中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
巳:12,001人
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月1… 渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1971年〈昭和46年〉2月9日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県南埼玉郡日勝村長、川越市長。号に香井。位階は従六位。 素封家・渋谷浦吉の二男として、埼玉県南埼玉郡岡泉村(日勝村、白岡町を経て現白岡市岡泉)に生まれる。1914年(大正3年)明治大学法科を卒業し、1916年(大正5年)日勝村の名誉助役に就任する。ついで同村農会長、同村長を経て、1928年(昭和3年)埼玉県会議員に当選し、郡農会副会長、県農地委員などを兼ねた。 1942年(昭和17年)7月、地方事務所官制が施行されると民間人としては異例の地方事務官として北足立地方事務所長に登用された。
児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 -… 児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 - 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。
住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10… 住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10日 - 1976年(昭和51年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県吉舎町[要出典]出身。陸軍少尉住吉義夫の長男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第11連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 参謀本部員、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、留守第3師団参謀、気球連隊練習部長などを経て、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第3連隊長となり日中戦争に出征した。
小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 198… 小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 1987年3月3日)は、日本の商工官僚、経営者。茨城県出身。 1918年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、農商務省に入省。商工省で貿易局長や事務次官などを歴任。1941年に日本製鉄取締役に就任し、1945年には副社長に就任し、1946年に公職追放を受けて、辞任。1952年に八幡製鉄副社長として復帰し、1956年1月に社長に昇格した。社長在任時には、戸畑製鉄所や堺製鉄所の建設に尽力し、君津製鉄所への進出を決定し、業界の近代化を推進した。1962年5月に会長に就任し、1967年5月から相談役を務めた。 1970年から1974年までに日本銀行政策委員会委員を務め、日本鉄鋼連盟会長、経済団体連合会副会長、産業構造審議会会長なども歴任した。
鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1… 鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 197… 田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 1977年8月17日)は、日本史学者。 奈良県吉野郡白銀村(現・五條市)生まれ。奈良師範学校卒。奈良県で中学校教員など。1923年大和史学会、1931年大和国史会を創設。1934年雑誌『大和志』を発刊する。1935年近畿日本鉄道史料編纂室勤務、44年嘱託。1960年「大和条里制と条坊制の研究」で関西大学文学博士。1964年梅光女学院短期大学講師、同教授。1967年梅光女学院大学文学部教授。74年退任。号は節嶺。
山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治2… 山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治26年)2月6日 - 1944年(昭和19年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県米子市道笑町出身。山形金太郎の息子として生まれる。山形家は今は米子駅前の「山形屋みやげ店」になっているが、元は道笑町一丁目で線香や木蝋を製造販売した老舗で、屋号を山形屋といった。1906年(明治39年)駅前の現在地に移ってから、信州山十製糸の指導のもとに、座繰製糸を始めている。 米子中学(現在の米子東高校)では野球部。海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。1912年(大正元年)[元号要検証]、海軍兵学校に進んだ。
吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - … 吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - 1978年4月2日)は、日本の外交官。
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月… 近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任、1921年(大正10年)3月に助教授に就任。
押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月… 押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1985年〈昭和60年〉4月15日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(5期)。幕末出石藩家老、河合長孝の孫にあたる。 滋賀県東浅井郡浅井町(現・長浜市)出身。1916年(大正5年)関西大学法科を卒業。弁護士となる。 1931年(昭和6年)9月25日、大阪府会議員選挙に大阪市北区選挙区から立候補して当選した。その後、再選して1936年(昭和11年)1月25日に辞職した。1939年(昭和14年)9月25日に3選を果たした。1946年(昭和21年)12月29日から1947年(昭和22年)4月29日まで第40代大阪府会副議長を務めた。
由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉… 由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉2月3日 - 1965年〈昭和40年〉)は、日本の実業家。丸由百貨店専務取締役。由谷家4代目。 鳥取県鳥取市川端の呉服商・由谷節の長男。鳥取市立遷喬小学校を経て旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。呉服太物洋反物卸商を営む。1935年、家督を相続する。 1937年、米原章三と提携し、鳥取駅前にターミナルデパートとして丸由百貨店を設立し、由谷は専務に就任する。 趣味は野球、釣り。宗教は日蓮宗。住所は鳥取市川端4丁目。
池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 197… 池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 1974年7月17日)は、日本の経営者。三菱信託銀行社長を務めた。 奈良県出身。1918年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に三菱合資に入社。 1933年に三菱信託銀行に転じ、1945年10月に常務を経て、1946年12月に社長に就任。1959年5月に会長を経て、1965年5月に相談役に就任。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1974年7月17日、脳出血のために死去。81歳没。墓所は青山霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 … 和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。
雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 198… 雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 1985年11月14日)は、日本の箏曲家、彫刻家、ハープ奏者。本名は雨田 外次郎(あまだ ほかじろう)。福井県出身。 福井市に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)卒業。在学中に箏曲京極流始祖の鈴木鼓村に師事した。1920年に渡米、アメリカ合衆国とフランスで10年間にわたってハープを修業し、1926年にマルセル・トゥルニエに師事。彫刻家としても国際的に活躍し、「日本のロダン」と呼ばれた。1929年に帰国。日本ハープ協会顧問。箏曲京極流2代目宗家。絵画、詩、書、陶芸など幅広い分野で藝術活動をおこなった。1959年、中日文化賞受賞。
高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日… 高橋 坦(たかはし たん、1893年(明治26年)1月29日 - 1986年(昭和61年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。県会議員・高橋彜太郎の二男として生まれる。高松中学校(香川県立高松高等学校)卒、小学校代用教員を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業。1920年(大正9年)10月から1922年(大正11年)5月までシベリア出兵に従軍。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長に就任した。
松本 芳翠(まつもと ほうすい、1893年〈明治26年〉1月… 松本 芳翠(まつもと ほうすい、1893年〈明治26年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月16日)は、愛媛県伯方島生まれの日本の書家。 日本芸術院会員。本名・英一。字・子華。別号・樗盦・二葉・栖霞山人・來吉齋。法号・書海院徳藝芳翠大居士。 1907年(明治40年)今治中学校を中退、加藤芳雲に師事。1910年(明治43年)明治薬学校(現明治薬科大学)卒。1911年(明治44年)近藤雪竹に師事。1914年(大正3年)日下部鳴鶴に師事。 1916年(大正5年)日本郵船に入社。1921年(大正10年)「書海社」を設立し、競書誌「書海」を発行。1922年(大正11年)平和記念東京博覧会で、一等賞金牌受賞。
野中 徹也(のなか てつや、1893年(明治26年)1月29… 野中 徹也(のなか てつや、1893年(明治26年)1月29日 - 1943年(昭和18年)2月27日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。 埼玉県北埼玉郡大越村(現在の加須市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業し、ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ合衆国に留学し、政治学と経済学を学んだ。帰国後、高千穂高等商業学校(現在の高千穂大学)講師、時事新報記者などの職に就いた。 1928年、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その間、濱口内閣・第2次若槻内閣で安達謙蔵内務大臣の秘書官を務め、平沼内閣では文部参与官を務めた。
東 武蔵(あずま むさし、1893年1月29日 - 1970… 東 武蔵(あずま むさし、1893年1月29日 - 1970年2月9日)は、明治から昭和にかけての浪曲師である。本名は東常吉。 埼玉県川越生まれ、東京育ち。8歳の時、宝集舎栄楽門下の文楽の養子となり、栄楽門下で栄馬、13歳で真打となり少年浪曲師として活躍、1911年(明治44年)19歳の時、巖谷小波の命名で東武蔵を名乗る。噛んで吐き出すような節調「武蔵節」と才気縦横でアドリブも自在な滑稽は、全くの独流であった。朝刊のニュースを夕方の寄席で演題に入れ喝采を浴びる。寄席読みできめ細かな芸風、演出は奇抜を極めた。のちに落語家の立川談志がこよなく愛し、その演芸選集にも登場する。 戦後ラジオの浪曲番組での審査員としても活躍、1955年(昭和30年)脳出血で倒れ闘病生活を続けた。
矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1… 矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。無教会派キリスト教の指導者としても知られる。
森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月2… 森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月27日 - 1954年〈昭和29年〉12月6日)は、大正後期から昭和期の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 福岡県京都郡白川村(現・苅田町)で生まれる。1912年(明治45年)豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 法制局に入り法制局属に任官したが、鉄道省に転じ鉄道属となる。以後、鉄道局副参事、在外研究員、国際観光局書記官、鉄道局参事、鉄道省大臣官房保健課長、新潟鉄道局長を歴任し、鉄道調査部長で退官した。 その後、鉄道省嘱託、陸軍省嘱託、華中鉄道公司嘱託、大日本労務報国会厚生局長、同理事、恩給金庫評議員、鉄道会議議員などを務めた。
川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年… 川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名絲井川 清(いといがわ きよし、新漢字表記糸井川 清)、活動期の最後の数年に川田 弘三(かわた こうぞう)と名乗る。 1893年(明治26年)1月26日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田地区)に生まれる。 長じて長野に移り、1913年(大正2年)3月、旧制・長野県師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業、旧制小学校の教諭となる。その後、教職を辞して役者に転向し、1916年(大正5年)、東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東1丁目)の市村座で旧劇(歌舞伎)の舞台に立つ。1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社、同年5月11日に公開された『雪の夜話』(監督池田義臣)に出演して、満30歳で映画界にデビューする。
小牛田山 金太郎(こごたやま きんたろう、1893年1月26… 小牛田山 金太郎(こごたやま きんたろう、1893年1月26日 - 1964年2月15日)は、宮城県遠田郡小牛田町(現在の美里町)出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は佐々木 金太郎。165cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。 1913年1月初土俵、1918年5月十両昇進。1919年5月新入幕し、1923年5月に廃業した。小兵ながら稽古熱心で、渡し込みや足取り等の奇手を多用し、10年で前頭2枚目まで進んだ。親思いの力士で、廃業後は両親と共に農業に従事した。
石坂 繁(いしざか しげる、1893年(明治26年)1月24… 石坂 繁(いしざか しげる、1893年(明治26年)1月24日 - 1972年(昭和47年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)。熊本市長(3期)。 熊本県合志郡西合志村(菊池郡西合志村、西合志町を経て現合志市)出身。熊本県立中学済々黌、旧制五高を経て東京帝国大学法学部を卒業。 1936年の総選挙で熊本1区から国民同盟で立候補し、初当選。以後、途中公職追放によるブランクや落選を挟んで通算6期衆議院議員を務めた。 国政の傍ら、1945年には第12代熊本市長を兼任し翌年まで1期務め、また高橋守雄の懇請によって東洋語学専門学校の初代理事長となる。1958年の第2次岸内閣では農林政務次官を務めている。
大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治… 大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 195… 嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 1950年4月11日)は日本の俳人。本名は襄。三重県志摩郡的矢村大字的矢(現在の志摩市磯部町的矢)出身。的浦の号は、故郷・的矢が小さな港(浦)を成していることにちなんでいる。嶋田青峰の弟であり、句作の才能は兄の青峰を上回っていたと評されている。 地元の三重県立宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)を卒業し上京、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に進学、卒業。 俳人としての活動は、兄の青峰よりも熱心で、1915年(大正4年)の俳句雑誌『ホトトギス』3月号に4句が入選して以降、毎月2、3句が掲載され、同年の10月号と11月号に5句が載った。
石川 錬次(いしかわ れんじ、1893年1月22日 - 19… 石川 錬次(いしかわ れんじ、1893年1月22日 - 1945年7月8日)は、日本のドイツ文学者。 東京都出身。東京帝国大学独文科卒。 立教大学教授、第六高等学校教授、第八高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、1929年府立高等学校教授。
山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1… 山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 警察署長・山崎重光の長男として生れる。海南中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業。席次は入校時120名中16番、卒業時118名中20番。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、海軍潜水学校教官、「第13潜水艦」艦長、第2潜水戦隊参謀などを歴任。1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。第一次世界大戦末期に第二特務艦隊に配属となり、戦利潜水艦の回航に携わる。 「呂号第18潜水艦」・「呂号第67潜水艦」の各艦長、第1潜水戦隊参謀、潜水学校教官、海大教官などを歴任。
大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 19… 大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 1951年10月20日)は、日本の大正から昭和前期にかけて活動した弁護士。 愛知県海部郡佐屋村(現在の愛西市)出身。愛知県第三中学校(現在の県立津島高校)を経て日本大学に入学し、1920年(大正9年)に弁護士試験合格、岡崎正也法律事務所に3年間在籍ののち帰郷し、1923年(大正12年)に名古屋市で個人事務所を開設する。 以降、名古屋市会議員を務めるなど中京圏の法曹界における重鎮とされ、スポーツ全般への造詣の深さから1936年(昭和11年)に新愛知新聞社が結成した職業野球チームの名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)設立に当たっては社外から会長として迎えられた。
南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - … 南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - 1980年7月14日)は、日本の児童文学・冒険小説・ノンフィクション作家、翻訳家。教員としては東京府東京市牛込区余丁町尋常小学校などで訓導を務めた。 東京府西多摩郡東秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。本名は池田宜政(いけだ よしまさ)。南洋一郎以外にも荻江信正(おぎえ のぶまさ)などの筆名や本名を用い、数々の著作を発表した。 東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒業。1915年にカトリックの洗礼を受ける。 12歳で父を亡くし、高等小学校卒業後、学校からの紹介で小石川の商家に住み込み奉公へ出る。働く合間に独学で学んでいたが、約1年で体調を崩してしまい、帰郷する。
林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970… 林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970年9月8日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1917年に名古屋高等工業学校を卒業。三井物産、豊田自動織機での勤務を経て、1943年にトヨタ自動車工業取締役に就任し、1949年12月には日本電装社長に就任した。1967年3月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等瑞宝章を受章した。 1970年9月8日脳軟化症のために死去。77歳没。
小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1… 東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の政治家、医学者、厚生官僚。東京大学名誉教授。位階は正三位。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)などを歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。 父は医師の東藤九郎。弟は野球選手の東武雄。武雄は東大野球部の投手として活躍し、龍太郎はボート部の選手として活躍した。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。 大阪府大阪市中央区久太郎町に、医師の東藤九郎の長男として生まれる。
八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15… 八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15日 - 1980年(昭和55年)6月9日)は、日本の教育者・植物研究家。教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県の理科教育に貢献した。また、教員として勤務するかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクやツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている。 1893年(明治26年)1月15日、愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた。農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった。1908年(明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校)高等科を卒業すると、越智郡岩城村の岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年(明治43年)に同校に合格、入学した。
細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉… 細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉1月12日 - 1964年〈昭和39年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、埼玉県議会議員(1期)、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県高麗郡飯能町(のち入間郡飯能町、現:飯能市)で生まれる。埼玉県立川越中学校を中退。 1908年(明治41年)、織物製造業を継いで細田織物工場を設立した。その後、埼玉染絨取締役、埼玉県農業会理事、所沢毛織物工業所代表取締役、武蔵織物工業所代表取締役、武蔵織物工業協同組合常務理事、関東羊毛工業協同組合理事長、飯能商工会議所会頭、武蔵織物社長、西部編織社長、所沢毛織会長などを務めた。 政界では、飯能町会議員を務める。
大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - … 大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。 1893年(明治26年)1月11日、東京府(現・東京都)に生まれる。 大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現・東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、幕府の御家人出身で、小牧(こまき)が本姓であった。熊本藩出身の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。 元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、 「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> … 鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> 1月11日 - 1980年 <昭和55年> 8月21日)は、日本の経営者。位階は正四位。 静岡県磐田市出身。1918年に東京高等商船学校を卒業。日本郵船での勤務を経て、1935年に日本捕鯨(のちの日本水産)に入社し、1950年には社長に就任。1951年には会長も兼務し、1963年には相談役に退いた。 1960年5月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1980年8月21日急性心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10… 石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第26期、東京帝国大学工学部火薬学科卒業。1932年(昭和7年)に陸軍造兵廠火工廠研究課長に就任し、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所に転じた。1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠火工廠技術課長に着任。1939年(昭和14年)3月に兼陸軍造兵廠火工廠検査課長を経て、1940年(昭和15年)1月20日に陸軍燃料廠附となる。 同年8月1日に陸軍燃料廠整備部長兼研究部長に就任し、1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級した。
井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年… 鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年)1月7日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、石川県議会議長。 石川県石川郡上金石町(金石町を経て現金沢市金石)で生まれる。1911年(明治44年)京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業した。 商社などで勤務。1927年(昭和2年)北陸自動車商会を設立し、取締役支配人に就任。その他、石川合同自動車社長、朝日車輛代表、金沢交通専務取締役、石川交通社長、石川日産自動車販売社長、朝日物産社長、大阪光タクシー社長、大阪尼ケ崎自動車工業社長、石川定期運輸社長、大阪中央自動車工業会長、大阪宝タクシー取締役、北国証券金融取締役、北陸放送取締役、金沢商工会議所常議員などを務めた。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日… 島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。
馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年… 馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年10月5日)は、医師・産児制限運動家。 愛知県出身。愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)卒。旧姓は浜田。通称は僴(かん)。新聞ではドクトル馬島として取り上げられた。賀川豊彦に共鳴して神戸で医療救済活動にあたる。1920年(大正9年)欧米に留学して産児調節を学ぶ。1928年(昭和3年)、太田慶太郎、その妻太田操らとともに、解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を創設、東京市本所松倉町に労働者診療所を開設、1929年(昭和4年)東京市議。1930年(昭和5年)東京市芝公園5号地に愛児女性協会が設立した産児制限相談所に参画。第二次世界大戦後も産児調節運動を推進した。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994… 操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994年9月11日)は、日本の医学者、内科学者、感染症学者、ウイルス学者。臨床医学の日本における紹介者で、ウイルス性疾患研究の第一人者だった。九州大学名誉教授、日本感染症学会名誉会員。 鹿児島県の沖永良部島の現・和泊町出身。代々村長かつ学者の家系だった操家に生まれる。名前の由来は王陽明の「信歩行来皆坦道」。西郷隆盛が沖永良部島に流刑になった際は祖父・操坦栽が世話をし、隆盛が父の操坦勁のために書いた家族生活の心得や曾祖父の操坦晋が遺した家訓「清慎」のもと、坦道は育てられた。1906年4月に鹿児島市の鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学。同校の寄宿舎「成徳寮」で暮らす。
武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1… 武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1日 - 1958年(昭和33年)1月19日)は、日本の内務官僚。秋田県知事、関東局総長、企画院総裁心得、満洲国総務長官。 本籍・石川県。旧加賀藩士・長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中、第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。 1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官・都市計画局、帝都復興院書記官・同建築局庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長、復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。
小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1… 小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1979年1月5日)は、日本の商法学者。専門は海商法。学位は法学博士(東京帝国大学)。東北大学名誉教授。 長野県出身。旧制第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法科卒業。東京地方裁判所判事を経て欧米各国に留学し帰国。1924年(大正13年)東北帝国大学教授。1929年(昭和4年)法学博士(東京帝国大学)。第二次世界大戦後は東北大学教授、1956年まで務め名誉教授。退官後は法政大学、次いで愛知学院大学で教授を務める。戦前に旧法制審議会幹事、戦後に法制審議会商法部会委員を務めた。 二高時代には阿波研造の下で弓道を嗜み、東北帝大教授時代には、『弓と禅』で知られるオイゲン・ヘリゲルと阿波の通訳を務めた。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。