天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 -… 天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 - 1977年3月6日)は、内務官僚。第6・7代茨城県土浦市長。 茨城県出身。茨城県立土浦中学校、第二高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、愛媛県属、同警視、同周桑郡長、同理事官、宮崎県理事官、福岡県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、秋田県内務部長、群馬県内務部長、福井県内務部長を歴任し、勅任官待遇となった。1932年(昭和7年)、退官。 その後、高松宮家嘱託、大正大学講師を務めた。 戦後は茨城県監査委員を務め、1951年(昭和26年)、土浦市長に初当選し1959年(昭和34年)まで2期務めた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 19… 多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 1976年) は、日本のオートバイレーサー。神奈川県秦野市出身。アジア人として初めてマン島TTレースに参加した。 オートバイを始める前は自転車レースに参戦していた。1907年(明治40年)に横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の「自転車長距離競走」で、250マイル(実際の走行距離は約390kmだったとされる)を16時間53分で走破、優勝している。 東京市日本橋でオートバイの輸入販売を行う多田健蔵商店を営む。1921年からオートバイレースを始める。当時日本のオートバイレーサーは20名しかいなかった。彼は日本におけるモータースポーツイベント主催の中心的な役割を果たすようになった。
中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年… 中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年〉2月16日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)に群馬県群馬郡六郷村(現・高崎市)で生まれた。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)1月20日に歩兵第28連隊長に就任し、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)に陸軍歩兵学校教導連隊長に転じた。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級し、第37歩兵団長(第1軍・第37師団)に就任し、日中戦争に出動。運城に駐屯し、警備・討伐戦に当たった。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年… 千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年12月23日)は、日本の国文学者(上代文学)。元京都女子大学教授。 芳賀矢一の学統をつぎ、とくに万葉集の校訂などに成果をあげた。歌人として短歌・俳句も嗜んだ。 1889年、徳島県に生まれる。第五高等学校を経て、1912年に東京帝国大学文科大学国文学科を卒業、大学院に進学し、芳賀矢一の指導のもと万葉集を研究、本文校訂事業に没頭する。1914年、大学院修了。同年に芳賀矢一の推薦で東京府立第三中学校教諭、1917年には芳賀および上田万年の推挙で神宮皇學館教授に就任。1942年、勲三等・瑞宝章。 戦後は本務校が廃校となり、1942年から講師をしていた京都女子専門学校(のち新制の京都女子大学に移行)において五高時代の同級である松信定雄校長の勧めにより専任の教授となる。
山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2… 山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2月13日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。青年時代から村政に関わり、1920年(大正9年)第1回国勢調査員となる。1925年(大正14年)富谷村会議員に当選する。1937年(昭和12年)富谷村長に就任した。この間、学務委員、農会議員兼評議員、家屋税調査員、耕地整理組合副理事長、在郷軍人分会顧問、小作調査委員、警防団副団長などを歴任した。 一度目の村長は1941年(昭和16年)まで務め、戦後は公職追放となったが、公民館副館長、富谷商工会会長などに就任した。
野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 19… 野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 1964年8月14日)は、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行した。 1889年2月12日に埼玉県浦和宿(のち浦和市)の銀行家の家系に生まれる。慶應義塾大学卒業。戦前の1929年(昭和4年)に、国画会に「裸婦作品」などを出品した。岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、岸田劉生、梅原龍三郎らの美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。
藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月1… 藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。馬山府尹。 静岡県磐田郡見付町(磐田町を経て現磐田市)出身。1916年(大正5年)法政大学法科を卒業し税務所属となる。ついで大蔵省属、大阪府属を経て、朝鮮総督府属となり、1929年(昭和4年)12月、平安南道大同郡守に就任する。1934年(昭和9年)6月、京城府学務課長に転じ、1936年(昭和11年)7月30日、馬山府尹となった。1942年(昭和17年)10月、退官し、大日本婦人会朝鮮本部総務部長兼厚生部長に就任した。
上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月… 上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月10日 - 1947年(昭和22年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。中学済々黌中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第48連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第13連隊大隊長、第9師団参謀、臨時上海派遣軍参謀、台湾軍参謀などを歴任し、1934年(昭和9年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵第24連隊長となった。 1936年(昭和11年)8月、参謀本部庶務課長となり、日中戦争に上海派遣軍参謀副長として出征。
今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 197… 今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 1972年4月11日)は、日本の社会学者。東京帝国大学教授。 1913年東京帝大哲学科社会学専修卒。1917年ロシアのペトログラードに留学し、米国を経て1920年帰国。同年9月東京帝大助教授として社会学を講じる。1941年より東京市の教育局長などの要職に就くも、終戦後1948年から3年半余りの間、公職追放となる。東京学芸大学、大正大学、淑徳大学にて教鞭を執る。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1… 蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1974年12月8日)は、日本の実業家。石川県動橋村(現・加賀市)出身。東日本フェリーをはじめとした蔦井グループの創始者として、海運・陸運・倉庫・不動産業等多方面で活躍した。家族は息子に蔦井政信(東日本フェリー2代目社長)、孫に蔦井孝典(ハートランドフェリー、アイビー・システム社長)。 1889年(明治22年)、石川県動橋で宿屋を営む蔦井庄五郎の、12人兄弟の5男として生まれる。6歳で北海道へ移り、函館で生花店を営むおじ・勝次郎の家へ養子に出され、行商や新聞配達で家計を支えるも、函館の養父母の死去に伴い1900年(明治33年)に歌志内村赤平の弟夫婦の養子となり、先に団体移住していた親や兄弟とともに開拓作業を手伝う。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 … 谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、日本の外交官、外務大臣。妻・澄子は島津長丸の娘。 熊本県上益城郡島田村櫛島(飯野村を経て現・益城町)出身。熊本中学、第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科政治学科卒業。同年 外務省に入る。1930年(昭和5年)アジア局長。1933年(昭和8年)満州国大使館参事官。1936年(昭和11年)オーストリア兼ハンガリー公使。 1939年(昭和14年) 外務次官。 1942年(昭和17年) 東条内閣の外務大臣兼情報局総裁。 1943年(昭和18年) 駐中華民国大使(終戦時まで)。 1945年(昭和20年)12月2日 連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)。
井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972… 井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972年7月20日)は、大正から昭和期の英米文学者。東京外事専門学校第10代校長、東京外国語大学学長事務取扱、立教大学文学部教授。井出義行の誤字もみられる。 熊本県阿蘇郡宮地町出身。井手義久の長男として生まれる。 1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文科(英吉利文学科)卒業後、同年東京外国語学校の講師に就任し、1917年(大正6年)、同校の教授となる。大正から昭和初期に、立教大学文学部教授を兼務し、英文学、英文学史、英訳を教えた。 1921年(大正10年)に、他大学に先駆けて立教大学にバスケットボール部が創部されると、初代部長に就任。
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 195… 中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 下伊那郡竜江村(現飯田市)の地方名望家中原治部衛門の次男として生まれ、旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を卒業後に早稲田大学文科予科に進学した。1912年に坪内逍遙が主催した文芸協会演劇研究所の第1期生として入所し、俳優を目指した。同期には、河竹繁俊、松井須磨子らがいる。俳優を目指していた中原であったが、長男である兄が死去したことを受けて、俳優の夢を断念して1913年、大学予科修了後に帰郷した。
三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 194… 三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、日本の法学者。 京都府与謝郡弓木村(現・与謝郡与謝野町)出身で、横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。 明治学院在学中、異母姉三谷民子(のち女子学院院長)の影響でクリスチャンとなった。父の事業破産によって、第一高等学校在学中から住み込みの家庭教師として自活。 東京帝国大学在学中より、内村鑑三に師事。1915年に大学を卒業すると、法制とドイツ語の教授として第六高等学校に赴任。1924年に病で長女と妻を相次いで失う。1926年に六高を辞して上京、千駄ヶ谷教会に長老として参加。1927年から第一高等学校教授となり、法制とドイツ語を担当。
大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 … 大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 - 1963年8月7日)は、現在の宮城県石巻市出身で尾車部屋、峰崎部屋に所属した力士。本名は阿部 吉太郎(あべ きちたろう)。4代尾車。176cm、98kg。最高位は東関脇。 石巻中学校1年で同郷の尾車から勧誘され、「将来は師名を継がせる」という証文を貰って入門した。1906年5月序ノ口、1911年6月十両昇進。1912年5月新入幕、1916年5月新横綱西ノ海を破り8勝1敗1預で、翌1917年1月関脇昇進。地味な風貌であったが大錦を破ったり横綱栃木山の預かりの相撲を取るなど大物食いとして上位で活躍。1922年5月に引退し、尾車を襲名。勝負検査役や木戸部長を務め、1961年1月71歳で定年退職。
上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 198… 上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日)は、日本の造園研究家。学位は、林学博士。東京農業大学名誉教授。 東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。 上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。 東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。
円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治2… 円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治22年)2月5日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福島県西白河郡、のちの大信村(現白河市)出身。1909年、福島県師範学校を卒業。小学校訓導、同校長、郡視学、福島県視学、国民学校長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に福島県選挙区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、第24回総選挙まで連続3回当選した。この間、経済安定本部嘱託、衆議院文部委員長、日本自由党政調会文教委員長などを歴任した。 その他、西白河郡連合青年団長、日本教育会福島県支部長、福島県教育会理事長を務めた。
前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 -… 前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 - 1965年(昭和40年)3月30日)は日本の政治家であり実業家。 鹿児島県肝属郡大根占町(後の錦江町)出身。明治大学政治経済学部卒業。第二次大戦後の1947年、衆議院議員に初当選し、以来当選3回。衆議院運輸委員長、第2次岸内閣運輸政務次官、日本自由党代議士会副会長等を歴任。また、実業家として東京時計製造株式会社専務取締役、東京遊覧乗合自動車株式会社取締役社長、東京ミシン株式会社取締役社長、東京観光バス社長、東京観光自動車社長などを務めた他、国際観光文化協会会長、日本有線放送連合会会長などの公職も務めた。 福島ヨネらと共にモーターボート競走法の制定に力を注ぎ、1951年(昭和26年)6月に成立。
池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月… 池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月4日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、日本の政治家、実業家、銀行家。長崎県諫早市長(第3代)。長崎県会議員(1期)。HKT48の元メンバー田島芽瑠の高祖父である。 長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)出身。池松佐八の次男。池松ノエの養子となる。1906年(明治39年)、家督を相続する。 東京大成中学校を経て1918年(大正7年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。貸金業・貸地業を営む。 1921年(大正10年)、諫早町長に就任する。1939年(昭和14年)9月、北高来郡選出の県会議員となった。1940年(昭和15年)に諫早市制が施かれると10月1日に初代市会議長に選ばれた。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950… 木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950年4月15日)は、東京府出身の作家、翻訳家。本名の読みは「しょうた」。別名に久木今作、木村艸太(そうた)。木村荘平の子。女性関係と奇人ぶりで知られた。 東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に、木村荘平の妾腹の子として生まれる。 父は牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開して"いろは大王"と呼ばれると共に、葬儀会社"博善社"の社長も兼ねた実業家で、正妻の他に多数の愛人を持ち、諸方に儲けた子の数が男13人に女17人。荘太の異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいる。
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日… 越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる。1907年、私立北予中学校を卒業し、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した。 以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。
柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2… 柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2月3日 - 1975年(昭和50年)11月10日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、有機合成化学協会会長、安全工学協会会長等を歴任した。 兵庫県朝来市山東町大月生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を経て、1915年東北帝国大学理科大学化学科卒業。同年日本製鋼所に入社するが、室蘭町の寒さで神経痛にかかり、8カ月で退社した。1916年9月の新学期より母校東京高等工業学校電気化学科助教授を務め、アンモニア合成の研究に従事し、1918年に農商務省臨時窒素研究所が設立されると、同研究所のアンモニア合成研究の主任研究員に就任。
大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 197… 大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 1977年4月9日)は、日本の新聞記者、演劇評論家。劇作家。 1914年に京都帝国大学文科大学国文科を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。1918年8月26日夕刊の「寺内正毅内閣弾劾関西記者大会」の記事を執筆する中で「白虹日を貫く」との中国古語を使ったが、これは兵乱の前兆を示唆する不穏当な表現であり、白虹事件と呼ばれる日本の新聞の歴史でも類をみない筆禍事件を招いた。大阪朝日新聞および大西は新聞紙法違反で告訴され、大阪朝日新聞は新聞の発売禁止こそ免れたものの、大西は禁錮2月の有罪判決を受けた。 新聞社を退社後は、関西演劇界へ身を投じ、文楽による『ハムレット』、『蝶々夫人』、『椿姫』など外国劇の脚本を多数作り上げた。
深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2… 深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の生産技術者、造船技術者、及び航空技術者であり、とりわけ第二次世界大戦期の航空機開発における最重要人物の一人である。九七式艦上攻撃機や九六式陸上攻撃機をはじめとする日本の主力軍用機に搭載されたエンジン「金星」の開発主導者として有名。 1909年(明治42年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科卒業後、同年、三菱合資会社神戸造船所入社。1926年、三菱造船株式会社長崎造船所を経て、1933年に三菱航空機株式会社名古屋製作所(翌年、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に改名)に転勤。
石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年… 石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1976年〈昭和51年〉9月11日)は、日本の実業家。ブリヂストン創業者。 ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもあり、プリンス・ロイヤル、プリンス・スカイラインの名付け親である。また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。 企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年(平成14年)には日本自動車殿堂入り、2006年(平成18年)には米国自動車殿堂入りを果たしている。
清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2… 清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1932年〈昭和7年〉4月30日)は、明治時代末期から昭和時代初期の声楽家、バリトン歌手。 日本オペラの黎明期から第一線で活躍した、日本オペラ界の開祖の一人とも言える存在で、大正期の浅草オペラを代表するスターとして、田谷力三と双璧と謳われた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京音楽学校声楽科卒業。1912年(明治45年)2月、帝国劇場における創作歌劇「熊野」(ゆや)にてデビュー。1911年に創設された帝国劇場の歌劇部に教師格として迎えられ、柴田環(後の三浦環)と部員の指導にもあたった。妻である静子は、歌劇部の第2期生で以後多くの舞台に共に立つ。
木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 … 木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 - 1985年(昭和60年)11月22日)は、日本の女医。 広島女医界の草分けとして知られる。キリスト教徒であった木阪ユクは、信仰に基づく倫理観と奉仕の精神を持って医療活動を行い、生涯を医療の発展に捧げた。 広島県賀茂郡西高屋村(現・東広島市高屋町)出身。豪農・富岡家の四女として生まれる。1908年、東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1910年、静岡市の多々良病院で産婦人科医として働く。1912年に西高屋村に帰り、産婦人科医院を開業。彼女の開いた木阪産婦人科医院は、木阪病院として現在も受け継がれている。 1912年、木阪次郎と結婚。
田宮 猛雄(たみや たけお、1889年〈明治22年〉1月31… 田宮 猛雄(たみや たけお、1889年〈明治22年〉1月31日 - 1963年〈昭和38年〉7月11日)は、日本の医学者、衛生学者。日本医師会会長や日本医学会会長、東京大学医学部教授を務めた。専門は細菌学や免疫学で、発疹チフスなどのリケッチア症の病原体や媒介動物などについて研究した。 大阪府大阪市西区堀江に生まれる。1901年(明治34年)4月、同年3月に新設されたばかりの大阪府市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に入学した。1915年(大正4年)12月、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)を卒業。伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の技手・技官となる。 1924年、医学博士号を取得。
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30… 賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月2… 板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1… 中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人。 1889年(明治22年)1月25日、広島県三次郡上布野村(現・三次市)に、後に三次銀行初代頭取を務めた他に多くの田畑・山林を所有し醸造業も営む地元名望家の父・修一の次男として生まれる。 1894年、布野尋常小学校に入学。1898年、布野尋常小学校卒業、同高等科に入学。1900年、祖母の異父妹で、三次で旅館業を営んでいた香川八重の養子となる。香川家へは後に弟で倉田百三と親交のあった三之助が入り、憲吉は中村姓に復する。9月、三次小学校高等科に転校。 1901年、三次中学に入学。四年時には倉田百三が一年生として入学。
石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25… 石井 淳雄(いしい あつお、1889年(明治12年)1月25日 - 没年不詳)は、日本の弁護士、甲府市長。 東京府北多摩郡狛江村(現:東京都狛江市)に石井寅三の二男として生まれ、天野重助の養子となるが、1903年(明治36年)に石井家を継ぎ、旧名の波平を改めた。1904年(明治37年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1909年(明治42年)には京都帝国大学法科大学法理科を卒業した。 1905年(明治30年)、東京市役所に入り、尾崎行雄市長の秘書役として、統計顧問や視学員を務めた。1910年(明治43年)、辞職して弁護士事務所を開業した。 広島市助役を務めた後、1923年(大正12年)に甲府市長に就任した。
宮本 元(みやもと はじめ、1889年(明治22年)1月25… 宮本 元(みやもと はじめ、1889年(明治22年)1月25日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。朝鮮総督府官僚。 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。鈴木富次郎の長男として生まれ、宮本けんの跡を継いだ。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事、長崎地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任し、1920年(大正9年)に朝鮮総督府判事に転じた。京城地方法院判事、京城覆審法院判事、朝鮮総督府法務局民事課長、京城地方法院部長、高等法院判事を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国を視察した。帰国後、覆審法院検事、法務局法務課長、京城地方法院長、法務局長を歴任した。
牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)… 牛島 敬次郎(うしじま けいじろう、1889年(明治22年)1月25日 - 1941年(昭和16年)5月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 1889年(明治22年)に福岡県八女郡上妻村で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)3月に近衛歩兵第1連隊長に就任した。翁英作戦に参加。1940年(昭和15年)3月9日に陸軍少将進級と同時に東京陸軍幼年学校長に着任したが、在任中に生徒訓練中の事故により自宅で療養していたが1941年(昭和16年)5月22日に世田谷区阿佐ヶ谷の自宅で死去。同日任陸軍中将。
宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23… 宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23日 - 1974年(昭和49年)9月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。農業・宇垣十七八(陸軍大将宇垣一成の長兄)の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸」分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)… 広瀬 久忠(廣瀬、ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県出身。位階は従二位。 山梨県東山梨郡七里村(現甲州市)の県内有数の旧家である広瀬家に、父広瀬久政、母さとの長男として生まれる。 山梨県立日川中学校(現山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。文官高等試験を173人中32番目で合格。内務省に入省し、千葉県属を振出しに、1917年(大正6年)5月に岐阜県警視、1918年(大正7年)10月に同理事官、1919年(大正8年)8月に警視庁理事官、1923年(大正12年)3月に警視庁警視、同年10月に滋賀県警察部長、1924年(大正13年)5月に内務省社会局書記官、同年12月に福井県書記官・内務部長、1925年(大正14年)10月に内務省復興局書記官、1929年(昭和4年)5月に東京市助役、1930年(昭和5年)8月に東京府書記官・内務部長となる。
征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 19… 征矢野 晃雄(そやの てるお、1889年1月22日 - 1929年4月26日)は、日本の神学者、哲学者である。 長野県塩尻市出身。1910年(明治43年)日本基督教会富士見町教会で植村正久に洗礼を受ける。富士見町教会有志青年の寄宿舎山上寮に材料する第一高等学校、東京帝国大学を卒業する。卒業後は、福岡高等学校教授に就任した。 1926年(大正15年)に植村正久の死後、東京に戻り東京神学社、東京女子大学で哲学を教える。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がいる。 戸山教会(信濃町教会)に転会し、高倉の協力者になった。カント、ヤーコプ・ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスなどの研究を進めた。 1929年(昭和4年)に神奈川県茅ヶ崎町の自宅で病死した。
赤間 信義(あかま のぶよし、1889年(明治22年)1月2… 赤間 信義(あかま のぶよし、1889年(明治22年)1月21日 – 1942年(昭和17年)12月30日)は、日本の文部官僚。 富山県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入り、山梨県属、山梨県理事官を務めた。1919年(大正8年)、文部省に転じ、参事官に任じられた。外務書記官、文部大臣秘書官兼任を経て、1928年(昭和3年)、実業学務局長に就任。翌年、専門学務局長に転じ、1936年(昭和11年)に退官するまで、在任した。 その他、中国・満州国からの留学生受け入れ団体である財団法人日華学会の理事を務め、同学会の運営する東亜学校の学監となった。1938年(昭和13年)からは日本占領下の華北に創設された東亜文化協議会の事務局長、ついで総務部長を務めた。
平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - … 平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - 1959年12月2日)は、国文学者。 愛知県出身。旧姓・佐藤。東京帝国大学国文科卒。第八高等学校教授、女子学習院教授、学習院教授、1924年大阪府女子専門学校教授、28年校長。戦後1949年学制改革で大阪女子大学学長。校長時代、生徒が谷崎潤一郎の手伝いをした関係もあり谷崎と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 19… 山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 1979年7月15日)は、曹洞宗の僧侶・禅思想家。駒澤大学総長を務めた。 岐阜県高山市天性寺町生まれ。別名号・鷲峰霊林、仏真宏照禅師。1915年曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。曹洞宗宗学研究生、1918年 - 1925年總持寺宗学研究員。雑誌『禅の生活』の編集主幹となり、講話やラジオ放送に活躍した。1926年世田谷中学校教頭、1938年校長、1941年駒澤大学学監、1942年同大教授、1953年曹洞宗宗学研究所副所長、1960年北米開教総監、1961年「道元禅の基本的性格とその正修行」で駒澤大学文学博士、1964年駒大総長に就任。1968年永平寺副貫首、1975年永平寺75世貫首となる。
三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20… 三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20日 - 1948年(昭和23年)12月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍滋賀県。海軍士官・三須宗太郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業して千葉県立高等園芸学校(千葉高等園芸学校)に進学、1916年(大正5年)卒業した。1918年(大正7年)関東庁嘱託となる。以後、内外農事取締役、日本輸出農産物設立委員などを務めた。 1928年(昭和3年)1月26日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1… 鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1月18日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡大間木村(のち北足立郡尾間木村大間木、現:さいたま市緑区大間木)で、鈴木順太郎の長男として生まれる。1908年、埼玉県立浦和中学校を卒業。農業を営む。 卒業後、浦和商業銀行に入行。以後、同行取締役、第八十五銀行取締役、埼玉農工銀行取締役、尾間木村信用販売購買組合長などを務めた。 政界では、尾間木村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、足立同志会会長、憲政会・立憲民政党埼玉県支部総務などを務めた。1936年2月、第19回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月1… 石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年〈明治22年〉1月18日〈戸籍の上では17日〉- 1949年〈昭和24年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。 「帝国陸軍の異端児」と呼ばれたほど軍内では変わった性格をしており、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。 陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。
遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日… 遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日 - 1944年(昭和19年)11月17日)は、日本の法学者。専門は、民法・信託法制。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1925年)(学位論文「信託法提要」)。早稲田大学初の法学博士。早稲田大学教授を歴任。 1889年1月18日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生まれる。 1911年、早稲田大学専門部法律科を卒業する。1914年から1916年にかけてベルリン、ロンドン、ベルンへ留学し、帰朝後に早稲田大学助教授に就任する(後に教授となる)。1920年4月から1942年7月まで専門部法律科長となり、同年7月から1944年11月まで法学部長となる。