前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947… 前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947年1月19日)は、神戸市出身の日本画家。本名は八十八。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
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前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947… 前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947年1月19日)は、神戸市出身の日本画家。本名は八十八。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 192… 高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 1929年5月24日)は、日本の舞踊家である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、赤坂のローヤル館、松竹の新星歌舞劇団、根岸興行部の根岸大歌劇団等で活躍した。本名は中村 輝義。石井漠と並ぶ日本洋舞界の開拓者。 鹿児島県鹿児島市新屋敷通町出身。父・軍助は、欧州航路で初の機関長になった人物。鹿児島市立松原小学校在学中に父が死亡し、姉妹とともに母一人によって育てられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。中学の同窓の友人に安藤照や谷口午二がいる。 旧制中学卒業の頃に上京し、1913年(大正2年)、試験に合格して帝国劇場歌劇部に第二期生として入る。
桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - … 桂川 力蔵(かつらがわ りきぞう、1895年9月30日 - 1955年1月7日 )は、青森県東津軽郡野内村(現在の青森市)出身で入間川部屋に所属した元大相撲力士。本名は根井 蔵次郎。最高位は東十両5枚目。 1916年入間川部屋に入門、同年5月場所「中ノ汐」の四股名で初土俵を踏む。翌1917年1月場所から「桂川」に改名した。1921年1月場所新十両。この場所は3勝2敗と勝ち越した。場所後の台湾巡業に向かう途中、左目が急に痛み出し、急遽治療のため日本に戻った。診察の結果原因は不明だった。その後は治療に専念したが5月場所は全休。病状が悪化しついに失明した。失明により相撲が取れなくなったため、この場所限りで廃業した。
桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29… 桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29日 - 1962年〈昭和37年〉6月27日)は、日本の政治家。鹿児島県谷山市(現・鹿児島市の一部)初代市長(市制施行時の町長)。 鹿児島県谿山郡谷山村(のち鹿児島郡谷山村→谷山町→谷山市、現・鹿児島市)和田(のち和田町、現・和田)森山出身。鹿児島商業学校(現・鹿児島商業高等学校)を経て、日本大学を卒業する。東京府の職業補導所の助手となり、その後、渡米し、コロンビア大学で社会科学を学んだ。39歳で帰国し、理化学研究所に勤務し、理研朝鮮鎮南浦(現・南浦特別市)工場の総務部長となり、同地で終戦を迎えた。引き揚げ後は、米軍政部の経済技術員となり、理研の搾油機械の販売を行っていた。
渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 198… 渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 1985年2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 高知県出身。渋谷周・茂兎夫妻の息子として生れる。海南中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第29期)を受験し、双方に合格している。1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。1918年(大正7年)8月、海軍少尉任官。海軍大学校で航海学生として学ぶ。 1923年(大正12年)12月、「澤風」航海長となり、「沖風」航海長、「第17号駆逐艦」艤装員、「大泊」「安宅」「鶴見」「迅鯨」「川内」の各航海長を歴任し、1929年(昭和4年)11月、海軍少佐に昇進。 1931年(昭和6年)12月、「由良」航海長に転じ、「青葉」「磐手」の各航海長、横須賀鎮守府付、海軍航海学校教官などを務める。
平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月2… 平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月26日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、富田一色平田家の4代目当主。平田紡績の4代目社長。2代目平田佐次郎の三男。富洲原町会議員を経て、第11代四日市市長も務めた。実業家(平田紡績社長)に加えて趣味として和歌や短歌を創作する歌人・俳句を創作する俳人などの文芸活動をする文化人でもあった。四日市コンビナートを誘致して四日市市(四日市港周辺の臨海部)を重工業化させた功労者である反面、四日市ぜんそくを発生させた四日市公害の責任者でもある。 三重県三重郡富洲原村(現在の四日市市富田一色地区)出身で平田紡績家当主の2代目平田佐次郎の三男として出生する。
内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28… 内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28年)9月25日 – 1982年(昭和57年)9月22日)は、日本の実業家。 宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)に造り酒屋の家に生まれる。父は富谷村長を務めた内ヶ崎儀左衛門。一族には、政治家で衆議院議長を務めた内ヶ崎作三郎がいる。 旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1919年(大正8年)に大阪電燈に入社。大阪電燈が大阪市営になって後は大同電力に移り、第二次世界大戦時に設立された日本発送電東北支店長・東北配電社長を歴任し電力事業に一貫して携わった。 1951年(昭和26年)5月1日、第二次世界大戦後の電力事業再編に伴う、日本発送電・東北配電の解体・改組に伴い設立された東北電力の初代社長に就任。
谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1… 谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1973年6月25日)は、日本の牧師。 1895年、大阪で生まれる。組合派の大阪天満教会にて受洗を務めながら、1916年に京都帝国大学入学。在学中に内村鑑三主筆の「聖書の研究」に触れ、内村鑑三の教えを受けることを願って東京帝國大学へ転入して上京。1918年1月より内村鑑三の集会である今井館に出席を許される。1920年、転入した東京帝國大学を卒業。三菱造船株式会社(現三菱重工業株式会社)に入社、神戸造船所に赴任。その後三菱合資会社に転任するが、再び上京し本郷駒込追分町に住む。1923年、三菱合資会社退社。文書伝道者としての活動を開始する。本郷神の教会牧師に就任し、教会内に日本聖書学校を設立、校長に就任。
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月2… 有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月25日 - 1944年〈昭和19年〉10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日、鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39年)4月1日、伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41年)4月1日、鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元年)8月31日、鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日、海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。
野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 19… 野村 光一(のむら こういち、1895年9月23日 - 1988年5月22日)は、日本の音楽評論家。 娘の輝子は東京藝術大学ピアノ科を卒業し、谷崎潤一郎の娘にピアノを教えていたが、安田善次郎の曾孫で建築設計士の安田紫気郎と結婚した。遠縁に佐々木勇之助(佐々木の妻の兄の養子が光一の父)
村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 198… 村田 治郎(むらた じろう、1895年9月23日 - 1985年9月22日) は、建築史家。京都大学名誉教授、明石工業高等専門学校名誉教授。 1895年、山口県大島郡で生まれた。幼少期は郷里である同地で過ごし、中学校校長の父の転勤に伴って中学校入学の際に兵庫に出て、1912年に兵庫県立第一神戸中学校に入学。1917年より第一高等学校第二部甲類で学び、1920年7月に卒業。同年、京都帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科は同年に新設された学科であり、武田五一、日比忠彦、天沼俊一教授の教育体制で14名の学生が在籍した。1923年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、1年間の兵役に就いた。卒業論文は『新羅瓦塼雑考』。
山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月2… 山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月20日 - 1975年(昭和50年)4月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知市西町出身。山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。
武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月1… 武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月18日 - 1966年(昭和41年)9月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。国立音楽大学の創立メンバーの一人。 岡山県東南条郡林田(はいだ)村(現在の津山市川崎)にて、米問屋の父・安次郎、母・澤のもと、六人姉妹の六女として生まれる。岡山県津山高等女学校卒業後、1913年(大正2年)東京音楽学校予科入学。1914年(大正3年)東京音楽学校本科声楽科入学。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。1917年(大正6年)卒業、上真行奨励賞受賞。研究科に進み、1919年(大正8年)修了。同年5月御前演奏会に出演。同年10月、東京音楽学校「秋季演奏会」に出演、公式に楽会にデビュー。
田鍋 友時(たなべ ともじ、1895年〈明治28年〉9月18… 田鍋 友時(たなべ ともじ、1895年〈明治28年〉9月18日 - 2009年〈平成21年〉6月19日)は、かつて男性長寿世界一であった宮崎県の男性。エミリアーノ・メルカド・デル・トロの死去以来、世界最高齢男性となり、ギネスブックに認定された。 宮崎県都城市生まれ。両親は薩摩島津氏の出身でいとこ同士であったが、同人が幼少の時期に離婚している。 18歳の時に大阪の専門学校へ入学し測量を学んだ後、同地の貿易会社に4年勤務した。その後帰郷して都城市役所に5年ほど勤務した後は農業を営んでいた。亡くなった時点で子供が8人(5男3女)、孫が25人、曾孫が53人、玄孫が7人おり、晩年は五男夫婦と3人で暮らしていた。
関根 秀雄、關根 秀雄(せきね ひでお、1895年(明治28… 関根 秀雄、關根 秀雄(せきね ひでお、1895年(明治28年)9月17日 - 1987年(昭和62年)7月27日)は、日本のフランス文学者。昭和期のモンテーニュ研究の第一人者。 国文学者関根正直の子として東京に生まれる。東京帝国大学選科修了。東京都立大学教授、青山学院大学教授を歴任。はじめフランス語学を研究、生涯を通じ『モンテーニュ随想録』などを研究翻訳した。 1936年5月26日、第2回文藝懇話会賞を受賞する。1980年、モンテーニュ出身地のフランスジロンド県・ボルドー市より、第1回モンテーニュ賞が贈られる。 1987年7月27日、肺炎により死去。享年91歳。墓所は染井霊園。 国文学者の関根慶子は妹、聖書学者の関根正雄は弟。
円地 与四松(圓地 與四松、えんち よしまつ、1895年9月… 円地 与四松(圓地 與四松、えんち よしまつ、1895年9月16日 - 1972年11月26日)は、日本のジャーナリスト。 小説家・円地文子の夫。 石川県生まれ。1920年東京帝国大学法学部卒業後、東京日日新聞記者となり、ベルリン特派員としてツェッペリン飛行船の報道をして知られた。 1930年に文子(上田萬年の娘)と結婚。1940年東京商工会議所参事。 戦後は衆議院地方行政委員会調査室長、国立国会図書館受入局長、外務省情報部新聞研究室主事、東海大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - … 岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - 1967年9月8日)は、三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。 東京府(現:東京都)出身。 1908年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1913年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、旧制学習院高等科を経て1920年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 一旦大学院に進むが、1922年英国に留学し、帰国後の1926年に三菱合資会社に入社。1934年副社長に就任。三菱財閥傘下の企業の取締役にも就任した。戦前の長者番付では常連と化しており、1939年公表の納税額は日本一となる228万2076円を記録。
伊集院 兼高(いじゅういん かねたか、1895年(明治28年… 伊集院 兼高(いじゅういん かねたか、1895年(明治28年)9月15日 - 1971年(昭和46年)7月29日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・伊集院兼知の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1939年(昭和14年)10月2日に子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)東京帝国大学理学部植物学科を卒業。さらに、1923年(大正12年)同大学医学部薬学科を卒業した。 1923年、私立東京商工学校講師に就任。以後、日本医学専門学校教授、日本医科大学予科教授兼同大学生徒主事、日本軽合金工業監査役などを務めた。 1942年(昭和17年)6月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
石坂 修一(いしざか しゅういち、1895年〈明治28年〉9… 石坂 修一(いしざか しゅういち、1895年〈明治28年〉9月14日 - 1969年〈昭和44年〉11月10日)は、日本の裁判官。最高裁判所裁判官。 富山県新川郡東加積村(滑川町を経て現滑川市)出身。富山市長、衆議院議員、参議院議員を務めた石坂豊一の長男。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部卒業。同年、司法官試補。1940年に出版法違反事件(河合栄治郎事件)の裁判長として河合栄治郎に第一審無罪判決を下したが、二審で逆転有罪となった。 旧裁判制度下では大審院判事を務め、新制度下では東京高裁判事、仙台、広島、名古屋、大阪高裁長官を歴任。 大阪高裁長官時代に、職員がカバンを持とうとすると「職員には他にする仕事がある」と断った。
盛永 俊太郎(もりなが としたろう、1895年9月13日 -… 盛永 俊太郎(もりなが としたろう、1895年9月13日 - 1980年1月25日)は、日本の農学者。九州大学名誉教授。イネの研究で知られる。 同郷の川原田政太郎、宇田新太郎とともに「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県上野方村(現・魚津市)出身。魚津尋常高等小学校、魚津中学校を経て東京帝国大学農学部卒。1926年九州帝国大学教授、1946年農林省農事試験場長、1950年東大農学博士、1954年農業技術研究所長、1950年から農業発達史調査会(東畑精一会長)で編集長。1955年アブラナ属およびイネ属の細胞遺伝学的研究で日本学士院賞受賞。 細胞遺伝学を用いて病害虫に強いイネの品種を作るための基礎研究を行い、 イネの発祥地を探る手掛かりや多数の新種を発見した。
高田 せい子(たかた せいこ、1895年(明治28年)9月1… 高田 せい子(たかた せいこ、1895年(明治28年)9月13日 - 1977年(昭和52年)3月19日)は、日本の舞踊家である。旧芸名は原 せい子(はら-)、本名は中村 せい(なかむら-、旧姓澤野)。夫の舞踊家・高田雅夫と行動をともにし、「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍し、夫の早世後も、創作舞踊を発表しつづけた。 1895年(明治28年)9月13日、石川県金沢市に生まれる。旧姓名は澤野 せい(さわの-)。 高等女学校卒業後、上京。1912年(明治45年)4月、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)予科に入学し、本科器楽部ピアノ専攻に進学した。同学を中退後、麹町区内幸町の帝国劇場で歌劇部のオペラ指導者のローシーに学んだ。
森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日… 森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。 高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。 愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に出生。生家は呉服商。沢山の小説本を買い与えられ、文学に親しむ。刈谷尋常小学校時代は利発で学業に秀でていたが、刈谷には旧制中学校が設立されておらず、中学校進学を希望するならば近隣の岡崎で下宿する以外になかった。
前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9… 前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9月10日 - 没年不明)は、日本の銀行家。旧姓・松本。 島根県能義郡安田村(現・安来市)の農家、松本家に生まれる。島根県能義郡立農業学校を卒業する。鳥取米子の前田家に入る。 1919年に山陰実業銀行に入り雲陽実業銀行、松江銀行勤務を経て1939年に山陰合同銀行業務部次長となり総務業務各部長を歴任、1944年に取締役業務部長に推され、同年10月に業務部長を解かれ、1946年10月に常務に進み、審査部長委嘱、1961年に監査役に就任する。 高額所得者である。米子の自宅では100本もバラを栽培して余生を楽しんだ。趣味は書画。住所は鳥取県米子市久米町。
中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)… 中村 敬之進(なかむら けいのしん、1895年(明治28年)9月9日 - 1978年(昭和53年)4月12日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選愛媛県知事、厚生次官。 山口県出身。中村藤左衛門の二男として生まれる。山口県立山口中学校、第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し福岡県属となり内務部庶務課勤務となる。 1927年5月、福岡県警視・警察部保安課長に就任。以後、神奈川県警察部勤務、兵庫県警察部特別高等警察課長、地方事務官・京都府勤務、内務事務官・警保局勤務、警務官、内務書記官・警保局図書課長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、同次長心得、企画院内政部長、同第三部長、内務事務官・警保局保安課長を歴任。
四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980… 四宮 久吉(しのみや ひさきち、1895年9月8日-1980年11月10日)は、日本の政治家であり弁護士。徳島県石井町出身。位階および勲等は、従四位・勲二等。 医師の書生として明治大学を卒業後、弁護士となる。 東京府会議員(3期)、東京都議会議員(文京区選出・5期)、東京都議会議長、全国都道府県議会議長会会長をへた後鳩山一郎の後見を得て、文京区で衆議院議員として第30回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第31回までの6年間を衆議院議員として国政に携わる。この間、青色申告や戦後帰還事業、競艇事業の推進に貢献し、中曽根康弘の最初の派閥メンバーとして参画したのちに引退。 最終的に都議会議員時代に秘書であった深谷隆司に議席を譲る。
八木 あき(やぎ - 、1895年9月6日-1983年4月3… 八木 あき(やぎ - 、1895年9月6日-1983年4月30日)は日本の社会運動家。「八木秋子」のペンネームで活動した。
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 … 額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 医師・額田篤太の三男として生れる。岡山一中、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第54連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 歩兵第40連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、陸軍歩兵学校教官などを歴任。1936年(昭和11年)12月、陸軍省人事局課員となり、人事局補任課長、独立歩兵第11連隊長、陸士生徒隊長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進した。
牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4… 牧野 康熙(まきの やすひろ、1895年(明治28年)9月4日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正から昭和時代にかけての華族。小諸藩牧野家13代当主。子爵。従四位。 嵯峨公勝・南加の二男。初名は次郎。牧野康強の養子となり康熙と改名する。1918年(大正7年)中央大学商科を卒業し、1919年(大正8年)横浜正金銀行に勤務する。1929年(昭和4年)家督を相続する。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し死去するまで在任した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月… 中館 耕蔵(なかだて こうぞう、1895年(明治28年)9月3日 - 1982年(昭和57年)8月21日)は、日本の音楽マネージャー、学校法人経営者。現・国立音楽大学の創立者の一人。一部に姓を中舘とする記載もあるが、国立音楽大学の記載に従って中館と記す。 岩手県上閉伊郡遠野町(現・遠野市)に生まれる。1910年(明治43年)学業を終えると、同年7月から1913年(大正2年)7月まで岩手県上閉伊郡土淵尋常高等小学校教員として勤務するが、職を辞して上京する。中館が小学校教師を辞し上京したいきさつについての詳細な記録は残っていないものの、上京後、遠縁の紹介で神田の東京楽友会でヴァイオリンを習い、日本における音楽マネージメントの草分け的な仕事を始める(1915年(大正4年)に神田の学友会有志で音楽会を行うことになり、地方のまとめ役を担い、高崎(ここで中館と小林宗作との交流が生まれた。
木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年… 木口 九峰(きぐち きゅうほう、本名:木口房四郎、1895年(明治28年)9月1日 - 1969年(昭和44年)11月26日)は、昭和時代の彫刻家。烏城彫(うじょうぼり)の創始者で、昭和天皇に作品を2度献上したほか、身体障害者の自立更生事業としてその製作指導に当たった。 岡山県下道郡久代村大字山口(現・総社市久代)に生まれる。久代尋常高等小学校卒業後、両親を手伝い農業に従事する一方で華道・茶道および尺八を稽古していた。1912年(大正8年)に調律師として働き始めるが、趣味の華道や茶道で使用する道具を彫り作るうちに木彫に傾倒して彫刻家に転職し、1927年(昭和2年)には自分の作品に岡山城の別称である「烏城」を付けて「烏城彫」と命名して宗家を称し、1940年(昭和15年)に烏城彫研究所を岡山市丸亀町に開所する。
川本 泉(かわもと いずみ、1895年(明治28年)9月 -… 川本 泉(かわもと いずみ、1895年(明治28年)9月 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、昭和時代前期の政治家。貴族院多額納税者議員。 広島県出身。1919年(大正8年)明治大学法科卒業。 1933年(昭和8年)以降、広島市会議員、同副議長を歴任した。 1947年(昭和22年)広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年3月19日から貴族院廃止まで在任した。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 19… 長崎 次郎(ながさき じろう、1895年8月30日 - 1954年10月2日)は長崎書店の店主、新教出版社の初代社長である。号は雑草生。兄は教育家の長崎太郎。 1895年(明治28年)に高知県安芸町に生まれる。安芸中学を卒業し、百島操牧師の助言により、1913年(大正2年)に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)に入学する。植物学を専攻する。 1916年(大正5年)に日本基督札幌教会(現・日本基督教団札幌北一条教会)で高倉徳太郎から洗礼を受ける。林竹治郎、新島善直らと共に教会を支える。 1921年に北大を卒業して、横浜共立女学校(現・横浜共立学園)、関東学院中学の教師になるが、1925年教師を辞任し、早稲田で古本屋長崎書店を開業する。
桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8… 桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8月29日 - 1991年 <平成3年> 4月11日)は、日本の政治家、内務官僚。1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。1987年愛知県名誉県民。勲一等旭日大綬章受章。位階は正三位。 山梨県南都留郡明見村(後に明見町を経て、現・富士吉田市)で養蚕農家の七男として生まれた。兄は大審院判事を務めた桑原龍興。山梨県第一中学校都留分校(現・山梨県立都留高等学校)、旧制第一高等学校から東京帝國大学(現・東京大学)法学部を経て、内務省に入省。1935年、福島県書記官・経済部長、同年に内閣東北振興事務局書記官に就任。
坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 … 坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 - 1959年(昭和34年)5月29日)は、大正後期から昭和前期の内務官僚、政治家。内務次官、官選県知事、北海道庁長官、貴族院勅選議員。 山口県厚狭郡厚西村厚狭(厚狭町、山陽町厚狭を経て現山陽小野田市厚狭)で、呉服業・坂幾一の二男として生まれる。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校(独法科、首席)を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1919年7月、内務省に入り内務属となり地方局事務官室兼府県課勤務となる。その後、佐賀県視学官、石川県理事官、内務省地方局地方債課長、専任内務書記官、地方局財務課長、同局行政課長などを歴任。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月26日 - 1960年〈昭和35年〉2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 日本の野球史研究の先駆者で、明治・大正期の野球書を長年収集して『日本野球文献解題』を私家版で作成し、日本に野球が伝来した時期について「明治5年説」を提唱した。また、石川啄木関連の文献資料を収集して『文献石川啄木』二巻を刊行したほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書があり、岩波書店版『啄木全集』の編さんもしている。 1895年(明治28年)8月26日に日本の長野県下高井郡市川村(のちの野沢温泉村)虫生に生まれる。小学生ですでに野球をプレーしていた。
田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974… 田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974年8月)は、日本の都市計画家、土木技術者。東京生まれ。 1921年(大正10年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省阿賀川改修事務所に勤務した。1924年から内務省復興局技師に転じる。その後東京府をへて1929年(昭和4年)、内務省土木部工務課長。その間に九段坂に共同溝の試作を試みている。1930年に東京府土木道路技師。 1937年、滋賀県土木課長、1939年、茨城県土木課長、1942年、山口県士木部長。 1945年に神奈川県土木部長となり、敗戦後の同県都市計画の作成に取り組む。道路、河川、公園、住宅、港湾などの総合整備を図った。 1951年から1960年までは、神奈川県土地収用委員会委員をつとめた。
小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月2… 小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月24日 - 1974年(昭和49年)3月4日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 鳥取県出身。小泉謙蔵の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。 以後、内務省社会局事務官、山形県書記官・警察部長、熊本県書記官・経済部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、国民精神総動員本部常任理事、大政翼賛会協力会議部長などを歴任。 1942年1月、島根県知事に就任。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
佐々木 耕郎(ささき こうろう、1895年(明治28年)8月… 佐々木 耕郎(ささき こうろう、1895年(明治28年)8月21日 - 1978年(昭和53年)10月1日)は、日本の政治家。栃木県(旧)日光市長を務めた。 岩手県盛岡市に生まれる。盛岡中学を経て、1917年(大正6年)、高千穂高等商業学校を卒業。同年、古河電気工業株式会社に就職。その後の人生の大半を日光で過ごす。1945年(昭和20年)、同社を退職。同年11月に株式会社別倉製作所他2社を立ち上げ社長に就任した。佐々木は終戦時に古河電気工業が多数の従業員を解雇したことの責を負って同社を退職しており自ら会社を起こしたのは古河電気工業を解雇された従業員たちを雇用するためであった。 その後、1951年(昭和26年)4月の栃木県議会議員選挙で当選し1953年(昭和28年)7月まで県議会議員を務めた。
妹沢 克惟(せざわ かつただ、1895年(明治28年)8月2… 妹沢 克惟(せざわ かつただ、1895年(明治28年)8月21日 - 1944年(昭和19年)4月23日)は、日本の地球物理学者・地球科学者・地震学者。東京帝国大学地震研究所所長。弾性力学研究者としてしられている。 石川県に生まれる 。1921年(大正10年)東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、翌年東京帝大助教授となり造船工学者の末広恭二のもとで振動論を研究した。航空研究所を経て後、末広の招きで地震研究所にうつり、1928年(昭和3年)教授、1942年(昭和17年)寺沢寛一の辞任により同研究所所長に選任された。1944年(昭和19年)に死去した。 地震波伝播の数理解析が著名であるが、飛行機の機体構造に関する数理的研究も数多く残されている。
藤生 安太郎(ふじお やすたろう、1895年(明治28年)8… 藤生 安太郎(ふじお やすたろう、1895年(明治28年)8月21日 - 1971年(昭和46年)12月7日)は、大正から昭和期の柔道家、政治家、雑誌編集者。衆議院議員。講道館柔道七段。 佐賀県東松浦郡、のちの唐津市で藤生利太郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)家督を相続。唐津中学校を退学、門司の豊国中学校から東京外語学校に進み、1918(大正7年)東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語科を卒業した。一年志願兵として入営し、陸軍歩兵伍長となった。 その後、新潟県立村上中学校(現新潟県立村上高等学校)、陸軍士官学校、警視庁、東京高等学校、拓殖大学の嘱託教師・柔道師範を務めた。この間、北白川宮永久王、竹田宮恒徳王、朝香宮鳩彦王、李王の柔道師範となる。
横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月1… 横山 竹男(よこやま たけお、1895年〈明治28年〉8月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。基隆市尹、高雄市長。 横山文吉の長男として香川県三豊郡詫間村(現三豊市詫間町)に生まれる。1910年(明治43年)4月、通信伝習所を卒業後、1911年(明治44年)3月、詫間郵便局に奉職。1915年(大正4年)9月、台湾に渡り、台南郵便局通信手を経て、1922年(大正11年)12月に台湾総督府属、総督官房秘書課勤務を発令される。 1930年(昭和5年)台北高等商業学校書記兼文教局学務課勤務を経て、1934年(昭和9年)5月に交通局副参事鉄道部庶務課勤務に転じ、1935年(昭和10年)10月に地方理事官に進み、台南市助役に就任。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1989年〈平成元年〉5月13日)は、洋画家。 東京府八王子生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。 1934年(昭和9年)出品した第二十一回二科展で推奨に選出されたことなどを契機に、1936年(昭和11年)、二科会に新会員として迎えられる。1955年(昭和30年)、二科会を退会して一陽会を結成し中心的存在として活躍する。1960年(昭和35年)、日本芸術院賞受賞、1969年(昭和44年)、日本芸術院会員、1988年(昭和63年)、文化功労者。
瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月1… 瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1968年〈昭和43年〉)は、日本の政治家、東京府多額納税者、鍋屋、金融業、地主・家主。東京市会議員(板橋区選出、革正会会員)、板橋区会議員。 東京府北豊島郡板橋町大山出身。質商・瀬田文次郎の長男。 早稲田中学、同高等学院を経て1917年、早稲田大学大学部法学科英法科卒業。貸地貸家業、金融業を営んだ。 1921年5月、板橋町会議員に当選し、1932年9月市郡併合迄3期在職。1931年4月、板橋町名誉助役として市郡併合迄在職。 1932年11月、板橋区会議員に当選。1933年3月、東京市会議員に当選。1938年4月、東京市参事会員に当選。
秋葉 安太郎(あきば やすたろう、1895年8月15日 - … 秋葉 安太郎(あきば やすたろう、1895年8月15日 - 1969年12月4日)は、国文学者、日本大学学長を務めた。 千葉県山武郡蓮沼村(現・山武市)出身。日本大学法文学部国文科卒。日大予科教授、日大教授、文理学部長、学長。1954年「大鏡の語法の研究」で日大文学博士。1965年定年退任、名誉教授。1967年4月、勲二等瑞宝章を受章。墓所は多磨霊園。
番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 … 番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 - 1966年6月17日)は、日本の劇作家、ドイツ文学者。立教大学名誉教授。 現在の大阪府泉佐野市にて運送業を営み、泉陽銀行取締役を務めた番匠谷平吉の長男として生まれる。旧制岸和田中学校、第三高等学校を経て1920年京都帝国大学独文科卒業。1924年懸賞戯曲『黎明』に当選し、劇作家として活動するかたわらドイツ文学の翻訳を行う。1928年立教大学教授、61年定年となり名誉教授。 シュニッツラーを中心にドイツ文学、またアンデルセンなどを翻訳した。また劇作家として、源氏物語、宇治十帖を扱った戯曲を残した。 立教大学で教鞭を執る傍ら、立教大学劇研究会の会長も務めた。
矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 19… 矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 1953年4月7日)は日本の哲学者、美術史家。
副見 喬雄(ふくみ たかお、1895年(明治28年)8月12… 副見 喬雄(ふくみ たかお、1895年(明治28年)8月12日 - 1978年(昭和53年)7月12日)は、日本の内務・警察官僚。官選鳥取県知事。 岐阜県出身。第三高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、鹿児島県警察部保安課長、警視庁保安課長、内務事務官、埼玉県書記官・警察部長、兵庫県経済部長、長崎県総務部長などを歴任。 1939年1月、鳥取県知事に就任。戦時体制の強化などに尽力。1940年12月、台湾総督府交通局総長に転じ、1945年1月まで在任。同年に退官し、その後、住宅営団理事を務めた。 戦後、公職追放となった。