諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
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諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - … 佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - 1966年3月4日)は、国文学者。 滋賀県出身。京都帝国大学文学部を卒業した。1924年、女子学習院教授に就任した。戦後は大東文化大学教授、学校法人鎌倉女学院理事長を務めた。中古・中世文学を専門とし『謡曲大観』全7巻、『対訳源氏物語』の業績がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> … 中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> 5月23日 - 1977年 <昭和52年> 2月25日)は、日本の経営者。兵庫県三原郡神代村(現在の南あわじ市)出身。長男は日本銀行政策委員会審議委員の中原伸之。 1916年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。富士製紙、小倉石油などでの勤務を経て、1939年に東亜燃料工業常務に就任し、1944年1月には社長に昇格。1962年2月には相談役に就任。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 19772月25日呼吸不全のために死去。86歳没。
三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月2… 三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月21日 - 1973年(昭和48年)7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。東京都目黒区出身。
名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。
杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月2… 杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月20日 - 1963年(昭和38年)9月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。位階は正四位、勲等は勲二等。
堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 … 堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 - 1947年(昭和22年)2月22日)は、大正から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・黒川。 滋賀県神崎郡、のちの永源寺町甲津畑(現・東近江市甲津畑町)で、浄土真宗大谷派浄源寺住職・黒川霊瑞、マサノの三男(兄2人妹2人)として生まれた。甲津畑尋常高等小学校、滋賀師範学校を経て、1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し、さらに1917年(大正6年)京都帝国大学文科大学哲学科を卒業した。京大入学の際に、滋賀県長浜の医師・堤泰造、コトの末娘(兄2人姉2人)千代と結婚し婿養子となる。養母コトは父方の伯母で、千代は従姉妹である。 小学校訓導を務めた後、1918年(大正7年)2月、新洋丸でハワイに渡航し在ヒロ市日本人ハイスクール校長に就任した。
2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明… 2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日 - 1973年(昭和48年)12月11日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。幼名は虎三。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎) 京都府京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる。梅逕尋常小学校を経て、1908年(明治41年)京都府商業学校予科1年在学中に父が死去し、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した(タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)。
亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 19… 亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 1963年3月28日)は、日本の応用化学者。写真の色素増減や二次電池理論の研究等、日本の電気化学工業の発展に尽力した。
向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19… 向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19日 - 1961年(昭和36年)2月24日)は、アイヌ民族出身で正式の聖公会の司祭になった人物である。バチェラー八重子の弟である。長く聖職者として奉仕するとともに、アイヌの地位と教育の向上に尽力し、北海道アイヌ協会初代理事長を務めた。伊達町(現・伊達市)会議員も務め、地域の発展に大きく貢献した。 1890年(明治23年)に北海道の有珠(現・伊達市)に生まれた。姉のバチェラー八重子の養父となる英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョン・バチェラーから感化を受けてキリスト教に入信する。 1905年(明治38年)函館区谷地頭のアイヌ小学校から創成高等小学校に編入して2年間で修了し、1906年(明治39年)4月には東京へ出て、築地の旧制立教中学校に入学する。
坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 19… 坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 1960年12月24日)は、日本の技術者、政治家。内務省技師、満州国交通部技監などを務めて土木行政に携わったのち、八代市長、荒尾市長を歴任、2つの地方工業都市の首長を務め、戦後の復興に尽力した。 熊本県八代郡八代町(現在の八代市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大学卒業後、内務省土木局の技師となり、1917年(大正6年)、最上川改修、酒田築港の任に当たった。 1937年(昭和12年)より、満州国へ赴任、道路司長、技監として哈大道路の建設など、道路行政に携わった。1943年(昭和18年)に本土に引き上げ、神戸市技監兼港湾局長を務めた。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月1… 竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月16日 - 1973年(昭和48年)2月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、出版業者、政治家。衆議院議員。号・夏積。鳥居素川の愛弟子として知られた。「克己」と表記される場合がある。 福井県福井市出身。京都で成長した。京都帝国大学文科大学文学科で学んだ。 大阪朝日新聞社に入社し、記者として務め、その後、海外特派員となった。鳥居に抜擢され1919年(大正8年)大正日日新聞社販売部長となるが、販売不振のため退職。その後、満州日報社取締役主筆を務めた。戦時下、外務省の外郭団体(文化団体)「聞人会」を主宰し理事長となり銀座のビルに事務所を置いていた。
石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不… 石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官、弁護士。 白石儀七の四男として大阪府に生まれる。1909年福岡県立中学修猷館を経て、1917年東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1923年石井家の養子となる。 1917年司法官試補となり、大阪地方裁判所、和歌山地方裁判所、高知地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任。その後、1934年12月大阪地方裁判所部長判事、再び大阪控訴院判事を経て、1940年12月京都地方裁判所部長判事となる。退官後に弁護士となった。
野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月1… 野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月15日 - 1959年(昭和34年)3月4日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県西諸県郡高原町長。 宮崎県西諸県郡高原村大字西麓(現高原町西麓)で、野村嘉太郎の二男として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業した。帰郷して農業を営む。1928年(昭和3年)家督を相続した。 高原村会議員、高原町長、宮崎県会議員、同参事会員、宮崎県養蚕組合連合会長などを務め、1939年(昭和14年)県会議長に就任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月1… 下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月12日 - 1958年(昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家・教育者・政治家。実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長や名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。 下出義雄は1890年(明治23年)5月12日、下出民義の長男として大阪市に生まれた。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した。
野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。
山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年… 山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年不詳)は、大正から昭和初期に活躍した日本の実業家。国策会社である東亜海運の代表取締役社長を始め、日清汽船常務取締役、副支配人など海運会社の経営に携わった。 茨城県豊田郡水海道町(現・常総市)出身。1913年(大正2年)立教大学卒業。その後、国策会社である日清汽船に入社。1925年(大正14年)には、同社副支配人を務めた。 日清汽船は上海航路を有し、現地に拠点を設けており、1924年(大正13年)12月から翌年1月まで母校である立教大学のバスケットボール部が上海遠征を行った際には、多大な支援を行った。 1939年(昭和14年)に、対中国海運強化を目的とする新たな国策会社として東亜海運が設立されると、同社の代表取締役社長に就任。
守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10… 守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。 元庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった。 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。
杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10… 杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10日 - 1975年(昭和50年)3月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 神奈川県大住郡須馬村須賀(中郡須馬町、平塚町を経て現平塚市)で、醤油味噌醸造業・杉山善平の長男として生まれる。1910年(明治43年)明治学院を卒業した。 家業に従事し、1923年(大正12年)コンクリート製のもろみタンクを考案。1924年(大正13年)家督を相続し、米善醸造を県下一の醸造会社に成長させた。 1923年、須賀郵便局長に就任。1925年(大正14年)須馬町会議員に選出され平塚町との合併に尽力し、学務委員も務めた。合併実現後、同町会議員、平塚市会議員を務めた。
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日… 水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日 - 1969年(昭和44年)[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。新竹市長。旧姓は高木。 長野県松本市に生まれる。本籍は新潟県高田市。早稲田中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍経理学校を卒業する。同年7月、陸軍主計候補生となり、同12月、歩兵第55連隊に入隊、1912年(大正元年)12月、陸軍三等主計に任ぜられ、1915年(大正4年)予備役に編入した。 1920年(大正9年)4月、第9師団留守経理部勤務、浦塩派遣軍倉庫勤務を経て、1923年(大正12年)台湾総督府財務局主計課勤務に転じる。台北州郡属、府属を経て、1936年(昭和11年)12月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任。
田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日… 田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日 - 1962年(昭和37年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員。 奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 卒業後、宇治川電気に入社した。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した。
名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958… 名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958年12月4日)は、日本の実業家。華南銀行総理、台湾銀行東京調査部調査部長・本店調査課長。立教学院財務理事。 1890年(明治23年)、静岡県出身。1914年(大正3年)、立教大学商科(後の商学部)卒業。 大学卒業後、台湾銀行に入行。同行本店調査課長を務める。 1944年(昭和19年)、華南銀行の親銀行である台湾銀行が財務強化のため資本金の増資を行い、華南銀行創設者の一人でこれまで総理を務めていた林熊徴(林本源の子孫)を会長とし、台湾銀行からきた名倉喜作が華南銀行の新たな総理に就任する。2人の常務も台湾銀行出身者となり、台湾銀行による経営の強化が図られた。
山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 19… 山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 1958年9月17日)は、日本の経営者。中国新聞社社長、ラジオ中国社長を務めた。 広島県安芸郡府中町出身。東京帝国大学農学部を卒業し、1916年に中国新聞社に入社。1918年に副社長を経て、1933年から1947年までに社長を務め、1951年11月には再び社長に就任。ラジオ中国(現在の中国放送)社長も務めた。 1958年9月17日、気管支肺炎のために在任中に死去。68歳没。
猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年〈明治23年〉5月5… 猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年〈明治23年〉5月5日 - 1986年〈昭和61年〉1月10日)は、日本のスキー指導者。国際オリンピック委員会(IOC)副会長・猪谷千春の父。日本スキー界の草分け的存在。日本職業スキー教師連盟(SIA)2代会長。3回の結婚で計9人の子をもうけた。3人目の妻の定子は日本初の女性ジャンパーでもあった[要出典]。 1890年(明治23年)5月5日、群馬県勢多郡富士見村大洞の赤城山大沼湖畔に生まれた。実際の出生日は5月23日だったが、戸籍上は5月5日生まれとなっている。父は赤城神社の神主をしていた。生家は猪谷旅館を営んでおり、1904年(明治37年)には高村光太郎、石井柏亭、与謝野鉄幹らが訪れている。
黒瀬 琢郎(くろせ たくろう、1890年〈明治23年〉5月5… 黒瀬 琢郎(くろせ たくろう、1890年〈明治23年〉5月5日 - 1941年〈昭和16年〉1月17日)は、香川県多額納税者、地主。 香川県丸亀市出身。黒瀬與重郎の長男。1913年、第六高等学校卒業。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1926年、父退隠の後を承け、家督を相続する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は浄土宗。住所は丸亀市通町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 惣太郎(すずき そうたろう、1890年〈明治23年〉5… 鈴木 惣太郎(すずき そうたろう、1890年〈明治23年〉5月4日 - 1982年〈昭和57年〉5月11日)は、日本の野球評論家。日本プロ野球創成期に日米間の交流に尽力し、大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)設立に貢献。戦後も日本野球連盟副会長として日本プロ野球の再興に努め、コミッショナー制やフランチャイズ制など現在の日本プロ野球制度の基礎となる部分に足跡を残した人物である。野球殿堂表彰者。 群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に、鈴木卯三郎の長男として生まれる。母方の栗原家は伊勢崎藩の典医を勤める家柄だった。 旧制前橋中学校を卒業後、早稲田大学に進学。結核を患ったことで早稲田大学を中退し、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)に転学して卒業した。
松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年… 松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年)5月4日 - 1957年(昭和32年)1月23日)は、日本の医師、政治家。松本市長(公選第2代)。位階は正六位。勲五等瑞宝章。 長野県東筑摩郡松本町(現:松本市)生まれ。1915年(大正4年)京都帝国大学医学部を卒業し、同大内科教室助手として勤務した後、1918年(大正7年)7月、内科医を開業。松本精神病院管理院長に就任した。1929年(昭和4年)から松本市会議員に4回当選、昭和22年から26年まで議長も務める。その後、長野県会議員に2回当選。日本医師会代議員、長野県医師会長も歴任した。 1951年(昭和26年)4月から松本市長を2期務める。
呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 … 呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の経済学者、経済学博士(慶應義塾大学)。日本大学第4代総長、日本大学理事長、貴族院議員。広島県呉市名誉市民。 東京府東京市麹町区で、統計学者の呉文聰・やす夫妻の四男として生まれる。麹町尋常高等小学校(現・千代田区立麹町小学校)を卒業。1913年(大正2年)に慶應義塾大学部法律科を卒業すると母校の予科講師・三菱銀行勤務を経て、渡米してシカゴ大学とコロンビア大学へ留学。 帰国した後、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授に就任し、信託業や信託法を講義したが、これは未だ信託業が日本において重要視されていない時代に先駆けて開設された講座であった。
岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日… 岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、日本の農林官僚。参議院議員(緑風会)。 東京府出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として軍務についた。1917年(大正6年)に農商務省に入り、畜産試験場技手・農商務技手となり、1918年(大正7年)から緬羊研究のためにイギリス・アメリカ合衆国に留学した。帰国後、農商務技師、農林技師となり、畜産局で鶏卵増産奨励運動の事務にあたった。1932年(昭和7年)、関東軍特務部員となり、1934年(昭和9年)には満洲国実業部林務司長に就任した。その後、農林省で林野局長、畜産局長、農務局長を歴任し、1942年(昭和17年)に馬政局長官となった。
上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日… 上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日 - 1978年10月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年… 板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年〉5月1日 - 1961年〈昭和36年〉12月28日)は、東京都立川市長(1期)。勲六等瑞宝章。 1890年、神奈川県北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。1951年立川市長に就任。 市長就任後は、市内に市営競輪場を開設、市営塵芥焼却場の建設、浄水場の完成、市営野球場の開場、立川音頭の制定などがあった。 1955年に退任するまで市長を4年間務めた。 1961年に死去。71歳。死没日付をもって勲六等瑞宝章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月2… 湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月29日 - 1981年(昭和56年)8月15日)は、日本の昆虫学者・教育者・キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の五男。 1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。 1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。
龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。
二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治… 二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治23年〉4月28日 - 1964年〈昭和39年〉8月25日)は、日本の落語家。本名∶田中 利助。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。 新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 198… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本の実業家。位階は正三位。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。 日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した。戦後、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャン発電計画を受注し、これは結果的にODAの原点となる戦後賠償の第1号案件につながった。
内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 19… 内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 1976年4月11日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。 1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。
堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 19… 武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 1962年3月3日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1890年(明治23年)4月25日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に、和歌山県出身の海軍中尉だった武田武守の息子として生まれる。 1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)によれば、暁星中学校を経て早稲田大学専門部英文科に入学し、1909年(明治42年)5月、坪内逍遥らの文芸協会演劇研究所に1期生として入る。『讀賣新聞』によれば、1914年(大正3年)に早稲田大学英文科を卒業し、文芸協会演劇研究所に加入したという旨が記されている。
戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4… 戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4月21日 - 1966年〈昭和41年〉3月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年(明治23年)4月21日東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。旧制東京府立第4中学校を経て、1907年(明治40年)9月21日海軍兵学校38期に150名中12番の成績で入校、1910年(明治43年)7月18日149名中33番の成績で卒業、少尉候補生、装甲巡洋艦「浅間」乗組。10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発(ホノルル-サンフランシスコ-サンピドロ-マサニーリョ-アカプルコ-パナマ-アカプルコ-ホノルル方面巡航)。1911年(明治44年)3月6日帰着。
田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 19… 田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 1945年4月16日)は、日本の美術史家。 石川県金沢市生まれ。息子は美術史家の田辺徹。室生犀星とは幼馴染。1913年東京美術学校彫刻科を卒業、18年同校美術史研究室の助手、19年教授となり、工芸史を講じた。1924年から25年工芸史研究のため欧米諸国に学び、1927年東京高等工芸学校講師を兼ねた。1937年再び欧洲各国に出張して38年帰国、1939年には石川県立工業学校長となり42年退職した。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月1… 中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。 1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。
小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 … 小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 - 1962年(昭和37年)5月9日)は、日本の逓信官僚。 大分県に百津民次郎の二男として生まれ、小野薫の養子となった。1914年(大正3年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信書記・岡山郵便局長、逓信事務官、同書記官・管船局庶務課長、同海員課長、同監理課長、高等海員審判所審判官、熊本逓信局長、管船局長・高等海員審判所長、逓信次官を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本発送電株式会社副総裁、樺太石炭鉱業株式会社取締役、北海道石炭株式会社相談役、電気協会などを務めた。その後、船舶運営会総裁に就任した。