に奔走し、建設コンサルタント制度の確立に貢献。また、新幹線計画では幹線調査委員会委員としてその実現に貢献した。勲三等。墓地は谷中霊園[3]。
木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 197… 木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 1979年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。 千葉県出身。1914年、東京高等商業学校専攻部(現一橋大学)卒。卒業後は長柄村長、千葉県議を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から立候補して当選。翌1947年、公職追放となる(衆議院議員を1期務める)。追放解除後の1960年の参院補選で千葉県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。参議院議員を3期務めた。この間、参議院法務委員長、北海道開発庁政務次官などを歴任する。このほか千葉郊外自動車(のちの千葉中央バス)や東洋バスを設立。東洋交通、東洋観光、東洋バス、長平不動産の各社長も務めた。
麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21… 麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。
渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月… 渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月10日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の三男。日満鉄鋼販売、石川島自動車製作所、富士製鋼各社長。東京石川島造船所専務取締役。日本製鐵常務取締役兼八幡製鐵所長。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の三男で、渋沢篤二、渋沢武之助の弟、渋沢秀雄の兄。渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。渋沢雅英と渋沢裕の大叔父。1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て1915年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。同年分家する。第一銀行に入り1917年、これを辞する。 渋沢貿易、富士製鋼、汽車製造、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機、秩父鉄道、富士鋼材商会、日本鋼製建具、日本煉瓦製造、日本鋼管各会社の重役だったが1932年末、総ての関係会社を辞任し製鉄業に専念する。
青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳… 青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 青木輪之輔の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月京都帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、司法官試補、予備検事となるが、1918年判事に転じ、徳島地方裁判所、和歌山地方裁判所、大阪地方裁判所、高知地方裁判所、神戸地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、1927年大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任する。その後、奈良地方裁判所部長判事、神戸地方裁判所部長判事を歴任し、1940年2月若松区裁判所監督判事兼福島地方裁判所若松支部部長となる。
徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後… 徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後没)は、日本、満洲国の教育者。 徳重義一の五男として、福岡県に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館を経て、1912年東京高等商業学校専攻部貿易科を卒業。 1913年大阪市立大阪甲種商業学校教諭兼大阪高等商業学校講師となり、山口高等商業学校教授を経て、満洲国立大学哈爾濱学院教授に就任。1942年12月大連高等商業学校校長に就任。
福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年… 福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年2月15日)は山梨県出身の経営者。精養軒社長を務めた。 明治21年(1888年)、父・須田五郎(耕)と母とら(登良)の二男として山梨県東八代郡一宮村で生まれた。須田家は当時でも600年以上続く旧家であり、代々郡中惣代や里正を務めたという。母とらは根津財閥創始者であった根津嘉一郎の姉で、茂富は根津にとって甥であった。 山梨で遊興にふけったのち、24歳で故郷を離れ大磯にあった根津の別荘に住み込んだ。これは茂富の放蕩をいさめるためとも言われ、根津による監禁という表現すら見られる。ここで庭の手入れなど家の下働きに1年ほど従事したのち、1913年(大正2年)に根津が経営するカブトビール(のちの日本麦酒鉱泉)に入社した。
物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月2… 物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月26日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の小説家、掃苔家。藤岡 一枝とも。本名は藤浪和。 国学者・物集高見の娘で、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。実兄の物集高量は国文学者、姉は同じく小説家の大倉燁子(本名は芳子)。義兄の藤浪鑑は病理学者(京都帝国大学教授)。また、親族に女優の早瀬久美がいる(姉妹の物集千代子の孫)。 東京府東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)出身、跡見高等女学校卒業。 文学を志して姉の芳子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年(明治41年)、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。
山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月… 山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月25日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の実業家。富士自動車、メトロポリタンエージェンシーズ、大日本機械工業、山本発条分岐、富士不動産、富士倉庫の経営者や、京浜不動産、日新商事、大同メタル鉱業の役員を歴任した。 経団連理事、関東経営者協会委員、日本工業倶楽部、交詢社会員。長男の岳父に外務官僚で事業家の日高信六郎。 1888年、新潟県高田市呉服町で骨董商「山静堂」を営む山本家の養子仙介の二男として生まれた。兄弟姉妹は男6名、女3名。 1911年(明治45年)に東京外国語学校卒業して、久保田鐵工所に就職し、鮎川義介に恩顧を受ける。
金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月2… 金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月22日 - 1977年(昭和52年)1月7日)は、帝国大学で学んだ日本初の女子大学生の一人、日本初の女性理学士の一人として知られる数学者。東京女子高等師範学校教授。夫は画家の金山平三で、後半生は夫の画業を支えた。旧姓名の牧田 らく(まきた らく)で言及されることも多い。 京都府京都市中京区に、呉服商・牧田久吉の次女として生まれる。京都府高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校の前身)在学中に数学への関心を深める。らくの父は「女に学問などいらぬ」という考えの持ち主で、女子高等師範学校への進学にも反対していたが、高等女学校時代の恩師がらくの父を説得し、進学が許されたという。