柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1… 柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1995年1月25日)は、日本の国文学者、俳人。 岐阜県大垣市出身。別名読み・ちじょう。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。各地の中学教諭を経て、1947年金城女子専門学校教授、72年から金城学院大学学長、79年定年退任、名誉教授となる。1925年キリスト教入信。倉田百三主宰の「生活者」に参加。また俳誌「橋」を主宰する。
三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年… 三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年> 5月26日 - 1995年 <平成7年> 8月3日)は、彫刻家、日本芸術院会員。本名は政治。位階は従四位。 福島県郡山市出身。1937年東京美術学校彫塑科卒業、新文展初入選。1939年研究科を修了し、その後清水多嘉示に師事。1947年日展特選。1961年日展審査員。1970年日展桂花賞受賞。1971年日展評議員。1972年日展文部大臣賞受賞。1979年日本芸術院賞受賞。1983年勲四等旭日小綬章受章。1986年日本芸術院会員。1987年郡山市名誉市民。1992年勲三等瑞宝章受章。1995年死去。死没日付をもって従四位に叙された。墓所は多磨霊園 熊本市にある宮本武蔵のブロンズ像、立教大学内の立教大学創始者ウイリアムズ主教像などの他、東京都練馬区や故郷の福島県郡山市に多くの作品がパブリックアートとして残る。
横内 要(よこうち かなめ、1908年〈明治41年〉5月25… 横内 要(よこうち かなめ、1908年〈明治41年〉5月25日 - 1989年〈平成元年〉 4月30日)は、日本の政治家。山梨県韮崎市長(4期)。位階は正五位。山梨県知事の横内正明と元韮崎市長の横内公明の父。 山梨県北巨摩郡韮崎町(現:韮崎市)で生まれた。1927年甲府市立商業学校(現・甲府市立甲府商業高等学校)卒。1937年北巨摩郡竜岡村会議員に当選。1955年山梨県議会議長に当選。県議会議長も務めた。1962年韮崎市長に当選。市長を4期16年務め、1977年に自治大臣表彰を受ける。翌1978年に韮崎市長を退任。退任後、市から名誉市民を贈られた。1989年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
藤林 甲(ふじばやし こう、1908年5月25日 - 197… 藤林 甲(ふじばやし こう、1908年5月25日 - 1979年8月21日)は、日本の照明技師である。牧野省三のマキノ・プロダクションにキャリアを始め、東宝を経て戦後、日活の製作再開とともに新東宝から移籍、石原裕次郎主演作のほとんどすべての照明を設計した。テレビ映画では、ユニオン映画の初期作品を手がけたことで知られる。本名は同じで読みが「ふじばやし まさる」。初期別名藤林 まさる(ふじばやし まさる)。日本映画テレビ照明協会の第5代・第7代会長を歴任した。 1908年(明治41年)5月25日、福岡県福岡市に生まれる。 1921年(大正10年)3月、旧制小学校を卒業、同年4月、福岡県筑紫郡堅粕町(現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校(現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する。
安藤 吉光(あんどう よしみつ、1908年5月24日 - 1… 安藤 吉光(あんどう よしみつ、1908年5月24日 - 1984年5月14日)は、昭和時代の日本の外交官。 東京に生まれる。1931年東京帝大法学部法律学科卒、住友銀行入社。1934年外交官試験に合格し、外務省入省。米国書記生、中華民国在勤、東亜局、アメリカ局勤務、1946年調査局第三課長、終戦連絡大阪事務局勤務、連絡調整中央事務局秘書課長兼総務課長、政務局総務課長等を歴任。1951年7月ワシントン日本政府在外事務所、1952年4月在アメリカ合衆国日本国大使館参事官として赴任。 その後、1953年本省審議室勤務、外務審議官、条約局参事官、アジア局参事官を経て、1957年9月在香港日本国総領事館総領事を命ぜられる。
長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 199… 長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 1994年4月21日)は、日本の小説家。 北海道夕張郡長沼町生まれ。北海道農産物検査所に勤めるかたわら創作を始める。1928年「母胎より塚穴へ」が「小樽新聞」の懸賞小説1等入選となる。上京して谷崎精二に師事、早稲田高等学院卒後、1938年早稲田大学文学部仏文科卒。八木義徳と親交を結ぶ。1939年『姫鱒』で第9回芥川賞候補。敗戦後は千歳市の米軍キャンプで通訳を務める。最初の妻(死別)は野村尚吾の妹。1985年千歳市文化功労賞受賞、1990年北海道文化賞受賞。
糸岡 富子(いとおか とみこ、1908年〈明治41年〉5月2… 糸岡 富子(いとおか とみこ、1908年〈明治41年〉5月23日 - 2024年〈令和6年〉12月29日)は、日本のスーパーセンテナリアン。2023年12月12日から死去まで長寿日本一となっており、2024年8月19日から死去までは、存命中の世界最高齢であった。生前は兵庫県芦屋市在住。 大阪府大阪市北区出身。呉服問屋を営む矢野禎助(または常三郎)の長女として生まれる。小学校卒業後、ウヰルミナ女学校(現:大阪女学院中高等学校)に進学し、バレーボール部に所属する。1926年(大正15年)女学校を卒業後、1928年(昭和3年)に羅紗商を営む糸岡健司と結婚。2人の娘と2人の息子をもうけた。 戦時中、韓国で繊維工場を経営していた夫に代わって、一人で日本の事務所を守り、子育てをした。
押鐘 篤(おしかね あつし、1908年5月23日 - 199… 押鐘 篤(おしかね あつし、1908年5月23日 - 1990年10月25日)は、歯科医学者、性科学者。別名・神田駿一。1940年医学博士(東北帝国大学)。 長野県下高井郡中野町(現中野市)生まれ。1931年日本大学専門部歯科卒業。母校助手。1946年慶應義塾大学附属医学専門部卒業、医師国家試験合格。1949年日本大学歯学部教授、1971年同大学松戸歯学部教授、1978年定年退職、名誉教授。
平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - … 平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - 1995年3月20日)は、日本の社会学者。早稲田大学名誉教授。 秋田県横手市に生まれる。横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)卒、早稲田第二高等学院卒、1931年早稲田大学政治経済学部卒。 1936年同助手、1938年講師、1941年助教授、1945年教授、1954-56年社会政策学会代表幹事、1964-66年社会政策学会代表幹事、1969-72年附属図書館長、1979年定年退任、名誉教授、日本社会事業大学学長・教授、86-92年日本生産性本部会長、91年退任、名誉教授、1955年「社会政策論研究 社会政策と資本主義との関連を中心として」で、経済学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。
小池 勇二郎(こいけ ゆうじろう、1908年〈明治41年〉5… 小池 勇二郎(こいけ ゆうじろう、1908年〈明治41年〉5月20日 - 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、日本の通信技術者、通信工学者、電気工学者、電子工学者。工学博士。松下電器産業東京研究所所長、松下電器産業中央研究所所長、株式会社松下電器東京研究所取締役社長、松下技研株式会社取締役社長。東北大学名誉教授、テレビジョン学会名誉会員。 新潟県中蒲原郡茨曽根村茨曽根(現 新潟市南区茨曽根)出身。1925年(大正14年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1928年(昭和3年)3月に新潟高等学校を卒業、1931年(昭和6年)3月に東北帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 1931年(昭和6年)5月に日本放送協会に入局、日本放送協会仙台放送局に配属、日本放送協会本部技術局に異動、送信用の大出力真空管を開発、日本放送協会東京大電力放送所を設計、π型回路の簡易な設計法を発表した。
下島 連(しもじま むらじ、1908年5月20日 - 198… 下島 連(しもじま むらじ、1908年5月20日 - 1986年10月18日)は、日本の英文学者、翻訳家。亜細亜大学教授。芥川龍之介の主治医であった下島勲の甥(後に養子)。 長野県上伊那郡中沢村(現・駒ヶ根市)出身。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年、京都帝国大学文学部英文科を卒業し、同年東京帝国大学英文科大学院に入学するが、翌年中途退学。その後すぐに文芸春秋社に入社。『文芸日本』誌の編集長を経て、1955年から1967年にかけて『アメリカーナ』誌(後に『日米フォーラム』誌に改題)の編集長を務める。 1967年、亜細亜大学に非常勤講師に就任。1971年より同学教養部教授。
上條 静光(かみじょう せいこう、1908年(明治41年)5… 上條 静光(かみじょう せいこう、1908年(明治41年)5月20日 - 2007年(平成19年)4月24日)は、日本画家。東京に生まれる。本名:上條健吉(かみじょう けんきち)。 現在の東京都荒川区日暮里の商家に生まれる。父方の本家は江戸、現在の中央区日本橋の油問屋・桝屋の屋号で商いをする油問屋であった。母は石川県輪島市の出身で輪島塗頭領、木下家の長女。健吉が三歳の時に父が亡くなる。1915年(大正4年)第二日暮里尋常小学校入学、1921年(大正10年)卒業し、東京府私立順天中学校入学、在学中より画家を志す。1923年(大正12年)関東大震災、1925年(大正14年)日暮里の大火で生家を焼失する。
綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - … 綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - 1969年7月14日)は、宮城県仙台市青葉区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大場 竹藏(おおば たけぞう)。最高位は西関脇。 1908年5月20日に宮城県仙台市青葉区で生まれる。当初は、日中を仙台の税務署で勤務しながら過ごして夜は学校に通って勉強する生活(現在で言えば定時制)を送っていたが、ある日近所の好角家から体格を見出されたことで千賀ノ浦部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。 1928年に部屋ごと出羽海部屋へ移籍してからは、当時角界一の強豪とも言われていた出羽海部屋の関取から激しい稽古を受けて成長し、1931年5月場所において双葉山定次と共に新十両昇進を果たした。
藤田 辰三(ふじた たつぞう、1908年5月19日 - 没年… 藤田 辰三(ふじた たつぞう、1908年5月19日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(ハードル)選手。東京文理科大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに110メートルハードルで出場した。 旧制津山中学校(現在の岡山県立津山中学校・高等学校)出身。 1932年(昭和7年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1932年5月14日の日本学生陸上競技対校選手権大会の110メートルハードルで15秒0の記録(日本記録、同時に日本学生記録)を出し、同年6月22日の五輪選手送別大会でもこれと並ぶ記録を出した。 1932年ロサンゼルスオリンピックで男子110メートルハードルに出場した。準決勝敗退。
安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月… 安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月19日 - 1992年(平成4年)11月4日)は、日本の詩人、歌人。中原中也との親交が深く、多くの書簡を交わした人物として知られる。 1908年(明治41年)東京市芝区生まれ、その後目黒で育った。旧制成城第二中学校(1926年に旧制成城高等学校となる)に進み、そこで加藤英倫、富永次郎、古谷綱武などと知り合う。また、高校在学中の1928年(昭和3年)秋に、同じく学友である大岡昇平の紹介で中原中也と知り合った。後に大岡、中原らとともに同人誌『白痴群』を共同で企画し、1929年(昭和4年)4月に創刊した。また、同時期に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、京都市左京区百万遍にある京都アパートメントに転居する。
井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 19… 井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 1983年9月29日)は日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の井口愛子(後に佐藤愛子)と、前妻の井口秋子もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。 井口基二と秀の長男として東京府東京市日本橋区浜町(現東京都中央区日本橋浜町)に生まれる。 1915年、浜町尋常小学校入学。1921年、京華中学校入学。16歳から田中規久士にピアノを師事。東京音楽学校器楽部ピアノ科にて高折宮次、レオニード・コハンスキに師事する。卒業後フランスに留学、イヴ・ナットのもとで研鑽を重ねた。1934年、帰国後初のリサイタルを日比谷公会堂で行い、その後活発な演奏活動を展開する。
島田 伊平次(しまだ いへいじ、1908年〈明治41年〉5月… 島田 伊平次(しまだ いへいじ、1908年〈明治41年〉5月16日 - 没年不詳)は、日本の実業家。元高島副社長、同社相談役。 1908年、東京都生まれ。高千穂高等商業学校第13回卒業。 1937年高島屋商店に入社。その後監査役に選ばれ、1942年高島屋工業取締役資材部長に就任。 工機営業各部長、日本染色監査役を経て常務取締役になり、後副社長に推され1972年定年退職をした。 その他、タカシマビルデング、日本騒音コンサルタント社長を務めた。 妻は高島創業者の高島幸太吉の娘・静枝。
砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1… 砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1988年6月15日)は、日本の医師。 明治41年生まれで三重県阿山郡大山田村(現伊賀市)出身。1933年に東京帝国大学医学部を卒業後に1943年に医学博士。1933年(昭和8年)から国立療養所に勤め、結核薬の効用、手術成績などを研究。1957年(昭和32年)から国立療養所化学療法共同研究班班長として、結核薬の科学的薬効検定結果を発表した。国立東京療養所長を経て1961年から国立療養所東京病院長。1967年に厚生省薬事審議会に入り、1973年に同省の医事紛争に関する研究班班長を務めた。1978年に名誉院長となる。1965年に人類遺伝学会賞を受賞、1987年(昭和62年)にスモン基金賞を受賞する。
立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月1… 立石 春美(たていし はるみ、明治41年(1908年)5月16日 - 平成6年(1994年)4月27日)は昭和時代から平成時代のかけての日本画家。 明治41年(1908年)に佐賀県佐賀郡大和町(現・佐賀市)に生まれる。本名は春美(はるよし)。清方の作品に接して画家を志し、昭和2年(1927年)に上京、洋画家の梶原貫五の紹介により清方に入門を願うがかなわず、翌昭和3年(1928年)に深水画塾に入り、伊東深水に師事、日本画を学ぶ。昭和6年(1931年)に第12回帝展に「淑女」を出品、初入選を果たす。以降、帝展や新文展で活躍する。昭和26年(1951年)、朝倉賞を受賞する。その後、日展の委嘱を経て昭和38年(1963年)、日展審査員となった。
吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2… 吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2000年9月5日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校57期。海軍大学校卒。横須賀海軍航空隊で爆撃雷撃の研究、高雄海軍航空隊隊長、第一航空艦隊、第三艦隊航空参謀を経て第26航空戦隊司令部先任参謀として終戦。最終階級は海軍中佐。旧姓は大杉。 真珠湾攻撃に、第一航空艦隊航空参謀として参加。その奇襲成功を伝える暗号電文「トラトラトラ」(我れ奇襲に成功せり)を小野寛治郎通信参謀と二人で発案した。 ちなみに、実際にこれを打電した突撃飛行隊長の淵田美津雄は、当時誰もが奇襲攻撃を危ぶんでいた中で、その成功電文が「虎」の連打と知り、縁起が最高だと喜んだと言う。
渡辺 明(、1908年〈明治41年〉5月13日 - 1999… 渡辺 明(、1908年〈明治41年〉5月13日 - 1999年〈平成11年〉)は映画美術監督。福井県出身。愛称は「ナベさん」。 1929年(昭和4年)、美術学校を卒業後、松竹下賀茂撮影所に助監督として入社。その後、1931年(昭和6年)に美術担当となる。 1941年(昭和16年)、撮影技師だった円谷英二と知り合い、グラスワークなどのトリック撮影を円谷とともに研究する。同年、円谷に誘われ東宝に移籍。 1942年(昭和17年)、映画『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)で特殊美術を担当。特撮用ミニチュア製作など美術全般を担当する。 1947年(昭和22年)、『戦争と平和』(亀井文夫・山本薩夫監督)から特殊技術も兼任。
日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年>… 日野 開三郎(ひの かいざぶろう、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1989年 <平成元年> 9月29日)は、昭和期の東洋史学者。文学博士(学位論文『小高句麗国の研究』、1958年)。位階は正四位。 1909年、愛媛県伊予郡(現在の伊予市)で生まれた。愛媛県立松山中学校、官立松山高等学校を経て、1928年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。池内宏・和田清・加藤繁らのもとで学んだ。1931年に卒業。 その後は府立第九中学教諭を経て、1935年に九州帝国大学法文学部で勤務。昭和10年代より社会経済史的方法を東洋史分野に導入して、中世中国の社会史・経済史の研究で知られるようになった。 1946年に九州帝国大学(1947年九州大学に改称)教授に昇格。
萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明… 萩原 尊礼(萩原 尊禮、はぎわら たかひろ、1908年 <明治41年> 5月11日 - 1999年 <平成11年> 11月14日)は、日本の地震学者。理学博士(1942年、東京帝国大学・論文博士)。東京大学名誉教授。従三位。 イタリアやイラン大地震、福井地震や松代群発地震を調査し、萩原式電磁型地震計 (HES) を考案した[リンク切れ]。 東京府出身。開成中学、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地震学科を卒業。1933年東京帝国大学地震研究所に所属し、助手から助教授・地震研究所員(1941年)を経て教授に就任(1944年)。戦後、1965年から1967年まで東京大学地震研究所所長を務め、1969年定年退官、名誉教授。
山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 19… 山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 1995年1月10日)は、第三代シチズン時計社長(1946年 - 1981年)。静岡市出身。旧姓鈴木。 1908年、横浜に生まれる[要出典]。静岡県立静岡中学校を経て、1931年、東京商科大学卒業。同年、三井生命入社、1937年、シチズン時計入社、1941年、シチズン時計取締役、1944年、シチズン時計常務取締役、1945年、シチズン時計専務取締役、1946年、シチズン時計代表取締役社長。1968年、藍綬褒章受章、1978年、勲三等旭日中綬章受章、1981年、シチズン時計会長。1986年、シチズン時計取締役相談役、1987年、シチズン時計相談役。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978年1月17日)は、日本の写真評論家、写真家。 岐阜県出身。中津商業を卒業。 写真評論、アマチュア写真家の啓蒙、雑誌編集などで、戦前から戦後にかけて活躍。著書多数。評論書のみならず技法書も執筆。 戦前には報道写真家としても作品を発表した。東方社にも参加した。 戦後の活動としては、「世界画報」(1946年創刊)の編集長となったり、木村伊兵衛賞の最初期の選考委員も務めた(具体的には、第2回、第3回および第4回、木村伊兵衛写真賞の受賞者リスト年表)。 晩年は写真誌『アサヒカメラ』で写真批評を行ったほか、社団法人日本写真協会の理事も務めた。 1978年1月17日、胃がんにより東京都新宿区の東京厚生年金病院にて死去。
大久保 洋(おおくぼ よう、1908年5月9日 - 2002… 大久保 洋(おおくぼ よう、1908年5月9日 - 2002年3月30日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。本名は大久保 洋海(おおくぼ ひろみ)。 東京生まれ。1931年慶應義塾大学文学部仏文科卒。1936年より銀座でフランス語講座を開く。1943年海軍嘱託としてサイゴンに赴く。戦後、慶大助教授、教授、1974年定年、名誉教授。 作家の坂口安吾と親しかった。
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
立花 敏男(たちばな としお、1908年(明治41年)5月7… 立花 敏男(たちばな としお、1908年(明治41年)5月7日 - 1994年(平成6年)3月13日)は、昭和期の労働運動家、地方公務員、政治家。衆議院議員。 兵庫県淡路島出身。1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1930年(昭和5年)『第二無産者新聞』の編集に加わる。1931年(昭和6年)逮捕投獄された。小岩井浄、木下半治らの「日本政治経済研究所」に参加。1936年(昭和11年)人民戦線事件で検挙された。 1946年(昭和21年)神戸市役所に入所し、同年、日本共産党に入党。神戸市役所書記、神戸労働保険組合書記、神戸市職員組合副委員長、神戸市労働組合連合会書記長などを歴任。
河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 199… 河村 泰男(かわむら やすお、1908年5月7日 - 1997年10月13日)は日本のスピードスケート選手。滋賀県生まれ。 1908年(明治41年)5月7日滋賀県大津市生まれ。1911年(明治44年)春、一家で朝鮮半島へ渡り、次いで満州へ移住。成人して冬季はスピードスケート、夏季は自転車競技、陸上競技に専念する。 1931年(昭和6年)、日本スピードスケート最初の海外遠征として欧州選手権(ストックホルム)、世界選手権(ヘルシンキ)等に参加。 1932年(昭和7年)のレークプラシッドオリンピック、1936年(昭和11年)のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに参加。1946年(昭和21年)夏、一家で旧満州から引き揚げ後大阪市、1947年(昭和22年)12月~石川県金沢市(体育協会)、1951年(昭和26年)夏~函館市(函館新聞・市役所・教育委員会)、1970年(昭和45年)札幌市(札幌オリンピック組織委員会)と移住。
古谷 綱武(ふるや つなたけ、1908年5月5日 - 198… 古谷 綱武(ふるや つなたけ、1908年5月5日 - 1984年2月12日)は、日本の文芸評論家。古谷重綱の子。 ベルギー生まれ。父親が外交官だったため小学生になるまではロンドンで暮らす。小学生時代は父の赴任に従い国内外を転々とし、13歳で一人日本(宇和島の叔父宅)に残り、1922年に旧制宇和島中学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)に入学。1924年、母と兄弟が帰国し、青山学院中等部に編入、1925年に旧制成城中学校に転入。1926年に成城高等学校に入学するが、1929年に中退した。外交官を辞してブラジルでのバナナ栽培で成功した父親が東中野に自宅を建設、高校生の綱武がその設計をした。 高校中退後、同級生だった大岡昇平らと同人雑誌『白痴群』に参加し、中原中也、小林秀雄らと知り合い、文藝評論を行う。
末永 茂喜(すえなが しげき、1908年5月5日 - 197… 末永 茂喜(すえなが しげき、1908年5月5日 - 1977年1月22日)は、日本の経済学者。東北大学名誉教授。おもに古典派経済学を研究した。 山口県萩市出身。1931年東北帝国大学法文学部卒。東北帝大副手、1940年助教授、1941年退官、参謀本部調査事務嘱託、中央物価統制協力会議調査部長、総理府統計局経済部長、1950年東北大学経済学部教授。1952年「リカアドウの貨幣論」で経済学博士。経済学部長。1972年定年退官、名誉教授。財団法人・東北経済調査協会理事。
田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 198… 田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 1989年3月3日)は、日本の実業家。元阪神電気鉄道社長。元阪神タイガースオーナー。 次弟は、元三菱自動車工業会長の田中利治。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部法律学科卒業。 1921年(大正10年)三豊中学に入学。在学中は、実技が出来ないにもかかわらず、野球への趣味は相当強いものがあり、少ない対外試合にも熱心に観戦に出掛けていた。当時の野球部長の目に留まり、4年生の時に半ば強制的にマネージャーとなる。同野球部には、第6回全日本都市対抗野球大会優勝投手の木村秀一(全神戸)が在籍していた。
山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 19… 山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 1992年)は、岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身の窯業技術者。日本最大のモザイクタイル産地である笠原町におけるモザイクタイルの先駆者である。 1908年(明治41年)5月3日に岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)窯区に生まれ、笠原尋常高等小学校(現多治見市立笠原小学校)を卒業した。1924年(大正13年)3月に土岐窯業学校(現岐阜県立多治見工業高等学校)を卒業すると、15歳で京都市立陶磁器講習所(後の国立陶磁器試験所)に伝習生として入所し、近代窯業やタイルの製造技術を学んだ。京都市立陶磁器講習所では陶芸家の宇野仁松に注目され、試験所の試作品を焼成する工場に雇われた。
山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993… 山城 章(やましろ あきら、1908年5月3日 - 1993年2月3日)は、日本の経営学者。一橋大学・創価大学名誉教授。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現・日南町)に生まれる。1927年島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)卒、1930年高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)卒、1933年東京商科大学(現・一橋大学)卒。増地庸治郎の指導を受けた。1961年「現代企業の経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。横浜市立横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)教授、東京商科大学教授、1949年一橋大学助教授、1952年教授。1972年定年退官、名誉教授、東洋大学経済学部教授、1978年創価大学経営学部教授、のち名誉教授。
菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日… 菊池 一雄(きくち かずお、1908年(明治41年)5月3日 - 1985年(昭和60年)4月30日)は、日本の彫刻家。第1回毎日芸術賞を受賞。 菊池契月の長男として、京都市に生まれる。1926年(大正15年)に上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、1929年(昭和4年)に創設されたばかりの二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。後の1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部に入学し、在学中に自身の作品が初めて入選された。 卒業後の、1936年(昭和11年)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。1939年(昭和14年)に帰国し、2年後の1941年(昭和16年)に新制作派協会員の一員となった。
南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976… 南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976年4月28日)は、日本の洋画家。人物画を得意とした。 1908年(明治41年)5月3日、石川県羽咋郡志加浦村川尻(現・志賀町川尻)に生まれる。1935年(昭和10年)、東京美術学校油画科卒業。在学中には藤島武二に師事し、卒業の年に第二部会に出品して以降、官展、光風会展などに出品。1939年(昭和14年)の文展では「赤いチョッキ」で特選を受賞する。 第二次世界大戦中は中国への取材旅行を通じて戦争画も手掛けるようになり、1942年(昭和17年)の第二回聖戦美術展では「砲列布置」で陸軍大臣賞、「輸送船団」で海軍大臣賞を受賞した。 戦後は光風会の同志で交流のあった朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬、須田剋太らとともに新樹会を創立。
日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 199… 日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 1999年11月20日)は、日本の鉄道技術者。京浜急行電鉄副社長、東京電機社長、会長などを務めた。 1908年(明治41年)横浜市生まれ。電鉄技術者を志した日野原は1929年(昭和4年)に東京高等工業高校(現、東京工業大学)を卒業したが、折しくも世界恐慌で、なんとか開業準備中の湘南電気鉄道の金沢工場でに実習生のもと無給ながら湘南電気鉄道デ1形電車の装備品の取り付け工事などをし、当時の最新技術を体に叩き込んだ。そして1931年(昭和6年)、京浜電気鉄道に入社した。その後、戦時合併で大東急を経て発足した京浜急行電鉄だが、日野原は戦争で疲弊した鉄道の施設や車両をみて、電車部次長時代に1952年の4月から4ヶ月の間アメリカ、カナダの鉄道視察に出かけた。
土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 198… 土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 1982年12月17日)は日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算3期務めた。日本共産党中央委員会顧問。 島根県簸川郡多伎町(現・出雲市)出身。1931年に明治大学法学部を卒業し、1934年に東京中央郵便局へ入る。戦後は全逓信労働組合(全逓、現・日本郵政公社労働組合)結成に関わり、初代委員長に就任。全日本産業別労働組合会議(産別会議)副議長として1947年の二・一ゼネストを主導した。翌年、1947年12月16日付全逓信従業員組合声明書及び同年12月29日付全逓新聞第79号記事に関する件に関し、衆議院逓信委員会に証人喚問された。
稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 … 稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。
新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月… 新城 正一(あらしろ せいいち、1908年(明治41年)5月 - 1943年(昭和18年)8月)は、日本の作曲家、教師。 1908年(明治41年)、沖縄県恩納村名嘉真にて、瀬喜田、喜如嘉、宜野座、恩納の各小学校長を歴任した正成の長男として生まれる。沖縄県師範学校在学中に、恩師宮良長包と出会う。東京武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)卒業。 1938年(昭和13年)から、福岡県旧制小倉中学校・八幡中学校・門司中学校の教員となる。同年、陸軍省の愛馬進軍歌の作曲募集に応募、約5万件の応募作品の中から、一等に当選。 1943年(昭和18年)、喉頭結核にて35歳没。
釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1… 釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1968年5月11日)は、日本の国語学者、国文学者。 東京出身。群馬県立男子師範学校附属小学校、旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。旧制第一高等学校を経て、1932年、東京帝国大学国文科卒業。中央大学予科教授を経て、1939年9月文部省図書監修官。戦時中は石黒修などとともに大東亜共栄圏への日本語普及政策に関わっていた。戦後はGHQと連携を取りながら、西尾実とのコンビで国語改革や、国立国語研究所の創設に参与。1960年、東京外国語大学教授。在職中に死去。 一高と東大で同級生だった中島敦の親友で、パラオ南洋庁赴任の職の斡旋をし、死後の全集編纂などに尽くした。
国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28… 国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28日 - 2005年1月11日)は、日本の民族学者、考古学者。梅光女学院大学名誉教授。台湾の歴史、考古学などを研究した。 1908年、東京に生まれ、台湾で育つ。1930年、台湾総督府台北高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。1933年に卒業論文「近世初頭に於ける精神的轉向に就いて」をまとめて、卒業。 在学中に学生運動にかかわったため当局ににらまれ、台湾に戻って台南州立台南第一女学校教諭。鹿野忠雄の影響を受けて民族学や考古学に関心を持つようになり、1937年に鹿野・御園生暢哉とともに現地人シャーマン・カリヤルの助けを借りて蘭嶼で民族調査を行った。
寺田 竹雄(てらだ たけお、1908年4月27日 - 199… 寺田 竹雄(てらだ たけお、1908年4月27日 - 1993年9月10日)は、洋画家。日本芸術院会員。
山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月… 山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月27日 - 1970年〈昭和45年〉10月31日)は、日本の銀行家。紀陽銀行頭取、大阪植木社長、大日本除虫菊取締役、白浜温泉ホテル監査役を務めた。父は紀伊貯蓄銀行頭取を務めた山口孫七。 和歌山県海草郡山口村(現・和歌山市)出身。山口孫七の長男。1931年、東京農業大学農学部卒業。大日本除虫菊監査役・取締役・専務を経て、1949年紀陽銀行取締役、1952年常務、1955年頭取。 趣味は美術工芸品、ゴルフ、運動、煙草。宗教は浄土宗。住所は大阪府泉北郡高石町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
楢岡 力(ならおか つとむ、1908年〈明治41年〉4月26… 楢岡 力(ならおか つとむ、1908年〈明治41年〉4月26日 - 没年不明)は、日本の実業家。菱光証券会長。東証正会員協会理事。旧姓・戸次。 福岡県山門郡城内村(現・柳川市)出身。戸次純一の六男。楢岡徹の養子となる。1929年、横浜高商を卒業する。川崎第百銀行に入る。1943年、合併により三菱銀行に入る。 1953年、四日市支店長。1956年、浅草橋通支店長。1959年、京橋支店長。1960年、札幌支店長。1962年に丸ビル支店長、同年加賀証券(のち菱光証券)社長に就任。1974年に会長に就任。 趣味は庭球。住所は神奈川県横浜市神奈川区六角橋3丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 19… 大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 1999年10月27日)は、日本の小説家、劇作家。 第4代日本作家クラブ会長。日本放送作家組合(現・日本脚本家連盟)の創立以来、理事長を務め、日本著作者団体協議会会長など文化団体の会長、理事、評議員など歴任。 東京府立第一中学校を卒業後に慶應義塾大学仏文科入学。1932年に同校中退後、1933年同人雑誌「大衆文学」を創刊。1939年に長谷川伸が主宰する新鷹会に入会した。1939年頃、長谷川伸主宰の劇作研究会で舞台脚本を執筆。 1943年に野間文芸奨励賞を受賞。 戦後は都会風俗を描き、ラジオ、テレビの脚本を多く書き、「あの波の果てまで」などの人気テレビドラマの脚本を手掛けた。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1… 山下 三郎(やました さぶろう、1908年4月25日 - 1999年7月13日)は、商船三井の前身のひとつである山下新日本汽船の社長などを歴任した、日本の実業家。青年期には、短編小説などでも注目された。 神奈川県横浜市に、「泥亀」、「船成金」などと称された山下汽船の創業者・山下亀三郎の次男として生まれる。 慶應義塾大学に学び、在学中には川端康成、室生犀星らと交わり、同人誌に短編小説発表するなどして、文学者としての将来を期待されたが、1931年に法学部を卒業すると、父の命に従い山下汽船に入った。北原武夫らと文芸誌『新三田派』を創刊したが、直後に渡仏した。山下の文筆活動は、卒業後もしばらく続き、1938年には短編集『室内』が出版された。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 和歌山県出身。1928年建畠大夢に師事。帝展に出品、1933年東京美術学校彫刻科卒、1935年同研究科修了、文展に出品、1938年特選、1939年自由学園講師、1947年日展特選、1953年日展審査員、1962年日展評議員、1969年日展文部大臣賞受賞、1970年日本彫塑会理事、1972年武蔵野美術大学教授。1973年和歌山県文化賞受賞、1974年日本芸術院賞受賞、1975年日展理事、1977年日本芸術院会員、1978年日展常務理事、1979年勲三等瑞宝章受章。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月2… 大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月24日 - 1938年〈昭和13年〉9月26日)は、日本の詩人。才能に恵まれながらも早世した女流詩人とされる。 1908年(明治41年)4月24日、北海道余市町で誕生した。1917年(大正6年)に小樽区に転居。小樽高等女学校(後の北海道小樽桜陽高等学校)に入学したが、病気により中退。上京して洋裁を学び、1926年(大正15年)に小樽洋服裁縫女学院を設立した。1932年(昭和7年)の解院までに、約200人の卒業生を送り出した。 20歳代から、詩作に本格的に取り組み、文学雑誌『新短歌時代』『詩歌建築』などに詩を投稿した。詩人の宮崎丈二に認められたことで、宮崎に師事し、1931年(昭和6年)、同人誌『河』に参加した。