鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3… 尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3日またはまたは1889年8月3日または1889年8月5日 - 1974年7月13日または7月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。号は滄南。 慶尚南道南海郡出身、本籍は釜山府。普成専門学校経済科、早稲田大学政経科卒。1909年に大同青年団(のちの大韓青年団)を組織し、その後は独立運動のための秘密団体である白山貿易会社設立者、慶尚南道農林局長、原州蚕糸社長、第3代国会絶糧農家救護対策委員会委員長を務めた。 1974年7月13日、ソウル市永登浦区の自宅アパートで持病により死去。享年86。 1942年の朝鮮語学会事件により1年間投獄された。
富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -196… 富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -1968年6月)は、日本の光学技術者。富岡光学機械製作所(後の京セラオプテック)を創業したほか、光学設計のテキストを執筆、翻訳したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1… 古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1日 - 1967年(昭和42年)5月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県日置郡日置村麓(現在の日置市日吉町日置)出身。古川直衛の三男として生まれた。第七高等学校造士館を首席で卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる。 以後、静岡県引佐郡長、同県磐田郡長、同県産業課長、熊本県学務課長、兵庫県学務課長、京都府学務課長、栃木県書記官・警察部長、福岡県学務部長、警視庁書記官・保安部長、同警務部長、同官房主事、神奈川県内務部長などを歴任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉… 松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉8月 - 没年不明)は、日本の官僚。愛知県経済部長。族籍は長野県士族。立教大学名誉教授松崎仁の父。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に生まれる。長野士族・松崎雅人の長男。第一高等学校を経て、1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1917年10月、文官高等試験に合格。1918年、北海道庁属となり、山梨県、警視庁、福島県各警視を経て鹿児島県理事官に任じられ、以来宮崎県視学官、静岡県書記官、鹿児島県書記官、愛媛県書記官・警察部長、島根、和歌山、三重各県書記官・内務部長を経て、1935年、愛知県書記官に任じ経済部長に補せられ、1937年、退官する。
石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 … 石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 - 1954年)は、日本の国文学者・歌人。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校、第六高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授を歴任した。国文学者。歌人。号して横村。
清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1… 清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1888年(明治21年)7月30日 - 1951年(昭和26年)12月12日)は、大正から昭和前期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 子爵・吉田良義の二男として生まれ、伯爵・清閑寺経房の養子となる。養父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)1月15日、伯爵を襲爵した。 1915年(大正4年)京都帝国大学法科大学を卒業。1926年(大正15年)以降、主猟官、式部官、皇太后宮事務官、同会計課長などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7… 大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7月28日 - 1979年(昭和54年)8月4日)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。静岡県福田町長。 静岡県磐田郡福田町(現在の磐田市)に鈴木治平の五男として生まれ、大竹清一郎の養子となった。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。文部属、同普通学務局勤務を経て、山口県都濃郡長、同理事官、福島県理事官、神奈川県理事官、同学務部長、佐賀県警察部長、宮崎県警察部長、三重県警察部長、岡山県警察部長、福岡県警察部長、大阪府警察部長、警視庁警務部長を歴任した。その後、朝鮮総督府に転じ、慶尚北道内務部長、警務局保安課長、平安北道知事を歴任し、1936年(昭和11年)に内務局長に就任し、中枢院書記官長も兼ねた。
織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28… 織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28日 - 昭和39年(1964年)1月8日)は、明治期から昭和期の華族。位階は正四位、爵位は子爵。主な役職は巧芸社常務理事など。 明治21年(1888年)7月28日、旧丹波柏原藩主・織田信親の次男として誕生した。明治34年(1901年)7月、学習院初等学科を卒業。大正5年(1916年)、東京美術学校洋画科を卒業。その後、美術図書出版会社の巧芸社に入社し、常務理事などを務める。昭和2年(1927年)12月28日、父信親の死去により家督を相続し、子爵となる。昭和39年(1964年)1月8日死去。昭和2年から昭和3年にかけて『明治大正名作大観』(西洋画・日本画上下・彫刻の全4冊)を編集し、出版している。
小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27… 小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月22日)は、大正から昭和期の医師、政治家。衆議院議員、滋賀県彦根市長、滋賀県議会議長。 滋賀県犬上郡高宮村(高宮町を経て現彦根市高宮町)で、小林二郎の五男として生まれた。1913年(大正2年)に京都帝国大学医学部を卒業。同大学附属病院内科副手として勤務。その後、彦根町で医院を開業した。 青年時代から政界に感心が強く、彦根町会議員(2期)、彦根市会議員(2期)、滋賀県会・滋賀県議会議員(3期)を務めた。この間、彦根市会副議長、同議長、滋賀県議会議長に在任した。 1947年(昭和22)8月16日に彦根市長に就任し、1953年(昭和28年)3月24日まで2期在任。
城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月2… 城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月27日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。京都市左京区長、上京区長。東京市牛込区長、品川区長。 城野林平の五男として新潟県加茂郡下新穂村(佐渡郡新穂村を経て、現佐渡市)に生まれる。1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し京都市に奉職する。同市視学、秘書課長、左京区長、上京区長を経て、東京市視学に転じる。1936年(昭和11年)10月、牛込区長に就任し、1938年(昭和13年)12月まで務めた。その後、社会局保護課長、市監査部区務監察課長を経て、1939年(昭和14年)12月、品川区長となった。 戦後、日本歯車協会理事長となった。
船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 194… 船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 1949年6月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県武儀郡、後の洞戸村(現関市)出身。1910年早稲田大学商科卒。農業及び山林業を営む。洞戸村長、洞戸郵便局長、関町会議員、岐阜県会議員となる。ほかに岐阜県水産会長、岐阜県貨物自動車運送事業組合理事長を務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では岐阜1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1949年死去。(死去後の1951年に追放解除。)
大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(… 二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(明治21年)7月24日 - 1969年(昭和44年)12月1日)は、大正・昭和時代の資産家、実業家。旧名は清吾。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。三重農場取締役会長。諸戸殖産社長。諸戸合名代表社員。三菱鉱業、朝鮮無煙炭各監査役。三重県桑名で家業の山林経営をつぎ、林産物の生産、加工、販売などをおこなう。 1888年(明治21年)7月24日に三重県に生まれた。初代諸戸清六の四男、諸戸精太の弟、諸戸精文の叔父である。初代清六と深い親交のあった大隈重信が設立に関わった早稲田中学校に進学したが、彼が18歳の時初代清六が没したため、急遽呼び戻され、次男精太が初代の屋敷を継承し、四男清吾が清六の名を襲名した。
島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1… 島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1970年11月15日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 東京神田生まれ。号を甲鳥、柳水。開成中学校をへて1909年早稲田大学英文科卒。東京帝国大学独文科中退。坪内逍遥、大塚保治に師事。劇作、演劇研究をおこない、早稲田大学、日本大学で教える。戦後は静岡女子短期大学教授。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年… 近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年7月17日- 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。
原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - … 原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - 1968年12月30日)は、日本の応用化学者。工学博士。東北帝国大学工学部名誉教授。文化功労者、日本学士院会員。日本化学会名誉会員。 先祖は金沢の士族、父が飯田の中学校長在任中に生れた。一高を経て1913年東京帝国大学応用化学科卒。九州帝国大学講師、1914年助教授、1917年新設の東北帝国大学工学部に転じ、1922年教授。1925年東北大学工学博士 「青化水素及其ノ「ナトリウム」塩ニ関スル研究」 。 1947年健康上の理由から定年に2年先立って退官。 初期における研究の中心は窒素固定に関連する。青化物に関するもの、とくに青化水素の物理化学的性質についての精緻を極めた研究は特筆に値する。
里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 … 里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7… 川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7月13日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭となり、のち東京聾唖学校長、国立ろう教育学校長兼附属ろう学校長、東京教育大学国府台分校主事を歴任した。昭和初期のろう教育において、手話を否定し純粋口話法による教育を推進した人物のひとりである(同じ時期に口話法を推進した人物として、西川吉之助、橋村徳一らがいる)。また、近代日本での教育として、「教育の社会化と社会の教育化」論を展開した。
松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月… 松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月12日 - 1979年〈昭和54年〉11月13日)は、日本の皮膚科・泌尿器科医師、政治家。広島県医師会会長。日本赤十字社理事。医学博士。広島市名誉市民。広島市会議長(21代、22代)。広島市会副議長(28代)。 宮城県仙台市出身。松坂佐兵衛の長男。1908年(明治41年)、日本医学校(現・日本医科大学)卒業。同年11月より1912年(明治45年)3月まで東大医学部専攻生。1929年(昭和4年)11月より1934年(昭和9年)3月まで東大医学部研究生。 1912年(明治45年)3月、広島県警察医。1915年(大正4年)、開業する。1921年(大正10年)、広島市会議員に当選する。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10… 今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1973年〈昭和48年〉10月27日)は、日本の建築学者、民俗学研究者。考現学の第一人者。 医学者今裕の甥。銅版画家今純三の兄。息子の今保太郎は東映の美術監督。 早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり、考古学に対し現在の通常の人々の日常生活や行動を考察する「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治… 賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。 茅ヶ崎の平和学園の創始者である。墓は東京都の多磨霊園にある。 妻の賀川ハルも社会運動家。息子の賀川純基は教会音楽家で東京の賀川豊彦記念松沢資料館の初代館長。
麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 196… 麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 1965年7月7日)は、大正・昭和初期の川柳家。川柳六大家の一人。本名・幸二郎。 広島県尾道市十四日元町生まれ。10歳の時大坂船場へ移り住み大坂高商(現大阪市立大学)在学中に川柳を始める。卒業後、大阪電信局、毎日新聞記者、病院事務長など色々な職に就いた。1924年、大阪で『川柳雑誌』を創刊。1936年“職業川柳人”を宣言した。川柳誌経営が職業として成り立つ時代だった。[要出典]麻生は、川柳を「川柳とは人間及び、自然の性情を素材とし、その素材の組み合わせによる内容を平原俗語で表現し、人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」と定義付け、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎、村田周魚、椙本紋太とともに「川柳六大家」と呼ばれた。
小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月… 小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月10日 - 1970年(昭和45年)12月12日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学医学部助教授。僧侶。 愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)にある真宗大谷派円周寺の小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれる。祖父小笠原啓実は住職であり、尾張藩医浅井家の漢方医術を学んだ漢方医で、らい病、淋病、梅毒などを得意としていた。
平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)… 平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)7月10日 - 1987年(昭和62年)5月30日)は、教育者。東京物理学校(現在の東京理科大学)の第5代校長。東京理科大学第2代理事長。 静岡県出身。1908年(明治41年)、東京物理学校(のちの東京理科大学)全科卒業。1913年(大正2年)東北帝国大学理科大学特待学生選定。1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学数学科卒業、東北学院勤務。1919年(大正8年)日本大学中学校講師。1921年(大正10年)東京慈恵会医科大学予科教授。1945年(昭和20年)東京物理学校第5代校長就任。1951年(昭和26年)理窓会理事長就任。1953年(昭和28年)東京理科大学2代理事長就任。
川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月… 川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月9日 - 昭和34年(1959年)4月17日)は明治・大正・昭和期の詩人、評論家。本名は誠。 曾祖父は幕末の旗本・外国奉行、川路聖謨。父は川路寛堂、母はハナ子(浅野長祚の五女、母方の祖父は岩城隆喜)。 東京府芝区三田生まれ。幼少期は福山市や淡路島の洲本で過ごした。洲本中学時代から文学に関心を持ち、『中学世界』『ハガキ文学』『小国民』などに投稿を始めた。 1903年(明治36年)中学校を中退し、京都の美術工芸学校に入学した。1906年(明治39年)から口語自由詩の詩作を始める。同年、美術工芸学校卒業後は関西美術院の夜学に通い、浅井忠に油絵を学ぶ。
竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月… 竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県仙台市出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。宮城県警部、京都府警視・中立売警察署長、警視庁警視・深川警察署(のち西平野警察署)長、同監察官を務めた。1918年(大正7年)、朝鮮総督府に移り、黄海道警察部長、平安北道警察部長、朝鮮総督府山林部林務課長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、同警察部長、咸鏡北道知事を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、富寧水力電気株式会社社長、朝鮮水産開発株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社社長を務めた。
石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年… 石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年〉7月9日 - 1989年〈平成元年〉9月6日)は、日本の実業家、政治家。石原興業社長。衆議院議員(大阪府第一区選出、当選1回)。広島県尾道市長(16代、17代)。 大阪府出身。広島県・石原善平の息子。1910年、早稲田大学専門部法律科卒業。1911年、分家する。洋銑鉄業、鉄商を営む。 大阪朝日新聞社政治部記者となる。大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員、奈良市長を歴任。立憲民政党に所属する。早稲田大学商議員、日の丸電線専務取締役、奈良市街自動車、大阪電線各社長などをつとめる。奈良県多額納税者に列する。 1931年2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」を提出し、同年3月26日衆議院本会議において可決された。
三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日… 三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。 北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。 1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(1910年(明治43年)に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。
前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7… 前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7日 - 1962年(昭和37年)2月21日)は、明治から昭和期の華族(男爵)。旧名・芳明。 富山前田家第12代当主前田利聲の子として生まれる。1890年5月22日、加賀前田家分家当主前田利武の臨終に際してその養子となり、利功と改名し男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業。中央生命保険(第一生命保険の前身の一つ)社長、国際製菓監査役などを務めた。
藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日… 藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日 - 1934年(昭和9年)12月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、シカゴのノースウェスタン大学に留学し、法学博士の称号を得た。帰国後政友会の院外団に入る。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で初当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。その間、犬養内閣で内務参与官を務めた。
松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7… 松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7月5日 - 1973年 <昭和48年> 5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。位階は正五位。 岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。 大阪市役所、日本木管での勤務を経て、1921年1月に尼崎信用組合(現在の尼崎信用金庫)を創立し、理事に就任した。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。 1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – … 稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – 1976年4月23日)は、日本の実業家・政治家。前参議院議員。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 -… 宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 - 1967年10月10日)は、日本の実業家。 滋賀県犬上郡東甲良村(現:甲良町)に生まれる。東亜同文書院卒業後に、伊藤忠商事に入社。 1955年から丸紅飯田取締役会長社長を務めた。その一方で、神戸商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、ラジオ関西会長、神戸高速鉄道社長なども歴任した。 1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。 1967年10月10日、尿毒症のために神戸市の病院で死去。79歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1… 土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1日 - 1968年〈昭和43年〉7月8日)は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された。 岡山県阿賀郡実村(千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる。1908年(明治41年)岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる。 阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた。
田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7… 田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7月 - 1950年(昭和25年)4月8日)は、日本の衆議院議員、厚生参与官。 京都府京都市出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、京都帝国大学大学院で都市社会政策を専攻した。大阪毎日新聞社に入社。その後、京都市会議員、同議長、京都府会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に京都1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、出馬し、当選。幣原内閣で厚生参与官を務めた。 1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年死去。 その他、京都ホテル株式会社取締役、内外出版印刷株式会社監査役、京都府教育委員長を務めた。
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 196… 小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 1969年8月1日)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティスト。日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。 東京市生まれ。1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。 1906年、二葉亭四迷の『世界語』によりエスペラントを知り、日本エスペラント協会に入会。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。
小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 196… 小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 1968年)は、日本における光学ガラス製造のパイオニア。光学ガラスメーカーのオハラを創業した。藍綬褒章受章。 1888年(明治21年)福井県生まれ。1911年(明治44年)東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業した後、1915年(大正4年)海軍造兵廠に勤務した。柴田理八の元で光学ガラス試作に従事し、1922年(大正11年)には光学ガラス工場の主任になった。海軍が光学ガラス製造を日本光学工業(現ニコン)に譲渡したことに伴い日本光学工業に移籍し、日本光学光学硝子研究所主任となった。 1935年(昭和10年)日本光学工業を退社し、同年10月東京蒲田にて小原光学硝子製造所(現オハラ)を創業した。
斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26… 斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26日 - 1951年〈昭和26年〉6月2日)は、日本の内務官僚。警視総監、台湾総督府総務長官等歴任。貴族院議員。 斎藤宗吉の長男として長崎県に生まれ、斎藤倉吉の養子となる。本籍は千葉県。 旧制千葉中学を経て、1912年(明治45年)7月、第一高等学校を卒業。同年8月、千葉県大多喜中学教諭に就任するが、1914年(大正3年)8月に休職。同年9月、東京帝国大学法科大学に入学し、在学中の1916年(大正5年)10月に文官高等試験に合格。 1917年(大正6年)7月、東京帝大法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し銀時計を授与された。任書記官兼警察講習所教授。
湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月… 湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月26日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本の政治家、社会運動家。戦前の沖縄県議会議員(3期)、衆議院議員(1期)。 沖縄県玉城間切冨名越(現・南城市玉城船越)に生まれる。幼名平二。幼少期に水遊び中の耳のケガが原因で聴力を失ったといわれ、35歳の時に「聾人」と改名する。長じて上京し、攻玉社中学校を経て早稲田大学高等師範部に入学。在学中は安部磯雄に私淑するも中退し、帰郷後玉城村村議(1921年)を経て、1925年沖縄県議に当選。 沖縄県議時代は、関西の県出身出稼ぎ紡績女工の待遇改善に尽力。また自身の医療公営論を実践するため、1931年那覇市に「沖縄同仁病院」を設立するなど、庶民の立場に立った活動を行う。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。