スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 198… 鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。1927年工学博士(九州帝国大学)。 長野県松本市生まれ。1908年旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)卒業、1911年第八高等学校卒業、1914年九州帝国大学土木工学科卒業。1914年内務省に入り、鉄道技師、土木局技術課長、内務技監を務める。 1930年日本大学旧工学部教授、1944年土木学会会長。1945年内務省を退官し、日本発送電の技術顧問となる。1947年から東京大学講師を兼任、1952年日本大学国土総合開発研究所長。1964年港湾審議会長、チリ津波対策審議会長、1968年日本港湾協会長などを歴任。
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月2… 板花 義一(いたはな ぎいち、1889年(明治22年)1月29日 - 1961年(昭和36年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に農業・板花茂一郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校で偵察を学んだ。1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進。
棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 19… 棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 第三高等学校卒業後、東京帝国大学法科大学に進み、在学中に新人会に参加した。また、麻生久、山名義鶴と社会問題研究会である木曜会を結成した。この木曜会には後に岡上守道、佐野学、野坂参三が参加した。 東京帝国大学在学中から麻生らと共に吉野作造や安部磯雄の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の鈴木文治に断られ、1917年卒業と共に司法官試補となった。翌1918年、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、1919年には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日… 清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月… 青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月19日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長。 青木丑松の四男として長野県東筑摩郡、のちの錦部村(四賀村を経て現松本市)に生まれる。小学校を経て、松本中学校に学ぶ。日本大学法律科に入学するが、中途退学する。1909年(明治42年)裁判所書記試験に合格し、東京府属となり、1923年(大正12年)南葛飾郡長を拝命する。ついで北豊島郡南千住町助役、1932年(昭和7年)東京市荒川区主事税務課長、1933年(昭和8年)庶務課長を経て、1938年(昭和13年)5月、江戸川区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 -… 金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は、日本の牧師。 1887年、長野県南安曇郡上野村(現・松本市)に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、第一高等学校に入学、一高時代に、新渡戸稲造校長の感化を受けて、求道して、山室軍平の説教に感動して、松本教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難する。それをきっかけに伝道者になる決意をして、東京神学社に入学。 東京神学社卒業後、一時、朝鮮仁川に開拓伝道に赴く、帰国して日本基督教会の伝道師として、高知教会、牧師になってからは山梨教会、市ヶ谷教会(現、日本基督教団池袋西教会)の牧師として活動する。 1917年(大正6年)の2月11日から15日日本基督教会主宰の山梨修養会では、中田重治と一緒に説教した。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10… 高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日 - 1956年(昭和31年)8月15日)は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。 長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身。松本中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)を卒業した。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した。
平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1… 平林 広人(ひらばやし ひろんど、1886年4月3日 - 1986年2月21日)は、日本の児童文学翻訳家。デンマーク文学者。アンデルセンの研究で知られる。
白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 19… 白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 1960年11月2日)は、日本の医学者(産科学・婦人科学)。日本の産婦人科学界の父と呼ばれ、子宮がん治療に初めて放射線を採用したことで知られる。白木博次は次男。
米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月… 米倉 龍也(よねくら りゅうや、1885年(明治18年)8月6日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員、参議院議員。 長野県南安曇郡烏川村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、盛岡高等農林学校卒業。在学中に「平民新聞」を愛読し、河上肇の著作に感銘を受け、産業組合運動に強い関心を持つ。1907年に卒業後は千葉県農業会技師から1916年南安曇郡北部農業学校(長野県穂高商業高等学校)校長となり、烏川信用購買組合創立に参加し、理事となる。1920年から長野県農商課産業組合理事、1925年に長野県信連主事となり、昭和初期の金融恐慌に緊急貸し出しで手腕を発揮し、県下各地の産業組合や農協の充実に奔走し、各農業団体の最高責任者を歴任する。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 19… 田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は、日本の遺伝学者、育種学者。九州大学名誉教授。 長野県東筑摩郡片丘村(現塩尻市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)在学中、動物学教室でウィリアム・ベイトソンの『メンデルの遺伝の法則』をに感銘を受け遺伝学を志す。1911年に同大助教授となり、1913年、日本で初めて遺伝学を講義する。1917年、「蚕の遺伝学的研究」で農学博士号を得る。欧米留学後の1924年には九州帝国大学農学部教授となる。 安藤広太郎らと7名で1915年、日本育種学会(1920年に日本遺伝学会に改組)を創設、1939年日本遺伝学会会長、1949年には国立遺伝学研究所の第一部長に就任した。
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3… 上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県会議員・衆議院議員をも務めた。 長野県東筑摩郡新村(現松本市)で元衆議院議員の上條謹一郎の長男として生まれる。 松本中学校から早稲田大学に進み、のち帰郷して家を継いだ。1913年に新村村長になる。上条を中心とする有志が、1915年(大正4年)に 安筑軽便鉄道として、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下された。次いで、1918年に安曇鉄道が、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下される。
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月2… 西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男は2代目水戸光圀役で知られる俳優の西村晃。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 196… 松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。
榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、… 榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、日本の医師。「安曇節」の初代家元。号は出原処士。 長野県北安曇郡松川村生まれ。長野県師範学校第二種講習を経て地元の小学校教員を務めた後、旧制松本中学校(長野県松本深志高等学校)を卒業して上京。医師免許を取得し、地元で開業する。 その傍ら、郷土史研究にも取り組み、有明山の開山記録や、県内に分布する道祖神の調査研究に携わる。1923年(大正12年)、安曇野に古くから伝わる民謡を集めて編曲した新民謡「安曇節」を完成させ、1925年(大正14年)には『正調安曇節』を発表し、その普及に努めた。
三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 … 三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月 - 1968年(昭和43年)7月15日)は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長。
高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日… 高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日 - 1972年〈昭和47年〉12月9日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。 郷里長野県の電力会社長野電灯・東信電気で技師長を務めたのち、東信電気が起業した肥料会社昭和肥料の常務取締役に転身。姉妹会社としてレーヨンメーカー昭和人絹(クレハの母体)を起業して初代社長となり、1939年(昭和14年)には昭和肥料の後身にあたる昭和電工の初代副社長に就任した。衆議院議員を務めた時期もある(当選1回)。 高橋保は、1882年(明治15年)3月8日、長野県人・高橋澄弥の長男として生まれた。出身地は長野県東筑摩郡上川手村(現・安曇野市)。
塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10… 塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10月22日 – 1930年(昭和5年)11月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県東筑摩郡日向村(現在の麻績村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学でドイツ法を学び、1909年(明治42年)に卒業した。卒業後は弁護士・弁理士事務所を開業し、株式会社小穴製作所・日本無線電信電話株式会社などの法律顧問を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)、関東大震災の際に保険金問題について活躍し有名になった。 その他、社団法人日本アルプス理事・社団法人清涼飲料研究所理事などを務めた。
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 -… 三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月… 熊谷 岱蔵(くまがい たいぞう、1880年(明治13年)7月19日 - 1962年(昭和37年)2月19日)は、内科学者、医学博士。東北帝国大学医科大学(後の東北大学医学部)教授、東北帝国大学総長。抗酸菌病研究所初代所長。興亜工業大学顧問を兼任した。 長野県東筑摩郡洗馬村(現:塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の長男。曾祖父には浅田宗伯に医学の薫陶を施した熊谷珪碩がいる。旧制松本中学時代の同級生には吉江喬松がいた。東京外国語学校ドイツ語科に一年間通った後、一高、東京帝国大学医学部卒業後、青山胤通の内科学教室に入局。 1911年(明治44年)から1913年(大正2年)までドイツのベルリン大学・ブレスラウ大学に留学し内科学、免疫学、実験治療、医化学等を学ぶ。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939… 小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939年6月16日)は、明治の陸軍騎兵大尉。1910年にアルゼンチンへ移民し、牧場主となった。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年… 浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年)は長野県出身の造船技師。造船の権威として知られ、東京帝国大学教授も務めた。従四位、勲三等瑞宝章受章。 長野県南佐久大日向にて、1877年(明治10年)4月3日に浅川愿三郎(嘉永3年生)の二男として生まれる。幼少期に起きた秩父事件では生家が豪農として目を付けられ襲撃を受けたが、予め避難しており家族に被害は無かった。1896年(明治29年)松本中学校を卒業。金沢の第四高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ進学。1902年(明治35年)7月に同大学の造船学科を卒業し、大阪鉄工所に入社した。ここで日本最初の油槽船・虎丸を設計。その後、1911年(明治44年)に神奈川県の浦賀船渠へ移った。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 1876年、長野県更級郡石川村(現・長野市)の豪農の家に生まれる。旧制長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)在学中は、病のため療養生活を送った。その間、当時東京専門学校出版局(現・早稲田大学出版部)から発行されていた講義録雑誌で勉強した。1895年、編入試験を受けて東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。1896年、同校政治科を卒業。東京日日新聞の記者になる。1901年、コロンビア大学に留学し、1902年、マスター・オヴ・アーツの学位を取得した。
高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 19… 高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 1952年9月26日)は、日本の農芸化学者。 長野県水内郡常盤村(現飯山市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第一高等学校を経て、1900年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。1907年農学博士となる。 大蔵省醸造試験所勤務を経て、1922年(大正11年)母校教授となり、農学部長をつとめ、発酵学、醸造学の講義を担当した。清酒や醤油、味噌などの自然純粋培養による菌学的研究を確立させた。日本農芸化学会会長、学士院会員を歴任。 1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが高橋は欠席した。
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1… 中山久四郎(なかやま きゅうしろう、1874年2月10日-1961年9月7日)は、東洋史学者。
百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年… 百瀬 渡(ももせ わたる、1874年2月5日 - 1945年12月21日)は、長野県出身の政治家。
有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 19… 有賀 光豊(あるが みつとよ、1873年5月23日 - 1949年5月31日)は、日本の官僚。貴族院議員。実業家。 長野県伊那郡南殿村(現上伊那郡南箕輪村)生まれ。 1891年、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1894年、東京法学院(現中央大学)英語法律科卒業。志願兵として近衛野戦砲兵連隊に入隊し、日清戦争従軍後、砲兵少尉で除隊。1897年、高等文官試験に合格して大蔵省主税局に入省。長崎税関監視部長、函館税務署長を経て、1906年に韓国政府に聘用され鎮南浦税関長となり、さらに統監府財政監査官、同書記官・監査部長に就任した。その後、朝鮮総督府書記官・関税課長、京畿道内務部長、同第一部長、度支部税関長、朝鮮総督府参事官・事務官などを歴任。
塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4… 塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4月12日 - 1965年〈昭和40年〉5月3日)は、日本の銀行家。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は外孫。 長野県北佐久郡三岡村(現・長野県小諸市)出身。農業・銀行家、塩川仁助の三男。塩川幸太の弟。1897年、分家する。 1885年、長野県立長野中学校上田支校(後の松本中学上田支校)に入学。翌年、第一次中学校令に伴い上田支校が松本校に統合されたため上京。中村敬宇の同仁社に学び、第一高等学校に入学。1896年、第一高等学校大学予科を卒業。 1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、大学院に入った後、馬越恭平に目をかけられ帝国商業銀行試補となる。
青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 19… 青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 1944年8月22日)は、日本の電気工学者。送配電に関する研究に従事し、半真空電球やタングステンアーク灯などを発明。窒素バリウムの製法と適用法を確立した。また電気工学講習所などの設立に尽くした。信濃国安曇郡上堀金村(現:長野県安曇野市)生まれ。
吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8… 吉田 静致(よしだ せいち、明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月4日)は日本の倫理学者。
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年… 加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など。 趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた 1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた。
武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年… 武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年1月25日) - 昭和7年(1932年)12月9日)は、日本の実業家。内外綿頭取や在華日本紡績同業会委員長を務めた。 長野県諏訪郡湖南村生まれ。長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1892年高等商業学校(現・一橋大学)卒業、市立大阪商業学校(現・大阪公立大学)教諭。1895年日印貿易会社入社。1902年同社副支配人。1903年同社支配人。 1912年内外綿取締役。1922年から同社頭取となり、高付加価値化戦略を進めた。1929年在華日本紡績同業会委員長。また、日華学会評議員、大阪朝日新聞社内東亜調査会評議員なども務め、日満経済協和会を創立。
相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870… 相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日)は、長野県出身の社会事業家、実業家。妻の相馬黒光とともに東京新宿中村屋を創業した。
井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年… 井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日(1870年6月1日) – 昭和13年(1938年)7月21日)は、長野県安曇野市出身で、キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。 信濃国安曇郡等々力町村(のちの南安曇郡東穂高村、穂高町)の千国街道穂高宿に、仕立屋「江戸屋」の父喜十、母こんの長男として生まれた。3歳の時に母を亡くし父と祖母に育てられた。1884年(明治17年)に研成学校の支校・保等(ほとう)学校を卒業し、旧友で生涯の友となる相馬愛蔵とともに、旧制長野県中学校松本支校へ進学した。この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師ジョージ・W・エルマーよりキリスト教の教えを受け、終生変わらぬ献身者となった。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1… 並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1866年4月13日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月7日)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員、大地主。 並木衛七の長男として信濃国佐久郡野沢村(現・佐久市野沢)に生まれ、1883年(明治16年)12月、家督を相続する。上京し、鈴木松塘に漢籍を学び、帰郷して松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)に学ぶ。村会議員を1期、町会議員を4期、郡会議員を経て、1903年(明治36年)長野県会議員となり、さらに翌1904年(明治37年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任。議員を1911年(明治44年)9月28日まで7年1期務め、その間、請願委員、決算委員を歴任した。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。