スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
押田 茂實(おしだ しげみ、1942年11月11日 - )は… 押田 茂實(おしだ しげみ、1942年11月11日 - )は、日本の医師、法医学者である。日本大学名誉教授。 専門は、医療事故の現状分析と予防対策、DNA型鑑定、中毒の代謝などであり、法医鑑定(埼玉県内の法医解剖の他、親子鑑定・医療事故などの鑑定や物件鑑定・再鑑定)に携わっている。日本のDNA型鑑定の第一人者として、保土ヶ谷事件(ある監察医が解剖しないで鑑定書を作成したのではないかという疑惑事件)の臓器のDNA型鑑定や東電OL事件のDNA鑑定、足利事件のDNA型鑑定、飯塚事件の鑑定を行ったことでも知られる。 押田は高校時代、どちらかと言うと文化系の科目が得意としており、「将来は弁護士か外交官」と思っていたという。
竹本 修三(たけもと しゅうぞう、1942年5月5日 - )… 竹本 修三(たけもと しゅうぞう、1942年5月5日 - )は、日本の地球物理学者。専門は、固体地球物理学・測地学。 京都大学大学院理学研究科教授を経て、同大名誉教授。国際高等研究所フェロー。 埼玉県秩父市生まれ。埼玉県立熊谷高等学校をへて、1965年京都大学理学部地球物理学科卒業後、京都大学防災研究所助手、京都大学理学部助教授、京都大学大学院理学研究科助教授を経て、1996年1月より京都大学大学院理学研究科教授、2006年3月に定年退職した。 独立行政法人大学入試センター客員教授、日本学術会議測地学研究連絡委員会委員長、地震予知連絡会委員、国際測地学協会地球潮汐委員会総裁を歴任。2003年4月より2007年3月まで日本測地学会会長。
石川 光庸(いしかわ みつのぶ、1942年 - )は、日本の… 石川 光庸(いしかわ みつのぶ、1942年 - )は、日本のドイツ語学者、京都大学名誉教授。ゲルマン語学、独語専攻。 埼玉県生まれ。埼玉県立熊谷高等学校をへて、東京教育大学卒、慶應義塾大学大学院博士課程中退。 慶大助手をへて、商学部助教授。1976年京都大学教養部助教授、教授をへて、人間・環境学研究科教授。2008年定年退任、名誉教授。
今村 都南雄(いまむら つなお、1941年10月10日 - … 今村 都南雄(いまむら つなお、1941年10月10日 - )は、日本の政治学者。 専門は行政学・地方自治論。主に組織論のアプローチに基づいた研究を行う。 山梨県甲府市生まれ。1960年、埼玉県立熊谷高等学校卒業。1965年、中央大学法学部法律学科卒業。1967年、国際基督教大学大学院行政学研究科修了。1967年、中央大学法学部助手。1971年、中央大学法学部助教授。1978年、中央大学法学部教授。1981年、中央大学大学院法学研究科教授。2005年、中央大学公共政策大学院教授。2010年、中央大学名誉教授。山梨学院大学法学部教授・山梨学院大学大学院社会科学研究科長。2002-2004年度日本行政学会理事長。
貫井 英明(ぬくい ひであき、1941年 - )は、日本の医… 貫井 英明(ぬくい ひであき、1941年 - )は、日本の医師、研究者。元山梨大学学長。 1941年に埼玉県で生まれる。埼玉県立熊谷高等学校を経て1966年、群馬大学医学部医学科卒業。1984年に山梨医科大学脳神経外科を開講し初代教授となる。2002年、山梨大学との統合により山梨大学脳神経外科初代教授となる。2004年10月から2009年3月まで山梨大学学長を務める。現在は名誉教授。 2017年の春に瑞宝重光章を受章する。2020年に齋藤眞賞社会賞を受賞する。
佐々木 正峰(ささき まさみね、1941年 - )は、日本の… 佐々木 正峰(ささき まさみね、1941年 - )は、日本の元独立行政法人国立科学博物館長、文化庁長官。 埼玉県立熊谷高等学校、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。1968年4月 文部省入省(大学学術局技術教育課)。文化庁著作権課、文部省教育助成局、文部省学術国際局研究機関課長などを経て、1992年(平成4年)、文部省大臣官房会計課長。 1994年7月 文部省高等教育局私学部長。1996年1月 文部省体育局長。1997年7月 文部省高等教育局長。 2000年6月 文化庁長官。 2002年1月 独立行政法人国立科学博物館長。2009年8月1日 独立行政法人国立科学博物館長を退任。顧問となる。 2016年春の叙勲で瑞宝重光章を受章。
小林 圭二(こばやし けいじ、1939年5月6日 - 201… 小林 圭二(こばやし けいじ、1939年5月6日 - 2019年5月27日)は、日本の原子力工学者。関東州(現:中国)大連市出身。 1953年、埼玉県熊谷市に引き揚げる。埼玉県立熊谷高等学校をへて京都大学工学部原子核工学科卒業。京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所)助手を経て、2002年に同講師。2003年、定年退職。 当初は原子力発電の実用化を推進する立場で研究していたが、やがて批判に転じる。 1973年、四国電力の伊方原子力発電所1号建設に反対する住民訴訟を支援。高速増殖原型炉もんじゅの設置許可の無効確認を求めた行政訴訟(もんじゅ訴訟)では、原告特別補佐人、証人を務めている。
坪井龍文 (つぼい たつふみ、1939年-)は、日本の防衛官… 坪井龍文 (つぼい たつふみ、1939年-)は、日本の防衛官僚。元内閣安全保障室長。 東京都出身。埼玉県立熊谷高等学校を経て、1962年、東京大学法学部卒業。防衛庁人事局人事第一課長、防衛庁人事局長を経て1992年~1993年の間防衛研究所所長、1993年~1995年、内閣官房内閣安全保障室室長兼内閣総理大臣官房安全保障室長を務める。その他、防衛省職員生活協同組合理事長、公益財団法人埼玉学生誘掖会代表も務める。2009年春の叙勲で瑞宝重光章受章。
塚田 千裕(つかだ ちひろ、1938年11月23日 - 20… 塚田 千裕(つかだ ちひろ、1938年11月23日 - 2022年8月3日)は、元ブラジル駐箚特命全権大使、元迎賓館館長。埼玉県出身。 埼玉県に生まれる。埼玉県立熊谷高等学校、東京大学法学部卒業。1977年、在ブラジル日本国大使館(一等書記官、参事官)。 1981年、外務省経済局調査官、外務省中南米局中南米第一課長。1983年、大蔵省国際金融局外資課長。 1985年、在オーストリア日本国大使館公使、国際原子力機関総会日本政府代表代理。 1987年、在リオデジャネイロ日本国総領事館(総領事)。1989年、コロンビア国駐箚特命全権大使。 1993年、法務省入国管理局長。1995年からブラジル国駐箚特命全権大使。
関口 照生(せきぐち てるお、1938年11月13日 - )… 関口 照生(せきぐち てるお、1938年11月13日 - )は、日本の写真家。経済産業省産業部門有識者会議委員。日本写真家協会(J.P.S.)会員。倉敷芸術科学大学客員教授。 妻は女優の竹下景子。長男は俳優の関口まなと。次男は俳優の関口アナン。 東京府出身。埼玉県立熊谷高等学校卒業、明治大学文学部考古学専攻卒業。自然物や表情描写の巨匠・写真家柴田信夫に師事し、助手として働きながら、数々の雑誌写真を手掛ける。その後、フリーの写真家として、ジャーナリズム写真・広告、雑誌取材・コマーシャルの分野で活躍。特に女優をモデルにした写真で高い評価を受け、人物描写を中心した業績で電通賞などを受賞した。作品に「名取裕子写真集『序の舞』」、「かたせ梨乃写真集『DAY FOR NIGHT』」、「麻丘めぐみ写真集」、「泉谷しげる写真集『百面相』」(「火のLATIDO」、16m/m映画「エデン」が挙げられる。
藤原 弘(ふじわら ひろし、1936年 <昭和11年> 11… 藤原 弘(ふじわら ひろし、1936年 <昭和11年> 11月16日 - 2009年 <平成21年> 6月6日)は、日本の政治家、元地方公務員。北海道根室市市長(1998年-2006年)。旭日小綬章受章者。位階は正六位。 埼玉県出身、埼玉県立熊谷高等学校卒、北海道大学水産学部卒。 1959年(昭和34年)- 北海道庁に入庁する。1980年(昭和55年)- 同庁後志支庁水産課長に就任する。 1985年(昭和60年)- 同庁水産部漁政課長就任にする。1988年(昭和63年)- 同庁水産部技監に就任する。 1989年(平成元年)- 同庁根室支庁長に就任する。1991年(平成3年)- 同庁水産部長に昇格する。
福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は… 福島 郁夫(ふくしま いくお、1936年7月11日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 埼玉県立熊谷高等学校から1955年に東映フライヤーズへ入団。1年目は1勝しか挙げられなかったものの、2年目の1956年に35試合登板し、13勝を挙げた。1957年からは登板数が一桁に減り、勝利を挙げることができず1960年に引退した。引退後は帰郷して、地元の百貨店に勤務した。 長嶋茂雄が高校時代に唯一打った本塁打が福島からである(埼玉県営大宮公園野球場で行われた全国高等学校野球選手権の南関東大会1回戦・当時千葉県立佐倉第一高等学校(現千葉県立佐倉高等学校)対熊谷高校戦)。 選手でありながら、スコアラーも務めており、昼は練習に励み、夜になるとスコアラーの業務を務めていた。
薗田 稔(そのだ みのる、1936年〈昭和11年〉4月27日… 薗田 稔(そのだ みのる、1936年〈昭和11年〉4月27日 - 2024年〈令和6年〉12月31日)は、日本の神職、宗教学者。秩父神社元宮司。京都大学名誉教授。 宗教学や民俗学の視点を入れた神道研究、日本宗教史研究を行う。2002年5月、京都・賀茂御祖(下鴨)神社糺森研修道場において、上田正昭らとともにNPO法人社叢学会を設立した。 埼玉県秩父市出身。埼玉県立熊谷高等学校を経て、1960年に東京大学文学部宗教学科を卒業、1965年に同大学院博士課程満期退学。1972年に國學院大學文学部講師、1974年に同助教授、1981年に同教授、1991年に京都大学教養部教授、のち京都大学総合人間学部教授、2003年に國學院大學神道文化学部特任教授、皇學館大学大学院特任教授を歴任。
持田 直武(もちだ なおたけ、1935年10月16日 - )… 持田 直武(もちだ なおたけ、1935年10月16日 - )は、日本のジャーナリストである。NHK解説委員、解説主幹を歴任。 埼玉県立熊谷高等学校、東京大学文学部仏文科卒、東京大学新聞研究所修了。1960年NHK入局。NHK横浜放送局記者を経て、1964年より外信部記者。その間1968年-1969年サイゴン特派員、1969年-1971年メキシコシティー特派員、1975年-1978年ソウル特派員、1984年-1985年ニューヨーク特派員、1985年-1987年ワシントン支局長。その後、1987年NHK解説委員、1990年-1995年解説主幹を歴任。
吉田 宏晢(よしだ こうせき/ひろあき、1935年2月25日… 吉田 宏晢(よしだ こうせき/ひろあき、1935年2月25日 - )は、真言宗の僧侶、日本の仏教学者で大正大学名誉教授、川崎大師教学研究所相談役。真言宗智山派菩提院結衆、集議を経て智積院化主(智山派管長)。埼玉県本庄市栗崎の宥勝寺住職。 埼玉県生まれ。1953年埼玉県立熊谷高等学校卒業、1961年東京大学文学部哲学科卒業、1971年同大学大学院人部科学研究科印度哲学科博士課程満期退学、1973年大正大学仏教学部専任講師、1980年助教授、1983年教授、1991年「空海思想形成過程の研究」で、文学博士(早稲田大学)の学位を取得。1997年大正大学大学院研究科長、2005年大正大学を定年退任、名誉教授。
服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1… 服部 茂次(はっとり しげじ、1934年11月17日 - 1967年7月)は、埼玉県北埼玉郡北河原村出身のプロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では1951年、2年生の時にエースとして夏の甲子園に出場。準決勝では西山和良のいた県和歌山商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝は平安高に前半で大量失点、その後は平安のエース清水宏員を打ち崩せず、4-7で敗れ準優勝に終わる。この時のチームメートに一塁手の田岡利久(大映スターズ)がいた。翌1952年は病を得て登板できず、活躍の場はなかった。 1954年に洋松ロビンスへ入団。4月21日に巨人を相手に初先発を果たすが、同年は4敗と結果を残せなかった。しかし1955年には開幕3試合目から先発陣の一角として活躍、2完封を含む5勝を記録する。
田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は… 田岡 利久(たおか としひさ、1934年2月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。 埼玉県立熊谷高等学校では3年生の時に4番一塁手として第33回夏の甲子園に出場。決勝まで進出するが、平安高校に敗れて準優勝。 プロ野球では一年目から試合に出場し、ヒット、得点、四球を上げるなどの活躍をした。 1952年に大映スターズへ入団。1954年に退団した。
北川 智繪(きたがわ ちえ、1933年12月14日 - )は… 北川 智繪(きたがわ ちえ、1933年12月14日 - )は、日本の女優、声優。希楽星所属。東京都出身。 クレジットタイトルなどでは「北川智絵」、「北川知絵」の表記も見受けられる。以前は北川 智恵子の芸名で活動していた。 埼玉県立熊谷高等学校、日本芸術学院卒業。以前は劇団青い実の会、タレントエージェント、東京俳優生活協同組合、同人舎プロダクション、プロダクション・エムスリーに所属していた。 語りの公演や指導、ナレーター養成などを行う話芸写を主宰している。 2010年代以降、一部の持ち役を降板している。 太字はメインキャラクター。
内井 昭蔵(うちい しょうぞう、1933年2月20日 - 2… 内井 昭蔵(うちい しょうぞう、1933年2月20日 - 2002年8月3日)は、日本の建築家。博士(工学)(京都大学・論文博士・1992年)(学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」)。京都大学教授・滋賀県立大学教授を歴任。戦後の日本建築史を代表する建築家の一人。勲三等旭日章受章。東京都出身。 1933年、東京市神田区に生まれる。祖父の河村伊蔵と父の内井進は建築家であり、進は金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わった。祖父の河村伊蔵は司祭でもあったため幼少期から教会で過ごすことが多く、「ロシア正教会の持つ空間と祈りと形の関係が、幼少期にすでに強く印象づけられていたように思う」と述べ、こうした経験はモダニズム全盛期の学生時代を経た後に手がけた日蓮宗の寺院やYMCA野辺山高原センターなどにおける合理性のみの形態とは異なるアプローチ、さらには親しみやすさを旨とした公共建築への設計思想へとつながっていったと述べている。
江森 國友(えもり くにとも、1933年2月19日 -202… 江森 國友(えもり くにとも、1933年2月19日 -2022年4月9日)は、日本の詩人。 埼玉県生まれ。埼玉県立熊谷高等学校を経て、慶應義塾大学文学部仏文科卒。村野四郎に師事。1954年水橋晋、堀川正美、三木卓らと『氾』を創刊。『三田詩人』『現代詩』に発表し、個人誌『南方』を創刊。のち『歴程』同人。
島田 博(しまだ ひろし、1933年(昭和8年)2月6日 -… 島田 博(しまだ ひろし、1933年(昭和8年)2月6日 - 1998年(平成10年)2月28日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県鴻巣市長。埼玉県議会議長。 埼玉県北足立郡鴻巣町(現鴻巣市)出身。1951年(昭和26年)埼玉県立熊谷高等学校卒業。1963年(昭和38年)鴻巣市議会議員に当選し、1965年(昭和40年)議長となる。1967年(昭和42年)埼玉県議会議員に当選し5期務めた。その間、1977年(昭和52年)3月から翌年3月まで副議長、1982年(昭和57年)3月から翌年4月まで議長を歴任した。1986年(昭和61年)7月、鴻巣市長に当選し1期務めた。
武田 文和(たけだ ふみかず、1933年- 2022年4月3… 武田 文和(たけだ ふみかず、1933年- 2022年4月3日)は、日本の外科医師。埼玉医科大学客員教授。がん疼痛治療の第一人者。 埼玉県熊谷市で出生。埼玉県立熊谷高等学校、群馬大学医学部医学科(昭和32年)卒業。 1973年、群馬大学医学部脳神経外科助教授。 1975年、埼玉県立がんセンター手術部長。 1989年、同センター病院長。 1993年、同センター総長。 1982年 - 2000年、WHO専門家諮問部会委員(がん疼痛担当)。『WHO方式がん疼痛治療法』の作成メンバーのひとり。 2000年、日本麻酔学会社会賞受賞。
田並 胤明(たなみ たねあき、1932年〈昭和7年〉10月3… 田並 胤明(たなみ たねあき、1932年〈昭和7年〉10月31日 - 2026年〈令和8年〉3月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(通算4期)、埼玉県議会議員(通算3期)を務めた。 次男は立憲民主党埼玉県議会議員の田並尚明。 埼玉県熊谷市出身。埼玉県立熊谷高等学校卒業後、郵政省に入省。郵便局に勤務するかたわら、全逓信労働組合に加入し、活動。専従役員となる。 1975年、埼玉県議会議員選挙に北7区選挙区より立候補し初当選。以後3期連続当選。1983年の第37回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧埼玉3区より立候補し当選。以後3期連続当選。 1993年の第40回衆議院議員総選挙では社会党退潮のあおりを受け落選。
江森 陽弘(えもり ようこう、1932年〈昭和7年〉6月2日… 江森 陽弘(えもり ようこう、1932年〈昭和7年〉6月2日 - 2015年〈平成27年〉11月12日)は、ジャーナリスト。 本名の読みは「えもり はるみつ」と言う。
小坂 哲瑯(こさか てつろう、1932年3月2日 - 201… 小坂 哲瑯(こさか てつろう、1932年3月2日 - 2018年5月23日)は、日本の実業家。日比谷松本楼元代表取締役会長・社長、関東外食産業協議会初代会長、日本フードサービス協会元東京支部長。 本名、小坂 明(こさか あきら)。 日比谷松本楼創業者、小坂梅吉の孫。小坂光雄の息子として日比谷松本楼の家に生まれる。日比谷公園生まれの日比谷公園育ち。銀在の泰明小学校に通う。 埼玉県立熊谷高等学校をへて、1954年、立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。 家業である日比谷松本楼に入社。日比谷松本楼代表取締役社長(3代目)、会長を歴任した。 経営者として、松本楼の歴史を信用を第一に考え、流行は追わず「とにかく良質なものをサービスで満足してもらう」ことを日々繰り返し、歴史を延長していくことを使命として事業運営を進めた。
原 正人(はら まさと、1931年11月18日 - 2021… 原 正人(はら まさと、1931年11月18日 - 2021年3月17日)は、日本の映画プロデューサー。Hara Office代表。 本名は山田 良雄(やまだ よしお)。 埼玉県熊谷市生まれ。旧制中学の埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校) から第一早稲田高等学院(現:早稲田大学高等学院)に進学。結核を患い早稲田大学理工学部建築学科を中退後、今井正、山本薩夫監督などの下で制作、宣伝として第一期独立プロ運動に参加する。1958年に日本ヘラルド映画に入社、洋画ヒット作を生む傍ら、手塚治虫監督作『千夜一夜物語』(1969年)や、黒澤明監督作『デルス・ウザーラ』(1975年)、『乱』(1985年)など邦画製作に携わる。
宮川 公男(みやかわ ただお、1931年11月16日 - )… 宮川 公男(みやかわ ただお、1931年11月16日 - )は、日本の経営学者。学位は、商学博士(一橋大学・論文博士・1963年)。一橋大学名誉教授、麗澤大学名誉教授。埼玉県行田市生まれ。 受験勉強を熱心にしておらず旧制浦和高等学校に進学する気にならなかったため、経済学専攻志望で慶應義塾大学予科、早稲田大学高等学院などを受験して合格し、戦時中に軍国主義教育に走らなかったなどとの評判から当時高倍率となっていた東京商科大学(現一橋大学)予科に進学した。在学中学制改革があり、改名された新制一橋大学の前期課程では石田龍次郎ゼミで人文地理学を専攻した。今井賢一(一橋大学名誉教授)は予科時代からの友人。 後期課程ではマルクス経済学者の杉本栄一ゼミに所属し、杉本のもう一つの専門であった計量経済学を継いだ。
荻原 隆(おぎわら たかし、1931年4月26日 - )は、… 荻原 隆(おぎわら たかし、1931年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。右投右打。埼玉県熊谷市出身。 埼玉県立熊谷高等学校2年の時、南関東大会にて県川口戦(県営大宮)で完全試合(8-0で勝利)を達成し、一躍注目を浴びた。翌1949年夏、甲子園に出場(埼玉県勢として初の夏の甲子園でもあった。1回戦で倉敷工に1-9と大敗した)。 1950年に大洋ホエールズに入団。5月26日の大阪戦(甲子園球場)でデビューを果たし、プロ初勝利も挙げた。 1952年には開幕投手を務めた。1953年に松竹と大洋の球団合併に伴い、大洋松竹ロビンスの選手として復帰。1954年オフに引退した。シュートとドロップが武器の投手であった。
井上 重治(いのうえ しげはる、1931年 - 2012年5… 井上 重治(いのうえ しげはる、1931年 - 2012年5月19日)は、日本の研究者。抗菌アロマテラピーの第一人者。 1931年、埼玉県長瀞町(旧白鳥村)に生まれる。1950年、埼玉県立熊谷高等学校を卒業。1954年、東京大学医学部薬学科卒業。1965年米国オハイオ州立大学化学科に留学する。明治製菓に入社し、その後40年間抗生物質の研究に従事する。その間『メイセリン』を発明する。1989年明治製菓・薬品総合研究所副所長兼探索研究所長。1996年千葉大学真菌医学研究センター客員教授、以後抗菌アロマテラピーの研究に従事する。1997年帝京大学医真菌研究センター非常勤講師。2000年井上ハーブ園開設。
渡辺 昭五(渡邊昭五、わたなべ しょうご、1930年11月1… 渡辺 昭五(渡邊昭五、わたなべ しょうご、1930年11月12日 - 2014年2月3日)は、日本文学研究者。学位は、(國學院大學・論文博士・1977年)。大妻女子大学名誉教授。 東京生まれ。1934年父の関東軍転任とともに満州に渡った。1943年、新京第一中学校(旧制)に入学。敗戦直前にソビエト・満州国境に動員された。敗戦後、浮浪生活を経た後、1946年に日本へ引き揚げた。旧制埼玉県立熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)に転入し、1949年に卒業。就職しながら大学進学を目指し、1955年國學院大學文学部国文学科に入学。1959年に卒業し、同大学院に進んだ。1961年に修士課程を修了、博士課程に進んだ。
山本 容朗(やまもと ようろう、1930年4月20日 -20… 山本 容朗(やまもと ようろう、1930年4月20日 -2013年12月4日)は、日本の文芸評論家。 埼玉県本庄市生まれ。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1953年國學院大學国文科卒。角川書店で編集者として1953年~1964年まで在籍し、文芸書、特に「角川小説新書」を担当した。1975年にフリーとなり、文筆業。 吉行淳之介について一貫して論じ編纂しているが、食味エッセイでも知られ、また文人の随筆の編纂も多い。
内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日… 内田 全一(うちだ ぜんいち、1930年(昭和5年)3月6日 - 2012年(平成24年)7月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。精神科医。埼玉県秩父市長。秩父市名誉市民。位階は正五位。 埼玉県秩父郡秩父町(現秩父市)出身。1947年 (昭和18年) 埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)、1954年(昭和29年)日本医科大学医学部を卒業。卒業後、精神科医となる。秩父中央病院院長を務めた。1987年(昭和62年)5月、秩父市長に就任し、2003年(平成15年)4月まで務めた。在任中は西武鉄道の秩父乗り入れ、秩父公園橋の架橋、国道や県道の改良、国道140号雁坂トンネル、皆野寄居バイパスの開通などに尽力した。
鴨田 利太郎(かもだ としたろう、1930年(昭和5年)1月… 鴨田 利太郎(かもだ としたろう、1930年(昭和5年)1月17日 - 1985年(昭和60年)1月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期、自由民主党)。 埼玉県熊谷市出身。父は熊谷市長と衆議院議員を務めた鴨田宗一。1950年(昭和25年)3月、拓殖大学政経学部卒業。1952年(昭和27年)3月、早稲田大学教育学部卒業。1979年(昭和54年)2月、熊谷商工信用組合理事長となった。同年、宗一の後継者として第35回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から自民党で立候補し当選した。1980年(昭和55年)、第36回衆議院議員総選挙でも再選した。しかし、1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙には3回目の立候補したものの、加藤卓二と糸山英太郎(無所属)と議席を争ったが落選した。
川野辺 敏(かわのべ さとし、1930年 - )は、日本の教… 川野辺 敏(かわのべ さとし、1930年 - )は、日本の教育学者、星槎大学特任教授。ソ連の教育政策について研究した。 埼玉県熊谷出身。埼玉県立熊谷高等学校をへて、1953年東京外国語大学ロシア語科卒。 文部省で外国教育調査(ソビエト担当)を担当した後に、国立教育政策研究所勤務、指導普及部長、生涯学習研究部長を経て、常葉学園大学教授。星槎大学副学長、特任教授。元日本比較教育学会会長。 日本学習社会学会創設にも関わり、初代会長を務め、同学会理事として活動中。
増田 敏男(ますだ としお、1929年(昭和4年)4月20日… 増田 敏男(ますだ としお、1929年(昭和4年)4月20日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、熊谷市長(2期)を歴任した。 埼玉県熊谷市出身で埼玉県立熊谷高等学校を中退。 1959年5月、熊谷市議会議員に初当選する。 1967年4月、埼玉県議会議員に当選。 1981年3月、第82代埼玉県議会議長に就任した。 1982年5月、熊谷市長に初当選したが、1986年6月、熊谷市長を辞職。同7月、衆議院議員選挙旧埼玉3区で落選。 1990年2月、衆議院議員選挙旧埼玉3区で初当選。同3月、衆議院地方行政委員会理事となる。 1993年8月、国土政務次官に就任し、1996年1月、衆議院農林水産委員会理事となる。
廣瀬嘉夫(ひろせ よしお、1929年〈昭和4年〉 - )は、… 廣瀬嘉夫(ひろせ よしお、1929年〈昭和4年〉 - )は、NHKの元アナウンサー。 旧姓は鶴間。埼玉県鴻巣市出身。1945年に、旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業。1948年、一橋大学卒業。 1951年、NHK入社。経済担当記者、経済部長、解説委員、解説主幹を歴任した。特に経済担当のニュース解説委員として広く世間に知られた。 1982年、NHKを退社。経済評論家として独立。その後、公共経済調査会理事長、経済審議会総合部会委員、税制調査会特別委員、資金運用審議会専門委員、競馬懇談会委員、金融制度調査会委員などの公職を歴任し、政府の政策決定に関与した。
新井 達太(あらい たつた、1926年 - 2022年9月1… 新井 達太(あらい たつた、1926年 - 2022年9月15日)は、日本の医師。心臓外科医。 A型単心室の根治術、隔壁形成術に世界で初めて成功したことで知られる。 日本胸部外科学会名誉会長、日本人工臓器学会名誉会長、日本心臓血管外科学会名誉会員、日本冠動脈外科学会名誉会員、日本外科学会特別会員。 1926年、埼玉県秩父市に生まれる。旧制・埼玉県立熊谷中学校、旧制・山形高等学校理科乙類を経て、1953年、東京慈恵会医科大学医学部を卒業。1954年、東京女子医科大学榊原外科入局。1968年、東京女子医科大学教授。1972年、東京慈恵会医科大学教授を経て、1991年、埼玉県立循環器病センター準備室参事、東京慈恵会医科大学客員教授、独協医科大学客員教授。
倉林 正次(くらばやし しょうじ、1925年9月27日 - … 倉林 正次(くらばやし しょうじ、1925年9月27日 - 2024年11月6日)は、日本の日本史学者・民俗学者。 専門は日本の儀礼文化全般・宮中祭祀・埼玉県内における民俗学を研究。文学博士(國學院大學)。日本における祭祀研究の第一人者。 埼玉県秩父郡皆野町出身。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1950年國學院大學文学部日本文学科卒業、埼玉県神社庁職員、神社本庁職員を経て、1963年同大学院文学研究科日本文化専攻博士課程単位取得満期退学、同文学部専任講師、1970年に論題「饗宴の研究:文学編」で國學院大學にて文学博士号を取得した。同文学部助教授、同文学部教授。1968年西ドイツ・ボン大学客員教授(~1970年)。
鳥塚 賀治(とりづか よしはる、1924年10月19日 - … 鳥塚 賀治(とりづか よしはる、1924年10月19日 - 2011年11月6日)。理学博士。物理学者で東北大学教授、日本大学教授を務めた。今日広く電子機器類に使われているフェライト(強磁性酸化物)の人工合成と応用(特許200404号)に成功した。さらに1960年代、日本の電子線型加速器/ライナックの開発・製作に尽力し、その加速器を用い多くの原子核研究の先駆的業績をあげた。その中でも原子核の巨大共鳴の発見は、原子核の特徴的構造の理解を深める成果である。 1924年10月19日 埼玉県寄居町にて9人の兄弟、1人の妹の長男として生まれた。寄居町鉢形小学校卒業、1942年3月 埼玉県立熊谷中学校(旧制)を卒業し、同年4月仙台の旧制第二高等学校に入学した。
松永 綠郎(まつなが ろくろう、1921年9月21日 - 2… 松永 綠郎(まつなが ろくろう、1921年9月21日 - 2005年5月22日)は、日本の政治家。元埼玉県副知事。元桶川町長。旭日中綬章受章。位階は従四位。 埼玉県に生まれる。1938年、軍記章を受賞(歩兵二等兵)。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1943年、中央大学法学部卒業。1947年4月に桶川町(現・桶川市)長に就任。その後、埼玉会館会長、埼玉県労働部長、埼玉県民生部長、埼玉県企画財政部長を歴任する。1976年~1984年の間埼玉県副知事となる。1993年、旭日中綬章受章。副知事を退任後、株式会社エコ企画顧問、社団法人北海道野生生物保護公社理事長、一般社団法人日本資材管理協会第四代会長となる。
山村 秀夫(やまむら ひでお、1920年1月23日 - 20… 山村 秀夫(やまむら ひでお、1920年1月23日 - 2017年11月25日)は、日本の麻酔学者。東京大学名誉教授。旧姓は茂木。 埼玉県熊谷市出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制静岡高等学校、東京帝国大学医学部卒業。1948年医学博士。東京大学医学部助教授、1956年教授となる。1978年東京大学医学部長となる。1980年定年退官、名誉教授、東京専売病院長。1990年康済会病院理事長、1998年日本救急医療財団理事長。麻酔専門医制度の発足や日本麻酔学会の創設に参加し、1982年山村記念賞が設けられた。墓所は多磨霊園。
金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日… 金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の日本の俳人。現代俳句協会名誉会長。日本芸術院会員。2008年、文化功労者に選出される。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。 加藤楸邨に師事した。「寒雷」所属を経て「海程」を創刊し、主宰した。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任した。 埼玉県比企郡小川町の母の実家で、父・金子元春と母・はるの長男として生まれる。父の元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人である。
宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1… 宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日)は、日本の教員で俳人。 杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる。 群馬県伊勢崎市に生まれる。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した。 熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した。陸軍航空本部付技術少尉として満州派遣されている際に敗戦となる。 敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した。
井上 宇市(いのうえ ういち、1918年4月23日 - 20… 井上 宇市(いのうえ ういち、1918年4月23日 - 2009年7月17日)は、日本の建築設備学者。日本建築学会名誉会員。早稲田大学名誉教授。 公益社団法人 空気調和・衛生工学会では井上宇市記念賞を設けている。 埼玉県秩父郡秩父町(現・秩父市)生まれ。旧制熊谷中学校を経て1940年、旧制新潟高等学校を卒業したが、肺結核で一年療養を経て、東京帝国大学第一工学部船舶工学科に入学。1944年に卒業し、同年10月に福生航空教導師団を経て陸軍技術中尉任官し第1航空技術研究所勤務。 戦後の1946年から大成建設株式会社に勤務を経て1953年より早稲田大学第一理工学部及び第二理工学部建築学科専任講師に転任。
根岸忠雄(ねぎし ただお、1916年2月28日 - )は、日… 根岸忠雄(ねぎし ただお、1916年2月28日 - )は、日本の実業家。東邦チタニウム社長、日鉱エンジニアリング社長。 埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制浦和高校を経て、1940年、東京帝国大学工学部卒業。 大学卒業後、日本鉱業に入社。金属事業本部金属加工部長、倉見工場長を経て、1968年、理事金属加工事業本部管理室長、1969年に取締役、1973年、常務、1976年、専務、1979年、日鉱エンジニアリング社長となる。日鉱エンジニアリング退社後、東邦チタニウム社長となる。 チタニウム協会副理事長、日本伸銅協会理事も歴任した。
中川 直木(なかがわ なおき、1913年(大正2年)9月20… 中川 直木(なかがわ なおき、1913年(大正2年)9月20日 - 2000年(平成12年)1月16日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県行田市長。行田市名誉市民。位階は正五位。 埼玉県北埼玉郡忍町(現行田市)出身。1931年(昭和6年)熊谷中学校を卒業し、忍町役場に奉職。行田市助役を経て、1959年(昭和34年)以来行田市長に8選。1975年(昭和50年)埼玉県市長会長、1983年(昭和58年)全国市長会副会長などを歴任し、1991年(平成3年)引退した。ほか、行田市農業委員会会長、行田市開発協会理事長を歴任した。2000年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> … 柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> 8月19日 - 2000年 <平成12年> 1月16日) は、日本の実業家。六代目秩父鉄道社長。日本民営鉄道協会副会長。位階は正五位。 秩父市で秩父鉄道4代目社長・柿原亀吉の6人兄弟の長男として生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1937年、東京商科大学卒業。謙一自身はこれで学校は終わりだと思っていたが、陸軍経理学校に入学させられた。 大学卒業後、一年半ばかり家業を手伝っていたが、1934年に補充兵で応召。その後9年間兵役に従事。大尉となる。 戦後、秩父鉄道に入社。1947年に取締役経理部長となり常務取締役を経て、1969年に六代目社長に就任。
井上 栄一(いのうえ えいいち、1913年 - 1992年)… 井上 栄一(いのうえ えいいち、1913年 - 1992年)は、日本の実業家。赤城乳業の設立者。 「味覚の天才」といわれていた。 埼玉県大里郡深谷町(現在の深谷市)に生まれる。1930年、旧制熊谷中学校を卒業した。 1938年、父である井上徳四郎が始めた合資会社広瀬屋商店を継承する。 広瀬屋商店は天然氷を商いとしており、特に夏場の氷の需要が多かった。栄一は、天然氷の商いにとどまらず、1949年には冷菓製造に乗り出し、1960年には合資会社赤城乳業と社名を変更した。1961年には組織変更して株式会社赤城乳業を設立した。 1964年、『赤城しぐれ』を開発した。 1961年から1987年まで社長を務めた。
村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - … 村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - 1945年5月)は、日本の競泳・ボート競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックにボート競技の代表選手として出場した。 埼玉県秩父郡野上村(現・長瀞町)に生まれる。旧制野上小学、旧制熊谷中学を経て、慶應義塾大学に進学した。1929年、第5回明治神宮競技大会の水泳大会に出場した。慶應義塾大学ではボート部に所属し、数多の大会で優勝する。また、1932年ロサンゼルスオリンピックでは、ボートかじ付きフォアの日本代表に選ばれる。かじ付きフォア日本代表は、敗者復活戦で敗退する。 1936年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 1945年5月に死去した。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。