西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1… 西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1月10日〈慶應元年11月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主、会社役員。東京府北豊島郡西巣鴨町長。 東京市に西山家の長男として生まれる。1887年、家督を相続する。信用組合事務員、会社員になる。金融業を営む。 北豊島郡会議員、豊島信用組合長、氷川神社氏子総代、帝国種苗殖産監査役をつとめる。 また1915年4月23日に巣鴨村長に就職、1923年4月21日に西巣鴨町長を退職。 宗教は浄土宗。趣味は碁。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月… 森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月23日) - 1921年(大正10年)10月28日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系県知事、貴族院議員。 米沢藩下士・遠藤庄右衛門の二男として生まれ、秋田県書記官・森長義の養子となる。第一高等学校を経て、1893年7月、帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法官試補となる。同年11月、内務属となり警保局に配属された。 1894年6月、香川県参事官・第一課長兼第三課長に就任。以後、新潟県参事官、長野県・香川県・千葉県・和歌山・三重県・熊本県の各書記官、熊本県第一部長、静岡県第一部長などを歴任。 1907年10月、茨城県知事に就任。
石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年… 石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年11月20日) - 1937年(昭和12年)2月)は、明治後期から昭和時代初期の政治家。教育者。神奈川県横須賀市長、三浦郡豊島町長。 石渡養泰の二男として相模国三浦郡公郷村(神奈川県三浦郡豊島村、豊島町を経て現横須賀市)に生まれる。1886年(明治19年)神奈川県師範学校を卒業し、三浦郡不入斗学校の教員となる。三浦郡教育会設立の先頭に立ち、1888年(明治21年)実現させた。1892年(明治25年)豊島町長となり、1906年(明治39年)まで務め、尋常高等豊島小学校(現横須賀市立豊島小学校)や横須賀・豊島両町組合立横須賀実業補習学校(現横須賀市立工業高等学校)の設立に尽くした。
福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応… 福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応元年11月16日) - 1924年(大正13年)10月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1890年、明治法律学校卒。農業と養蚕業を営む。紫波郡長岡村(現・紫波町)会議員、岩手県会議員となる。また、長岡村農会長、岩手県農会議員、大成信用組合長を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補したが次点で落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補したが落選した。
五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年… 五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。 三谷大足の次男として生まれ、東奥義塾で洋学を修めた。23歳のとき上京。金子蓑香に篆刻を学び、その後四世浜村蔵六の門下となる。四世蔵六に継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年(1894年)5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地を遊歴後、二度にわたって清国を訪問。康有為ら政治家と親交した。また呉昌碩や徐三庚と交わり、その奥義を伝えられる。このため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられた印籍類が火災で焼失したことが原因とも考えられる。
アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams… アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams、1866年?-1937年)は、アメリカのアメリカン・ボード宣教師。ニューハンプシャー州出身。医療・社会福祉に従事し、石井十次、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、… 太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、陸奥国岩手郡東中野村(現盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友で、晩年の自伝的作品「硝子戸の中」で友達「O」として登場している。
結城 林蔵(ゆうき りんぞう、1866年-1945年)は、明… 結城 林蔵(ゆうき りんぞう、1866年-1945年)は、明治・大正・昭和期にかけての日本の写真技術家(製版術・写真工芸)。 『幕末明治の写真師 総覧』によれば、新潟県六日町(現在の南魚沼市)の出身である。昭和9年版(1934年)の『日本人事名鑑』記載の「結城林蔵」の項によれば、慶応2年2月(西暦1866年3月下旬または4月上旬)新潟県の久保田勘治の二男として出生し、明治19年(1886年)同県農業学校を卒業。結城義節の養子となり養父義節の二女とめと結婚して(養子・結婚の時期は不明)結城家の家督を明治28年(1895年)に相続している。 結城の卒業した新潟県農業学校がいかなるものかは不明。因みに、旧制新潟県立農林学校は1903年の創立とされていて該当しない。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。
滋賀 重列(しが しげつら、1866年 - 1936年)は日… 滋賀 重列(しが しげつら、1866年 - 1936年)は日本の建築家。
香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は… 香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は、石川県出身の技師であり工学博士。黎明期の日本製鉄界を牽引し、日本鉄鋼協会会長も務めた。 旧加賀藩で与力を務めた香村金六の長男として1866年12月5日(慶応2年10月29日)金沢の柿木町で出生。1871年(明治4年)に幼くして父を亡くし同年9月に家督を相続。同地で中学まで過ごす。身体は弱いが勉強を得意とした小録は1884年(明治17年)9月に東京大学予備門へ入学。第一高等学校に移った後、1889年(明治22年)9月に東京帝国大学工科大学へ進学。1892年(明治25年)7月に同大学採鉱冶金科を卒業して農商務省に入省すると、技師試補として製鉄事業調査会の事業であった耐火煉瓦の調査研究に従事した。
間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 195… 間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 1958年(昭和33年)1月12日)は、日本の医師、農場経営者。 陸奥国石川郡(現在の福島県棚倉町)生まれ。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)卒業後、済生学舎(日本医科大学)にて医学を学び、1887年(明治20年)医師前期試験に合格、1890年(明治23年)医術開業試験に合格。1891年(明治24年)内務省医籍登録。1892年(明治25年)本郷に医院を開業した。荻野吟子や吉岡彌生とならぶ明治時代初期の女性医師の一人である。 1899年(明治32年)、兄の北海道庁在職中の部下であった林田成一と結婚。1908年(明治41年)、夫が入植していた北海道十勝郡生剛村(現在の北海道十勝郡浦幌町字幾千世)へ移り、以後農場経営の一翼を担いながら、家屋の一部を診療所とし、無医村だった生剛村で病人の治療にあたった。
三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)… 三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)は福島県出身の士族。岩手軽便鉄道の社長及び衆議院議員を務めた。 幕末の半田銀山役人であった三鬼莞の息子として、1866年6月9日(慶応2年4月26日)後の福島県伊達郡桑折町で出生。旧二本松藩の儒学者である堀退蔵の私塾にて漢学を修めた後、上京して明治法律学校で学ぶ。1888年(明治21年)12月に優秀な成績で卒業。岩手県で官職に就き会計課長、また同県下閉伊郡や和賀郡の郡長などを務めた。その後、花巻と仙人峠を結ぶ花巻軽便鉄道の建設を目指すが、実現には至らず。1914年(大正3年)6月に官職を辞すと、岩手軽便鉄道に常務取締役として招かれ 、後に社長就任。
星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(… 星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(慶応元年12月) - 1919年(大正8年)2月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出雲国神門郡鵜鷺村(のち島根県簸川郡大社町、現・出雲市)生まれ。漢学と数学を修め、上京し、1883年、東京英学校に入り、のち、東京専門学校に入り、1890年に政治学科を卒業する。農業を営む。鵜鷺村会議員、簸川郡会議員、島根県会議員、徴兵参事員となる。また、星野(合)業務担当人、松江米穀株式取引所理事長、簸川銀行、山陰生命保険、松江造船各取締役、出雲商業銀行頭取を務めた。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において島根1区から無所属で立候補して当選する。
伊藤 啓一郎(いとう けいいちろう、1866年(慶応2年4月… 伊藤 啓一郎(いとう けいいちろう、1866年(慶応2年4月) - 1965年(昭和40年)11月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出雲国神門郡神西村(のち島根県簸川郡神西村、現・出雲市)生まれ。1889年、島根尋常師範学校(のち島根師範学校)卒。農業の傍ら、南画を田能村直入と塩田鉄香に学び、書画を作成する。1939年に神武天皇聖徳奉体会を提唱し、橿原神宮聖域画讃を頒布する。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において島根3区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から立候補して落選した。1965年に死去した。
平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- … 平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- 1937年(昭和12年)2月25日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村(駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ。1891年(明治24年)下毛郡城井村(耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり、1899年(明治32年)家督を相続した。 家業の農業を営む。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した。
角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1… 角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1月〉 - )は、日本の農家、政治家、銀行家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられているため、角替 九郎平とも表記される。 静岡県小笠郡土方村会議員、静岡県小笠郡土方村長、株式会社内田銀行頭取などを歴任した。 静岡県小笠郡土方村で農業を営んでいたが、政治家に転身し土方村会の議員に就任した。さらに土方村の村長に就任するなど、公職を歴任した。その後、内田銀行の頭取に就任するなど、銀行家としても活動した。 1866年(旧暦慶応2年1月)に角替九郞次の長男として生まれた。静岡県小笠郡土方村で農業を手広く手掛けており、角替家は豪農として知られていた。
田代 保之(たしろ やすゆき、1866年(慶応2年2月) -… 田代 保之(たしろ やすゆき、1866年(慶応2年2月) - 1941年(昭和16年)7月12日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。貴族院多額納税者議員。 肥後国玉名郡横島村(熊本県玉名郡横島村、横島町を経て現玉名市)出身。田代岩彦の長男として生まれ、1886年(明治19年)家督を相続する。 農業を営み、1896年(明治29年)以降、玉名郡会議員、熊本県会議員、同参事会員を歴任した。ほか玉名銀行、肥後米券社重役を務めた。 1904年(明治37年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1907年(明治40年)9月13日まで務めた。
稲田 清淳(いなだ きよあつ/せいじゅん、1866年 - 1… 稲田 清淳(いなだ きよあつ/せいじゅん、1866年 - 1905年2月12日)は、日本陸軍の軍人、政治家。最終階級は陸軍三等軍医(少尉相当官)。郡会議員(副議長)。正七位勲六等。 稲田正純(陸軍中将)、坂西一良(陸軍中将)の父。 鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。 明治20年(1887年)医学を志し、大阪に出て内外の諸科を修めた。明治22年(1889年)医術開業試験に及第。明治27年(1894年)郷里に戻って開業する。明治29年(1896年)台湾に赴き公医に挙げられた。後郷里に戻って業に復す。 事務に精通していたため、郡会議員に選ばれ、其の副議長となった。 明治37年(1904年)日露戦争の際、官医員の募集に応じ第10師団に属して見習医官となる。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安… 重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安政元年10月27日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月5日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→無所属)。 出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌1881年(明治14年)7月、山形県会議員に選出された。1886年(明治19年)2月26日から1887年(明治20年)12月7日まで同副議長を務めた。
松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政… 松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政元年10月18日) - 1927年(昭和2年)10月7日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。茨城県結城郡宗道村長。 下総国、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)出身。小川八郎の弟として生まれ、1874年(明治7年)松村新造の養子となり家督を相続したのち、更に養子直四郎に譲り、1912年(大正元年)11月分家する。 1889年(明治22年)以降、宗道村会議員、同村長、茨城県会議員、結城郡会議員などのほか、石下銀行取締役を歴任した。 1897年(明治30年)9月には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1898年(明治31年)7月5日まで務めた。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永… 田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永7年10月11日) - 1903年(明治36年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、位階・勲等・功級は従四位・勲二等・功三級。 甲斐国東山梨郡相興村中尾(現山梨県笛吹市一宮町)に田村義事の長男として生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。1872年(明治5年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川七良の娘・伝子を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。 1875年(明治8年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。
図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年1… 図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年11月23日〉 - 1922年〈大正11年〉7月1日)は、明治期日本の鉄道官僚。鉄道院計理部長などを歴任し、鉄道経理の確立を行った。 鹿児島市潮見町で生まれ、商法講習所(現一橋大学)で学んだ。1873年外務省入省。1876年から1878年までアメリカ合衆国で経理を学び、帰国後第五国立銀行入行。 1879年に工部省権少書記官任官以来、会計事務に従事し、日本における鉄道経理の確立を行った。 1884年鉄道局少書記官。1885年逓信省鉄道事務官。1890年鉄道局会計課長。1893年鉄道庁第三部長心得。同年逓信省計理課長。 1897年鉄道作業局計理部長。
伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年1… 伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年10月3日)- 1903年(明治36年)5月29日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越前国大野郡御領村(福井県大野郡阪谷村を経て現大野市御領)で、豪農・伊藤三郎左衛門の長男として生まれた。普通学を修めた。1874年(明治7年)8月に家督を相続した。 大区副区長、阪谷村五箇村組合長、大野郡会議員(2期)、同参事会員などを務め、明治初期に永昌社(金融機関)を創立して農家の便宜を図った。1885年(明治18年)11月、福井県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月まで5期在任。この間、同常置委員、同参事会員などにも在任し、道路の整備などに尽力した。
林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年… 林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年9月26日) - 1922年(大正11年)4月7日)は、日本の漢学者。下総の人。号は進斎、字は浩卿、名は直巻。 儒学者・島田篁村の影響を受け経学を修める。はじめ朝鮮史の研究に従事し、明治時代の朝鮮史研究の開拓者となった。その後、中国の古代史の研究に転じ、1903年(明治36年)、中国で甲骨文字の拓本である『鉄雲蔵亀』が刊行されると(背景は中国の書道史#甲骨文を参照)、林はその古代文字を一見して非常な興味を覚え、『鉄雲蔵亀』をもとに未知の文字の解読を開始した。東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。
梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元… 梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元年9月25日)- 1940年(昭和15年)7月27日)は、日本の政治家。元山形県南村山郡上山町長。 山形県南村山郡上山町(現上山市)出身。上山藩医の梅津清明の三男として生まれる。幼少の頃、上山藩の漢学者浅野普平から漢学を学ぶ。1870年(明治3年)から、東京帝国大学東校に学ぶ。 1880年(明治13年)8月に山形県議会議員改選に初当選、1884年(明治17年)5月満期退任。1899年(明治42年)3月に山形県議会議員補欠選挙に当選、1901年(明治44年)9月満期退任。1923年(大正12年)6月8日から1926年(大正15年)7月22日まで上山町長を務めた。
稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854… 稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日〈1940年8月31日〉)は、日本の政治家、実業家。地主。 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。酒・醤油醸造業合名会社稲田本店代表社員。稲田家の六代目。鳥取県平民。米子銀行監査役。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。10000円〜15000円の部に稲田秀太郎の名前がみえる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年1… 黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年10月24日〈安政元年9月3日〉 - 没年不明)は、香川県多額納税者、香川県の大地主・家主、資産家。族籍は香川県平民。 香川県仲多度郡生野村(後の麻野村、善通寺町、現・善通寺市)、平民・高田恵八郎の四男。黒瀬與吉郎の養子となり、家督を相続する。商業を営む。1926年、退隠する。 諱は憲直、柳渚と号して書を好み、終生これを楽しむ。貝原益軒に私淑し、常にその著書を愛読する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。同地方屈指の大地主、資産家で、香川県下の多額納税者である。 與重郎の人柄は「社交界に出ることを好まず、政治を談ずることを欲せず、只詩文に親しんだ」という。
辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7… 辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉… 佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉永7年8月8日) - 1943年(昭和18年)12月28日)は、東京(江戸)出身の銀行家、実業家。号は茗香。 嘉永7年8月8日、武蔵国江戸本所六間堀(現 江東区新大橋)で生まれる。幼名清松。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。 幼くして藤沢次謙に算術の手ほどきを受け、のち幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。さらに青木松次郎福軒の塾で漢学を習い、余暇に剣術を学ぶといった当時の武士の子弟の教育を受けて育つ。 明治維新後、三井小野組の為替方に入り1873年(明治6年)に三井小野組を中心とする第一国立銀行が創立されると、それに伴い同行へ移籍。
斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(… 斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(1854年9月20日) - 1925年(大正14年)7月25日) は、戦前宮城県の資産家、政治家、実業家。石巻市黒沢斎藤家9代目。名は有成。前谷地村二等戸長、斎藤株式会社社長、財団法人斎藤報恩会理事長、仙台信託取締役社長。 安政元年閏7月28日(1854年9月)、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854… 古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854年9月4日〉- 昭和9年〈1934年〉1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。 古市公威は、大和武士古市氏の末裔である姫路藩士古市孝の長男として旧暦嘉永7年(1854年)に江戸の藩屋敷で生まれた。明治2年(1869年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学、明治3年(1870年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。
菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7… 菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) - 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。法学博士。陸奥国岩手郡外加賀野村(南岩手郡を経て岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854年(嘉永7年)7月28日、岩手郡外加賀野村(後の盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎(後の那珂通高)によって名付けられた。 1875年(明治8年)大学南校(後の東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。
高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(… 高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(安政元年7月25日)- 1933年(昭和8年)9月3日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員。 日向国那珂郡板敷村(宮崎県南那珂郡飫肥村、飫肥町字板敷を経て現日南市板敷)で、飫肥藩士・高山伝蔵、のぶ の長男として生まれ、1881年(明治14年)2月に家督を相続した。藩校で学び、その後上京して岡松甕谷に師事した。 1883年(明治16年)7月、宮崎県御用掛となり庶務課に配属。以後、8等属、7等属・地理課勤務、町村制施行順序取調委員、判任官6等・学務課勤務などを歴任し、1892年(明治25年)4月、南那珂郡長に就任。1895年(明治28年)5月、高等官7等に進み、同年8月、病のため退官した。
赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月… 赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月21日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国石川郡宮腰町(金石本町、石川県石川郡上金石町、金石町を経て現金沢市)出身。金沢師範学校で学ぶ。小学校訓導、石川郡金石町戸長、同町助役、同町長、同町会議員、石川郡会議員、石川県会議員、加能合同汽船(株)支配人となる。 1898年3月(明治31年)第5回衆議院議員総選挙において石川1区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1906年に死去した。