水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、… 水野 敏雄(みずの としお、1893年 - 1981年)は、日本の教育学研究者。島根大学第4代学長。 東京市に生まれる。1911年、第一高等学校入学、1914年、東京帝国大学文科大学哲学科入学。1920年、山口高等学校(現・山口大学)教授。1927年、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授。1937年、文部省教学局指導部指導課長。1945年、岡崎高等師範学校(現・名古屋大学教育学部)校長。1950年に公職追放を受ける。日本育英会理事、理事長を経て、1962年から1968年まで島根大学学長。
佐々木 周一(ささき しゅういち、1893年 - 1982年… 佐々木 周一(ささき しゅういち、1893年 - 1982年)は、日本の実業家。三井船舶代表取締役社長や、日本船主協会会長、日本海難防止協会会長等を歴任した。 1893年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業、三井物産入社。イギリス駐在等を経て、1942年三井船舶専務取締役。1944年三井本社代表取締役常務理事。日本の降伏後1945年三井船舶代表取締役社長に就任。1946年には日本船主協会会長も兼務したが、同年公職追放となり退任。1962年三井ライン興業取締役。1968年から日本原子力船開発事業団理事長を務め、むつの開発などを進めた。日本海難防止協会会長、海上安全審議会会長なども歴任した。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。 1893年(明治26年)、香川県高松市に生まれた。本名は良助。小学校時代、竹内流腰廻を竹内緑に、無相流柔術を松井三蔵に、直心影流剣術を井上正広に学ぶ。中学校時代には、柔道を岡野好太郎に、竹内流を竹内兵衛に、剣道を上原宗九郎、植田平太郎(天真正伝神道流)らに学んだ。 1913年(大正2年)、慶應義塾大学部理財科に入学。剣道部に入り、真貝忠篤(窪田派田宮流)に学ぶ。また中山博道の道場・有信館に入門して神道無念流剣術を修行した。
市橋 鐸(いちはし たく、1893年(明治26年) - 19… 市橋 鐸(いちはし たく、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、愛知県犬山出身の郷土史家。 1893年(明治26年)、犬山藩成瀬氏に仕える御典医をしてきた鈴木家に鈴木鐸麿として生を受けた。國學院大學卒業後、函館商業学校で教鞭を執る。1920年(大正9年)、一宮の市橋家の養子となる。1927年(昭和2年)、小牧中学校に移る。同校において郷土室に勤め、郷土資料写真集を発行するなど、郷土歴史教育に取り組んだ。また、このときの教え子に後に郷土史家となる水谷盛光がいる。1941年(昭和16年)、名古屋市の依頼により、『名古屋叢書』の編纂に携わることとなった。この編纂事業の途中、名古屋大空襲などの困難はあったものの、1949年(昭和24年)に完成し、1959年(昭和34年)に発刊された。
横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、… 横山信二(よこやま しんじ、1893年 - 1939年)は、日本の造園家。官庁造園技師として活躍し、関東大震災後の東京の隅田・浜町・錦糸の三大復興事業公園、東京緑地計画、東京の風致地区策定等に対し大きな業績を残した。福井県生まれ。 第八高等学校 (旧制)を経て、1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部農学科第一部を卒業し、この年10月明治神宮造営局外苑課に入局した。翌年工務課に移り、1924年、造営局技手となった。神宮内外苑工事完了後に帝都復興事業がはじまり、1925年、内務省復興局技手となる。1927年(昭和2年)には復興局技師に就任。 1930年(昭和5年)、復興局官制廃止による復興事務局設置により、1932年の復興事務局官制廃止までは内務省東京地方委員会技師兼復興事務局建築課技師を拝命し、その後内務省都市計画地方委員会技師として専念するが、1938年から病で倒れ翌年47歳で天逝した。
松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本… 松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本の文筆家、詩人、翻訳家。筆名に松山 敏(まつやま さとし)。 宮崎県生まれ。金星堂に勤務し、1921年雑誌『人間』の編集長を務め、作家たちと交友。1930年東京外国語学校卒業。 松山敏の名で詩集や詩の翻訳本などを刊行するが、原典訳ではないものも多い。一時期、同人誌『銀皿』を刊行。 戦時中は時局的な著作を悦三の名で多く刊行、戦後も敏名義で活動するが、悦三名義で往年の作家の思い出などを綴った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日… 大塚 豊美(おおつか とよみ 1893年-1978年)は、日本の医学博士、歯科医師、教育者。配偶者の須磨は星野元治の五女。 1893年、群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市)に生まれる。1913年、東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業。はじめ静岡県で歯科医師として活動を開始し、後に山梨県に移り山梨県歯科医師会長に就任した。その後ドイツに留学し、クルップ社の開発した歯科金属材料技術、ウイプラ(Wipla)床圧印を同社とのライセンス契約に基づいて日本に導入した。1929年には日本歯研工業株式会社の前身である大日本歯科技術研究所を東京都品川区大崎本町(現品川区西五反田)に開設。1972年には東京歯科大学の協力の下に歯科技工士養成のため東京歯科技工専門学校を開校。
河村 只雄(かわむら ただお、1893年 - 1941年)は… 河村 只雄(かわむら ただお、1893年 - 1941年)は、日本の社会学者。 山口県熊毛郡勝間村生まれ。1920年同志社大学第二神学部卒業。満州大連のYMCA勤務。キリスト教徒であり、渡米しシカゴ大学神学部入学、社会学に転科、24年卒業。大学院に学び28年社会学博士。同年帰国、文部省専門学務局学生調査課嘱託、学生思想問題の調査にあたる。 1929年立教大学文学部教授。立教大学では社会学と英語を教えたが、当時の自宅は目白の関口台町(現・文京区関口)にあり、自宅に招いた学生らにすき焼きをよくご馳走していた。 1932年国民精神文化研究所発足と同時に所員(兼任)。1936年から沖縄、南西諸島、台湾の民俗学的調査を行う。
阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不… 阿部 三郎太郎(あべ さぶろうたろう、1893年 - 没年不詳)は、日本の数学者、教育者。立教大学予科教授、立教大学学生主事。立教大学体育会水泳部の部長としてプールの建設に尽力し、多くのオリンピック選手を育てるなど「立教水泳の恩人」と知られ、熱心なクリスチャンでもあった。 1893年生まれ。1924年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1927年、立教大学予科に着任し、予科教授として数学を講じた。 1929年に立教大学体育会水泳部部長に就任。部長となった阿部はプールの建設のため、建築費の資金調達に水泳部OBの本井の協力も得て尽力した。建築費3万円のうち1万円は校友からの募金で得られ、残り2万円は銀行から借入れし、阿部と水泳部OBの野村憲夫らが保証人となって調達された。
李 東華(イ・ドンファ、이동화、1893年 - 没年不詳)は… 李 東華(イ・ドンファ、이동화、1893年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮と日本で社会運動をしていた人物。江原道通川郡出身で、李慶圭(イ・キョンギュ)という別名もある。日本名は李家實(りのいえ さとる)。 日本大学に在学中であった1920年8月、京城日報の後援で開催された東京学生朝鮮視察団巡回講演会の講演者として活動し、同年9月には青年内鮮融合会で活動した。1922年、東京で内鮮融合と黄色人種の団結を目的とした出版社である黄人社を設立し、発行人兼編集者、社長を務め、1920年代から1930年代まで日本と朝鮮を巡りながら、内鮮融合と内鮮一体をテーマとした講演を行った。 1932年12月、黄人社の機関誌『黄人公論』を創刊した。
帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965… 帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965年)は、日本の教育者。立教大学学監、旧制立教中学校校長、立教学院理事。立教を廃校にしようと画策した配属将校や軍部の迫害から立教を護った人物として高く評価されている。北辰一刀流の剣豪、千葉周作の曾孫、旧名は千葉秀三郎。 1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる。 父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた。 兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学。 1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学。
石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 197… 石川 丹八郎(いしかわ たんぱちろう、1893年 - 1979年)は、名古屋市南区笠寺に生まれた作家、占い師。 当地に伝わる伝説・昔話、歴史上の人物などを調べる郷土史家であったという。また、趣味として易を為した。名古屋市南区鳥山町2丁目の私有地に丹八山と命名し、公園として整備。丹八山公園として、名古屋市に寄贈したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、愛知県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/愛知県)。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐196… 尾中 蘆山(おなか ろざん、1893年(明治26年)‐1963年(昭和38年))は大正時代から昭和時代の日本画家。
島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - … 島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年))は、日本の交通経済学者。商学博士。 早稲田大学名誉教授。第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。初代日本私立大学連盟会長(1951年 - 1955年)。 東京麹町の番町(現・千代田区四番町)で生まれた。島田三郎の長男。父・三郎は民権運動の功労者で、衆議院議長に挙げられた。 1906年に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)、1911年に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 198… 嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 1982年1月24日)は、日本のロシア研究家・アナリスト。石川県出身。 1911年、金沢第一中学校を卒業。石川県の県費留学生として選抜され、日露貿易のために必要なロシア語を習得するため、ウラジオストクで語学研修を行う。この時、一緒に留学生に選抜されたのが宮崎正義(石原莞爾のブレーンとなる)である。 1914年、南満洲鉄道株式会社の社費留学生となり、モスクワの大学を経て、1916年にペテルブルク大学に入学。哲学・ロシア史を学ぶ。1917年、ロシア2月革命に遭遇し、7月に帰国。その年、南満洲鉄道株式会社に入社し、東京支社東亜経済調査局(後に調査部)に所属する。
平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年)… 平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年) - 1918年(大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎の長男で、佐次郎から一旦平田家の家督を継承し、平田紡績の3代目社長も務めた。スペイン風邪の病死者である。 2代目平田佐次郎とたきの長男として、三重県三重郡富洲原村の富田一色本町(現在の四日市市富田一色地区七軒本町)で出生した。祖父は、平田紡績創業者の初代平田佐次郎である。初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「佐十郎」を名乗った。8男4女の12人兄弟であり、母親の平田たきは吉川家出身で、最後に平田佐貞などの双子の男子を出産をした際に体調が悪化して病死した。
中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は… 中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は、日本の実業家。中北製作所の創業者。 1893年、大阪天満宮の近くで江戸時代より扇屋庄兵衛を代々名乗る、呉服や質屋を営む家の三男として生まれる。1912年、旧制都島工業学校(現・大阪府立都島工業高等学校)機械科を第一期生として卒業。その後、専売局(現・日本たばこ産業)へ入社し機械設計に従事。1930年、中北製作所を創業。以後、新製品の開発に取り組み中北製作所の基礎を固める。1965年、死去。
横山芳介(よこやま よしすけ、1893年〈明治26年〉 - … 横山芳介(よこやま よしすけ、1893年〈明治26年〉 - 1938年〈昭和13年〉1月30日)は、日本の作詞家。農林省技師。東京出身。
和田 精(わだ せい、1893年(明治26年) - 1970… 和田 精(わだ せい、1893年(明治26年) - 1970年(昭和45年))は、音響演出家。日本における音響効果の創始者であり、築地小劇場では創立メンバーの一人として音響や照明を担当した。イラストレーターの和田誠の父。ロックバンド・TRICERATOPSの和田唱の祖父。
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - … 伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。
宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月… 宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月15日)は、日本の薬学者(薬品化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1931年)。岐阜薬科大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 富山薬学専門学校教授、岐阜薬学専門学校校長(第2代)、岐阜薬科大学学長(初代)、静岡県立薬学専門学校校長(初代)、静岡薬科大学学長(初代)、大阪薬科大学学長(第3代)、学校法人大阪薬科大学理事長(第5代)、岐阜女子大学学長(第2代)などを歴任した。 薬品化学を専攻する薬学者である。アミノ酸誘導体の研究で知られている。富山薬学専門学校にて教鞭を執るなど、後進の育成に努めた。岐阜薬学専門学校の最後の校長を務め、同校を母体とする岐阜薬科大学でも初代学長に就任するなど、数十年にわたって同校のトップを務め、岐阜県の薬学の振興発展に尽力した。
鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、189… 鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、1893年または1901年6月27日 - 1965年1月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、初代慶尚北道知事、第4代忠清北道知事を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。号は白下(ペカ、백하)。 慶尚北道安東郡出身。早稲田大学卒。新幹会安東支会長を経て、解放後は朝鮮日報主筆、時代日報主筆を務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、同年10月19日に慶尚北道知事に任命されたため議員を辞職した。以後初代慶尚北道知事(1948年10月18日~1950年1月23日)、第4代忠清北道知事(1952年9月~1953年11月)、自由党政務委員長、民友党結党発起人を務めた。
齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) -… 齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年)4月6日)は、日本の教育者。藤島町教育委員会教育長、山形県東田川郡校長会長、山形県連合小学校長会評議員、栄典・称号は、従五位・勲五等・双光旭日章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 197… 永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12… 久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12月29日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の産婦人科学者である。 神奈川県横浜市金沢区に生まれ、岩手県盛岡市にて育つ。盛岡中学卒業。東京帝国大学医科大学に入学し、1906年(明治39年)に同大学を卒業した。卒業後は留学のため渡米し、帰国後は母校の東大医科大学の副手や盛岡市に所在する岩手病院(現在の岩手県立中央病院)の産婦人科の科長として活動する。その後は朝鮮総督府に渡り同府が運営する医院の副医官や、1916年(大正5年)には京城医学専門学校にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)には医学博士を取得し、翌々年の1923年(大正12年)より旧制の金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の教授として活動する。
青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)… 青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)12月26日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、明石市長。弁護士。 岡山県浅口郡富田村(現在の倉敷市)に尾藤廉平の三男として生まれ、青木与八郎の養子となった。1912年(大正元年)、弁護士試験に合格。翌年に中央大学法科を卒業し、弁護士を開業。後に神戸弁護士会会長に選ばれた。1920年(大正9年)、明石市会議員に選出され、議長に当選した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回、第19回でも再選された。1937年(昭和12年)、明石市長に就任した。1946年(昭和21年)、明石市長を辞任した。
倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月2… 倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月25日 - 1938年〈昭和13年〉11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。 自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。 埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。 1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日… 真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉6月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→民主自由党→自由党)、司法参与官。弁護士。 徳島県美馬郡貞光村(現在のつるぎ町)に武田嘉六の子として生まれ、真鍋儀平の養子となった。第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。1923年(大正11年)、京都帝国大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。大倉喜八郎の顧問弁護士も務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。第20回まで4回当選を果たした。その間、阿部内閣で司法参与官を務めた。 戦後は第24回衆議院議員総選挙に当選した。
田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1… 田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1965年2月25日)は、日本の植物学者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。明治35年(1902年)長野県師範学校在学中のに信濃博物学会創設に参画し、編集主任として「信濃博物雑誌」の発行にあたった。また東宮(のちの大正天皇)の巡幸により同校を訪れた際には、予め採集したトガクシショウマ(トガクシソウ)を献上した。同36年(1903年)卒業、上水内郡古牧小学校訓導となる。同37年(1904年)牧野富太郎の斡旋により東京帝国大学農学部実科の池野成一郎の助手となった。大正2年(1913年)帝国駒場農園が設立されると、技術長として農産物種子検査や苗木の育成、全国の小学校の学校植物園の普及事業に従事した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1943年〈昭和18年〉4月3日)は、実業家、2代豊橋市長。 1881年(明治14年)12月24日、愛知県八名郡賀茂村の竹尾準の次男、竹尾茂彦として生を受ける。札幌農学校卒。 1907年(明治40年)、豊橋市船町の問屋業高橋小十郎(久助)の養子となる。 1912年(明治45年)、初代豊橋市長大口喜六の後を継ぎ2代市長に就任する。 1913年(大正2年)、飯村溜池不正事件の責を負い辞任。先代の大口市長も疑獄事件に関連して辞任したが、結局2代続けて市政の不正事件に関連して市長が辞任する事態となった。 1918年(大正7年)、実父である竹尾準の後任として三遠銀行頭取に就任し、同年豊橋商業会議所会頭にもなる。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月… 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月21日 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。 かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月1… 乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。
木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月… 木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月14日 - 1943年〈昭和18年〉10月20日)は、日本の工芸家、家具デザイナーである。高等官二等正四位勲四等。 群馬県吾妻郡久賀村須川(現・利根郡みなかみ町須川)の生まれ。父は新治村初代村長を務めた木檜仙太郎。 1902年(明治35年)群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)を卒業し、多野郡吉井尋常高等小学校訓導として勤務する。東京高等工業学校(現・東京工業大学)に入学し、教員養成所建築科に所属する。1908年(明治41年)卒業。 卒業後は同校の助教授として活動し、後大学時代に木檜が所属した室内装飾科の研究会である「樫葉会」(後の木材工芸学会)の創設に携わり同時に会長を務めた。
奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12… 奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12月10日 - 1959年(昭和34年)2月4日)は、日本の医学者。専門は細菌学。神奈川県中郡秦野町(現・秦野市)出身。 血脇守之助に師事する。東京歯科医学専門学校校長、東京歯科大学学長・東京歯科大学理事長などの要職を歴任した。 妻は澤田半之助の娘。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月… 井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月9日 – 1966年(昭和41年)2月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、外務政務次官。大阪府岸和田市長。弁護士。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現在の岸和田市)に衆議院議員井阪光暉の長男として生まれる。1910年(明治43年)、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回、第16回と当選を重ねた。その後、岸和田市長に選出された。 1932年(昭和7年)には第18回衆議院議員総選挙で返り咲きを果たした。
常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8… 常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の海軍軍人。軍令部、艦隊、鎮守府、要港部などの参謀職を歴任した海軍少将である。 福島県出身。父は旧会津藩士・常盤盛敦。会津中学5回生で外務省顧問・斎藤良衛、樺太庁長官・岸本正雄は同級生である。1899年(明治32年)海軍兵学校入校(30期)。二年次に学術優等章を授与される。1902年(明治35年)卒業。席次は187名中5番。 「初瀬」乗組みとして日露戦争を迎えたが、同艦は1904年(明治37年)5月15日に旅順港外において触雷し沈没。その際常盤は初瀬の艦載水雷艇を指揮し、哨戒のため裏長山列島に赴いていた。
新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月… 新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月8日 - 1952年(昭和27年)9月1日)は、日本の実業家。元・東京電力会長。元・日本発送電総裁。 埼玉県大里郡大麻生村(現熊谷市)に篤農家だった新井健吉の長男として出生。1905年に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業。秩父鉄道勤務を経て日本鉄道に入社するも病気で退社し、加療の後に義父の葉住利蔵が経営していた利根発電へ1913年に入社して取締役支配人となる。1921年に利根発電が東京電燈に吸収合併されてからは前橋支店長から本社で営業部次長となり1933年に取締役営業部長に就任してから常務取締役(1936年)・副社長(1937年)を歴任した。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日… 馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日 - 1944年(昭和19年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、門司市長。 現在の熊本市出身。第五高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、内務省に入省し広島県属となる。 以後、広島県事務官補、警視庁方面監察官、福井県理事官、群馬県警察部長、群馬県内務部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1923年10月、青森県知事に就任。農水産業の振興に尽力。1924年6月、休職となる。同年に退官した。その後、門司市長、侯爵細川護立家家扶を務めた。
岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月… 岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月2日 - 1947年(昭和22年)11月19日)は、日本の政治家、実業家。 岩手県盛岡市出身。明治法律学校と専修学校で学ぶ。実業界に進み、盛岡新聞社を創設した他、岩手銀行支配人、扶桑新聞社政治経済部長、大阪新報社政治部長兼外交部長などを歴任した。 1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に栃木県第二区で立憲政友会から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。1934年2月に立憲政友会から第一控室に移る。1935年3月には尾崎行雄、床次竹二郎らと院内会派「無所属室」を結成し、加入する。1936年の第19回衆議院議員総選挙では栃木県第一区から中立(無所属)で出馬したが、最下位で落選した。
岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月… 岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月1日 - 1956年(昭和31年)6月29日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 素封家・岩崎彦左衛門の長男として、のちの静岡県安倍郡麻機村(現静岡市葵区)に生まれる。26歳にして麻機村農会長に選ばれ、安倍郡農会幹事を経て、30歳の時、麻機村長に就任する。さらに翌年、安倍郡農会長を経て、静岡県会議員に当選。ついで33歳の時、静岡県柑橘組合連合会長に推された。ほか、日本農具、静岡賤機焼陶業、日本山羊各社長を歴任した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12… 海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月6日)は、日本の政治家、政治活動家。衆議院議員(2期、政友会→政友本党)。 1881年(明治14年)、兵庫県神戸市に生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業し、徳島県庁に入る。その後、神戸新聞の記者を経て、徳島県の属官時代に同県知事であった床次竹二郎の知遇を得ていたことで、床次が鉄道院総裁に就くと、その秘書に抜擢される。 内務大臣秘書官に就任した後、第14回衆議院議員総選挙(1920年(大正9年))、第15回衆議院議員総選挙(1924年(大正13年))に徳島1区から出馬し、当選する。 農商務省山林払い下げにおける詐欺事件で1926年(昭和元年)12月28日、東京控訴院から懲役8月執行猶予1年の有罪判決、1927年(昭和2年)4月19日、大審院で上告棄却され、確定となり議員失職。
長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年… 長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年)12月1日 - 昭和43年(1968年)11月25日)は最高裁判所判事。弁護士。第一東京弁護士会会長。