福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月… 福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1969年〈昭和44年〉2月1日)は俳人。島根県安来市今津生まれ。本名、亮。別号、梨東・梨東書屋主人。 広島高等師範学校文科中退。中学校長のち大正5年より神職。俳句は1906年(明治39年)に広江八重桜門に入り、のち奈倉梧月に師事。 「ホトトギス」「懸葵」を経て、「石楠」同人。「礼讃」(のち「白日」「契」「瓶麓」「俳句地帯」「地帯」と改題)主宰。 著書に句集『狭田長田』(昭17)。「狭田長田」「日々」「静日」「雫」。『土をしたふ』(昭和28)啓蒙書に『俳句の第一門』などがある。
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月1… 中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。 1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる。 1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する。 1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。
2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈… 2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈明治24年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉7月24日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、群馬県会議員(6期)、群馬県群馬郡箕郷町長。幼名は五四二(いよじ)。群馬県知事選挙に立候補したが投票日の3日前に急逝し、弟・俊蔵が補充立候補により当選を果たした。 1891年(明治24年)、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)で造り酒屋「十一屋」を営む竹腰徳蔵・コウ夫婦の長男として生まれる。竹腰家は新潟から移住してきた徳蔵の先々代が酒造業を創業、銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった。 旧制群馬県立高崎中学校を経て市立大阪高等商業学校を卒業。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月… 松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月29日)は、日本の旧内務省の技術官僚。のちに厚生省の技術官僚として医薬品・食品行政全般にわたり重責を果たした。薬事行政の枢機に参画するとともに東京帝国大学医学部講師を兼任するなど教育・啓蒙にも尽力した。1941年-1948年には国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)の第12代所長を務められ、その後、植物化学の成果の医薬的応用をはかるべく、創業者として常磐植物化学研究所を設立した。また、日本大学薬学科の新設に貢献し、初代薬学科長に就任した。 第一次世界大戦当時、医薬品輸入の途絶への対処として国産化のため、臨時製薬調査業務を担当した。
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7… 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸軍士官学校26期・陸軍大学校35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日… 酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日 - 1969年(昭和44年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、福井県会議長、福井県坂井郡鳴鹿村長。 福井県坂井郡鳴鹿村楽間(丸岡町を経て現坂井市丸岡町楽間)で、酒井利右衛門の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続した。土木建築請負業を営む。 鳴鹿村会議員を経て1934年(昭和9年)鳴鹿村長に就任。福井県会議員に選出され、同議長も務めた。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福井県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6… 児玉 政介(こだま まさすけ、1891年〈明治24年〉7月6日 - 1978年〈昭和53年〉4月14日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。位階は従三位。 秋田市長(第11代)、厚生次官(第3代)、軍事保護院副総裁、傷兵保護院副総裁、厚生省体力局長、石川県知事(官選第34代)、秋田県知事(官選第35代)、奈良県知事(官選第22代)などを歴任。旧姓・小幡。 東京府出身。小幡小二郎の長男として生まれ、児玉隼槌の養子となる。第三高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し岩手県属となる。 以後、三重県警視、新潟県警視、大阪府理事官、内務省社会局書記官、同省大臣官房文書課長、東京府書記官・内務部長などを歴任。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
後藤 圀彦(ごとう くにひこ、1891年(明治24年)7月2… 後藤 圀彦(ごとう くにひこ、1891年(明治24年)7月2日 - 1945年(昭和20年)10月27日)は、日本の実業家。京成電気軌道第二代取締役社長。今日の京成電鉄の礎を築く。 大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の後藤定彦の次男として生まれる。中学二年の時、中川伯の所有林で山火事を起こし、金5円を持って上京。 学生時代は新聞配達など苦学をし、1911年に法政大学政治学科を卒業。読売新聞社に職を奉じ、政治部長、経済部長となる。米国に渡り経済事情を調査し、帰朝後、中国へ視察に赴く。その後、松方正義や財界のまとめ役の男爵郷誠之助の知遇を得て、実業界に身を転じる。関東大震災前頃には、郷を囲う会として岩倉具光、河合良成とともに番町会を設立。
山崎 俊夫(やまざきとしお、1891年(明治24年)7月1日… 山崎 俊夫(やまざきとしお、1891年(明治24年)7月1日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の小説家、脚本家、俳優。 俳優時代の芸名は石垣彌三郎。 明治末期から大正初期にかけて、永井荷風が編集する『三田文学』を中心に、耽美的、少年愛・同性愛的小説を発表するも、その後役者に転向したため、長らく埋もれた作家・幻の作家となっていたが、1986年から生田耕作の主宰する奢灞都館より作品集の刊行が始まり、一部文学愛好家の間で再評価されるようになった。岩田準一は著書の『男色文献書誌』で、山崎俊夫の唯一の著書『童貞』について、「ことごとく衆道情緒をもって描かれたる作品にて稀有の小説集なるべし」と評している。
渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月… 渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月30日 - 1972年(昭和47年)3月1日)は、日本の医師、政治家。貴族院議員多額納税者、水戸市長、医学博士。 茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)出身。茨城県立太田中学校卒、1919年(大正8年)旧制愛知医科大学(現・名古屋大学医学部)卒。同大学付属病院に勤務。1929年(昭和4年)に水戸市で病院を開業する。1936年(昭和11年)大洗海岸に結核患者のサナトリウム大貫海岸病院を開設した。 1942年(昭和17年)1月、茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税議員に互選され、同月23日に就任し同成会に所属。同年10月、水戸市会の推薦により水戸市長に就任した。
亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 195… 亀岡 崇(かめおか たかし、1891年6月30日 - 1954年12月26日)は、日本の洋画家。東京都出身。 1891年6月30日、東京府東京市赤坂区青山に生まれる。父は陸軍工兵中佐・従五位・勲四等の亀岡為定。陸地測量部課長等を歴任し、大正9年12月3日没。祖父は幕臣の亀岡平次で、曽祖父の樋田豊治も幕臣であった。母は旧幕臣・上田登代。父方の従兄に陸軍中将・杉原美代太郎、陸軍中将・黒澤準がいる。また母方の従兄に海軍中将・上田宗重がいる。 府立一中を経て東京美術学校卒業。岡田三郎助、黒田清輝の門下。在学中に中村彝と知り合い交遊を結ぶ。彝の名作「友の像」のモデルとなる。第1回より欠かさず二科展に出品。
岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 197… 岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 1973年3月5日)は、日本の作家。 岡山県児島郡琴浦町(現・倉敷市)に農家の次男として生まれる。岡山商業学校(現岡山県立岡山東商業高等学校)卒。 郷里の商工学校で教えたりしたが上京し、早稲田大学予科および明治大学中退。帰郷し、岡山新聞、大阪時事新報支局の記者をしたのち1920年大阪毎日新聞に入社、1928年東京日日新聞社会部に転じ、社会部副部長を務め1939年に退社。 1934年8月、佐山栄太郎の筆名で『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が1935年片岡千恵蔵によって映画化された。 はじめ政治家伝などを書き、戦後はエロティック歴史小説を書いた。
千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年… 千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年8月13日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 旧制第六高等学校、東京帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1926年東京帝大助教授、のち教授、1952年定年退官。1965年 日本心理学会名誉会員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6… 平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6月29日 - 1956年(昭和31年)11月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府日根郡北信達村、のち泉南郡信達村→信達町、現在の泉南市で平島幸吉の息子として生まれる。1915年(大正4年)明治大学法律科を卒業した。 大阪木津川セメント (株) に入社し用度課長を務めた。在勤中、雨の日には出勤せず、会社もしかたなく公認した。その後、会計士の業務に従事。鉱業、農業に転業し、1943年(昭和18年)コバルト採掘鉱業に関係した。その他、合資会社信達織布工場理事、平島紡績取締役、同会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から立候補したが落選。
吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月2… 吉田 晴風(よしだ せいふう、1891年(明治24年)6月24日 - 1950年(昭和25年)6月30日)は、日本の尺八奏者、邦楽作曲家。本名は吉田 康次(よしだ やすじ)。旧号は吉田 竹堂(よしだ ちくどう)。 1891年(明治24年)、熊本県玉名郡長洲町で酒造業を営む家に生まれる。父の死後、7歳で家業が途絶える。1898年(明治31年)、長洲町立長洲小学校在学中に近所の若者が吹く尺八の音色に魅了され、翌年には親戚から尺八を贈られ演奏を始めた。1908年(明治41年)、熊本商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)に入学後、姉の援助で本格的な尺八を購入し、琴古流の鳥井虚霧洞に師事した。 1911年(明治44年)、熊本商業学校を首席で卒業後、日本統治時代の朝鮮に渡り大豆貿易商として修業したのち、穀物商として独立。
長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 19… 長谷川四郎(はせがわ しろう、1891年6月24日 - 1982年3月19日)は、英文学者、教育者。長谷川五郎の父。オセロ (ボードゲーム)の名付け親。別名・長谷川朝暮。 東京本郷生まれ。1914年旧制一高英語文科卒、1917年東京帝国大学文科大学英文科卒。 現在は廃校となった旧制水戸高等学校の元教授。1921年4月、水高の最年少教授となり、以降水高廃校まで29年教壇に立った水高を代表する名物教授であった。教え子に後藤田正晴などがいる。この時代に四郎宅での句会に出席していた金子兜太によると、四郎は変わった髪型(前頭部に後ろの髪をかき集めてきて束ね、とぐろに巻いて油で固定している)にピーマン形の鼻、大きな目にしゃれた小さな縁なし眼鏡をかけ、エドガー・アラン・ポーの心酔者だったという。
山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月… 山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月23日 - 1959年(昭和34年)5月2日)は、日本の海軍軍人、華族。山下源太郎の養嗣子で艦隊派の一員である海軍大佐、男爵である。 高知市に生まれる。米沢の医師、水野廉平の次男。山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女、千鶴子と結婚し山下家の養嗣子となる。米沢中学を経て海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中30番。山口多聞、大西滝治郎、宇垣纏らが同期生である。1913年(大正2年)12月に少尉任官。 第一次世界大戦では「周防」乗組みとして出征し、青島攻略戦で陸戦隊を指揮して功五級に叙せられた。山下は砲術学校高等科、および同校の教官養成課程である専攻科を修了した砲術専攻の士官で、同校教官や軽巡洋艦「球磨」砲術長などを務めた。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 … 岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24… 柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24年)6月22日 - 1957年(昭和32年)11月7日)は、大正から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧黒川藩主、子爵・柳沢光邦の三男として生まれる。父の死去に伴い、1923年(大正12年)12月20日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。同年、日本醋酸製造技手となる。以後、同技術部主任、東京府工業技師、同産業技師、同商工技師、府立東京商工奨励館委員、同化学部主任などを務めた。 1939年(昭和14年)11月4日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 199… 野田 哲造(のだ てつぞう、1891年6月21日 - 1992年7月30日)は、日本の銀行家、経営者。住友銀行社長兼会長を務めた。 三重県津市出身。旧制津中学、旧制一高を経て1915年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、同年に住友銀行に入行。 常務、専務、副社長などを歴任し、1945年から財閥解体後に初めて社長兼会長に就任したが、公職追放の拡大により、その影響が出ることを恐れ、1947年2月に退任。 大阪銀行協会会長、大阪商工会議所監事、レンゴー相談役、武田薬品工業顧問なども歴任した。 1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年7月30日、急性心不全のために死去。101歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
水川 潔(みずかわ きよし、1891年(明治24年)6月21… 水川 潔(みずかわ きよし、1891年(明治24年)6月21日 - 1959年(昭和34年)2月8日)は、日本の農林官僚であり、全国穀類工業協同組合初代理事長、日本穀物検定協会理事長を務めた。岡山県出身。 1891年(明治24年)岡山県士族の父・水川龍太郎と母・與禰の長男として生れる。その後、旧制東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、旧制第二高等学校理科丙類を経て、1921年(大正10年)4月、東京帝国大学農学部を卒業する。卒業後、農商務省へ技師として就職する。 農商務省で技師として入省し、1925年(大正14年)に、農林省(現:農林水産省)と商工省(現:経済産業省)に分割さたのに伴い、農林省へ所属する。
橋浦 時雄(はしうら ときお、1891年(明治24年)6月2… 橋浦 時雄(はしうら ときお、1891年(明治24年)6月21日 - 1969年(昭和44年)2月10日)は、日本の社会運動家である。ペンネームは溟郎生。鳥取の左翼運動の先駆者と言われた。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進み、同級生の由谷義治らと社会主義グループを結成し、平民新聞を愛読した。 早稲田大学中退後、社会主義を主張し幸徳秋水や堺利彦らと親交を持つ。後に彼らと共に社会主義研究会の設立時のメンバーとなり、1910年(明治43年)に発生した幸徳らが起こした大逆事件ではその事件に関する批判した日記を日本政府に提出した事により起訴され、さらにその日記の没収した事により不敬罪として計禁錮5年4ヶ月の有罪判決を受けた。
野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18… 野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18日 - 1929年(昭和4年)12月26日)は、日本の建築家で、大正期から昭和初期に建築技師として活動。陸軍省、内務省、警視庁、同潤会と、おもに官公庁系の職場に奉職した。 近代日本建築史上では、建築の実作より「建築非芸術論」など多くの論考を著した論客としての側面で知られる。 横浜市生まれ。画家で日本美術院会員の野田九浦は親戚に当たる。 横浜中学校、第一高等学校を経て、1911年、東京帝国大学工学部建築学科に入学し、1915年(大正4年)卒業。卒業論文「鉄筋混凝土と建築様式」の一部をもとにした論文「建築非芸術論」が内田祥三(当時助教授)の推薦で1915年10月に『建築雑誌』誌346号に掲載される。
児玉 桂三(こだま けいぞう、1891年(明治24年)6月1… 児玉 桂三(こだま けいぞう、1891年(明治24年)6月17日 - 1972年(昭和47年)10月1日)は、日本の生化学者。滋賀県出身。東京大学名誉教授。第2代徳島大学学長。元トヨタ自動車工業監査役。 児玉一造東洋綿花社長や、豊田利三郎トヨタ自動車工業社長は兄。妻の壽は北村七郎三井物産監査役の三女で、詩人の北村初雄は義弟。他の姻族に山下財閥創業者の山下亀三郎の長男山下太郎山下汽船社長などもいた。 東京帝国大学卒業。1937年(昭和12年)に実兄の豊田利三郎が初代社長となる形でトヨタ自動車工業が設立されると同社大株主となり、のちに1953年(昭和28年)から1956年(昭和31年)まで監査役も務めた。
不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年… 不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年2月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本画家。 1891年(明治24年)6月16日、東京・小石川の光円寺住職であった不染信翁の子として生まれる。本名は哲治。のち哲爾に改める。別号に鉄二。「不染」の名字は、平民苗字必称義務令にあたり父・信翁自らが名乗ったものだという。当時一般には僧侶の妻帯を認められておらず、母との関係はふせられたまま不染は光円寺で育てられた。 こうした複雑な境遇から、不良少年とみなされていたという。小学4年の春に千葉県富浦の西方寺で修行させられた後、芝中学校、攻玉社中学校、大正大学などで学ぶ。画を志し、山田敬中に師事。
原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 … 原 捨思(はら すてし、1891年(明治24年)6月16日 - 1976年(昭和51年)1月31日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県川辺郡西南方村大字泊[要出典](坊津村、坊津町を経て現南さつま市坊津町泊)で生まれる。 15歳から漁業に従事。1927年(昭和2年)から兄・耕と共同で南方漁場開拓に従事し、南洋諸島方面で活動した。その後、鹿児島青年師範学校講師、鹿児島県企画室参与、鹿児島県潜水士協会理事長、同水産振興協議会長、同漁港協会長、同鰹鮪漁業協同組合長、同漁業協同組合連合会長、同海難防止会長、漁村文化協会顧問、全国水産業協同組合共済会理事、全国漁港協会副会長、原水産社長などを務めた。
古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6… 河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛媛県出身。木工業・河野民吉の二男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。陸軍歩兵学校付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1926年(大正15年)2月、参謀本部付勤務(支那班)となり、支那駐屯軍参謀を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)3月、歩兵第1連隊大隊長となり、歩兵第75連隊付(竜井村駐在)、第3師団参謀、第8師団参謀を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進む。
山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6… 山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1934年(昭和9年)4月20日)は、大正末期から昭和初期の橋梁技術者。複雑な構造をもつ可動橋を得意とし、多数の跳上橋を設計。数学の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを解析。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。 1891年(明治24年)6月に大阪で生まれる。1914年(大正3年)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科を卒業。 1915年(大正4年)に米国に渡航して、アメリカンブリッジカンパニーに入社。シカゴを中心とする各地の可動橋の設計や製作に従事するかたわら、イリノイ大学やアーマー大学で橋梁を研究。
田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 19… 田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 1969年9月14日)は、日本の農林官僚、政治家。宮崎県知事を1期務めた。 宮崎県南那珂郡福島町(現・串間市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第五高等学校、東京帝国大学法学部・農学部卒。1921年(大正10年)農商務省に入省。戦前は革新官僚として、産業組合の創立や農地改革(当時は実現せず)などに携わり、水産局長、山林局長を経て退官。 1951年(昭和26年)4月1日、第2回宮崎県知事選挙に出馬。吉見房見共に法廷得票数に達せず、決選投票。同年5月18日、宮崎県知事選決選投票で当選、宮崎県知事となる。 1953年(昭和28年)に郵政省は宮崎県に新しい民放局の周波数を割り当てたがものの、当初地元では民放設立の動きが全くなく、鹿児島県の南日本放送がこの機会を利用し宮崎市に中継局をつくろうと運動を始めていた。
伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9… 伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9日 - 1967年(昭和42年)7月16日)は、日本の内務官僚。 岡山県西北条郡西苫田村大字総社(苫田郡西苫田村を経て現津山市総社)出身。1913年(大正2年)、日本大学法科を卒業し、さらに東京外国語学校英語科に学んだ。同年、高等文官試験に合格。鉄道院書記を経て、茨城県警察部長、宮城県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長を歴任した。 退官後、1932年(昭和7年)から1934年(昭和10年)まで京都市助役を務めた。 1949年(昭和24年)歌舞伎座の建物としては、第4期(1950年12月竣工、1951年1月開場)、株式会社歌舞伎座設立時、事務長に就任。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6… 山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。参議院議員。 長崎県出身。1915年(大正4年)九州帝国大学工科大学採鉱学科を卒業した。 卒業後、三井鉱山(現日本コークス工業)に入社し、山野鉱業所長、砂川鉱業所長、同社常務取締役などを歴任し、1947年(昭和22年)同社長に就任。その他、初代日本石炭協会長、同顧問、全国石炭復興会議議長、全国炭鉱管理委員会委員、経済復興計画委員会委員、北海道総合開発審議会委員、日本産業協議会理事、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)理事、日本経営者団体連盟(現:日本経済団体連合会)理事、東京商工会議所議員などを務めた。
伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1… 伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1971年12月26日)は日本の民間航空のパイオニアである。伊藤飛行機研究所を設立し、多くの飛行家を育てるとともに、国産機の開発にも努めた。 大阪市南区(後の浪速区)恵美須町に住む伊藤岩吉の二男として1891年(明治24年)6月に生まれる。家は今宮戎を南に行った辺りで駕屋を営んでいた。1904年(明治37年)に大阪市立恵美尋常高等小学校(後の恵美小学校)を卒業し、安堂寺橋にあった銅鉄地金商の佐渡島商店に勤める。 17歳であった1908年(明治41年)11月23日、道頓堀の朝日座でライト兄弟の飛行を写した活動写真を観て飛行機に興味を持ち、1909年9月の萬朝報の「奈良原式飛行機発明」の記事に感動して奈良原三次に乗員としての採用を求める手紙を書き送った。
草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1… 草皆 五沼(くさかい ごしょう、1891年6月2日 - 1964年11月11日)は、日本の俳人、医師である。俳句結社「黛吟社」を興した。 秋田県山本郡浅内村(後の能代市浅内)の小川末蔵の四男として生まれる。本名は■太(ちょうた ■はウ冠に甾丁)。後、「茂作」に改名している。 旧制・秋田県立大館中学校1年生のときに地元の俳人・山崎五風から俳句の手ほどきを受け、すぐに才能を現す。のちに秋田を代表する俳誌となる『俳星』に参加し、生涯『俳星』に所属した。 中学校4年のときに脚気を患い自宅療養し、家の近くの沼の周りを散策しながら句作を続けた。沼の数が五つあったことから、このころから号を五沼と名乗り、のちに秋田県南秋田郡馬場目村(現在の五城目町馬場目)の草皆家に養子に入ったことから、後半生は草皆五沼と名乗った。
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1… 草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。 草刈の遠祖は小野木公郷である。父・鉄太郎は旧会津藩士で、14歳のおり戊辰戦争における会津若松城籠城戦を戦った。長兄・雄治は東京帝国大学出身の関東都督府技師、のち九州電気軌道専務、次兄・哲治は海軍大主計(主計大尉)、二人の妹はそれぞれ同郷の陸軍将校(外井氏)、陸軍軍医(石田氏)に嫁いでいる。草刈は会津中学に学び、元来は一高志望であったが、海軍兵学校に在校していた同窓生の短剣姿に憧れ海兵進学を目指す。1910年(明治43年)、草刈は78名中3番の成績で中学を卒業する。
羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1… 羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月17日)は、日本の彫刻家。雅号は大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。 新潟県中蒲原郡川内村川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町の陸軍歩兵第30連隊に入隊、1915年(大正4年)に結婚。 1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻科木彫部に入学、高村光雲、白井雨山、大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望、朝倉文夫、関野聖雲にも学んだ。
清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 198… 清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。北京に崇貞学園を設立・経営。戦後に妻郁子とともに桜美林学園を創立。桜美林学園第3代理事長。 1891年、滋賀県高島郡新儀村北畑(現在の高島市)に豪農の子として生まれたが、5歳で父を亡くす。1905年、滋賀県立第二中学校(08年膳所中学校と改称)に入学。英語講師で宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズからキリスト教の感化を受け、1908年に受洗。1910年、同志社神学校に進学。同志社在学中、宣教師ホラース・ピットキン(en:Horace Tracy Pitkin)の殉教の話(義和団事件で死去)に感銘を受けた。
山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月… 山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月9日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会(二弁)会長、日本弁護士連合会(日弁連)副会長。二弁内会派清友会の長老格だった。 岡山県と鹿児島県出身(後述の父が1901年に鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)教授となったため)。1908年、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。第一高等学校 (旧制)大学予科へ進学して1912年7月に卒業し、東京帝国大学法科大学独法科を1916年に卒業(法学士)。二松學舍中退。大学卒業後日清汽船に入社し上海支店勤務となるが間もなく退職し、中国製鉄取締役、藝備銀行監査役を歴任。 1920年に弁護士登録し、1926年に弁護士開業。
細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 197… 細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 1974年8月9日)は、日本の小説家。 東京市麻布生まれ。旧姓は池田。すぐに埼玉県川越町(現:川越市)の細田丑太郎の養子に出され長男として川越で成長する。1915年、早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、木村毅らがいた。1918年に早稲田文学に処女作『空骸』を発表、1922年に自伝的長編小説『罪に立つ』で成功する。1924年には自叙伝ともいえる『はたち前』を発表し、川越での生活を現実主義的に描いた。弱者を描いた小説で知られ、日本プロレタリア作家同盟に加盟しプロレタリア文学の作家として『誘惑』(1927年)などで活躍する。
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月2… 長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 愛知県名古屋市出身。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)。
岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 19… 岸井 寿郎(きしい としろう、1891年5月28日 - 1970年10月1日 )は、日本の実業家、政治家。 元衆議院議員(通算1期)。岸井成格(毎日新聞特別編集委員)の実父。 香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。 1917年(大正6年)東京帝国大学卒業。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する。 1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。
中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉… 中村 孝次郎(なかむら こうじろう、1891年〈明治24年〉5月28日 - 1968年〈昭和43年〉11月17日)は、日本の大蔵官僚。 長野県上水内郡の松本家に生まれ、中村みねの養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。大蔵属、副司税官、品川税務署長、税関事務官、大阪税関監視部長・総務課長、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長を務めた。1933年(昭和8年)、関東庁事務官となり、財務局経理課長、財務課長を歴任。さらに札幌税務監督局長、神戸税関長、大蔵省為替局長、同資金局長を務めた。 退官後、北支那開発株式会社理事・経理部長、同副総裁を歴任した。
成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月2… 成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月25日 - 1956年(昭和31年)2月11日)は、日本の農家、政治家。衆議院議員。 千葉県出身。成島巍一郎の三男として生まれ、成島あゑの養子となる。1915年、東北帝国大学農学科を卒業。台湾製糖会社に入社し、その後、帰郷して農業を営む。 富勢村会議員、千葉県会議員、富勢村長、郡農会議員、県販購利用組合特別議員などを務めた。1937年4月の第20回衆議院議員総選挙で立憲民政党所属で千葉県第一区から出馬して当選。その後、第22回総選挙まで連続3回の当選を果たした。1947年に公職追放となり、同年の総選挙には妻の憲子が身代わり立候補した。 その他、農地開発営団設立委員、農林省委員、農商務省委員、日本進歩党民情部長、同政務調査会長、同総務委員会副会長、朝日乳業 (株) 取締役などを歴任した。
麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日… 麻生 久(あそう ひさし、1891年〈明治24年〉5月24日 - 1940年〈昭和15年〉9月6日)は、大正・昭和期の政治家・労働運動家。戦前の無産政党・社会大衆党の党首を務めた。 大分県玖珠郡東飯田村(現:九重町)生まれ。旧制大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、1913年第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学に熱中し、これがロシア革命に関心を寄せる契機となった。また女性関係も派手であったといわれている。 東大卒業後の1917年、東京日日新聞(現:毎日新聞)に入社(後に退社)。翌1918年には東日紙上に「ピーターからレーニンまで」を連載しロシア革命を支持した。
北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月2… 北野 隆春(きたの たかはる、1891年(明治24年)5月24日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の実業家。 スタンレー電気の創業者である。 1891年、山梨県東八代郡境川村(現・笛吹市)にて出生。 明治大学を経て、1920年12月29日、30歳のときに、東京市芝区(現・東京都港区芝)に住居兼店舗を借りて、自動車電球を中心とした特殊電球の製造販売会社「北野商会」を創業。 当時、1907年のT型フォードの本格製造から僅か10数年で、国内の自動車台数は未だ7,8千台足らずの時代であり、世界のマーケットを予見して創業したとされる。 世界との取引には、オリジナルの商標(ブランド)を持つことが必要と考え、「世界に光明を掲げた」人物としてその名を知られるイギリスの探検家、ヘンリー・モートン・スタンリーに肖り、商標を「スタンレー」と定める。
守島 伍郎(もりしま ごろう、1891年5月23日 - 19… 守島 伍郎(もりしま ごろう、1891年5月23日 - 1970年6月4日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員。