紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日… 紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・今園。 男爵・今園国映の二男として生まれ、男爵・紀俊秀の養子となる。養父の死去に伴い、1940年(昭和15年)11月1日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)京都帝国大学理工科大学機械科を卒業。三井鉱山に入社。1936年(昭和11年)石炭液化工業の視察のためドイツに出張。1937年(昭和12年)満州合成燃料錦州工場の設計・建設に従事。1942年(昭和17年)朝鮮飛行機製作所長に就任。1944年(昭和19年)日本人造石油取締役に出向した。
国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 19… 国生義夫(こくしょう よしお、1892年12月4日 – 1976年6月16日)は、鹿児島県出身の実業家。明治乳業の元社長・元会長。 鹿児島市の貧しい家庭に生まれる。鹿児島市立松原小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校、鹿児島高等農林学校農学科卒業。農林学校在学中より牛乳や乳製品について研究し、1917年には農商務省による海外実業練習生に選抜され渡米。現地で4年間、酪農について研修を受ける。 帰国後の1923年、東京菓子(現・明治製菓)に入社、1955年には明治乳業社長に就任し、以後会長まで務めた。 著書に「わが乳業記」(1969年、明治乳業刊)がある。 藍綬褒章及び勲三等旭日中綬章を受章。 1976年6月16日、心筋梗塞のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。
阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月… 阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月4日 -1957年(昭和32年)10月17日)は、日本の地方政治家。初代岩手県一関市長。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は第三銀行に就職したが、間もなく退職した。帰郷し、1929年一関町会議員。その傍ら『磐井毎夕新聞』を発行。同紙は後に合併により『岩手日日新聞』となる。1938年保証責任西磐井郡北部販売組合連合会専務理事となるが、翌年退任。その後は一関町助役となる。 1947年一関町長に当選。翌1948年市制施行により一関市長に就任する。一関市は市制施行の年を挟みカスリン台風、アイオン台風の被害を大きく受け、多数の死者、行方不明者を出した。
川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12… 川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等。 高知県高知市西町出身。川口清俊陸軍中佐・母スガの息子として生まれる。高知一中(城東中学)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった[要出典]。参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。
渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12… 渡辺 政人(わたなべ まさんど、1892年(明治25年)12月3日 - 1975年(昭和50年)2月27日)は、日本の実業家・慈善家。宮城県出身。故郷の登米の地域へ様々な形での寄付や支援を行い続けた。 宮城県登米郡登米町(現登米市)日根牛五郎峯地区の農家である渡辺徳兵衛・かの夫妻の次男(5人兄弟の末子)として出生する。15歳の時には兄がいた台湾へ渡って働いたり、工手学校(現・工学院大学)で建築を学んだりした後、1918年(大正7年)3月に明治大学商科を卒業。同年4月より台湾銀行東京支店で働き始めるも、その5か月後に『中外商業新報』の白石元治郎の特集記事を読んだことをきっかけに、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)へ入社する。
岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12… 岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12月3日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鳥取県出身。鳥取中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)12月から1928年(昭和3年)4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進。
3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈… 3代辰馬 悦蔵(たつうま えつぞう、前名・寛爾、1892年〈明治25年〉12月2日 - 1980年〈昭和55年〉8月17日)は、日本の酒造家・実業家・慈善家。兵庫県多額納税者。辰馬悦蔵商店社長。北辰馬家第三代当主。紺綬褒章を多数回受章。 兵庫県西宮市出身。先代辰馬悦蔵の長男。1917年、家督を相続し前名・寛爾を改め襲名した。1918年、京都帝国大学史学科卒業。 酒造業を営み、銘酒白鷹の醸造元として知られたが、1929年、酒造業の全般を株式会社辰馬悦蔵商店に移して自らその社長となり、経営に努めた。後これを退き、その取締役となった。1976年、辰馬考古資料館設立。 3代悦蔵は京都帝国大学に学び、家業の酒造のかたわら、考古学の研究と考古資料の収集に努めた。
小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12… 小菅 小之助(こすげ このすけ、1892年〈明治25年〉12月2日 - 没年不明)は、日本の実業家。東京急行電鉄取締役。 東京市出身。小菅利八の長男。1917年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1925年、家督を相続する。鬼怒川水力電気取締役兼技師長、小田急電鉄取締役兼技師長を経て、1942年に東京急行電鉄取締役。 宗教は神道。趣味は読書。住所は東京市本郷区菊坂町(現・東京都文京区本郷五丁目)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月… 下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月1日 - 1957年(昭和32年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。下山筆八工兵大佐の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業した。 1922年(大正11年)9月、陸士教官に就任し、1925年(大正14年)3月、ドイツ駐在に発令された。1927年(昭和2年)11月、教育総監部付となり、教育総監部課員に異動し、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)… 吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)12月1日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、社会運動家、政治家、法学者。参議院議員(1期)。次男は元東映プロデューサー吉川進。 京都府京都市出身。吉川利兵衛の養子となる。京都薬学校(現京都薬科大学)卒を経て、1918年(大正7年)同志社大学政治科を卒業した。1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけて欧米に留学し、コロンビア大学政経部大学院などで学んだ。ロイター通信記者、日米時報主筆、帝都復興院嘱託、東京市政調査会研究員などを務め、社会運動に従事した。 1926年(大正15年)社会民衆党創立に加わり、1927年(昭和2年)京都支部創立に伴い支部長に就任。
藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日… 藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身の軍人、新治村での地域の指導者及び考古学者である。考古学者としては在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を果たした。 藤田の家は真壁郡新治村の古郡に在り、村で5指に数えられる大地主であった。藤田は茨城県立水戸農学校(現在の茨城県立水戸農業高等学校の前身)卒業後、1912年(大正元年)に宇都宮騎兵第18聯隊に一年志願兵として入営し、1914年(大正3年)12月には陸軍騎兵少尉に任官している。しかし、任官後まもなく除隊した。
宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)… 宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)12月 - 1957年(昭和32年))は、日本の建築家。 宮内建築事務所を創業した宮内半太郎の息子として神奈川県横浜市で生まれる。東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 父の死去に伴い、1924年に建築事務所を受け継いだ。1935年に宮内組と改称、建築請負業を営む。 横浜市には今でも彼の手がけた多くの建築物が残る。
加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 … 加藤 初夫(かとう はつお、1892年(明治25年)12月 - 1975年(昭和50年))は、日本の内務官僚。官選福井県知事。 大分県出身。加藤栗太郎の長男として生まれる。1917年、明治大学法学部を卒業。1918年、内務省に入省し兵庫県属となる。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大分県直入郡長、同日田郡長、大分県・徳島県・鹿児島県各勤務、宮崎県書記官・学務部長、島根県書記官・学務部長、佐賀県総務部長、山口県総務部長、東京府書記官・学務部長などを歴任し、1941年、新潟県内政部長に就任。 1943年7月、福井県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1945年4月21日、依願免本官となり退官した。
信太 儀右衛門(しだ ぎえもん、1892年11月29日 - … 信太 儀右衛門(しだ ぎえもん、1892年11月29日 - 1970年4月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 秋田県山本郡金岡村(現:三種町)出身。早稲田大学政治経済科を経て、札幌農学校に学ぶ。その後は金岡村長、秋田県議を歴任し、1924年の第15回衆議院議員総選挙で憲政会公認で立候補して初当選する(後立憲民政党)。以来当選5回。秋田魁新報社監査役や能代酒造社長などを務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。追放解除後は政界に再び立候補することは無かった。 1970年4月6日、自宅の風呂場から出火、妻を助けようと家の中に入り、焼死した。
名和 武(なわ たけし、1892年(明治25年)11月28日… 名和 武(なわ たけし、1892年(明治25年)11月28日 - 1972年(昭和47年)6月22日)は、日本の海軍軍人。海軍技術士官として主に蓄電池の開発に業績を残した海軍技術中将である。特D型蓄電池の開発で海軍技術有功章を受章。 福井県出身。父は海軍大将名和又八郎で、その長男。又八郎は旧小浜藩藩士の武久家に生まれ、同藩士名和家の養子となった。この名和家は南北朝時代の武将として知られる名和長年の後裔と伝えられる家である。名和の長男は海軍兵学校(海兵70期)出身の海軍大尉。滝川具和は伯父(母の兄)。 暁星中学、一高を経て、1917年(大正6年)東京帝大工学部電気工学科を卒業し、造兵中技師(中尉相当)に任官した。
千葉 省三(ちば しょうぞう、1892年(明治25年)11月… 千葉 省三(ちば しょうぞう、1892年(明治25年)11月27日 - 1975年(昭和50年)10月13日)は、日本の児童文学者、編集者。 1892年(明治25年)12月12日、栃木県河内郡篠井村(現・宇都宮市)で小学校教員の父・亀五郎と母・ハマの長男として出生。1894年(明治27年)に亀五郎が吉沢尋常小学校(現・日光市立第三小学校)の校長になったため、一家で吉沢に引っ越した後、1898年(明治31年)に吉沢小の2年生に入学。1899年(明治32年)には亀五郎が楡木尋常小学校(現・鹿沼市立楡木小学校)に赴任したため転校し、現在の鹿沼市楡木町で育つ。1901年(明治34年)、南押原高等小学校(現・鹿沼市立南押原中学校)入学。
山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月… 山田 定義(やまだ さだよし、1892年(明治25年)11月26日 - 1971年(昭和46年)11月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福岡県出身。山田定直陸軍大佐の長男として生まれる。松江中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を5番/117名の成績で卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。1916年(大正5年)12月から翌年まで航空術学生として学んだ。横須賀航空隊付、フランス駐在、横須賀航空隊分隊長、同飛行隊長、霞ヶ浦航空隊教官などを経て、1928年(昭和3年)12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業した。 連合艦隊参謀、軍令部第1班第2課参謀、同第2班第3課参謀、第1航空戦隊参謀、海軍省臨時調査課員、フランス大使館付武官、軍令部第3部第7課長、横須賀鎮守府付、「蒼龍」「加賀」の各艦長などを経て、1941年(昭和16年)10月、42期の一選抜組として少将に進級。
三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 … 三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 - 1951年4月22日)は、北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)出身で伊勢ノ海部屋(入門時は尾車部屋)に所属した大相撲力士。本名は小西 善七(こにし ぜんしち)。最高位は東関脇。明治時代以降初の北海道出身関取。 1892年11月26日に北海道爾志郡熊石村(現:北海道二海郡八雲町)で松前藩家臣、小西弥蔵の7人目の男児であることから「善七」と名付けられた。1901年に瀬棚に住んでいた兄に引き取られて運搬業を手伝っていたことで力が付き、米2俵を軽々持ち上げるほどの怪力で周囲を驚かせていたところ、地元の小料理屋「高砂」を経営していた相撲通の主人に見出され、力士を勧められた。
岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月… 岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月25日 - 1989年(平成元年)11月19日)は、日本の内務・厚生官僚。官選県知事、厚生次官、海軍司政長官。旧姓・吉岡。 島根県出身。島根県官房主事・吉岡謙太郎の三男として生まれ、岡田宇之助の養子となる。島根県立松江中学校、第一高等学校を卒業。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 1918年1月、東京府南葛飾郡長に就任。以後、岐阜県理事官・内務部地方課長、東京府理事官・視学官、内務書記官・都市計画局庶務課長、内務事務官・土木局勤務、土木局河川課長などを歴任。
中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月… 中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月25日 - 昭和33年(1958年)11月13日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。帝国キネマ創立期の大監督であり、独立後は奈良に撮影所を開き、牧野省三、直木三十五、実川延松、阪東妻三郎、志波西果らと共闘し、自社製作のほか、同撮影所を「貸しスタジオ」として経営した。本名中川 四平(なかがわ しへい)。 1892年(明治25年)11月25日、岡山県川上郡東成羽村(現在の高梁市成羽町)に生まれる。戦国時代の武将・中川清秀の子孫であり、父・増治郎は川上郡落合村の村長、川上郡の郡長を歴任した。旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を1910年に卒業、旧制第六高等学校に進学、在学中に同校「北寮」の寮歌を作詞した。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年(明治25年)11月25日 - 1965年〔昭和40年〕6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。
天牛新一郎(てんぎゅう しんいちろう、1892年11月25日… 天牛新一郎(てんぎゅう しんいちろう、1892年11月25日 - 1991年6月2日)は、明治時代後期から昭和時代の古書店主。 和歌山県伊都郡見好村(現・かつらぎ町)で生まれる。 1907年(明治40年)、大阪ミナミの二ツ井戸で露店の古本屋を始め、1915年(大正4年)、日本橋南詰東半丁で天牛書店を開店する。その後、古書店としては他に見られない品ぞろえと確かさで近畿在住の文化人の定評を得て、大阪府古書籍協同組合理事などを歴任し、1972年(昭和47年)に大阪産業功労賞、1974年(昭和49年)には大阪文化賞を受賞する。
中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11… 中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年〈明治25年〉11月23日 - 1965年〈昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手(内野手)・監督・野球解説者。パシフィック・リーグ元会長。 神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピック・マニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。 その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。
鈴木 重光(すずき しげみつ、1892年 <明治25年> 1… 鈴木 重光(すずき しげみつ、1892年 <明治25年> 11月23日 - 1978年 <昭和53年> 4月12日)は、日本の経営者。トーメン社長を務めた。 愛知県出身。1915年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に三井物産に入社。 1920年に東洋綿花(のちのトーメン)に転じ、1953年2月には社長に就任。1962年6月から1964年11月までに会長を務めた。 1959年10月に藍綬褒章を受章し、1965年4月には勲三等瑞宝章を受章。 1978年4月12日、老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - … 日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - 1964年9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県加茂郡古井村(古井町を経て現美濃加茂市)出身。古井町長、岐阜県会議員、同第41代副議長(1934年11月21日から1935年10月16日)、同第51代議長(1943年11月24日から1944年11月22日)、所得税調査委員、加茂郡町村会長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。戦後は1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治… 桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治25年)11月18日 - 1955年(昭和30年)2月28日)は、沖縄県出身の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 宜野湾間切大謝名(現宜野湾市)で、桃原正裕の長男として生まれる。沖縄県第一中学校、第五高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。その後、東洋拓殖 (株) に入社。同参事、同監事、同太田及び釜山支店支配人、日蘇石油販売 (株) 専務取締役などを務めた。 1934年、帰郷して那覇市松山町で弁護士を開業。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から出馬し、翼賛政治体制協議会の非推薦候補であったが当選し衆議院議員を一期務めた。
藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月1… 藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月16日 - 1977年(昭和52年)3月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた。 生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。
郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月… 郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月16日 - 1978年6月12日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家・文学者・考古学者・歴史学者。中国の近代文学・歴史学の開拓者の一人。 原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたる。字は「鼎堂」。執筆時に用いた筆名は多く、高汝鴻・麦克昂・易坎人・杜頑庶・杜衎などである。 1892年11月16日、当時は嘉定(路)と呼ばれていた大肚河沿いの沙湾という小さな町で生まれた。この町は現在、四川省楽山市の中心市街地となっている。郭が生まれた当時、沙湾は約180世帯が住む町であった。地主である郭家の8番目の子として四川省嘉定府楽山県に生まれる。郭沫若には出生にまつわる一つの逸話があり、母親が彼を身篭った際に不思議な豹の夢を見た経験から、「豹の生まれ変わり」として「文豹」と名付けられた。
大野 龍太(おおの りゅうた、1892年11月15日 - 1… 大野 龍太(おおの りゅうた、1892年11月15日 - 1957年2月6日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官。 神戸一中、第一高等学校、1917年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年、大蔵省入省。 1927年2月に大蔵省特別銀行課長兼蔵相秘書官に。のち蔵相秘書官兼首相秘書官を挟んで、特銀課長在任中の事柄を問われ訴追された(帝人事件)。そのため1934年5月から1937年12月まで休職。 帝人事件が検察側の控訴断念により終息したことで、1938年6月に理財局長に。翌年1939年1月から1940年7月まで次官を務めた。1942年4月から戦時金融金庫副総裁、1944年3月から1945年10月まで同・総裁に。
武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1… 武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1982年9月28日)は、日本の版画家。 岐阜県岐阜市出身。川端画学校で藤島武二に師事。大分師範学校教諭、大分大学教授として大分県の美術の発展に尽力すると共に、日本版画協会展、文展、日展、新日展に出品。1960年(昭和35年)には棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと「日版会」を創立した。1964年、光風会会員となる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治… 田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治25年〉11月13日 - ?)は、日本の政治家、資産家、実業家、埼玉県多額納税者。粕壁町会議員(立憲政友会)。東武商事代表取締役。粕壁町学務委員。粕壁町体育会会長。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)出身。先代・田村新蔵の四男。1910年、粕壁中学校(現・春日部高等学校)を卒業。1914年、早稲田大学大学部商科を卒業。同年麻布入隊、従七位陸軍二等主計。 粕壁銀行専務取締役、同行取締役を務め、一切の行務を統宰する。1936年、父・退隠の後を承け家督を相続し、前名・章四郎を改め襲名した。 農業並びに洋紙、砂糖、小麦粉販売業を営む傍ら、東武商事代表取締役および公職を務めた。
杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年… 杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年)11月13日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、大正・昭和期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・冷泉為由。 華族・冷泉為勇の長男として生まれ、男爵・杉溪言長の養子となる。1915年(大正4年)6月16日、由言と改名。養父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)10月1日、男爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、東京帝国大学文学部史学科(国史学)を卒業し、さらに1922年(大正11年)同法学部政治学科を卒業した。同年、東京電燈に入社した。また、歌会始講師、同奉行、御歌所参候などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。
朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11… 朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉7月11日)は、日本の海軍軍人(造兵科士官→技術科士官)。最終階級は海軍技術中将。魚雷設計の天才といわれ、酸素魚雷、特殊潜航艇の開発に貢献した。海軍技術有功章を受章。 兵庫県出身。東京帝大工学部造兵科を卒業。在学中に海軍造兵学生となり、卒業後、海軍造兵中技師(中尉相当)任官。海軍造兵科士官は兵器の設計開発にあたる将校相当官で、後に海軍造船科士官(造船にあたる)・海軍造機科士官(機関の造修にあたる)と合わせて海軍技術科士官と改称された。朝熊は造兵大尉時代まで呉海軍工廠に属し、魚雷部員、砲熕部員を務めている。
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉… 亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉11月10日 ‐ 昭和62年〈1987年〉4月7日 )は、日本の外務官僚、政治家。社会民衆党・大政翼賛会所属の衆議院議員。財団法人聖戦技術協会理事長。 旧津和野藩主亀井伯爵家分家・亀井茲迪の長男として東京に生まれる。弟は亀井凱夫(海軍少将、戦死)。茲迪の父(貫一郎の祖父)は谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井家分家の養子となり、亀井家分家を継いだ。 東京高等師範学校附属小学校、東京高等師範学校附属中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学進学。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年10月、外交官及領事官試験合格、外務省入省。
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 19… 前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 前田正隆・陸軍大尉の長男として岐阜で生まれる[要検証 – ノート]。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となる。1916年(大正5年)5月、陸軍砲工学校高等科(25期)を優等で卒業。陸地測量部員などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1922年12月、工兵第15大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)5月から1928年(昭和3年)12月までフィリピンに潜入。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 197… 山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 1972年6月27日)は、日本の小説家、染織家。 「草木染め」の命名者として知られる。 長野県東筑摩郡麻績村で善光寺街道麻績宿本陣臼井家の三男として生まれ、父の生家・山崎家の養子となる。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、国民英学舎を卒業後、京城日報の記者となったが、1922年作品を島崎藤村に賞賛され作家として歩み始めた矢先、昭和の大恐慌で郷里の養蚕業が打撃を受けたため帰郷。植物染を復活させ「草木染め」と名付け、「草木屋」を創設して編著書を刊行、のち月明会を興す。 息子に染色工芸家で群馬県指定重要無形文化財保持者の山崎青樹、孫に同じく染色工芸家の山崎和樹がいる。
小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1… 小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1972年11月7日)は、日本の政治家、実業家。厚生大臣(第27代)。参議院議員(3期)。 広島県尾道市久保町生まれ。1917年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、埼玉県川口町(現川口市)に移り住む。1920年に(株)国際重工業を創立し社長となる。発明家としても知られ、農家で使う「籾殻かまど」や「俵締機」などの新製品を開発し業績を伸ばした。取得した特許や実用新案は200以上にのぼるという。その他、川口コークス(株)、(株)寿屋を設立し会長となる。 社業のかたわら、川口鋳物工業協同組合理事長、川口工業健康保険組合理事長を務め、地元経済界の重鎮として活動するとともに、日本鋳物工業会会長、埼玉県経営者協会会長等も歴任した。
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 19… 田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士27期・陸大38期。最終階級は陸軍中将。 輜重兵科出身の陸軍中将14名の一人(輜重兵科から陸軍大将は出ていない)。戦後に67歳で中央大学法学部を卒業している。 愛媛県出身。農業・田坂儀平の長男。西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官、輜重兵第2大隊付。1926年(大正15年)11月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 陸大卒業後は、輜重兵第2大隊中隊長、教育総監部付勤務、陸士教官、留守第9師団参謀、第9師団参謀、陸大教官を経て、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令されて日中戦争に出征、さらに第2軍参謀となった。
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 … 平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。
寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月… 寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月8日 ‐ 1975年〈昭和50年〉1月12日)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 鏑木清方の門人。名は徳重、兵庫県明石郡明石町字樽屋町にて生れる。父は綿布問屋柿屋の当主寺島徳松、母は「とし」。上に二人の姉がいる三人兄弟の末っ子であった。幼少時は病弱で尋常小学校に通う頃から健康になったが、当時の男の子に似合わぬおとなしい気性で、姉たちとままごとなどしたりするのを母としは案じた。やがて徳重は九つになると読書に熱中するとともに、目に付くものをスケッチするようになり、十一になると『源氏物語』を原文で読破する。しかしこの徳重の様子に、親や姉また親類の者は将来を心配するばかりであったという。
神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年… 神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年7月13日)は、日本の政治家。愛知県小牧市長(3期)、衆議院議員(2期)、愛知県会議員(4期)、篠岡村長などを歴任した。 愛知県東春日井郡陶村(現小牧市)生まれ。1906年(明治39年)3月、小牧町小牧尋常高等小学校(現小牧市立小牧南小学校)卒業。 1929年(昭和4年)3月、篠岡村会議員に就任。その後、愛知県会議員、篠岡村長などを務め、1942年(昭和17年)10月8日から1945年(昭和20年)12月3日まで県会議長を務めた。 戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)… 湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)11月6日 - 1974年)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県伊具郡角田町(現在の角田市)に宮城商業銀行頭取湯村保治の二男として生まれる。1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。1918年(大正7年)に朝鮮総督府試補となり、道事務官、総督官房会計課長、土地改良課長事務取扱、土地改良部開墾課長を歴任し、1927年(昭和2年)に欧米各国に出張した。帰国後、忠清北道内務部長、殖産局農務課長、農林局農務課長、同農産課長を経て、1935年(昭和10年)に咸鏡南道知事となった。さらに京畿道知事を経て、1937年(昭和12年)に農林局長に就任した。
保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 196… 保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 1968年6月4日)は、日本の作家、翻訳家。『アサヒグラフ』編集長。竜緒という表記もある。本名は星野辰男。 モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン(リュパン)」シリーズの翻訳で知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。旧制東京外国語学校仏語科卒業。卒業後は文部省勤務。1918年、東京市神田区の書店で、ルブラン作「怪盗紳士ルパン」フランス語原書を見かけ、ユニークな題名にひかれて購入、読んでみたら保篠自身が内容の面白さに引き込まれ翻訳をしたと伝えられる。 文部省役人としての立場上、本名で翻訳活動にあたることを憚り、本名の漢字を入れ替えて筆名とした。
香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月… 香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月5日 - 1967年(昭和42年)6月17日)は、日本の獣医師、政治家。衆議院議員。 北海道出身。1913年、日本獣医学校を卒業。帰郷して獣医師を開業。 北海道会議員、同参事会員、空知馬商組合長、北海道獣医師会副会長、北海道馬商連合会副会長、新十津川村産業組合長、同農業会副会長、北海道自動車運輸取締役、北海道北方製薬会社取締役などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で北海道第一区から日本協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、協同民主党政調会運輸部長となった。