西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明… 西郷 市之助(さいごう いちのすけ、1869年5月15日(明治2年4月4日)- 1944年7月17日)は、長崎県南高来郡西郷村(のち瑞穂村→瑞穂町、現・雲仙市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した明治時代の元大相撲力士。本名は森崎 常太郎。年寄3代陸奥。175cm、100kg前後。 伊勢ノ海部屋に入門し、1894年5月序ノ口。1895年1月序二段、1896年5月三段目、1897年5月幕下と順調に昇進し、その後病気により一時低迷するが、1901年5月新十両。連続15場所十両を務め、十両筆頭まで進むも入幕はならず、1909年1月幕下に陥落し引退。年寄陸奥となる。 立派な体格で、力量もあり、鳳凰などの薫陶を受けたが、小心のため土俵で不覚をとることが多く、幕内に昇進できなかった。
清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明… 清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明治2年4月1日) - 1926年9月15日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選県知事、復興局長官。 香川県高松出身。高松藩士・清野彦三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1895年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。富山県参事官、神奈川県参事官、内務省地方局町村課長などを歴任。 1906年1月、秋田県知事に就任。同年11月、南満州鉄道理事に転じた。1916年4月、兵庫県知事に発令され、1919年4月まで在任。在任中の1918年(大正7年)8月には、神戸市内で米騒動(1918年米騒動)が激化。
吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年… 吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年3月27日) - 1930年(昭和5年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。 1869年(明治2年)5月、肥後国(現・熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。済々黌卒業。1891年(明治24年)海軍兵学校18期を卒業し、海軍少尉となる。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。「富士」回航委員などを経て、1901年(明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐となり、日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。1912年(大正元年)大喪儀海軍事務委員、海軍演習審判官となる。
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明… 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉- 1932年〈昭和7年〉2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9・11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。位階は従二位。 帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869… 中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 1945年(昭和20年)2月2日)は、日本の検事。 東京府出身。1892年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所判事、函館地方裁判所判事、函館控訴院検事、東京地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、東京控訴院検事、函館地方裁判所検事正を歴任した。1907年(明治40年)、統監府判事に転じ、京城地方裁判所長となり、さらに朝鮮総督府検事となり、京城控訴院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1920年(大正9年)に高等法院検事長に就任した。 1945年(昭和20年)2月2日、東京都世田谷区の自宅で死去、75歳。
橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(186… 橋本 卯太郎(はしもと うたろう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和13年(1938年)7月7日)は、日本の実業家。大日本麦酒(現・サッポロビール)の常務取締役を務めた。酵母を扱う技師から常務に出世した、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人である。東京府平民。 厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の父。内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎の祖父。衆議院議員の橋本岳の曾祖父。 橋本源三郎の長男として岡山県下道郡秦下村(現総社市秦)の旧家に生まれた。 農民だった卯太郎は、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治20年(1887年)、20歳のとき「男子一たび郷関を出づ、功ならずんば二度と郷土にまみえず」と意を決し、東京へ出た。
神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3… 神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉 - 1902年〈明治35年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人。八甲田雪中行軍遭難事件において、青森歩兵第5連隊雪中行軍隊の主任中隊長であった人物として知られる。 1869年5月6日(明治2年3月25日)生まれで、久保田藩領の羽後国秋田郡鷹巣村(現・秋田県北秋田市)出身。 陸軍教導団卒業。1894年(明治27年)10月に特務曹長に昇進し、日清戦争に従軍。威海衛で戦闘の後、1895年(明治28年)4月1日陸軍歩兵少尉に昇進。その後、遼東半島守備を経て、1896年(明治29年)4月3日付けで台湾守備歩兵第2連隊付となり台湾へ出征し、1897年(明治30年)9月7日付けで青森歩兵第5連隊へ帰還。
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月… 有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した。久留米六十一銀行の頭取を務め、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選。
村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年… 村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉 - 1957年〈昭和32年〉11月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。 鳥取県西伯郡淀江町(現在の鳥取県米子市)出身。村田晋の長男。父の下に専ら漢学を修め、傍ら小学校に通う。 1883年(明治16年)に上京し、二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ後、獨逸協會學校(現在の獨協大学)を卒業。 神奈川県足柄上郡で役所雇及び小学校授業生をした後、1888年(明治21年)に東京法学院に入学した。1891年(明治24年)には東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、札幌で弁護士事務所を開業し、後には札幌弁護士会長に選出された。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 -… 河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。 富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)をたすけて大学で専攻した物理学も教えた。 1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている。
守山 又三(もりやま またぞう、1869年4月30日(明治2… 守山 又三(もりやま またぞう、1869年4月30日(明治2年3月19日) - 1940年(昭和15年)5月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国八代郡、のちの熊本県八代郡太田郷村(太田郷町を経て現八代市)出身。東京高等商業学校で学ぶ。熊本軌道(株)取締役、讃岐電気軌道(株)監査役、京都電気(株)取締役社長となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から大同倶楽部公認でで立候補してトップで初当選した。つづく1912年の第11回衆議院議員総選挙では中央倶楽部公認で立候補して再選。衆議院議員を2期務め、1914年に議員を辞職した。1940年に死去した。
早川 彌三郎(はやかわ やさぶろう、1869年(明治2年)4… 早川 彌三郎(はやかわ やさぶろう、1869年(明治2年)4月28日 - 没年不明)は、日本の裁判官。 1869年、三重県にて出生。1893年7月、明治法律学校卒業。1893年12月の弁護士試験に及第して弁護士登録したものの、翌年12月の判事検事登用試験にも及第したため、司法官の道を選んだ。 安濃津区裁判事を皮切りに、 四日市区、名古屋区地裁判事を経て、台湾総督府法院判官に転じた。1907年から約3年半に亘って、司法制度および訴訟手続法の研究のためドイツに留学し、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学んだ。 帰国後は覆審法院検察官となり、1921年、大審院検事に補された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(18… 山村 豊次郎(やまむら とよじろう、明治2年3月16日(1869年4月27日) - 昭和13年(1938年)9月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、宇和島市長。 宇和島藩士村松喜久造の二男として生まれ、翌年に同藩士山村正の養子となった。1895年(明治28年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格。翌年に宇和島市で弁護士事務所を開業した。 1906年(明治39年)、衆議院補欠選挙に当選。1920年(大正9年)から翌年まで宇和島町長を務めた。宇和島に市制が施行されると市会議員となり、議長に選出された。1922年(大正11年)から宇和島市長を務めた。その間、宇和島運輸株式会社取締役・宇和島鉄道株式会社取締役・南予時事新報社長などを兼ねた。
山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年… 山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年4月24日)- 1963年(昭和38年)3月13日)は、明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。兄に愛媛県師範学校長の山路一遊と、日本興業銀行副総裁の佃一予。夫人「すえ」は山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。
長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年… 山根 一貫(やまね かづつら、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1917年8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。男爵。旧姓:橋本。[要出典] 橋本房吉の長男として、山口県厚狭郡万倉村字矢矯(現・宇部市大字万倉矢矯)に生まれる。幼名を慶蔵と称し、山口師範学校講習科の講習で万倉小学校で教鞭を取り、後東京教導団に入団、時に19歳であった。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(第2期)を卒業する。日清戦争に出征、中尉に進み、1895年(明治28年)山根家に入籍、陸軍少将山根信成の嫡子となる。 1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業し、陸士勤務となる。のちフランスに駐在する。
種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治… 種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治郎、1869年4月22日〈明治2年3月11日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家。泉醤油社長。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、平民・川崎潮平の長男。須藤与惣に就いて漢学を修める。1878年9月に先代源一の養子となり、1880年に家督を相続、1893年9月に旧名・豊治郎を改める。 身を実業界に投じ、1912年に有志と謀り醤油醸造業を開始し、泉醤油株式会社を起こし、推されて社長となり傍ら貝塚織物、川崎肥料の監査役を兼ねる。東洋商工、貝塚紡績各取締役をつとめる。 貝塚実業界の第一人者であった。趣味は読書、囲碁、抹茶、謡曲、旅行、漢詩。
小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈186… 小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈1869年4月21日〉 - 昭和22年〈1947年〉8月4日)は日本のテロリスト。別名に六之助/録之助(ろくのすけ)。日清戦争の講和会議に際して清国全権大使・李鴻章を狙撃したことで知られる(李鴻章狙撃事件)。 現在の群馬県館林市大島町に生まれる。父・孝八郎は県会議員を務めた村の名士であった。 館林で高橋渡に3年ほど理学の教えを受け、さらに栃木県中学校に学ぶ。栃木県中学校を中退。1884年(明治17年)ごろに上京して慶應義塾に学ぶが1886年(明治19年)に脚気で退塾し故郷へ帰る。放蕩のため父から勘当され、1888年(明治21年)に廃嫡された。
川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年… 川上 眉山(かわかみ びざん、1869年4月16日(明治2年3月5日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治時代の小説家。大阪生まれ。本名亮、別号に煙波山人。
伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年… 伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年3月3日) - 1914年(大正3年)10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 第一次世界大戦において防護巡洋艦・「高千穂」艦長として戦死した。 佐賀県佐賀市松原にて佐賀藩士伊東祐寿の三男として生まれる。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。攻玉社を経て明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。 海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、占領した砲台に赴き港内偵察にあたった。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年… 赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年2月29日) - 1941年(昭和16年)7月5日)は、日本の実業家。南満州鉄道理事としてオイルシェール事業に取り組んだ。 赤羽家は「高遠以来」と称される保科家時代からの会津松平家家臣である。山形藩時代には1000石、500石、400石、150石を食む赤羽家があり、江戸時代を通じ100石以上の赤羽家が複数存在した。赤羽四郎(スペイン公使)や、陸軍航空草創期の軍人である赤羽佑之(航空兵大佐)などは同族である。赤羽の実父は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係であった赤羽治平友温。克己はその三男で、同藩士赤羽友春の養子となる。養母は若松市長松本時正の妹、長男はコーネル大学出身の中島飛行機技師で、第二次世界大戦期は同社の誉発動機推進主任を務める。
木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(18… 木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(1869年4月9日) - 昭和22年(1947年)3月28日)は、日本の明治から昭和初期にかけての政治家。貴族院議員、衆議院議員、関東長官。美食家としても知られ、著書『美味求真』は、食通の原典として今日も名高い。 1869年(明治2年)に大分県宇佐郡安心院町木裳(現在の宇佐市)に生まれる。1892年(明治25年)東京法学院(現中央大学)卒業。政治家を志し、貴族院議員、衆議院議員として当選9回。この間、所属政党は、国民党、立憲同志会・憲政会、立憲政友会、政友本党などにめまぐるしく移り変わり、政界の策士と呼ばれた。選挙違反事件に連座したこともあったが、1927年(昭和2年)の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
今崎 半太郎(いまさき はんたろう、1869年4月5日 - … 今崎 半太郎(いまさき はんたろう、1869年4月5日 - 1957年2月28日)は、隠岐知夫郡西ノ島の浦郷出身の政治家。1904年(明治37年)から1946年(昭和21年)まで、43年間もの長期間にわたって島根県知夫郡浦郷村(現・隠岐郡西ノ島町)の村長を務めた。「浦郷の父」とされる。 今崎は1869年(明治2年)4月5日に隠岐諸島西ノ島の浦郷で生まれた。尾張屋(屋号)の佐藤大四郎の次男である。 1889年(明治22年)以後には各地で町村制が施行され、1904年(明治37年)5月1日には隠岐諸島でも町村制に準ずる「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」が施行された。近世以来の浦之郷村が単独で自治体を形成し、同年5月1日に島根県知夫郡(現・隠岐郡)浦郷村が発足、35歳の今崎半太郎が初代浦郷村長に就任した。
大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明… 大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年4月3日〈明治2年2月22日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月27日)は、大相撲の大関。身長170cm、体重105kg。最高位は横綱(五条家免許)。 出生地は尾張国知多郡(現在の愛知県半田市乙川殿町)出身。生年月日は1869年(明治2年)2月22日説と1871年(明治4年)3月20日説があり、苗字も「吉田」と「竹内」の2説あったが、大碇の生年月日は1869年(明治2年)2月22日で苗字は「竹内」であることが外国旅券下付表や除籍謄本などで確認された。その後、「吉田嘉平」に一旦、養子縁組し、1871年(明治4年)3月20日に愛知県知多郡南知多町内海の「日比長三郎」の養嗣子となり同家に入籍した。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年… 矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年2月18日) - 1947年(昭和22年)9月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は富吉。 先代矢島栄助(1836-1905)の長男としてのちの山梨県甲府市緑町に生まれ、1899年(明治32年)7月に家督を相続する。1905年(明治38年)襲名する。東京共立学校を経て、東京専門学校を卒業する。1905年(明治38年)10月、甲府市会議員に当選したのを皮切りに、同市参事会員、同市会議長を歴任する。1911年(明治44年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1915年(大正4年)1月14日まで在任した。
塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2… 塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2月15日) - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の建築家。東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。号は「准亭」。 1869年、京都生まれ。1893年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治美術学校講師嘱託となった。 1899年、東京帝国大学工科大学助教授に採用。採用後、1899年から1902年にかけてヨーロッパへ研究留学した。その後も、1906年から1908年にかけての工芸品意匠調査のため清国出張、1909年には日英博覧会のためのイギリスに派遣されている。1920年、同校教授に昇進。1920年より工学部部長を務めたのち、1929年に退官し、名誉教授となった。
原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(186… 原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(1869年3月24日) - 昭和10年(1935年)10月9日)は、日本の実業家。東京書籍初代会長。 岐阜県羽島郡生まれ。同人社、高等商業学校(現一橋大学)を経て、ダリッジ・カレッジ卒業後、1886年にイギリスのサミュエル商会に入社。1892年同社横浜詰仕入部主任。1900年に父・原亮三郎が創業した金港堂書籍の社長を継いだが、1902年に教科書疑獄事件で偽証罪及び証拠隠滅罪の容疑で逮捕された。1909年東京書籍を創立し、初代会長に就任。1917年日本製紙発起人総代。1918年日本製紙会長。1921年日本製紙相談役。 父は金港堂書籍創業者の原亮三郎。
荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869… 荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869年3月22日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、和歌山県生まれの浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者。日本のサンスクリット語研究、サンスクリット文献に基づいた仏教研究の先駆者であり、大成者である。 1869年(明治2年)、和歌山県に生まれ、当時浄土宗の重鎮であった荻原雲台の養子となる。1896年(明治29年)、浄土宗学本校(のち真言宗豊山・智山派、天台宗と合同し宗教大学を経て現・大正大学)を優秀な成績で卒業。1898年(明治31年)よりドイツのカイザー・ヴィルヘルム二世大学に留学、サンスクリット語研究の泰斗エルンスト・ロイマンに師事する。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3… 小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和22年(1947年)11月20日)は明治から昭和前期の言語学者、台湾語と台湾諸語研究者、辞書編纂者。台北帝国大学名誉教授。 1869年(明治2年)2月9日(新暦では3月21日)、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市勝山町)に士族・丹下尚逸・ムラの三男として生まれる。1872年(明治5年)5月、松山・御宝町77番地(現在の松山市一番町2丁目3番)の小川武一の養子になる。1883年(明治16年)、松山中学を卒業する。1887年(明治20年)9月、第一高等中学校予科に入学。正岡子規と親しくなる。しかし1889年には脚気のため一時休学、留年。
白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年… 白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和29年(1954年)7月25日)は、日本の教育者。人間環境大学附属岡崎高等学校の創立者。三河地方における女子教育の先駆者である。旧姓は山本。 田原町長を1901年(明治34年)から15年間務めた山本右太郎は次兄。 三河国田原(現在の愛知県田原市)に田原藩士山本源善の長女として生まれる。1888年(明治21年)1月、近所の田原小学校で教員に欠員が生じたため、校長から兄を通じて「代わりをやってもらえないか」との申し出を受ける。白井は1月から5月まで「渥美郡役所雇教員」の辞令で田原教学校の教壇に18歳で立つことになった。
遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2… 遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2年2月8日) - 1939年(昭和14年)3月17日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 信濃国諏訪郡、後の中洲村(現長野県諏訪市)で遠山嘉藤治の長男として生まれる。北海道開拓を志し、1897年に河西郡芽室村に移住。 馬鈴薯、粟、麦などの作物を栽培するとともに、水田の開発を推進し、養蚕の導入などを行う。芽室農会評議員、同衛生組合長、北海道蚕糸会評議員、河南土功組合議員、北海道地方種繭審査委員、十勝六郡農会評議員、十勝郡農会副会長、北海道農村産業組合評議員などを務めた。 政界では、芽室村会議員、同学務委員、所得税調査委員、北海道会議員を歴任。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2… 高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2年1月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉12月11日)は、日本の実業家、政治家、資産家、弁護士。 衆議院議員(当選6回)。法律新聞社長。尾西鉄道社長。法政大学総務部長、同大理事。従五位勲三等。族籍は東京府平民。 1869年1月25日、東京に生まれる。高木益喜の長男。幼少の頃、日本橋元浜町の尾張屋質店の丁稚小僧に出される。当時知人某が法律の不知からある高利貸しのためさんざんな目に遭わされたことに憤慨し、「弱者の味方となり、正義公正な権利擁護に尽くそう」と心機一転して法律の勉強を志す。 銀行に勤めるかたわら東京法学校(現・法政大学)に通学し、1887年に卒業する。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明… 浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1949年(昭和24年)2月10日)は、日本の実業家、政治家。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 甲斐国巨摩郡、後の北巨摩郡大泉村(現山梨県北杜市大泉町)で浅川荘衛の長男として生まれる。1883年4月に上京し明治学館で学ぶ。1886年に卒業して帰郷し、農蚕、酒造業を営むが成功せず、1890年、御料局雇となる。 1893年、北海道に移り上川郡旭川村戸長役場筆生に就任。以後、高鷲村戸長、旭川町会議員、同区会議員、旭川市会議員、北海道会議員、北海道教育会地方委員、旭川教育会理事、旭川精米社長、旭川酒造社長、北海畜産社長などを務めた。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2… 田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2年1月22日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 のちの香川県三野郡桑山村(三豊郡桑山村、豊中村、豊中町を経て、現在の三豊市豊中地区)に生まれる。農業を営む傍ら、桑山村会議員、三豊郡会議員、同参事会員、同副議長、香川県会議員、同参事会員、県農会副会長を歴任する。実業家としては讃岐土管取締役、香川県蚕糸同業組合連合会長を務める。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では香川県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869… 佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869年2月25日) - 昭和28年(1953年)5月23日)は、明治から昭和にかけて北海道静内郡静内町に居住したアイヌ。アイヌ協会の創立メンバーで、アイヌ文化伝承者であった。 東静内アザミの沢出身で、同地に住んだアイヌ名はOperikun、オペリクン、オペレクン・テクンアレ、ペイレン。opは海でカジキマグロを獲るのに使うホコであり、それを使うのが上手と言うこと、「ホコ使い上手」を意味するオッㇷ゚エリクンが転訛したものという。 アイヌ語に優れ、パルンクル(雄弁家)であった。静内地方でも著名な首長、長老であり、戦前・戦後を通し多くの著名人が訪れた。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2… 岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2月22日 〈明治2年1月12日〉 - 1939年9月23日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し、現存する作品のほぼ半分を風景画が占める。第1回文化勲章を受章。東京美術学校(現:東京藝術大学)教授。現在の佐賀県佐賀市八幡小路生まれ。族籍は東京府平民。 1869年、肥前佐賀藩の石尾家に生まれる。士族・石尾孝基の三男。幼名は芳三郎。1887年、岡田政蔵の養子になり、家督を相続する。二松学舍、成立学舎、東洋英和学校等に学ぶ。 父とともに幼くして上京し、麹町の鍋島侯邸内で暮らした。