大久保 利隆(おおくぼ としたか、1895年 - 1988年… 大久保 利隆(おおくぼ としたか、1895年 - 1988年)は、日本の外交官。駐ハンガリー兼ユーゴスラヴィア特命全権公使や、駐アルゼンチン特命全権大使、日本アルゼンチン協会会長を務めた。 鹿児島県出身。父大久保利貞(1846年 - 1918年)は陸軍中将で、維新の三傑の大久保利通の従弟。 1918年第一高等学校予科仏法科志望卒業。1921年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年外務省入省(任領事官補)。 1928年聖マウリッツィオ・ラザロ勲章(シュヴァリエー、サン、モーリス、エ、ラザル勲章)受章。1931年レオポルド勲章(シュヴァリエー、レオポール勲章)受章。1934年ルクセンブルクオーク王冠勲章(オフヰシエー、クーロンヌ、ド、シエーヌ勲章)受章。
何 庭流(か ていりゅう、1895年 – 没年不明)は、中華… 何 庭流(か ていりゅう、1895年 – 没年不明)は、中華民国の官僚。なお、何庭鎏表記もある。白堅武らと共に日本の特務機関と連携し、華北で攪乱工作を展開した人物である。親日政権の中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)にも参加した。 第一高等学校予科、第六高等学校を経て、 1924年(大正13年)4月に東京帝国大学経済学部を卒業、経済学士を取得した。留学中から親日派留学生グループの指導者と目されている。また、クリスチャンとして神田区の東京YMCAで事務にあたり、安部磯雄や賀川豊彦に師事したとされる。 帰国後は、まず呉佩孚の軍で外交科長に任命され、更に斉燮元の軍で参議となっている。済南事件に際しては、親日派と見なされて蔣介石軍から逮捕状を発せられたという。
竹内 謙二(たけうち けんじ、1895年 - 1978年)は… 竹内 謙二(たけうち けんじ、1895年 - 1978年)は、日本の経済学者。 新潟県出身。1919年東京帝国大学経済学部卒、大原社会問題研究所、九州帝国大学教授、1931年「仏蘭西重商政策確立史 モンクレチアント其時代」で慶應義塾大学経済学博士。1956年九州大学を定年退官、中央大学教授。アダム・スミス『国富論』を翻訳し、大内兵衛らの誤訳を指摘した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
田阪 美徳(たさか よしのり、1895年 - 1969年)は… 田阪 美徳(たさか よしのり、1895年 - 1969年)は、日本の造園家。明治神宮・橿原神宮の林苑造成、伊勢神宮の修復などの大事業に多く関わった、神社林苑の計画造成管理の権威。 広島県三原市出身。1920年(大正9年)東京帝国大学農学部農学科卒業後、明治神宮造営局に入局、1930年造営局廃止と共に明治神宮外苑管理署技師(内務省)に任ぜられる。以来10年間は外苑主任技師としてその管理運営に当った。1936年、外苑管理署技師から内務技師となり神社局に勤務、全国の官国幣社の林苑整備に終始関与することとなる。 1937年からは紀元2600年祝典事務局の嘱託として、橿原神宮、畝傍山東北陵、宮崎神宮の境域拡張整備に従事した。
張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中… 張 心沛(ちょう しんぱい、1895年 – 没年不明)は、中華民国の教育官僚・哲学者。字は犀海。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の教育部門で要職をつとめた。また、汪兆銘政権最末期に北京大学図書館館長となる。 青年時代に日本へ留学している。1920年(民国9年/大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科に入学し、1924年(民国13年/大正13年)3月卒業、工学士の称号を取得した。同年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、少なくとも同年中は在学している。帰国後は国立北平大学女子文理学院教授、国立北京大学文学院講師、私立中法大学文学分院哲学系主任を歴任し、また、長く私立中国学院哲教系講師を兼ねた。
森 泰治(もり たいじ、1895年(明治28年)- 1951… 森 泰治(もり たいじ、1895年(明治28年)- 1951年(昭和26年))は、日本の建築家。宮内省と逓信省に勤務し活躍。主な作品に、難波電話分局(1922年)、神戸電信局(1926年)、大阪中央電話局(1927年)など。 東京府士族森茂太郎の二男として生まれる。1920年(大正9年)、東京帝国大学建築学科を卒業し、逓信省経理局臨時電信電話建設局技師となる。1926年(大正15年)から宮内省内匠寮技師となる。
橋本 修(はしもと おさむ、1895年-1990年)は、英語… 橋本 修(はしもと おさむ、1895年-1990年)は、英語・英文学者。 東京外国語学校英語科卒。拓殖大学教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)教授、髙島屋飯田株式会社顧問、明治大学経営学部教授、66年定年退任、名誉教授、68年「外国貿易商務論」で明大商学博士。国士舘大学教授、和光大学教授。商業英語について多くの著作があり、文学でもトマス・ハーディを研究した。
織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 197… 織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 1974年)は、日本の構造家・構造設計技術者・発明家・全国建築士事務所連合会(現:日本建築士事務所協会連合会)初代会長・織本建築設計計算事務所創立者。織本匠は義子。 1895年、栃木県南河内町(現宇都宮市)に生まれる。 1916年に、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科を卒業し、鉄道省に入省した。 1923年に織本建築設計計算事務所(現・織本総合建築設計)を下根岸に開設した。日本で最初の建築構造体の設計監理を業務とする建築事務所といわれる 1952年に鉄骨大張間の特殊組方・木造接手の改良およびその他の発表考案により藍綬褒章を受章。 1962年に全国建築士事務所連合会初代会長に就任した。
槙尾 栄(まきお さかえ、1895年 – 1980年9月)は… 槙尾 栄(まきお さかえ、1895年 – 1980年9月)は、日本の作家、技術者。 広島県に生まれる。早稲田大学電気工学科を卒業後逓信省に入省、技官として勤務の傍ら、余技として小説の執筆、歌謡曲の作詞等を手がけた。 当時のいわゆる空想科学小説に興味を持ち、海野十三とも交流があったという。1928年、雑誌「キング」に槙尾赤霧の筆名で「透明の人間」を発表。自らの発明した技術によって透明人間となった少壮の科学者が辿る運命を描いたこの作品は、日本における「透明人間もの」としては最も早いものの一つである。他に技術書や科学啓蒙書も執筆している。
小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961… 小林 喜一郎(こばやし きいちろう、1895年 - 1961年)は、日本の洋画家。岡山県倉敷市出身。酒仙と呼ばれるほどの酒好きとして知られ、岡山県内の飲み屋において喜一郎が飲み中に描いた色紙が飾られている店も少なくない。 1895年、倉敷市の酒屋・久平の息子として、久平ら両親が高知県滞在中に生まれる。幼い頃より画家を目指し沙美高等小学校卒業後、東京の美術大学へ行く金を貯める為、1916年に上京。巣鴨の郵便局で配達員として働く傍ら、絵の勉強に勤しんだ。当時この界隈は「池袋モンパルナス」の名の通り画家の卵がたむろしていた場所で、中でも喜一郎は三岸好太郎と交流を深めており、一緒に住んでいたこともある。
菊地 勘左ェ門(きくち かんざえもん、1895年 - 198… 菊地 勘左ェ門(きくち かんざえもん、1895年 - 1980年)は、日本の動物学者。 新潟県河崎村(現 佐渡市)生まれ。広島高等師範学校卒業後、1921年に富山県立富山高等女学校(富山県立富山いずみ高等学校)へ着任。旧制富山高等学校(現富山大学)助教授などを経て、魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)校長、富山県立高岡中部高等学校校長を歴任。富山県博物学会初代会長。佐渡博物館館長、両津市教育長を歴任。 富山湾の貝類研究の草分けで、コレクションの多くは富山市科学博物館に収蔵されている。貝類の他には甲殻類のエビ・カニ類の研究も行った。植物学にも通じていた。
八木沼 丈夫(やぎぬま たけお、1895年(明治28年) -… 八木沼 丈夫(やぎぬま たけお、1895年(明治28年) - 1944年(昭和19年)12月12日)は、日本の陸軍軍属、歌人。日中戦争(支那事変)において日本軍が本格的に宣撫官を導入するきっかけとなった人物。 1895年(明治28年)、福島県東白川郡常豊村(現塙町)の小学校長の家に生まれる。旧制磐城中学に入学するも、学費を提供してくれていた親族が亡くなったため中退。1913年(大正2年)、志願兵として仙台の連隊に入営。除隊後の1917年(大正6年)には中国大陸へ渡り、1919年(大正8年)に現地で結婚。1929年(昭和4年)、南満州鉄道に入社し、その後関東軍に配属される。 1933年(昭和8年)、満州事変における熱河省攻略作戦で、日本軍が初めて宣撫官を投入することが決まると、宣撫班の班長に任命される。
広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は… 広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1895年に熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校を1915年に卒業(同級生に中川州男)後、海軍機関学校に進む(第27期)。 海軍機関少尉に任官後は特別演習審判官、海軍艦製本部部員、海軍省教育局局員、海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを歴任した。この間、海軍大学校機関学科を卒業している。 1943年に第六艦隊の機関長となり、1945年5月に海軍少将に昇進した。最終ポストは佐世保軍需部長だった。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1950年に54歳で死去。
安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月… 安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月8日)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。
山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1… 山田 武雄(やまだ たけお、1895年(明治28年) - 1987年(昭和62年)3月7日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 兵庫県出身。第六高等学校を卒業。1922年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、東京府総務部庶務課長、山形県書記官・学務部長、富山県書記官・警察部長、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・経済部長、群馬県書記官・総務部長などを歴任。1941年1月、愛知県書記官・総務部長に就任。 1943年8月、島根県知事に就任し終戦を迎えた。1945年8月24日未明、松江騒擾事件が発生し、県庁が焼き討ちされたが暗殺を免れた。
清水 栄二(しみず えいじ、1895年 - 1964年)は、… 清水 栄二(しみず えいじ、1895年 - 1964年)は、日本の建築家。 1895年1月3日、兵庫県武庫郡六甲村(現:神戸市)に生まれる。1918年7月東京帝国大学工学部建築科を卒業。合資会社桝谷組石器栄部入社、1921年より神戸市役所土木課技手に就任。この時期に「癸亥社」という設計事務所を自宅に開設した。1926年に長田セメント事件の責任問題が絡んで辞職。以後、清水設計事務所として活動する。1964年に死去した。 清水は建築事務所を拠転とした設計活動に加えて、住宅会社の建築顧問を兼任するなど複数の活動を行っていた。1931年に中学時代の友人と小住宅を建築、販売する大神住宅株式会社を設立し、専務取締役となった。
李 肯鍾(イ・グンジョン、朝鮮語: 이긍종、1895年または… 李 肯鍾(イ・グンジョン、朝鮮語: 이긍종、1895年または1897年7月23日 - 1951年1月24日)は、最初の朝鮮人司書であり、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。第2代韓国国会議員(在任中に死去)。 号は心崗(シムガン、심강)、日本名は宮村 薫。韓国における図書館の草分けである李範昇はおじ。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)出身。1910年に水下洞公立普通学校(現・ソウル清渓初等学校)、1914年に京城高等普通学校本科(現・京畿高等学校)、1917年に京城専修学校(現・ソウル大学校法科大学)卒。1917年5月から10月までは大邱地方法院金泉支庁書記兼通訳生として働き、1918年から1920年までは明治大学で法律を勉強した。
桐溪 順忍(きりたに じゅんにん、1895年 - 1985年… 桐溪 順忍(きりたに じゅんにん、1895年 - 1985年10月4日)は、日本の仏教学者。浄土真宗の僧。 富山県生まれ。1924年龍谷大学研究科修了。中央仏教学院講師、龍谷大学教授。1966年定年退任、名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学寮頭。
大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)1… 大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)12月31日 - 1961年(昭和36年)2月20日)は、日本の雅楽家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府で伯爵・大原重朝の三男として生まれる。学習院を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学文科大学国文科を卒業した。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月28日、伯爵を襲爵した。 郢曲を綾小路有良に、箏・琵琶を豊原喜秋に、篳篥を安倍季節にそれぞれ師事した。1909年(明治42年)宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。 1922年(大正11年)5月11日、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し、研究会に属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した。
増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1… 増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1933年8月6日)は、日本の心理学者。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学、旧制四高、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。元良勇次郎、松本亦太郎に師事。欧米留学を経て、1922年東京帝大助教授。1933年「心理学ノ研究法-殊ニ数量的研究ニツイテ」で東京帝国大学文学博士。51歳で死去した。
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月2… 高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 1883年12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現・佐賀県小城市三日月町)遠江で生まれた。1897年3月に三日月村晩成小学校を卒業し、佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀西高校、佐賀北高校、佐賀東高校)に進んだ。1902年3月に卒業し、第五高等学校第一部に入学。1907年7月に卒業し、同年京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1914年9月、京都帝国大学法科大学講師に就いた。
澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-195… 澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-1950年4月7日)は、日本の菌学者・植物病理学者。 1883年12月26日、岩手県盛岡市の生まれ。 1903年3月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を卒業。その後、1903年6月から1908年7月まで盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の植物学教室と図書館に勤務、同教室の教授だった山田玄太郎の助手として植物標本製作などの業務に従事する。1908年8月より、同年6月に設置されたばかりの台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)に植物病理部技手として勤務、1910年より教育部技手、同年7月より図書館取扱主任を兼任、1920年より植物病理部主任心得を務める。
井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12… 井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12月25日 - 1919年〈大正8年〉3月5日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦において日本初の航空作戦に参戦し、のちに殉職した。最終階級は海軍中佐。血盟団指導者の井上日召は弟。 群馬県利根郡川場村谷地に、医師・村会議員の井上好人の子として生まれる。前橋中学校沼田分校(現・群馬県立沼田高等学校)卒業後、成城中学校を経て海軍兵学校33期。同期生に豊田副武、豊田貞次郎、中村亀三郎らがいる。1906年(明治39年)12月少尉任官。初級士官時代の「音羽」、「三笠」乗組みなどを経て、大尉進級後の1912年(大正元年)10月に航空術研究委員を命じられる。
米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12… 米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12月25日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は日本の岡山県高梁市出身の地歌筝曲家。娘は生田流家元の米川敏子。 幼時から弱視で異母兄である米川暉寿に箏を習った。15歳から斉藤芳之都に箏曲を師事した。1905年(明治38年)に上京し、小出といから三弦を学んだ。その後一時的に姫路で指導をしていたが、東京に戻り、1922年(大正11年)研箏会を創設し、自らが会長となって多数の弟子たちの育成に励んだ。1919年(大正8年)に13弦の低音箏などを開発した。1959年(昭和34年)に長男の米川親利に会長の座を譲り、琴翁と名乗った。ロシア文学者の米川正夫は弟。
安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12… 安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12月24日 - 1963年(昭和38年)8月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 旧黒羽藩家老・安藤小次郎の長男として生れる。東京府立第四中学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。歩兵第66連隊付などを経て、1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第66連隊中隊長、陸士教官、参謀本部員、中国政府招聘(北京陸軍大学校教官)、歩兵第40連隊付などを歴任し、1925年(大正14年)5月、航空兵科に転じ航空兵少佐となり下志津陸軍飛行学校教官に就任した。
吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - … 吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - 1963年7月20日)は、ドイツ文学者、随筆家。
村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24… 村井 勝(むらい まさる、1883年(明治16年)12月24日 - 1968年(昭和43年)10月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に山口県で生まれた。陸軍士官学校第15期、陸軍砲工学校高等科第15期(優等)、東京帝国大学機械工学科卒業。1923年(大正12年)4月に陸軍造兵廠名古屋工廠千種機器製造所長に就任し、1925年(大正14年)12月に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)8月に陸軍造兵廠技術部長に転じ、1930年(昭和5年)6月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任した。 1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部部員に就任し、1932年(昭和7年)4月に陸軍砲工学校砲兵科長を経て、1934年(昭和9年)8月に陸軍技術本部第3部長に就任した。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月2… 安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日 - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任(よしとう)、品(しな)の八男として松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)に生まれた。松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進む。ただし、家庭の経済事情により中学卒業後1年間、母校の助教諭心得(講師)として英語を教えているため、第一高等学校進学は1902年(明治35年)のことである。
宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1… 宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1963年5月)は、明治から昭和にかけて福島県伊達郡を中心に活動した俳人である。幼名を文作、通称を寅吉といい、俳号として梅軒、また麦村とも称した。 福島県伊達郡伏黒村宮本(現伊達市)に生まれる。明治30年(1897年)、14歳で正岡子規主宰の「ホトトギス」に投句し、入選する。これを機に子規に師事した。明治38年(1905年)、機関紙「八重桜」を刊行し、「奥州に梅軒あり」と評される。明治41年(1908年)1月、「土筆(つくつくし)」を刊行する。 大正の初め、山梨県の宿で知り合った自称小説家の青年と意気投合し、文学談議に花が咲き深夜まで語り合う、という出来事があった。
松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月… 松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月22日 - 1962年〈昭和37年〉10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民。 妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる。 明治16年(1883年)12月22日、熊本県菊池郡城北村(鹿本郡菊鹿町、現在の山鹿市)中農の長男として生まれる。
小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12… 小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12月21日 - 1968年(昭和43年)7月31日)は、大正から昭和期の警察官、実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県大島郡、のちの天城村(現天城町)で、小林義志孝の二男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学専門部を卒業し、警視庁に入庁した。 警視庁警部補、二日市警察署(現筑紫野警察署)長、鴻巣警察署長、越谷警察署長、松山警察署(現東松山警察署)長、本庄警察署長、大宮警察署長、熊谷警察署長、府中警察署長、警視庁刑事部捜査課強力犯係長、同特高課労働係長、小石川警察署(現富坂警察署)長、大塚警察署長などを歴任。1929年(昭和4年)鹿児島県庁に転じて大島支庁長に就任し1936年(昭和11年)まで在任した。
北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月2… 北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月20日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、貝塚市有功者。貝塚市議会議員。北野織布合名会社代表社員。北野タオル工場工場主。日本浴巾取締役。岸和田タオル商会取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野定治郎の長男。兵役満期後は一時祖業の農業を営む。農を廃して商業に転じ、親族関係を有する岡田伊平商店に入り、木綿仲買業に3年従事する。 独立し綿布製織を創める。父が蕩尽した家産は回復し、以前より倍の産を築く。1920年、兼松商店の浴巾製織工場が海塚に建設されると、清治はこれに賛与し自家営業を廃して同会社に投資し、役員選挙の結果、常務取締役の重任に選ばれ、就任する。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12… 金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12月18日 - 1964年〈昭和39年〉7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。 1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組問題より画壇から遠ざかったことに起因して「幻の画家」と評されたほか、雪を描いた名画を多く残したことで「雪の画家」とも呼ばれた。 1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。神戸尋常小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 19… 山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 1943年9月11日)は、日本の国文学者。 神奈川県横浜生まれ。本籍・兵庫県出石郡。第四高等学校卒、1909年東京帝国大学文科大学国文科卒。1910年逓信省機関逓信協会主幹嘱託(-1914年)、英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託(-1918年)、1916-1919年駿台英和女学校教員嘱託、1919年山口高等学校教授、1922年國學院大學教授。1932年同辞職、死去時には日本文学報国会所属。別名・目黒麦男。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12… 春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12月17日 - 1952年(昭和27年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、外務参与官。ジャーナリスト。 静岡県富士郡今泉村(現在の富士市)出身。鳥取県立鳥取第一中学校を経て、1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済学科を卒業した。『時事新報』『東京朝日新聞』『東京日日新聞』の各社で記者を務めた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。犬養内閣では床次竹二郎鉄道大臣の秘書官を務め、岡田内閣で床次が逓信大臣に就任すると再度秘書官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加。
河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月1… 河合 裸石(かわい らせき、1883年〈明治16年〉12月17日 - 1941年〈昭和16年〉3月6日)は日本の新聞記者。文筆力のみならず企画力にも優れ、趣味のスキーの振興に力を尽くした。 1883年(明治16年)12月17日、新潟県三島郡寺泊町にて、河合勝十郎の4男として生まれる。兄3人、姉3人に次ぐ第7子だったので、本名は七郎とつけられた。生まれつき体が弱い子だったため、母親は村はずれにある「裸石地蔵」に通って願掛けし、その加護で丈夫に育つことができたと七郎に聞かせた。 七郎が3歳のとき、経済的に困窮した河合家は、呉服商を開いていた親戚筋を頼って、北海道の岩見沢に移住した。やがて長兄の俊太郎が小樽で味噌や醤油の問屋を手掛けて成功したため、七郎は兄に引き取られて、少年時代を小樽で過ごすことになった。
赤木 朝治(あかぎ ともはる、1883年(明治16年)12月… 赤木 朝治(あかぎ ともはる、1883年(明治16年)12月16日 - 1963年(昭和38年)6月28日)は、日本の内務官僚。岡田内閣の内務次官、県知事。 岡山県庄村(現:倉敷市)出身。赤木頼太郎の二男として生まれる。郵便局で勤務し、関西中学、第六高等学校を経て、1912年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年7月、内務省に入り山梨県属となる。同年11月、文官高等試験に合格した。 1914年5月、山梨県理事官に就任。以後、岐阜県視学官、内務省警保局事務官、内務書記官・警保局図書課長、同局保安課長、大臣官房文書課長、内務省参事官、内務監察官、内務書記官・大臣官房会計課長兼地理課長、兼内務大臣秘書官、神社局長、復興局経理部長、兼同整地部長などを歴任。
青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - … 青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - 1972年2月22日)は、日本のキリスト教研究者、牧師、文筆家。植村正久の研究で知られる。徳島県板野郡大津村(現鳴門市)出身。 板野郡大津村で生まれる。幼少期、僧侶となるように、実家の菩提寺に預けられた。しかし、教師を目指して徳島師範学校を卒業。キリスト教に回心して、ニコライ神学校を卒業して、貧しい子供の教育活動を行った。 渡米して、プリンストン神学校を卒業する。帰国後に、植村正久を研究して、全集を出版する。また。「福音新報」に執筆した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金子 彦太郎(かねこ ひこたろう、1883年〈明治16年〉1… 金子 彦太郎(かねこ ひこたろう、1883年〈明治16年〉12月15日 - 1963年〈昭和38年〉12月4日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。静岡県富士郡今泉村長、吉原市長。静岡県会議長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵少尉。富士市名誉市民。 金子利七の長男として静岡県富士郡今泉村(吉原町、吉原市を経て現富士市)に生まれる。小学校卒業後、静岡中学校に学び、野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1905年(明治38年)札幌農学校林学科を卒業。翌年の1906年(明治39年)9月、陸軍に入り、陸軍砲兵少尉に進み、1910年(明治43年)除隊帰郷した。 1921年(大正10年)今泉村会議員に当選。
横川 豊野(よこがわ とよの、1883年〈明治16年〉12月… 横川 豊野(よこがわ とよの、1883年〈明治16年〉12月15日 - 1963年〈昭和38年〉11月5日)は、日本の福祉事業家、社会事業家。高知県の中学生向けの寄宿舎「学生ホーム」設立をはじめとして、福祉事業や社会事業に関する多くの役職を歴任し、教育や福祉の分野で大きな業績を残した。旧姓は、清水。 山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)で誕生した。実家の商家が破産したために上京し。東京明治女学校を経て津田英学塾(現在の津田塾大学)に進学したが、結核のために1906年(明治39年)に中退した。 高知県佐川の商大生と結婚したが、夫は子供が11歳のときに別の女性と関係を持ち、家を出た。豊野は信仰と子供の養育に生涯を捧げようと思ったものの、その息子が脳卒中で死去した。
岡橋 林(おかはし しげる、1883年12月15日 - 19… 岡橋 林(おかはし しげる、1883年12月15日 - 1959年11月24日)は、日本の実業家。元住友銀行社長。 福岡県出身。明治39年(1906年)東京高商(現・一橋大学)を卒業し、同年住友銀行に入り下関、名古屋、東京各支配人を経て常務、昭和15年(1940年)専務翌年社長と改称。また住友本社、住友信託、住友倉庫、住友生命、住友ビル、昭和銀行各取締役のほか、住友金属工業、住友電気工業、住友化学工業、住友鉱業、住友機械工業、住友アルミ製錬、四国中央電力、日本板硝子各監査役を兼ねた。戦時中は大阪銀行集会所会長、敗戦直後関西経済連合会常務理事を務めたが、公職追放となり、解除後の昭和28年(1953年)第5次吉田内閣の経済最高顧問となった。
植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12… 植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12月14日 - 1969年〈昭和44年〉4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。 和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市)の富裕な農家に生まれた。大東流を初めとする柔術・剣術など各武術の修行成果を、大本教や神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。開祖の他の敬称として「翁」(おう)。特に古い高弟は「翁先生」・「大(おお)先生」と呼ぶ。 身長156cmながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝が有り、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。
志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)… 志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)12月13日 - 1956年(昭和31年)10月15日)は、日本の喜劇役者。新派劇団を結成、後に喜劇に転じた。「淡海節」は一世を風靡した。 1883年(明治16年)12月13日、滋賀県滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市堅田2丁目)の割烹旅館の子として生まれ、本名は田辺耕治。江州音頭で注目を浴び、18歳の時に芸界へ入り芸名を桜川国丸と名乗った。1905年(明治38年)新派劇団堅国団を組織して座長となり、1908年(明治41年)喜劇に転じて、芸名を志賀廼家淡海と改め座名も八景団と変えて地方巡業で芸を磨いた。一世を風靡した「淡海節」は地方巡業の途中舞鶴の浜でヒントを得たと伝えられ、1917年(大正6年)熊本の舞台で発表し、天性の美声もあって世間から絶大な評判を得、1919年(大正8年)一座解散の後喜劇界に進出し、曾我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界名優として知られた。
鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈… 鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1952年〈昭和27年〉9月10日)は、日本の紡績技術者、実業家。日清紡績第3代社長。 新潟県新潟市本町通14番町(現 新潟市中央区本町通14番町)の鷲尾甚平の長男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1908年(明治41年)9月に日清紡績に技師として入社、見習生、主任を経て、1915年(大正4年)12月に高岡工場長に就任、1917年(大正6年)2月から東京紡績の創立とともに工務部長として工場建設に従事。
川橋 豊治郎(かわはし とよじろう、1883年〈明治16年〉… 川橋 豊治郎(かわはし とよじろう、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1967年〈昭和42年〉10月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は井村。 奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)生まれ。井村萬三の三男として生まれ、川橋鉄之助の養子となる。1904年(明治37年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東西電球取締役、寿重工業取締役、尾平鉱業取締役、東洋硫黄工業取締役などを務めた。 政界では京都市会議員、同参事会員、京都府方面委員などを務めた。1922年(大正11年)1月26日から1925年(大正14年)5月20日まで第21代京都市会副議長を務めた。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に京都府第1区から立憲民政党所属で出馬して当選。
富永 堅吾(とみなが けんご、1883年(明治16年)12月… 富永 堅吾(とみなが けんご、1883年(明治16年)12月10日 - 1960年(昭和35年)9月17日)は、日本の著作家。宮本武蔵についての著作が多く、主に歴史などの著作が多い。死後には息子の富永文夫が「史実宮本武蔵」に後書きをしている。 明治16年(1883年)に富永大平、シカ(両者生没年不詳)のもとで、現在の熊本県菊池市に生まれる。後に合志義塾で学び、熊本師範学校で学ぶようになる。 卒業後は、地元に位置する尋常高等小学校に勤める。その後、一度地元を離れ東京高等師範学校に入学。約3年間学んだ後に、広島に移住した。広島高等師範学校の教諭やそれ以外にも東京府立第一中学校、母校の東京高等師範学校の教諭も務めている。
逆瀬川 仁次郎(さかせがわ にじろう、1883年(明治16年… 逆瀬川 仁次郎(さかせがわ にじろう、1883年(明治16年)12月8日 – 1930年(昭和5年)10月29日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)。ジャーナリスト。 鹿児島県姶良郡敷根村(現在の霧島市)出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を卒業して東京高等師範学校に進むが退学。第一高等学校 (旧制)を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大阪毎日新聞社に勤務した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に政友本党で立候補して落選するが、1926年(大正15年)11月1日の衆議院鹿児島7区補欠選挙で当選。
岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12… 岡本 武三(おかもと たけぞう、1883年(明治16年)12月7日 - 1943年(昭和18年)1月17日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、外交官及領事官試験合格し翌年に領事官補として上海に勤務した。以来、領事、外務事務官、同書記官、大使館二等書記官、同一等書記官、同参事官を歴任し、その間、中国、イギリス、イタリアに勤務。さらに天津総領事、イタリア大使館参事官を経て、1932年(昭和7年)から駐イラン公使を務めた。1938年(昭和13年)には、東亜研究所発足時の理事に就任している。 1943年(昭和18年)1月17日没、墓所は東京都文京区の護国寺。
仙波 久良(せんば ひさよし、1883年〈明治16年〉12月… 仙波 久良(せんば ひさよし、1883年〈明治16年〉12月5日 - 1975年〈昭和50年〉2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。勲等は勲四等。 滋賀県東浅井郡湯田村(現・長浜市)生まれ。私立攻玉社工学校で学ぶ。満州に渡り、南満州鉄道(株)に入る。満鉄は入社10年あまりで退社した。のち満州石材工業(資)代表社員、東洋石材工業(資)専務取締役、満州日本居留民代表、同参事会員となる。 1928年(昭和3年)10月に大連市会議員に選ばれ、1932年(昭和7年)の任期満了まで務めた。その後、同年の第18回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月… 岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月3日 - 1962年(昭和37年)2月10日)は、明治 - 昭和期の小説家、劇作家、劇評家。芹影(きんえい)、芹影女、伊達虫子などの筆名を用いた。